軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「ユダヤ人伝道は必要ない」?(再考:その3)

今回のトピック

はじめに

あるSNS上での「クリスチャンによるユダヤ人伝道は、反ユダヤ主義の一形態である」という発言を受けて、ユダヤ人伝道の必要性について再考し始めました。その理由は、第一に、私自身がいつか「ユダヤ人に伝道する必要はあるのか?」と問われた時のための準備をしておきたいと思ったからです。もうひとつの理由は、聖書全体の救済論を復習しておく良い機会だなぁと思ったからであります。

前回の記事は、こちらです。

balien.hatenablog.com

この「再考」シリーズは、次のような構成を考えています。

  1. 用語の定義
  2. 全ての人に対する信仰の必要性
  3. ユダヤ人と信仰の関係
  4. 「神の民」について
  5. メシアニック・ジューという存在について
  6. 教会の反ユダヤ主義ユダヤ人伝道の関係性

前回は、(1)ユダヤ人でも異邦人でも、全ての人は罪人であり、義と認められるためには信仰が必要とされる、(2)ユダヤ人の場合には、神との契約関係という文脈においても信仰が必要とされる、といったことを論じました。今回はそれをふまえて、「4. 『神の民』について」を論じます。
(※当初の予定では「5. 」と「6. 」も一気に扱う予定だったのですが、分量が多すぎてしまうので、泣く泣く分けました……。)

4.「神の民」について

これまで、以下のことを論じてきた。

  1. ユダヤ人も異邦人も生まれついたままでは罪の性質を持っており、神の恵みと信仰により、神の御前で義と認められる必要がある。
  2. 現在、義認のためにはキリストの福音を信じる信仰が要求される。
  3. ユダヤ人は、神の契約の祝福の受け手となるためにも、イエス・キリストを信じる信仰が要求されている。

これらの救済論的命題をふまえた上で、議論の発端となったSNS上での発言*1でキーワードとなっていた「神の民」という概念について考えてみたい。先の発言には、「ユダヤ人はユダヤ人のままで、神の民とされている」という命題が含まれていた。またそこには、「ユダヤ人はユダヤ人のままで神の民であり、クリスチャンもまたクリスチャンとして神の民であり、両者がひとつの神の民を構成している」という考え方が内包されていることは、既に言及した通りである。すなわち、以下のような考え方が内包されているのである。

神の民=ユダヤ人+異邦人キリスト教

まず、1.用語の定義*2で指摘したように、「ユダヤ人」という概念と「クリスチャン」という概念は、意味論的ジャンルが異なるのであって、一つの命題の中で論理的に並行し得ないものである。それでもあえて、ここでの定義をふまえた上で「ユダヤ人とクリスチャンが神の民を構成している」という考え方を表してみると、次のようになる。

神の民=ユダヤ人+ユダヤキリスト教徒+異邦人キリスト教

しかし、「ユダヤ人」は民族的区分であるのに対して、「ユダヤキリスト教徒」と「異邦人キリスト教徒」は救済論的区分である。「神の民」という概念を説明する上では、上記の単純な図式では論理的整合性が得られない。したがって、この議論におけるパースペクティヴでは、「神の民」を説明する中で「ユダヤ人」と「クリスチャン」を併置させることはできない。そして、さらなる問題として浮上してくるのが、「神の民」という言葉をどういう意味で使っているのか、ということである。

もしも「神の民」が「神に選ばれた民族」という意味で使われているのであれば、「ユダヤ人はユダヤ人のままで神の民である」という命題は正しい。パウロが「神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません」と言い(ロマ11:1a)*3ユダヤ人の選びを指して「神の賜物と召命は、取り消されることがない」とも語った通りである(ロマ11:29)。この場合、「ユダヤ人は神の民である」とは、「ユダヤ人はアブラハム契約に基づき、民族として神に選ばれた」という意味になる。

しかし、「クリスチャンは神の民である」というときには、「神の民」は別の意味合いを持ってくる。この場合にも、確かに「選ばれた」という要素は残る。なぜなら、クリスチャンもまた神から選ばれた人々であるからだ(エペ1:4)。しかし、クリスチャンを神の民という場合には、ただそれだけではない。ここでの神の民とは、神によって贖われ、義と認められた人々であり、神の御国を受け継ぐことを約束された人々のことである(エペ1:11)。したがって、「クリスチャンは神の民である」とは、「ユダヤ人もギリシア人も、キリストの福音を信じた者は、民族性に関係なく、恵みと信仰により御国を受け継ぐ人々の群れに加えられた」という意味になる。

したがって、現在の視点からユダヤ人が民族として「神の民」であるということと、クリスチャンが救済論的に「神の民」であるということでは、「神の民」の意味が異なってくる。この両方の表現をひとつの図式に丸め込んでしまうと、保守的福音主義の観点からは、「神の民」という言葉の用法にダブルスタンダードを持ち込んでしまうことになる。

