軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

ああ神の智慧と知識との富は……

今朝、感動したことがあったのでそのご紹介です。

約1年前のこと、クリスチャン界隈であるブログ記事がとても注目されました。

www.radflumpool.com

タイトル通り、ノンクリスチャンの方が教会に行ってみたという体験談です。
筆者のichさんによれば「書いてから一年で、もう累計7万人近くの人に読まれた」とのことで、ノンクリスチャンの方々からの反響も多かったのだと思います。

私はあの記事について、ノンクリスチャンの方々から反応がどうであったのかは知らないのですが、クリスチャンの知り合いの間では広く好意的に受け止められていたのを覚えています。

そのichさんが、洗礼を受けられていたのだということを今朝知りました。

note.mu

何度かそのnote記事を読み返して、ただただ、「ああ、神様ってすごいな」と感嘆していた次第です。

最初の「ノンクリスチャンの私が初めて教会に行ってみた」の記事について、私の身の回りの中では、いくつかの表現を取り上げて「聖書的ではない」というような指摘をされていた方もおられました。そして、その指摘は基本的に、神学的には「正しい」ものだったと記憶しています。もしかしたら、先のnoteについても、同じようなことを感じられる方もおられるかもしれません。

それでも、その行間からは目の醒めるような御恵みの麗しさを感じました。

遠藤周作は、リベラルかつカトリックの視点からイエス・キリストについて論じつつ、しかし自身の限界を認めて「言語は聖なるものを完全に表現できぬ」というようなことをよく言っていました。ここでご紹介した記事も含めて、私たちの言葉は「聖なるものを完全に表現」できるものではありません。

ただ主だけが、私たちの言葉とその余韻から、ご自身のすばらしさを現されるのです。

そのようなことを思わせてくれる証しに出会え、うれしかったなという感想でした。 そして今日一日、パウロの頌栄が頭から離れなかったのです。

ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。
「だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。」
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ人への手紙11:33–36)