軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「ユダヤ人伝道は必要ない」?(再考:その1)

トピック

はじめに

ユダヤ人伝道は反ユダヤ主義の一形態?

最近、SNSで「クリスチャンがユダヤ人に伝道することは、反ユダヤ主義的な行為である」という発言を見ました。その発言の始まりは「日ユ同祖論に反対」というものだったのですが、それと同列で「ユダヤ人伝道反対」という発言がなされていたのです。発言の論旨は、以下のようなものでした。

  1. 日ユ同祖論には反対である。
    1. 日ユ同祖論は、日本人の独自性を損なうものである。
    2. 日ユ同祖論は、ユダヤ人の独自性を傷つける思想でもある。
  2. クリスチャンがユダヤ人に伝道することには反対である。
    1. ユダヤ人はユダヤ人のままで、神の民とされている。
    2. ユダヤ人をクリスチャンに改宗させようとする取り組みは、反ユダヤ主義の一形態である。
    3. クリスチャンが神についてユダヤ人に教えるべきことは何もない。∵神の民としての歴史は、クリスチャンよりもユダヤ人の方がはるかに長いからである。

また、後日には、補足として次のような論旨の発言もなされていました。

  1. 西方教会東方教会も、ともに反ユダヤ主義の歴史を築いてきた。
  2. その流れがナチス・ドイツによるホロコーストに繋がった。
  3. 現代ユダヤ人の心には、クリスチャンによって虐殺/迫害されてきたという恐怖が刻まれている。
  4. クリスチャンはまず、教会から反ユダヤ主義を徹底的に取り除くべきである。

上記の発言について、日ユ同祖論という考えが、実際には反ユダヤ主義的性格を持ち得るものだということには同意いたします。しかしながら、クリスチャンがユダヤ人に伝道することが「反ユダヤ主義の一形態」であるという主張には反対です。

こういった発言を見て思うところがあったので、この場でユダヤ人伝道の必要性を考えてみようと思い至った次第です。もしも、いつか個人的な交わりの中で「ユダヤ人に伝道する必要はあるのか?」と問われた時、聖書から答えられるよう準備をしておきたいという思いも込めて。また、旧新約聖書全体の救済論を復習する良い機会にもことにもなると思いましたので、喜びを持って取り組むことができました。

いつもの如く複数回に分けた記事となりますが、議論の展開は次のように考えています。

  1. 用語の定義
  2. 全ての人に対する信仰の必要性
  3. ユダヤ人と信仰の関係
  4. 「神の民」について
  5. メシアニック・ジューについて
  6. 教会の反ユダヤ主義ユダヤ人伝道の関係性

今回は、「1. 用語の定義」までにして、次回「2.」と「3.」を、そして3回目に「4.」、「5.」、「6.」を取り上げる形になるかと思います。

議論を始める前に

具体的に議論を始める前に、いくつか申し上げておきたいと思います。まず、本ブログでは以前、自身がユダヤ人信者であるエイタン・バール(Eitan Bar)氏の記事を拙訳によりご紹介したことがあります。(ちなみに、バール氏は、イスラエルに拠点を置くユダヤ人信者たちによる宣教団体ONE FOR ISRAELのメディア宣教部門ディレクターです。)

balien.hatenablog.com

氏の記事は、「ユダヤ人はイエスを信じる必要はない」という考えに対する強い反論と、イスラエルが抱える社会的問題を示すものでした。これから論じていきたい内容の中心はバール氏の主張と重なるものになりますので、ぜひとも上記記事をご覧下さい。以降の議論は、このテーマについてさらなる聖書的/神学的考察を積み上げていこうというものです。

もうひとつ、最初にご紹介した発言の背後にある神学的枠組みについて指摘しておきたいと思います。まず、ユダヤ人はユダヤ人であるだけで神の民なのであり、イエス・キリストを信じる必要はないのだという考え方を広めた代表的な人物は、フランツ・ローゼンツヴァイク(1886–1929)というユダヤ人哲学者です。彼は「ユダヤ人はアブラハムの子孫であるが故に再び生まれ変わる必要はないが、異邦人は新生の必要がある。これが、ユダヤ人と異邦人の相違である」と提唱しました*1。こういった考えに基づいて発展させられたのが、いわゆる「二契約神学」(two-covenants theory)です。中川健一氏は、この神学的立場について次のように説明しています。

