軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「ユダヤ人伝道は必要ない」?(再考:おわりに)

これまでのまとめ

これまで、4つの記事に分けて「クリスチャンによるユダヤ人伝道は、反ユダヤ主義の一形態なのか?」ということを再考してきました。今回は「おわりに」として、少しばかり感想を書かせていただきました。

「ユダヤ人伝道は必要ない」?(再考:その1) - 軌跡と覚書

「ユダヤ人伝道は必要ない」?(再考:その2) - 軌跡と覚書

「ユダヤ人伝道は必要ない」?(再考:その3) - 軌跡と覚書

「ユダヤ人伝道は必要ない」?(再考:その4) - 軌跡と覚書

この取り組みの結論を、以下のようにまとめてみました。

  1. ユダヤ人も異邦人も、生まれついたままでは罪の性質を持っており、神の恵みと信仰により、神の御前で義と認められる必要がある。その義認のためには、イエス・キリストの福音を信じる信仰が要求される。
  2. ユダヤ人は、神の契約の祝福の受け手となるためにも、キリストを信じる信仰が要求されている。
  3. 初代教会の信者たちやメシアニック・ジューの存在に代表されるように、ユダヤ人がキリストを信じることは、ユダヤ性を放棄することには繋がらない。よって、ユダヤ人伝道自体は反ユダヤ主義的行為ではない。
  4. パウロは、異邦人が信者になることによってユダヤ人に妬みを起こさせ、ユダヤ人伝道にも結びつくことを想定していた。異邦人信者は教会が過去に犯してきた反ユダヤ主義を覚えて謙遜になるべきである。しかし、異邦人信者によるユダヤ人伝道自体もまた、反ユダヤ主義的行為とはいえない。

最後に、個人的にこういったテーマを頻繁に取り上げている理由と、私たち日本人信者がユダヤ人伝道にどう携わっていくことができるか、ということを述べさせていただきたいと思います。

私がユダヤ人伝道に関心を寄せる理由

私が個人的に「イスラエル論」やユダヤ人伝道といったことに関心を持っているのは、ひとえに言えば、育った環境からです。これまで本ブログで何度か申し上げてきた通り、私は大学生の時分に、自由主義的な信仰から福音主義的な信仰への転換を経験しました。その転換のきっかけを与え、それ以降も私を育んでくれた群れは、イスラエルを軸に聖書を読むことを教え、ユダヤ人伝道を重視していました。そのような中で信者として育ってきたので、私にとっては、こういったテーマを扱い考えていくのは良い悪いではなく、ごくごく当たり前のことなのです。そして、自分でもこうして聖書を学んでいくうちに、イスラエル論やユダヤ人伝道というのは、自分自身にとって本当に大切なテーマになっていきました。

どんな信者にとっても、自分が置かれ育った環境というのは、神が与えてくださった祝福だと思います。そして神は、何らかの目的──大きく言えば、私たちがキリストのみからだなる教会を建て上げていくという目的に沿って、私たちをそれぞれの環境に置いてくださったのだと信じています。お読み頂いている皆様もまた、それぞれの経験を通してお仕えしていくことを、ご自身の召しとして確信されていることと思います。

ですから、私が神のご計画に参加させていただく上で、自由主義的信仰から福音主義的信仰への転換を経験したことは、これを用いてお仕えしていくよう召されているからだと信じています。また、私が工学について学び、現在技術者として働いていることは、これを用いてお仕えしていくよう召されているからだと信じています。そういったことと同様に、私が聖書を読み、イスラエル論やユダヤ人伝道に関心を持つようになったという事実は、この経験をも用いていくように召されているのだと信じています。

そういったことをふまえて、色々と神学的思索を巡らし、あるいは考えたことに基づいて実際の働きを色々と試みています。そして、中でも神学的に考えたことについて、ブログで発信することを通して兄弟姉妹の皆様に還元していくことができたらと思い、今回のシリーズにも取り組んできました。

私たちがユダヤ人伝道に関わる方法

さて、ユダヤ人伝道に関心を持っているのですから、その働きに参加したいという思いも、当然抱いています。それでは、私たち日本人がユダヤ人伝道に携わっていくには、どうしたらよいのでしょうか。

まず考えられるのは、直接的にユダヤ人に伝道していくことです。信者として証をし、彼らに「ねたみ」を起こさせることです。そのようにパウロが教えたことをそのまま実践していくことは、大変重要なことでしょう。実際、海外で、あるいは日本国内で、この働きに取り組んでおられる方々も多くいらっしゃることでしょう。しかし、いくら「グローバル化」が大きく叫ばれているとはいえ、多くの日本人にとっては、ユダヤ人という人々と接する機会は決して多くはないのが実情でしょう。かくいう私も、これだけ大言壮語しておきながら、信者ではないユダヤ人とお話させていただいた経験は、まだ1度しかございません。

もうひとつ考えられる関わり方は、ユダヤ人伝道に携わっておられる宣教師や宣教団体を、物理的・霊的に支援することです。ヨハネは、キリストの御名のために働く巡回宣教師について、次のように言っています。

だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。(3ヨハ8;新共同訳)

巡回伝道者たちを支援することは、私たちが彼らと「真理のために共に働く者」になることなのです。それと同様なことは、ユダヤ人伝道という具体的な働きに対しても適用することができるでしょう。ユダヤ人伝道に対して献金などによる物理的支援を行うこと、また祈りや、働かれている方々との交わりによる霊的支援を行うことは、私たちがその方々と「真理のために共に働く者」になることを意味しているのです。

そして、3つ目の方法があります。それは、異邦人に伝道していくことです。これもまた間接的なユダヤ人伝道の支援であるということは、今回の学びを通して、改めて目が開かれたことでした。パウロは、異邦人が信者になることこそが同胞のユダヤ人に「ねたみ」を起こさせ、彼らの救いに繋がるのだと論じました(ロマ11:13–14)。その教えに基づけば、異邦人の救いもまた、ユダヤ人の救いに繋がっていくものなのです。

日本国内であれ国外であれ、日本人に対してであれアメリカ人に対してであれ、私たちが身の回りの人々に伝道していくことで、信仰に導かれたその人が、ユダヤ人に「ねたみ」を起こさせることになるかもしれない。あるいはもっと間接的に、私が伝道した日本人が福音を中国人に伝え、その中国人がユダヤ人に「ねたみ」を起こさせることになるかもしれない。あるいはもっともっと間接的に、私が伝道したインド料理屋のネパール人店主が家族に福音を伝え、その家族が世界中飛び回っているビジネスマンの友人に福音を伝え、そのビジネスマンの友人が仕事相手のユダヤ人に「ねたみ」を起こさせるかもしれない……(笑)

妄想は尽きませんが(笑)、神の働きは連鎖していくはずだということに、今回改めて目が開かれました。ですから、背伸びせず、今私が置かれている環境で、純粋に福音を伝えていきたいという思いで、私の信じている主を証していく。これもまた、ユダヤ人伝道に携わっていく立派な方法じゃないか、ということに気付かされたのです。

今私ができることが、どんなに小さなことであっても、きっと神はそれを用いてくださる。そんな信頼をもって、今夜もまた、家族の救いのため、友人たちの救いのため、一人でも多くの日本人が救われるため、そして一人でも多くのユダヤ人が救われるため、祈り求めていきたいと思うのです。