前回の記事↓の続きになります。
前回は、「字義通りの解釈」は何を意味するコンセプトなのか?ということと、「字義通りの解釈」vs「比ゆ的/霊的解釈」という対立構造の問題について申し上げました。今回の「後編」では、この問題に一歩踏み込むと見えてくる「新約聖書における旧約聖書引用の問題」について取り上げたいと思います。
トピック
新約聖書における旧約聖書引用の問題
イスラエルの回復に関する聖書預言の解釈
福音主義者の間において、聖書解釈の不一致が目立つ分野のひとつは、旧約聖書の預言──特に、イスラエルの霊的・物質的回復の預言についてです。
旧約聖書には、イスラエルの霊的・物質的回復について述べているように思われる預言がたくさん残されています。たとえば、モーセは申命記30:5–6にて、イスラエルの将来について次のように言っています。
あなたの神、主はあなたの先祖が所有していた地にあなたを導き入れ、あなたはそれを所有する。主はあなたを幸せにし、先祖たちよりもその数を増やされる。あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。*1
ここでは、イスラエルの物質的回復(土地への帰還と所有、およびそこでの祝福)と霊的回復(心に割礼を施す)がセットで語られています。このような理解は、エゼキエル書36:24–30にも見られます。少しく長くなりますが、せっかくですので引用したいと思います。
(24)わたし〔主〕はあなたがた〔イスラエル〕を諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。(25)わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、(26)あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。(27)わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。(28)あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。(29)わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せて増やし、飢えをあなたがたに送らない。(30)わたしは木の実と畑の産物を増やす。それであなたがたは、もう国々の間で飢饉のために恥辱を受けることはない。
ここではまず、神がイスラエルを約束の地に帰還させることが約束されています(24節)。次に、神はイスラエルに「新しい心」「新しい霊」をお与えになり、彼らが主の定めを「守り行うように」されます(25–27節)。すなわち、土地への帰還という物質的回復に、霊的回復が伴っていることになります。さらに物質的回復は、土地への帰還だけではなく、豊作の祝福という形でも与えられています(29–30節)。途中の28節における「あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」という言葉は、イスラエルの物質的回復と霊的回復がセットであるという考えをよく表しています。
以上のような聖句を受けて、ある人々は、イスラエルの霊的・物質的回復は双方ともその通りに成就するものと考えます。しかし他の人々は、双方についてその通りに成就することを否定するか、あるいは物質的回復についてのみ、そのような成就を否定します。
預言解釈のアプローチの例
イスラエルの霊的・物質的回復両方の成就を主張するポール・ファインバーグは、「旧約聖書で宣言されていることの意味はみな、テキストに対する歴史的文法的解釈の適用によって定められなければならない」と言っています*2。また、同様な理解を持っているブルース・ウェアは次のように述べています。
イスラエル民族が彼らの土地に帰還するという約束を伝えたとき、預言者たちは聞き手との意思疎通を図ったことは疑いようがない。我々の解釈は著者の意図によって規定されている。すなわち、神が預言者たちを通してその民イスラエルに約束されたことを字義通りの意味で受け取るということは、十分に合理的なのである。*3
預言の話者/著者は、実際にイスラエルの霊的&物質的回復を意図して語っており、聴衆/読者もまたそのように理解していただろうということは、ほとんどの釈義者が同意しています。しかし、イスラエルの回復、特に物質的回復については、これがそのままの通りに成就するとは理解されていないことがあります。そして、「字義通りの解釈」というコンセプトを強調する者の中には、こうしたイスラエルの物質的回復を否定する預言解釈について、それが比ゆ的/霊的解釈だと批判する者がいるのです。しかし、このような解釈について、「字義通りの解釈」からかけ離れた比ゆ的/霊的解釈の例だと容易に結論づけていいのでしょうか?
たとえば、キム・リドルバーガーはイスラエルの回復に関する預言がその通りに成就するという解釈を否定し、そういった理解が可能な理由を次のように説明しています。
終末論的なテーマは、新約聖書においては再解釈されている。旧約聖書における象徴は予型であり、イエス・キリストにおいて成就した栄光に満ちた実在の影である。*4
ここから分かるのは、こうした主張の根拠は「新約聖書において、旧約聖書はどのように解釈されているか」という点に基づいているのだということです。
もし新約聖書の著者たちが旧約聖書の預言を非字義的な意味で適用し、それらを霊的なものとしたのなら、旧約聖書の聖句はそういった新約聖書の解釈法に照らし合わせて釈義される必要があるのであって、その逆はない。*5
すなわち、新約の著者たちがどのように旧約を解釈していたのか、ということが問題になっているのです。
ここには「字義通りの解釈」vs「比ゆ的/霊的解釈」という構図は見られるのか?