二契約神学とは、ユダヤ人はアブラハム契約とシナイ契約により、異邦人はイエスによってもたらされた新しい契約により救われるとするものである。神がシナイ山にてイスラエルの民と結んだ契約は永遠に変わらない。また神がイエス・キリストによって異邦人と結んだ契約も永遠に変わらない。従って、ユダヤ人は古い約束(旧約)により、異邦人は新しい約束(新約)により救われる。これが二契約神学の立場である。*2

この種の考え方をさらに発展させたのが、トーマス・F・トーランス(1913–2007)です*3。彼はエディンバラ大学やニュー・カレッジの組織神学教授として有名で、カール・バルトの影響を強く受け、『教会教義学』を英訳したことでも知られています。また、神学を科学の一分野(神学的科学)として取り扱う方法論を展開したことでも有名でして*4、個人的にはこのテーマでトーランスの本を勉強したことがあります。

ジェニファー・M・ロズナー曰く、「キリスト教神学者のトーマス・トーランスはローゼンツヴァイクの一歩先を進み、次のように主張した。ユダヤ人とクリスチャンは共にひとつの神の民を構成している。彼らの間の分断は、西洋文明における最も大きな悲劇のひとつであり、教会における全ての分断の源である」*5。ここで注目したいのは、福音主義においてよく言われる「ユダヤ人信者と異邦人信者は共にひとつの神の民を構成している」という言い方ではなくて、「ユダヤ人とクリスチャンは共にひとつの神の民を構成している」という表現がなされていることです。まさしくトーランスは、ユダヤ人はユダヤ人のままで神の民であり、クリスチャンもまたクリスチャンとして神の民であり、両者がひとつの神の民を構成しているのだと考えました。

ほかのどの国民とも違って、イスラエルは単に一民族(ethnos)ではなく神の民(laos)なのである。イスラエルの「特別の」地位と特性のゆえに、神の特別な所有、「聖なる民」となるように、地上のすべての民族の中から主によって選ばれた一つの民としてイスラエル一種の教会であり、神の認識を担わされた共同体であり、神の自己啓示と相関関係にあるものとして神がふさわしいように造り変え、構築した共同体である。*6

 

確かに新約聖書は、イスラエルを通して取り次がれた神の啓示の定められた成就として自らを解釈するほかなく、教会を啓示的な対応物としてイスラエルとの共通の民の中に組み入れる以外に自らを解釈する術はないのである。*7

 

イエス・キリスト磔刑、そして神学的にはその結果生じたように見えるエルサレム陥落、さらに異邦人世界への福音の拡張と共に、神の信仰の民の中に一つの分裂が生じてしまった。その分裂は非常に深い溝になったため、二世紀初頭のバル・コクバの反乱とイスラエルの領土分割以降、神の一つの教会は、キリスト教会とユダヤ教会つまりシナゴーグとにはっきり分離された。キリストの出現以来現れた神の民の歴史全体における最も深いこの分裂の結果として、キリスト教ユダヤ教は共にねじれに苦しんできた。*8

今回最初にご紹介した発言者は、このトーランスの影響を強く受けている方です。また以降の議論と深く関係してくるのは、トーランスはバルト的改革派神学の後継者であり、いわゆる「聖書信仰」に立つ福音主義者ではなかったということです*9。一方で私は、聖書信仰に立つ保守的福音主義の観点から、ユダヤ人伝道の必要性を論じようとしています。したがいまして、今回ご紹介した発言(あるいは、トーランスの主張)と私の見解とでは、まず採用されている神学的枠組み/解釈論的枠組みが異なっているという前提条件があることを、ご承知おきください。

