軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

私の読書(9)土木技師として歩んだ、あるクリスチャンの話

高崎哲郎『〈評伝〉技師 青山士 その精神の軌跡──万象ニ天意ヲ覚ル者ハ……』(鹿島出版会、2008年)

これまで読んだ本を取り上げて、その本にまつわる思い出を書き連ねていくこのシリーズ。2ヶ月以上ぶりの更新で取り上げたいのは、クリスチャンの土木技師として明治から昭和までを生きた、青山士(あきら)という人の評伝である。

はじめに

先日、Facebookのタイムラインを眺めていたら、ある方の投稿がきっかけで、クリスチャンと社会の関わりについてディスカッションされているのを見た。皆さん色々難しいことを考えておられて、大変勉強になった。私にとっても、クリスチャンと社会との関わりというのはもちろん他人事ではないのだが、そこまで深く考えて生きているわけではない。

私は大学・大学院で土木工学を専攻した後、本当は神学の分野に渡って学位を取りたかったのだが、結局は専門知識を活かし、土木技師の道に進むことを決めた。(クリスチャンと社会との関わりというとどうしても福祉関係やボランティアなどがメインの話題に上りがちだが、日常におけるインフラ整備に携わる技術屋の話はあまり出て来ず、寂しい限りである。笑)

今でも、仕事が嫌になる度に「あーあ、神学校でヘブル語やギリシャ語勉強して、神学書読んでレポート書く生活に浸ってみてぇ!」と思わされるのだが(笑)、基本的には今の道に満足している。今、携わっているのが土木の中でも少々特殊な分野であることもあり、「この仕事になんの意味があるのだろう」と思わされることもしばしばある。しかし、それよりも多く、「この分野で、俺はイエス様の弟子として何ができるだろう」とエキサイティングさせられることもある。

さて、Facebookでのディスカッションを目にしたことがきっかけで、先日邦訳が出版されたティモシー・ケラーの『この世界で働くということ』(いのちのことば社)も読んでみた。基本的には、本書で展開されているのは、クリスチャンの労働観についての原則論である。こういった労働観を持つことができることに感謝し励まされたが、正直に言えば、本書に書かれている原則論については知的には「知っておりますよ」という感じで、「じゃあ俺がクリスチャンの技術屋として生きていく上では、具体的にどうしたらいいっていうんだよ!」という気持ちにさせられたのも事実である。ティム・ケラーの言うような原則論、あるいは概念的答えというものはともかく、具体的な答えというものは、知的探求のみからは見出されず、実際に各分野で歩んだ先達に聞いた上で、あとは自分でその道を歩んでいくしかない。

私が願っているのは、この道が一生のものであれ、一時的なものであれ、もがきつつ歩みながら、最後は「自分はイエス様の弟子として、そして技術者として、確かに生かしていただきました!」と、感謝に溢れながら神様にご報告できるようになることだ。その日が来ることに期待しつつ、これからももがき苦しみながら歩んでいくのだろうと思う。

『評伝 技師 青山士』との出会い

こうして、私自身がもがいている真っ最中なわけだけれど、クリスチャンの技術者として生き抜いた人物として思い出されるのが、青山士(1878〜1963)という土木技術者である。

まず、今回取り上げる青山の評伝との出会いについて申し上げたい。私は高校で理系に進んだものの、心は同志社大学の神学部に向かっていて、理工系に進もうなどとは考えてもいなかった。しかし、神学部のようなワケの分からない道に対する親の反対もあり、とりあえずはある大学の土木工学科の推薦入試を受けてみることにした。それで、その試験に受かったらそこへ行く。落ちたら、好きな道へ行かせてもらう。そのように考えていた。ちなみに、理系でありながら、当時は理系科目の成績は目も当てられないほど酷いものだったので、推薦入試など絶対に受からないだろうと思っていたのだ。

推薦入試では、いくつかの小論文が課題として課せられていたが、その内のひとつに読書感想文があった。そして、課題図書として送られてきたのが、本書『〈評伝〉技師 青山士』だったのである。技術屋の伝記を読まされるのか……と思い手に取ってみると、サブタイトルには「万象ニ天意ヲ覚ル者ハ……」と付けられている。「おや、何だか内村鑑三チックな表現が出てきたぞ」と思い、帯を見る。その帯の紹介文を読んだときの衝撃は、今でも忘れられない。ここで、その文章を引用したい。

ストイックなキリスト教精神で日本土木界に屹立する──青山士生誕130年の年に世に問う待望の評伝。内外資料を網羅した決定版!