ただし、以上のことはあくまで現在の視点からの話である。視点を将来に置けば、イスラエルという民族に属する人々全体に、「神によって贖われ、義と認められ、神の御国を受け継ぐ民」という意味で「神の民」という概念を適用することも可能である。このことについては、少々説明を加える必要があるだろう。

保守的福音主義に立つ人々の中には、私自身も含めて、「ユダヤ人はアブラハム契約に基づき、民族として神に選ばれた」という現状から、「ユダヤ人は民族として御国を受け継ぐことになる」という状況にシフトする時が到来するのだと信じる人々がいる。この場合、ユダヤ人は民族として恵みと信仰によって義と認められ、救済論的「神の民」になる*4。さらに、ユダヤ人が民族として、御国を相続する「神の民」になる際には、彼らが神との契約において与えられた「祭司の王国」という特別な役割に回復させられる。

パウロは、ユダヤ人が神に選ばれたという事実は変わらないが、彼らが肉体的にユダヤ人であるというだけでは契約の祝福の継承者とはいえないことを論じていた。同時に彼は、ユダヤ人が将来民族として救いに至るということも論じている。

[25]兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、[26]こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。[27]これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。(ロマ11:25–27)

ここでは、「イスラエルはみな救われる」という出来事が、「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不経験を除き去る」という出来事と関連させられている。ここで引用されているイザヤ書59:20–21では、主が罪を悔い改めたイスラエルと契約を結び、それに伴って彼らの上に聖霊が注がれ、聖霊は民から離れることがないという約束が与えられている。ここには、(1)イスラエルの不従順の終結、(2)将来におけるイスラエルの民族的救いという2つの要素が見られる。また、この2つの要素は、民のもとに直接到来する「贖い主」というメシア的人物と結びつけられている。

旧約の預言書では一貫して、先の2つの要素をもたらすのは、エルサレムからイスラエルと諸国民を治める、ダビデの子孫から来るメシア的王である(例:イザ2:1–4;11章;49章;59:21;エレ23:1–8;エゼ37:16–28;ダニ7:13–14など)。したがって、パウロがいう「イスラエルはみな救われる」という出来事は、預言書に見られるメシア的王がエルサレムからイスラエルと諸国民を治めるという出来事と密接に関係している。この出来事に対する希望は、イエスの再臨(マタ24:30–31;使1:11;黙1:7;19:11ff)に見出される。よって、この考えに基づけば、エスが再臨される時、ユダヤ人は民族として御国を受け継ぐ「祭司の王国」として回復させられるということになる*5

しかし、この考えによれば、現在のユダヤ人伝道に対して再び疑問が呈されるのではないだろうか。神は将来ユダヤ人を実質的な「神の民」として回復させられるという終末論は、ユダヤ人にも福音を宣べ伝えるべきであるという先の結論と、どのように調和するのだろうか。次項では「メシアニック・ジュー」という存在を軸に、この問題を考えたい。

*1:『ユダヤ人伝道は必要ない』?(再考:その1)」をご参照いただきたい。

*2:こちらも、上記記事をご参照いただきたい。

*3:以後、聖書引用は新改訳2017による。

*4:ここでよく議論となるのは、将来ユダヤ人が民族的に救済論的「神の民」となるということは、その時点でのユダヤ人たちが教会に組み込まれることを意味するのか、あるいはその時点でのユダヤ人たちが教会とは個別に「神の民」となるのか、ということである。これはすなわち、救済論的「神の民」においては教会というひとつの集団のみを認めるのか、あるいは異なる複数の集団の存在を認めるのか、という議論でもある。このテーマは、ユダヤ人伝道の必要性に関する本稿内の議論では重要性が低いために省略されているが、筆者個人は「神の民の中に複数の集団を認める」という立場である。すなわち、将来ユダヤ人が民族的に救われ回復させられるということは、彼らが教会に組み込まれることを意味しているのではない。このテーマについては、下記の文献をご参照いただきたい。Bruce A. Ware, “The New Covenant and the People(s) of God,” in Dispensationalism, Israel and the Church: The Search for Definition, eds. Craig A. Blaising and Darrell L. Bock (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1992), 68–97; Michael J. Vlach, Has the Church Replaced Israel?: A Theological Evaluation (Nashville, TN: B&H, 2010), 160–62.

*5:ロマ11:26–27の釈義については、拙稿「聖書におけるイスラエルの意味(6)ローマ人への手紙11:26について:その1」および「聖書におけるイスラエルの意味(7)ローマ人への手紙11:26について:その2」をご参照いただきたい。