それでは、先に提示したアウトラインに沿って、ユダヤ人伝道の必要性について再考していきたいと思います。今回は、「1. 用語の定義」を扱います。

1.用語の定義

この問題提起のきっかけとなった発言においては、「ユダヤ人」は良いとして、「クリスチャン」という言葉は「異邦人のキリスト教信者」という意味で使われているようである。そこで、「クリスチャンによるユダヤ人伝道の必要性」について、保守的福音主義の観点から考えていくために、まずは「ユダヤ人」と「クリスチャン」という用語を定義していくことから始めたい。そうすることで、異なるパースペクティヴからの議論であるということを明確にしておくためである。

また、「クリスチャン」という言葉を我々の観点から定義するためには、「教会」という用語も定義される必要がある。したがって、ここでは(1)ユダヤ人、(2)教会、(3)クリスチャンという順番で用語を定義していくことにする。

(1)ユダヤ

これは、元来は南王国ユダの人々を指す言葉である。聖書ではエズラ記、ネヘミヤ記、エステル記において頻繁に使われている。ここでは、バビロン捕囚から帰還した人々および捕囚により離散の地で暮らしている人々のことが「ユダヤ人」と呼ばれている。

新約聖書では、この言葉はユダ地方に住む人々(例:ルカ23:51;ヨハ1:19など)だけではなく、イスラエル人と同義語としても使われている(例:マタ2:2;27:11;ヨハ4:22;7:2;11:55;ロマ1:16;2:10、28–29;9:24;ガラ2:15;コロ3:11など)。この議論においても、「ユダヤ人」は「イスラエル人」と同義語として用いる。すなわち、ユダヤ人」とはイスラエル民族に属する人々を指す言葉である。

なお、ある人のユダヤ性を判別する基準については、宗教や血統などにより種々の見解がある。ここで私がある民族を指して「イスラエル」という時には、アブラハム、イサク、ヤコブの肉体的子孫である人々のことを指す(創49:28;出1:1–9)。

(2)教会

使徒パウロは、エペソ人への手紙において、教会(ギリシア語でエクレシア)を「キリストのからだ」(1:23)や「新しい一人の人」(2:15)、「主にある聖なる宮」(2:21)と表現している。よって、教会の神学的定義は、「キリストの死を通して救われ神と和解し、新しいいのちを受けた者たちの群れ全体」であるといえる*10

また、パウロが教会を「新しい一人の人」と呼んだ背後には、ユダヤ人信者および異邦人信者の両方が、キリストにおいて「新しい一人の人」に造り上げられたのだという認識がある(エペ2:11–16)。すなわち、教会とは、ユダヤ人信者と異邦人信者の両方によって構成される「信者の群れ」である。この認識は、コリント人への手紙第一12:13にも見られる。

私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。*11

なお、旧約時代の信者が教会という存在に含まれるのかという議論があるが、ここでは、教会とは使徒の働き2章における聖霊降臨以降に誕生した存在であると結論づけておこう。

(3)クリスチャン

問題提起の発端となった発言においては、「クリスチャン」が異邦人の信者という意味で用いられていた。その発言とここでの議論との間では、この用語に関する定義が大きく異なっている。

Christianという言葉は、ギリシア語の「クリスティアノス」の英訳である。また、この言葉の和訳が「キリスト者」である。これは元来、初代教会の時代、アンティオキアの人々(おそらく異邦人であろう)がイエスを信じる「弟子たち」につけたあだ名である(使11:26)。ここでクリスティアノスと名づけられたアンティオキアの信者たちには、ユダヤ人信者と異邦人信者の両方が含まれていたであろうと思われる。そうであれば、新約聖書の時代、クリスティアノスという呼び名は、異邦人だけではなくユダヤ人の信者にも適用されるものであったと考えられる。

使徒ペテロは、次のような形で、クリスティアノスという呼び名により信者のアイデンティティを表現している。

しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。(1ペテ4:16)

ここで、ユダヤ人ペテロが自分自身も「キリスト者」(クリスティアノス)に含めていることは明白であろう。したがって、クリスチャンとは、教会に属する信者たちを指す呼び名であり、教会と同様にユダヤ人信者も異邦人信者も含み得る用語である。