え、クリスチャンの土木屋なの!? と、いやもう頭を殴られたような衝撃を覚えた。その時に自分も土木屋になることを決心したわけではないが、「ひょっとして、もしかすると、この道に行くことも神様の計画なのかもしれない」と最初に思わされた瞬間だった。

読み進めていくと、なんと青山は内村鑑三の門下生であり、しかも初期門下生のうち離反しなかった数少ない者の一人であったということを知った。さらに、読み進めていくと、彼が携わった大事業の話が連続していく中で、どこを切っても彼の「キリスト教精神」の話が出て来る。どうやら著者は、青山の持っていた価値観・人生観ひとつひとつに、内村鑑三から継承したキリスト教の影響を見ていたようだった。

本書に触れることで「理工系に進むなんてとんでもない」なんて傲岸な考えがぐらついてきたところで、なんと、推薦入試に合格してしまい、約束通り土木工学の道に進むことになった。合格した日の夜、祈りを捧げた後、この本を手に取ってじっと眺め続けていたことが忘れられない。

ただ、本当に進みたくて進んだわけではない道だったから、入学してからも、反発心は幾度となく首をもたげてきた。それは、就職活動中もそうだったし、就職してからもそうである。しかし、神様は大学受験中のあの時から、私の心を変え続けてくださった。今居る道への反発心が起こる度に、「神様が今俺を召してくださっているのはこの道だ。まずこの道でベストを尽くすことこそ、神様が一番喜ばれることじゃないか」と言い聞かせながら歩んできた。そういった時、聖書の言葉はもちろんのこと、他に必ず心に浮かんできたのが、この青山士という大先輩だった。

青山士と内村鑑三

さて、ここで青山本人のことを少しご紹介したい。彼は1878年静岡県に生まれた。1899年には、東京の第一高等学校に入学。そこで寮の同僚となったのが、内村の門下生であり、後に無教会の伝道師となる浅野猶三郎だった。これが決定的な出会いとなる。青山は浅野に内村鑑三の『東京独立雑誌』を薦められる。「『いかに生きるべきか』。青年期の悩みを抱えた学生青山も、学友浅野からこの『雑誌』を借りて読み、激しく心を揺さぶられた。」(44頁)それは、「[内村が説いた]キリスト教が『人生いかに生くべきか』を訴えていたからである。」このような出会いがあり、青山は内村の講演会に参加するようにもなり、信仰へと導かれていったのだという。なお、本書の著者は、青山と浅野とが「信仰上の友として生涯交流を続けた」と述べている(43頁)。

多くの評論家は、青山が内村に師事するようになったきっかけのひとつが、内村の『後世への最大遺物』であったと考えている。本書の著者も、この本が『青山を内村の門に向かわせたことは間違いあるまい』と述べている(45頁)。

内村の『後世への最大遺物』というと、クリスチャンではない方々にも大変有名だ。特に有名なのが、「我々が死ぬときには、我々が生まれたときより世の中を少しなりとも良くしていこうではないか」という引用文で始まる一連の教えである。ここで内村は、日本を良くしていくためにまず残すべきは金であると述べる。ここに見られるのは、「金を貯めそれを清きことに用いることは、アメリカを盛大にした大原因」という思想である。

次に、金を貯めることができない者に対して、内村は「土木事業」を残すべきであるという。「一つの土木事業を残すことは、実に我々にとっても快楽であるし、また永遠の喜びと富とを後世に残すことではないかと思います」と。

また、土木事業が残せない者には「思想を残せ」という。思想家や学者の道である。そして、これまでのことを残すことができない者はどうするか……内村は、「後世への最大遺物」は「勇ましい高尚な生涯」であると告げる。「我々に後世に残すものは何もなくとも、我々に後世の人にこれぞというて覚えられるべきものは何もなくとも、あの人はこの世の中に活きている間は真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世に残したいと思います」

こういった内村の思想は、現代でもよく引き合いに出されている。ある授業で、クリスチャンではない教員が、この思想を熱心に繰り返し紹介していたのを思い出す。ただ、内村の思想史という観点から見ると、この時期は彼が「社会改良家」になりたがっていた時期であり、ここで見られる思想も発展段階のものであるといえる。しかし、この思想の是非を問うことは本稿の目的ではない。ここで大切なのは、当時の内村の思想が、青山士という青年に決定的な影響を及ぼしたかもしれないということである。

