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黙示録19:15とイエスによる諸国民の統治(Michael Vlach)

引き続き、マイケル・ヴラック(Michael Vlach)氏のブログ記事を拙訳でお送りしております。元記事はこちら↓

mikevlach.blogspot.jp

Michael J. Vlach, "Revelation 19:15 and the Coming Reign of Jesus over the Nations," Apr. 17, 2017; accessed May 21, 2018.

※1 本記事は「ディスペンセーション主義について」のカテゴリに分類していますが、実際にはこの立場に特有な主張がなされているわけではありません。しかし、ディスペンセーション主義を自認されている方の主張をご紹介するという意味で、このカテゴリにも分類させていただいております。

※2 本文中〔〕は訳者による補足を表しています。

トピック

黙示録19:15とイエスによる諸国民の統治

By Michael J. Vlach (Monday, April 17, 2017).

私は何度か黙示録19:15について言及してきた。黙示録19:11–21はイエスが天から地へ再臨される様を描いているドラマチックなセクションである。本節はその真ん中に位置しており、イエスについて次のように述べている。

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。*1

メシアに関する4つの聖句と黙示録19:15

黙示録19:15における言葉遣いは、メシアに関する4つの旧約聖書の聖句と密接に関係していることに注目したい。

  • イザヤ49:2 a「主は私の口を鋭い剣のようにし、」
  • イザヤ11:4b「[メシアは]口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。」
  • 詩篇2:9a「あなた[メシア]は鉄の杖で彼らを牧し」
  • イザヤ63:2–3「なぜ、あなた[主]の装いは赤く、衣はぶどう踏みをする者のようなのですか。」「わたしはひとりでぶどう踏みをした。諸国の民のうちで、事をともにする者はだれもいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。彼らの血の滴りはわたしの衣にはねかかり、わたしの装いをすっかり汚してしまった。*2

合わせてみると、これらの旧約の聖句と黙示録19:15のつながりは次のように表すことができる。

この方の口からは、諸国の民を打つために(イザ11:4b)鋭い剣が出ていた(イザ49:2)。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である(詩2:9)。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である(イザ63:2–3)。

このように〔黙示録19:15には〕メシアに関する4つの聖句との強い関連性が見られるものの、私はヨハネが黙示録19:15において旧約を「引用」したとは考えていない。ヨハネは幻を見ているのであり、見たことを書き留めているのである(黙1:11参照)。ヨハネが幻を見て書いた内容は、旧約の預言者たちが既に述べていたことと合致している。これは、旧約の聖句とヨハネの幻の両方が神の霊感を受けたものだからである。ヨハネが将来について見たことと、旧約の預言者たちが何世紀も前に書いたこととの間に一貫性があるのは、驚くべきことではない。おそらくはヨハネの旧約の知識が彼の見たことと合わさって、黙示録19:15の霊感された言葉がもたらされたのであろう。ヨハネが実際に見た幻と旧約の言葉遣いがどのように合致しているかということについて、Beale and McDonoughは次のように述べている。「黙示録が高いレベルで旧約の影響を受けていることのひとつの理由は、ヨハネが幻を描写するに当たって、他に良い方法がなかったことによるのだろう。いくつかの幻は表現するのが困難であったので、既に類似した幻を描写していた旧約の預言者たちを引用したということである。」(“Revelation,” Commentary on the New Testament Use of the Old Testament, 1087.)

メインポイント

黙示録19:15は、天から地へ来られるイエスの力によって彼の敵が打ち負かされ、そして諸国民を治めることになるという破壊的な場面を描写している。これが激しくかつ劇的な出来事であるということは、「打つ」、「治める」、「踏む」といった動詞、また「神の激しい憤り」といった言葉によって裏付けられている。イエスの初臨は主に子羊であり苦難の僕であるという役割に係るものであった(使徒3:18参照)。しかし、イエスの再臨では、勝利される戦士かつ王であり、また裁き主であるという役割が強調される。子羊はユダ族から出た獅子でもあるのだ(黙5:5–6参照)。

将来の統治

黙示録19:15aは、イエスが「諸国の民を打つ」ことを示している。〔ギリシャ語の〕patassoという言葉は、「打つ(strike)」もしくは「打ち破る(beat)」といった意味を持っており、神の敵が完全に敗北することを明らかにしている。地上の諸国は未だ神に反抗していることから、ここで記述されていることが成就するのは将来であることがわかる。