多くの場合、これは新約聖書の「字義通りの解釈」に基づいて議論されています。これはあくまで仮定ですが、新約を字義通りに解釈した結果、新約の著者たちが旧約預言に「字義通りの解釈」からは得られない意味を認め、イスラエルの物質的回復を否定していたことが判明したとしましょう。私たち福音主義の理解では、新約の著者たちの言葉は、聖霊の導きによってその正しさが保証されています。であれば、新約の著者たちによる旧約の「霊的解釈」は認めるべきだと考えることができます。繰り返しますが、これは新約の著者たちの理解を「字義通り」に解釈した結果なのです*6。
上記のような解釈を簡単に表現するなら、〈新約著者たちは旧約を再解釈していたことをふまえると、旧約預言の中にはその通りに成就しないものもある〉とする解釈ということになるでしょう。ディスペンセーション主義者を自認するジョン・ファインバーグは、左記のような解釈を「非字義的解釈」や「比ゆ的解釈」と呼ぶことは困難であると指摘しています。
しかし、このような解釈は非字義的解釈ではない。なぜなら、旧約に書かれたことの中には旧約時代に成就しなかったものもあり、どのように成就するのかということは開かれたままとなっているからである。もし旧約の預言が既に成就していて、それを新約の教会に適用するために再解釈するならば、それは非字義的解釈だということになるだろう。しかし、もしその預言が旧約時代が終わる前に成就しなかったのであれば、教会に適用することを比ゆ的解釈と呼ぶのは難しい。*7
以上のことから、イスラエルの霊的&物質的回復を認めるか、それとも物質的回復を否定するかという見解の違いについては、ハーバート・ベイトマンが指摘している通り、旧新約の関係をどう捉えるかという点に起因しているのだといえるでしょう。
より中心的な問題は、「旧新約聖書どちらかの優位性」(testament priority)にある。この優位性は、解釈者の字義的・歴史的・文法的解釈の出発点として旧新約のどちらが優先されるべきかという、前提的な優位性のことである。*8
聖書預言の解釈を巡る基本的な問題は、それが「字義通りの解釈」か「比ゆ的/霊的解釈」かということではなく、新約における旧約解釈/引用をどう捉えるかということにあります。そして、具体的には以下の2つのことが問題になるのだといえるでしょう。
- 新約著者たちは、神が旧約預言の中に、当時の著者/読者たちはまだ認識できていなかった意味を込められたと捉えていたのか?
- 新約著者たちは、旧約預言の本来的意味(当時の著者/読者たちが認識していた意味)をどの程度重要視していたのか?
聖書のテキストについて人間の著者による意図を重要視していくならば、上記の2つの問題に対しては、ファインバーグやウェアのように、旧約著者の意図を保った形で考えていくほうが、一貫性があると思われます。しかし、ここで思い出したいのは、聖書は神の息吹によるもの(God-breathed)だということです(IIテモ3:16a)。よって、問題は聖書の著者が神と人の両方であるという、二重著者問題へと突き進んでいくことにもなります……が、ここでは字数の都合もありますので、二重著者問題について詳細に述べることはいたしません。また、そもそもこの問題を解決することは本稿の目的ではございません。
ただ、以上のことから、次のように結論づけることができると思います。聖書預言の解釈を巡る問題は、新約聖書の歴史的文法的解釈もしくは字義通りの解釈から出発している問題です。これを「字義通りの解釈」vs「比ゆ的/霊的解釈」の問題というだけで片づけてしまうのは、問題の解決としてはあまりに単純に割り切りすぎているといえるでしょう。
まとめ
- 「字義通りの解釈」というコンセプトが表しているのは、〈聖書本文に書かれている言葉について、内容の歴史的背景や言語学的考察をふまえ、当時の著者/読者たちの意図を重視して解釈する〉という、歴史的文法的解釈法と同じ(少なくともニアリーイコール)な解釈論である。
- 福音主義においては、「字義通りの解釈」か「比ゆ的/霊的解釈」かという形で論じられる聖書解釈の違いがある。しかし、その違いのほとんどは、そういった対立構造から生まれてくるものではない。基本的には、聖書の「字義通りの解釈」の結果生じてくる違いである。
- 上記の違いが生まれてくる本質的な要因のひとつは、釈義者が旧約聖書と新約聖書の関係性をどう捉えているかという点にある。
おわりに
私たちが(特に複数人で)聖書研究に取り組む時、「字義通りの解釈」か「比ゆ的/霊的解釈」かという違いを強調しすぎるのは、それほど有益とは思えません。ただ、みんなで聖書解釈論の複雑な問題構造を理解した上で議論をしていきましょう! ということは、本稿の趣旨ではございません。聖書を読み、そこから得たこと・学んだことを分かち合うとき、何か見解の違いを否定的に強調するのではなく、むしろ得たこと・学んだこと自体を肯定的に分かち合っていく方が建設的だと思います。最後にこれを言いたいがために、ここまで長々と書いてきました。
しかし、今回取り上げたような問題について考えることも、決して無駄ではないということを最後に申し上げたいと思います。