青山は後に東京帝国大学工学部土木工学科へ進むことになるのだが、おそらく、ここにも内村の影響が現れているのだろう。ひょっとすると、この講義がきっかけとなり、彼は「自分が神に仕えていくためにふさわしい道は、土木事業の道である」と考えるようになったのかもしれない。

いずれにしろ、青山は内村門下生となり、また帝大の学生となった。彼は帝大入学後、内村の『聖書之研究』を愛読するようになり、内村の「聖書購読会」にも「欠かさず出席するようになる」(72頁)。この時期、内村は、帝大の学生たちは天狗になっていて好かんが、青山士については「微笑を以て三寸の舌をつつみ、多くを語らずして実は大に心中に語る居る人なることを解せり」と評している(72頁)。著者曰く、「初期の内村門下生でテクノクラート(技術官僚)の道を選ぶ者は青山以外に確認できないが、青山は『末は博士か大臣か』の帝大卒エリート主義に溺れず『内村イズム』を精神的支柱に据え続ける。青山は内村が提唱する無教会主義キリスト教を生涯捨てることはなかった。『背教者』にはならなかったのである。」(64頁)

また、『聖書之研究』第25号には、青山自身による「感想録」が掲載されているという。そこに記されている青山の祈りに、高校生の私は感動させられたし、大学時代に何度も感動させられたし、今もこのような祈りができるようになりたいと思わされている。その祈りを以下に引用したい。

またこのいやしきものをもあなたの器となしたまいてあなたのため、我が国のため、我が村のため、我が家のために御使いたまわんことを(74頁;現代表記に訂正)

私はここで、ローマ人への手紙13章などに示されているパウロの姿勢を思い出さずにはいられない。思想史的な観点から青山の祈りを評するとすれば、ここでは明治期のプロテスタント信者たちが抱いていた国家観や共同体観といったものを考慮する必要があるだろう。しかし、聖書が教えている基本的な価値観というのは、神が私を置いてくださった国を愛し、故郷を愛し、家族を愛するというものであり、そこに神の光を輝かすために賜物を用いていこうというものであると思う。本書を読んで青山の祈りの前後の文脈を見てみれば、彼もまたそういった価値観をもって真摯な祈りを捧げているということが分かるだろう。

そして、この祈りに内村自身が註を挟んでいるのであるが、この註もまた、土木工学科に在籍していた私にとっては慰めであり、励ましであった。

「斯かる祈祷を捧げ得る人が工学士となりて世に出る時に天下の仕事は安然(ママ)なるものとなるべく、亦其の間に収賄の弊はあとを絶たれ、蒸汽(ママ)も電気も真理と人類との用を為すに至て、単に財産を作るの用具たらざるに至らん、基督教は工学の進歩改良にも最も必要なり」(74頁)

クリスチャン技術者・廣井勇との出会い

さて、帝大に進んだ青山は、もうひとり、人生における決定的な出会いを迎える。それが、恩師である土木工学科教授・廣井勇との出会いだった。さらに、廣井もまた、内村と一緒に札幌農学校で洗礼を受けたクリスチャンだったのである(65頁)。彼は1883年、22歳で政府の援助なしに単身アメリカへ渡航し、ミシシッピ川改修工事に「唯一日本人技師として重治したのを手始めに、橋梁や鉄道の設計施工に参加した」(65–66頁)。著者はこの時期の廣井について、「聖書と土木作業の日々」であったと評している。

港湾工学の権威であった廣井は1928年に逝去するが、この時内村鑑三が弔辞で述べて曰く、廣井は「清きエンジニアー」であった(67頁)。また、この葬儀には青山も参列した。このことに触れて、著者はいう。「青山は廣井と内村が切り開いた孤高の道を自らも歩もうと誓いを新たにしたにちがいない。青山は学生時代から晩年に至るまで、自室の机の上に廣井・内村両師の顔写真を置いていた。」(67頁)。

青山士の業績

さて、キリスト者青山は帝大を卒業し、パナマ運河開削事業に携わるため単身アメリカへ渡った。ここには、廣井の影響があっただろうし、事実この渡米には廣井が援助をしてくれていたようである。ここで彼は、パナマ運河開削工事に参加した唯一の日本人技師となった。これ以降の青山の経歴は、土木工学史の観点からみれば非常に華々しいものであるが、それは悲しいかなマニアックな華々しさでもあり(笑)、ここでは概要だけ紹介するに留めたい。

