軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「ディスペンセーション主義とは何か?」シリーズを振り返って

「ディスペンセーション主義とは何か」を振り返って

あれから3年

このブログ、トップページに人気記事が出るようにしているのでお分かりいただけると思うのですが、一番アクセス数が多いのは遠藤周作関連の記事です。でも、時々いただく励ましのメールなどで触れていただくことが多いのは、初期の頃に出した「ディスペンセーション主義は何か?」というシリーズだったりします。

balien.hatenablog.com

ブログを開設する前は、noteというメディアを使って色々と書いていました。(あの頃よりも、noteはますます注目を浴びているようですね。内容の形式的にもブログが適していると思っているので、戻らないとは思いますが……。)そのnoteで、「ディスペンセーション主義とは何か?」というシリーズの一回目、「はじめに」を投稿したのが、2015年8月30日でした。なので、あのシリーズを始めてから、もう3年が過ぎたことになるんですね。先日「ジャンル別記事一覧」を作りながら思い出して、改めて読み返してみました。それで多少の思うところがあったので、ここでまとめておきたいと思います。

シリーズの内容を振り返って

視野の狭さ

あのシリーズの内容は、今振り返るとほとんどチャールズ・ライリーの『ディスペンセーショナリズム』*1に依存していたようなものでした。それから勉強を重ねるにつれ、ライリー以前のものから最近のものに至るまでいくつかの文献に目を通すことで、視野が狭かったなぁと反省させられています。

これは、ライリーを否定するようになったということではありません。彼が提唱したディスペンセーション主義の3つの必須条件(sine qua nons)──イスラエルと教会の区別、字義通りの解釈、神のご計画の目的を神ご自身の栄光に置くこと──は、私自身の持つ聖書理解の枠組みとしては今も機能しています。しかし、その説明の仕方や表現であったり、ディスペンセーション主義を定義する際にこれらの条件で完結させることが適切なのかといった点については、理解が変わってきたということです。

ディスペンセーション主義の定義

ディスペンセーション主義という立場を採用する人々、あるいはその立場に立っていると自認する人々の聖書理解の多様性を知ることで、ライリーの考え方もある程度相対的に見られるようになってきました。そして、ライリーの考え方を相対的に見られるようになったことで、ディスペンセーション主義者を自認する人々──古典的立場から「漸進的」といわれる人々まで含む──の聖書理解は多様でありながら、やはり多くの点で一致しているのだということもわかってきました。

それをふまえると、ディスペンセーション主義者たちの一致と多様性はもっと強調されるべきだったということで、以前のシリーズが物足りなく感じるのです。

また、第3回では「ディスペンセーション」という用語および概念の定義について、ライリーを引用しつつこの立場における伝統的理解をご紹介しました。しかし、この概念の詳細な定義にこだわる気も薄れてきています。

伝統的な「7つのディスペンセーション」を信じられなくなったということではありません。ライリーのような伝統的ディスペンセーション主義者によるディスペンセーションの理解は、「(地上における)神の統治方法の変化」というものです。これは、キリスト教神学の伝統における本来的なディスペンセーションという概念と一致しているものです。その視点からすると、C・I・スコフィールド以降有名になった7つの区分は、割とカッチリしたものだとやはり思わされています。

ですが、ディスペンセーションという概念自体はキリスト教において伝統的なものであったことをふまえると、「ディスペンセーション主義とは何か?」を論じる上では、ディスペンセーションという概念は中心に置かれるべきではないと思い始めたのです。確かに、ディスペンセーション主義という名称自体は、ディスペンセーションという概念とその分け方にこだわった人々の流れから来ています。しかし、現代においてこの立場の本質はディスペンセーションの区分にあるのではないのです。言葉をかえれば、ディスペンセーションの定義や数が何であろうと、この立場自体がより確立されたり倒されたりといったことは起こり得ないのです。むしろ問題の本質は、ディスペンセーションの区切り方にかかわってくる「イスラエルと教会の区別」──いやもっと根本的に、聖書解釈論にあるのです。これはシリーズの執筆当時から表面的に理解していたことではあったのですが、この3年間でますます確信を深めることができました。