今回のようなテーマについて考えていると、重要な課題が徐々に見えてきます。それを聖書神学的観点と組織神学的観点から簡単にまとめますと、
- 聖書神学的課題:「字義通りの解釈」を巡る種々の見解(理論)が、どの程度データ全体(旧新約のテキストの内容)と調和しているか。
- 組織神学的課題:聖書神学的に得た各見解(理論)によって、どの程度自己無矛盾な論理体系を構築できるか。
そして、聖書の学び──神学が、聖書を土台とした「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」(IIテモ3:16b)なものとなるには、上記の聖書神学&組織神学的問題に取り組んで得られた答えが、本当に私たちのクリスチャン生活において実を結ぶことに繋がるかということが重要になります。
先日、このことについて、ある兄弟からSNS上で下記のコメントをいただき、胸に突き刺さりました。
そして色んな神学的な議論はあるけど、やっぱり究極的には「どんな実を結んでいるか」なのかなあとも思うんだよね。。机上の空論となって生き方に直結しない神学は僕は本当の神学ではないと思ってます。
聖書解釈論を単体で哲学的に追求するだけの営みは、正直に言えば、知的好奇心を満たす営みであるだけです。しかし、私たちが「すべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるため」に(IIテモ3:17)、「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」な聖書を学んでいく上で、その聖書を適切に理解していこうとする営みの枠組みの中でなら、聖書解釈論について考え、議論を重ねていくことは決して無駄ではありません。むしろ、重要なことですらあると思います。
しかし、これまで(くどいほど)申し上げてきた通り、聖書を「神の言葉」と信じる福音主義における解釈論的不一致は、「字義通りの解釈」vs「比ゆ的/霊的解釈」と単純に割り切ってよい問題ではございません。特に「字義通りの解釈」を強調するディスペンセーション主義者(私も含む)は、注意を払う必要があると思います。
最終的な結論も、「『ヘブル的視点』についてのあれこれ」で申し上げてきたことと同じです。交わりの中で「字義通りの解釈」というラベル自体を強調しすぎることは、交わりを豊かにする耕具にもなれば、交わりを破壊する武器にもなり得ます。重要なことは、交わりにおいてこの言葉を使おうとするなら、そこに傲慢さが潜んでいないかどうか、ということです。そして、謙遜さをもって、御霊に大いに信頼を置いた上で、楽しんで聖書を学んでいきたいものです。
*1:以下、聖書引用は新改訳2017による。
*2:Paul D. Feinberg, "Hermeneutics of Discontinuity," in Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments, ed. John S. Feinberg (Wheaton, IL: Crossway, 1988), 123.
*3:Bruce A. Ware, “The New Covenant and the People(s) of God,” in Dispensationalism, Israel, and the Church: The Search for Definition, eds. Craig A. Blaising and Darrell L. Bock (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1992), 93.
*4:Kim Riddlebarger, A Case for Amillennialism: Understanding the End Times (Grand Rapids, MI: Baker, 2003), 37.
*5:Ibid.
*6:Cf. ジョージ・エルドン・ラッド『終末論』安黒務訳(いのちのことば社、2015年)9–23頁;O. Palmer Robertson, "Hermeneutics of Continuity," in Continuity and Discontinuity, 89–108.
*7:John S. Feinberg, "Systems of Discontinuity," in Continuity and Discontinuity, 74.
*8:Herbert W. Bateman IV, “Dispensationalism Yesterday and Today,” in Three Central Issues in Contemporary Dispensationalism: A Comparison of Traditional and Progressive Views, ed. Herbert W. Bateman IV (Grand Rapids, MI: Kregel, 1999), 38.