余談だが、私は大学院では河川工学を研究していたのだが、これには青山が生涯河川改修に携わったということも無関係ではなかった。また、学生の時に大河津分水路を実際に見に行くことができたのだが、その時の感動は忘れられない。なお、この大河津分水路補修工事の竣工記念碑に掲げられているのが、本書のタイトルにも引用されている「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」という一文である。山上の垂訓の「幸いなるかな……」を思い起こさせるこの碑文について、著者は「キリスト教徒青山の精神を感じる」と指摘している(226頁)。信濃川大河津資料館の受付には、この碑文の写しが掲げられていた。

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(2012年8月撮影)

青山が残した河川改修事業には、問題も多い。特に、多目的ダムによる河川開発の方針については、今もなお議論が尽きていない。また、治水を目的として河川を横断する大規模な構造物を設けることは、河川の生態系にも大きな影響を及ぼしてしまう。したがって、河川環境工学の知見からは、青山の業績が全て褒められる類のものではないということは確かだ。しかしながら、彼の為した治水事業により、多くの生命が救われたこともまた確かなのである。近年の水害を見るに、限界は認められるものの、ハードウェア対策の重要性が見直されてきている。そういった社会的背景にあって、私としては、青山と同じくキリストの弟子である技術者として、考えさせられることが多いのである。

クリスチャンは、神がお造りになった自然界をふさわしく治める使命があるし、同時に、人々の生命を守るべく召されている者もいる。河川環境の重要性が工学的にも認められてきているこの時代において、クリスチャンの土木技術者というのは、ジレンマを抱えながら、御心を求めて職務に当たる必要があり、大変厳しい道に召されているのである。この記事をお読みくださっている方々には、ぜひそのような技術者たちのために、お祈りいただきたい。

青山士の死

1963年3月21日、青山は84歳でこの世を去り、主のみもとへ帰った。

彼の晩年を扱う本書の最後部では、「青山士追悼会」で語られた南原繁政治学者)による追悼文が引用されている。いつものごとくとっ散らかってしまった本稿であるが、締め括りとして、ここでも南原の追悼文を引用させていただきたい。

 「私はこのたび青山さんの親しい友人から聞いて初めて知ったのであるが、その生涯を通じて彼を導いたモットウは、
“I wish to leave this world better than I was born.”
 (私はこの世を私が生まれて来たときよりも、より良くして残したい)
 というのであった。
 これこそは、青山さんが一高生徒の頃私淑した内村鑑三先生の『本安録』から学んだ句で、氏が大学に入って土木工学を一生の業として選んだのも、この言葉が決定したのである。われわれの生まれたこの地──洪水が襲い、疫病がはびこるこの大地──を少しでも良くして、後代に残したいというのが、神から示された青山さんの生涯の使命であったのである。宗教的信仰さえもが大きなマス・コミの波に流されている時代に、彼はその一生、おそらく信仰について、一片の文章も書かず、一度の説教も試みることはなかった。ただ黙々と、己が命ぜられた『地の仕事』に、すべてを打ち込んだと言っていい」(300–301頁)

おわりに

今後、自分がどういう人生を歩むかは分からない。あるいは一週間後、神学の道に召されるかもしれない。あるいは生涯、技術者として働かせていただけるかもしれない。ただ、今の技師としての私にとって、理想的なのは青山士のような働き方である。そのことを、本書を再読する中で改めて思わされた。

兄弟姉妹とともに、ひとつのキリストの体として礼拝を捧げ、日々御言葉を読む中で学び得た価値観をもって、ひたすらに、自分が召されている場でベストを尽くす。まだまだ社会人経験も浅い私にとって、クリスチャンの社会貢献というのは、このような単純なこととしてしか考えられない。そして、聖書を学ぶとき、きっとそういう至極単純なことこそが聖書のメッセージなのではないかと感じている。

今、ティム・ケラーの『この世界で働くということ』といった本が注目を集めている中で、同時に必要とされているのは、青山のように生きた兄弟姉妹たちの証しであるのかもしれない。少なくとも、技術者として歩んでいる、あるいは歩もうとしている兄弟姉妹の方々には、ぜひともケラーの著書と一緒に、この青山士の評伝をおすすめしたい。