変わっていないのは、ディスペンセーション主義自体は神学体系ではない、という理解です。先ほど申し上げたように、ディスペンセーション主義が持つ考え方は聖書解釈論に依拠しています。そして、ディスペンセーション主義者であればほぼ確実に一致している点──イスラエルという存在や教会という存在に関する理解、千年期前再臨説など──は、教会論や終末論に関するものです。聖書論や神論、救済論などに関しては、ディスペンセーション主義者が特別に体系づけていった分野ではありません。ですから、「ディスペンセーション主義者による組織神学」はあり得ますが、「ディスペンセーション主義」自体はあくまで解釈論の姿勢のことだと、今でも思っています。

あのシリーズを終えた後も「ディスペンセーション主義とは何か?」を考え続けてきてわかったのは、この立場の正確な定義はそう簡単にできるものではないぞ、ということでした。むしろ、これがいかに多様性を持ち合わせたムーブメントかということが見えてきたのです。(そしてこれが、過去何度か申し上げてきた「そもそもこのラベルを強調していく必要があるのか?」という疑問につながるのです。)ですから、そのことをふまえて、「ディスペンセーション主義とは何か?」を改めて問い直し、改訂していく必要を感じています。

ディスペンセーション主義の歴史

さて、ディスペンセーション主義者たちの一致と多様性を見るためには、この立場の歴史そのものを見ることが重要なのだという認識がさらに深まってきました。この認識に基づいていくつかの文献を勉強してきた中でルーツに関する理解も深まってきたので、改訂が実現したら反映させなければいけないと思っています。

また、ディスペンセーション主義者たちによる「イスラエルへの情熱」についても、改めて見つめ直す必要があります。この頃、「クリスチャン・シオニズム」を支持する人々が、その運動はディスペンセーション主義以前に遡ることができるということを正しく主張してきています。たとえば、今月の頭に邦訳が出版されたダニエル・ジャスターの『イスラエルへの情熱』などは、その良い例です*2。しかし、出版物ではあまり見られないのですが個人レベルとなりますと、極端な場合には、クリスチャン・シオニズムとの関係でディスペンセーション主義を全く無視するかのような論調も稀に見られます。ですから、私個人のなかでバランスを取るためにも、ディスペンセーション主義の歴史を振り返る中で、この立場の人々が持っていた「イスラエルへの情熱」がどうであったのか改めて問い直してみたいと思わされています。

このシリーズの本来の目的であった「ディスペンセーション主義を理解する」からすると、やっぱり歴史を見るのは必要不可欠です。また、信仰の先輩たち──キリストにある兄弟姉妹たちが紡いできた歩みを振り返ることによって、この立場から影響を受けた私のような人々は、自らが受けた恩恵のルーツを改めて確認することができるでしょう。

漸進的ディスペンセーション主義について

この立場の多様性と一致を客観的に見ていくためには、以前の内容では不勉強のため一面的にしか扱えなかった漸進的ディスペンセーション主義(progressive dispensationalism;以下PD)について、本格的に取り組む必要を感じています。

たとえばPDと伝統的立場とでは、解釈論、教会論、終末論について見解が異なっているといわれています。その違いについて、以前のシリーズでは、第8回で取り上げたは取り上げたのですが、恥ずかしながら伝統的立場のライリーによる説明に頼り切ってしまっており、当のPD内部の主張は全く見ることが出来ていませんでした。しかしあの後、PD自身の主張も少しは勉強できてきたのですが、私はやはりあの人々も「ディスペンセーション主義者」と名乗ることは妥当だと考えています。

もっとも、PDの提唱者のひとりであるクレイグ・ブレイシングは、つい最近の論文で自分の立場を「Redemptive Kingdom Theology」などと言い換えていましたが*3……。15ページの論文だったから充分に体系化はされていませんでしたけど、いやぁ、また新しいラベル持ち出されちゃって開いた口がふさがりませんでした。笑

ともかく、「ディスペンセーション主義とは何か?」を書き直すとすれば、もうPDを避けて通ることはできないな、と思っています。また最近、ライリーの見解そのままでPDを提示する動きが一部に見られますが、それについては若干の不満を覚えています。ですからただこの立場を扱うという側面からも、シリーズを改訂する必要性を感じてしまうのです。