「彼らを牧する」という言葉は、イエスが世界中の国々を治められるということを示している。Poimainoという言葉には「統治する(rule)」または「牧する(sheperd)」という意味がある。新約聖書では、19:15を含め、11回この言葉が使われている。用法としては、黙示録2:27や12:5のように、権威の伴った形が最も多い。より穏やかな「牧する」という意味での用法は、黙示録7:17や第一ペテロ5:2に見られる。黙示録19:15の中でほのめかされている詩篇2:9では、諸国民に対するメシアの力強い勝利と統治が予告されている。〔メシアが〕「鉄の杖」によって治めるであろうという詩篇2:9の言葉は、黙示録2:26–27と12:5でも引用されている。それらの引用も、黙示録19:15における権威ある統治を指し示すものである。

19:15におけるpoimanei(治める)という動詞は直接法・能動態・未来形であり、イエスの諸国民の統治は将来彼が天から地へ戻って来られる時に実現することを示している。イエスが来られるのは、既に王国の統治が始まっている状態を完成させるためではないのである。イエスの諸国民の統治は再臨によってもたらされる。この真理は、マタイ19:28と25:31–32におけるイエスの言葉と合致している。イエスはそれらの箇所において言われたのは、彼のダビデ的統治は地上への再臨の時に実現するということである。

そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。(マタ19:28)

人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、(マタ25:31–32)

マタイ25:31の内容は特に重要である。なぜなら、そこでは再臨のイエスは諸国民を裁く前に来られるということが書かれているからである。千年王国に関する諸見解の中には、イエスダビデ的/仲介的/千年王国的統治は再臨によって頂点に達するのだと考えているものがある。しかし、これは正確ではない。イエスの諸国民の統治をもたらすのは、再臨なのである。

エスは現在、間違いなく「地の王たちの支配者」である(黙1:5)。そして、私たちは黙示録19章の出来事の中に、この真実が実現した様を見る。再臨はイエスダビデ的/仲介的/千年王国的統治をもたらすものであり、それを終わらせるものではない。この統治は、続く黙示録20:1–6に記述されている。

黙示録19:15は、イエスが諸国民を打たれることと彼らを治められることの両方を示している。このシナリオはゼカリヤ書14章にも書かれているものである。そこでは、戻って来られた主(イエス)が、エルサレムを滅ぼそうとする諸国を打ち負かし、それからエジプトを含む諸国を治められることが述べられている(ゼカ14:2–3、9、16–19参照)。黙示録19:15に書かれているイエスの行動は諸国民を打ち砕くことのみであると限定し、その後に統治が続くことを否定するのでは、ゼカリヤ書14章、黙示録19:15、もしくは聖書のストーリーライン全体について十分に扱うことができているとはいえない。イエスは再臨の時に彼の敵たちを打ち負かし、その時点から諸国民を治められる。このシナリオは、イエスの再臨が地上的王国をもたらすという千年期前再臨説の見解を強く支持するものである。

エスの口から出る鋭い剣について

ある人々は、ヨハネの黙示録をより字義的に理解することについて疑問を呈している。こういった字義的理解の不合理性に対する批判においては、イエスの口から出る鋭い剣について言及されることがある。「この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。」(19:15a)もし黙示録を字義的に捉えるなら、イエスの口から文字通りの剣が出ていないといけないだろう、というわけである。

しかしながら、これは賢明な主張とはいえない。先述の通り、この言葉遣いはメシアに関する聖句であるイザヤ書49:2と11:4に既に見られるものである。そこでは、メシアが権威と力をもって語ることが述べられており、したがってメシアの口が剣に例えられているのである。字義的・歴史的・文法的解釈は、隠喩、直喩、象徴の存在を許容している。よって、黙示録19:15a(および19:21)をイザヤ49:2や11:4と似た形で理解することは、何の問題もないのである。イエスの口から剣が出ているというドラマチックな比喩表現は、イエスの言葉と命令はとてつもない力と権威を帯びており、それによって敵が打ち負かされるのだということを示している。類似した概念は第二テサロニケ2:8にも見られる。そこではイエスが言葉によって不法の者(反キリスト)を殺すということが言われている。「その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。」エスの口から剣が出ているという表現は、決して黙示録の字義的理解を否定するものではないのである。

結論

黙示録19:15は、諸国民の破壊的な敗北とイエスによる諸国民の統治が、再臨によってもたらされるということを明らかにしている。この出来事は、歴史的には現在の我々からすれば未来のことであり、またイエスダビデ的王国/千年王国をもたらすものである。再臨が諸国民に対するイエスの地上的支配をもたらすという千年期前再臨説の見解は、黙示録19:15によって裏付けられている。

*1:訳注:聖句引用は新改訳2017による。

*2:2018年5月22日訂正:初稿では引用内容がイザヤ62:2–3になってしまっておりましたので、訂正いたしました。mushimori様、ご指摘ありがとうございましたm(._.)m