(4)用語の定義に基づく考察

以上の用語の定義から、若干の考察を試みたい。ユダヤ人とキリスト教、あるいはユダヤ教キリスト教の関係について議論がなされる際、「クリスチャン」という言葉が「異邦人のキリスト教信者」のみを指している場合は多い。この背後には、キリスト教会によるユダヤ性排除の歴史、またユダヤ人迫害の歴史がある。「ユダヤ人にとって、クリスチャンという言葉で頭に浮かぶイメージは、贖いではなく迫害である。」*12 このことから、多くのユダヤ人にとってキリスト教とは一般的に異邦人の宗教であり、クリスチャンとは異邦人のことであると認識されている。そして、キリスト教会側が「クリスチャン」をその意味で使う場合には、多くのユダヤ人と同様な自己認識を持っているか、あるいはユダヤ人への配慮をした上で、ということが多い。

しかし、あくまで保守的福音主義の解釈論を枠組みとし、聖書を土台とした議論を行っていくのであれば、クリスチャンとはキリストのからだである「教会」に属する信者たちを指す呼び名である。そして、「教会」と同様に、ユダヤ人信者も異邦人信者も含み得る概念である。したがって、ユダヤ人」と「クリスチャン」というのは、本来は意味論的ジャンルが異なる用語であり、論理的には並行し得ない。そのため、「異邦人によるユダヤ人伝道」という意味で「クリスチャンによるユダヤ人伝道」という表現をすることは不可能である。「クリスチャンによるユダヤ人伝道には反対である」という命題が与えられた場合、保守的福音主義の観点からは、これは「ユダヤ人信者の側からも、異邦人信者の側からも、ユダヤ人伝道には反対である」ということと同義になり、すなわち「いかなる形であれユダヤ人伝道には反対である」という言明として捉えられる。

ある呼び名を用いていく上で、歴史的・道徳的配慮は重要である。しかしながら、「伝道」というような神学的テーマを考えていく場合、我々はまず聖書的な用法に基づき、厳密な定義の上で議論を進めていく必要がある。そうではなく、聖書に基づいた定義を曖昧にしたままで行われていく議論では、客観性を得ることは不可能である。

それでは、諸用語の定義をふまえた上で、聖書がユダヤ人に対しても異邦人に対しても、「信仰」の必要性を説いていることを見ていこう。(次回に続く)

*1:中川健一『エルサレムの平和のために祈れ──続ユダヤ入門──』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ出版部、1993年)99–101頁;Maurice G. Bowler, “Rosenzweig on Judaism and Christianity,” Mishkan 11 (1989): 1–8.

*2:中川、97頁。

*3:トーマス・F・トーランス『キリストの仲保』芳賀力・岩本龍弘共訳(キリスト新聞社、2011年)。

*4:たとえば、『科学としての神学の基礎』水垣渉・芦名定道共訳(教文館、1990年)など。

*5:Jennifer M. Rosner, “Messianic Jews and Jewish-Christian Dialogue,” in Introduction to Messianic Judaism: Its Ecclesial Context and Biblical Foundations, eds. David Rudolph and Joel Willitts (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2013), 149.

*6:トーランス『キリストの仲保』40頁。強調は引用者による。

*7:前掲書、42頁。強調は引用者による。

*8:前掲書、84頁。強調は引用者による。

*9:前掲書、89頁において示唆されている。なお、ここでいう聖書信仰とは、「神がご自分の息吹によって、ことばによる啓示を与えた結果として、聖書のすべてに神的起源を認め、それゆえに聖書全体を誤りのない、唯一絶対の権威であると信じ告白する信仰」を指している(鞭木由行「聖書信仰と無誤性」『聖書信仰とその諸問題』聖書神学者教師会編[いのちのことば社、2017年]298頁)。

*10:ミラード・J・エリクソンキリスト教神学』第4巻、宇田進監修、森谷正志訳(いのちのことば社、2006年)221頁。

*11:以後、引用は新改訳2017による。

*12:アーノルド・フルクテンバウム『ヘブル的キリスト教入門─メシアニック・ジューの歴史、神学、哲学から学ぶ─』佐野剛史訳(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ出版部、2016年)15頁。