ちなみに、私自身はPDに全面的に同意しているわけではありません。特にイエスが神の右の座に着いておられるのが、ダビデ的統治の部分的成就だという一部のPDの主張には同意していません。また、解釈論においても(判断は非常に難しいのですが)PDよりは伝統的立場寄りだと思います。つまり、PDと伝統的立場の中間、でもどちらかというと伝統的立場寄り……という、今米国の若手ディスペンセーション主義者の間でよく見られる姿勢と似たような立ち位置になっていると思っています。

ああ書き直したい…

ディスペンセーション主義を巡る状況は、3年前からあまり変わっていないと思います。この立場について存在も許さぬような感情的批判を加える人もいれば、この立場などは福音主義神学の中にハナから存在していないかのように扱う人もいます。あるいは、この立場から他の立場を感情的に批判しまくる人もいますし、この立場だけが福音的立場であるかのように扱う人もいます。どんな陣営にも、互いの本質を見極めようとせず、互いの歴史を顧みようとしない、極端な人々がいます。これは、3年前から変わっていませんし、このような極端はこれからも無くなることはないと思います。

ただ、福音派の内情は、3年前から少しずつ変わってきています。契約神学とディスペンセーション主義の違いのような、「保守的聖書観に立つ中での聖書理解の違い」という問題以上に、もう他の問題で大変になってきているのです。こうなってくると、種々のラベルを一旦脇において、聖書の教え自体を論じ直していく必要が、ますます大きくなってきていると思います。

それでも、「ディスペンセーション主義とは何か?」を改めて考えていくことは大切だと思うのです。多分、ラベルを横においても、必ずまた新しいラベルが出てきます。あるいは、ラベルを横に置いた取り組みが進めば、伝統的契約神学や、伝統的ディスペンセーション主義神学に立ち返ろうという動きも出てくると思います(というより、既に出始めていると思います)。それに、ここまで言っておいて何ですが、結局のところ「ディスペンセーション主義」というラベルは(少なくとも、まだまだしばらくの間は)無くならないと思うのです。このラベルは、脇に置くにはあまりにも大きくなりすぎました。そういった状況下では、今後福音派の中で出てくるであろうムーブメントを相対的に見ていくためにも、既に起こった運動の歴史を振り返り、また振り返るための材料が整えられていることは大切だと思うのです。

さて、さらに個人的なことになりますが、ここのところ、旧新約聖書通読に随分ハマっていました。その中で、私がこの陣営で教えられてきた基本的な姿勢は、それが唯一絶対の在り方だとは思わずとも、十分聖書によって支持され得る在り方だという確信を深めました。つまり、十分「保守的福音派として健全」といえるレベルの在り方だと、改めて思い直したわけです。

以前「『ディスペンセーション主義』という名前への違和感」という記事で書いた通り、この名前には違和感がありますし、このラベルを強調していくことの必要性には疑問があります。それでも、この陣営で育てられてきたひとりとして、自分が与えられてきた霊的遺産、自分に通っている霊的系譜を、もう一度整理し直したいと思うのです。だって、私をこの陣営の中で育てられたのは、神様ですからね。神様が与えてくださった恵みを思い返し、改めて味わうという意味でも、「ディスペンセーション主義とは何か?」の改訂に取り組み始めたいなぁと思います。

ここまで書いてきて、初夏のある日、尊敬する先輩にブログをほめてもらったことを思い出しました。このブログが好きだというのですが、それは「もがいてる感が出てていい!」ということでした。笑 上に書いたことも、まだまだ「もがき」の途上にあるからこそ出て来る雑感なんでしょうね。それならば、もうこの「もがき」の道も神様が置いてくださった道だとして、もっと楽しんでいきたいと思います。改訂に取り組むことで、「もがき」の第二段階に入っていこうということですね!笑

実際、まだまだもがいてます。冷静になれるには程遠い状態です。自分がこの陣営で育てられてきたことで、たくさん傷つけられてきましたし、またたくさん傷つけてしまったとも思っています。それら得た傷と反省をふまえて、なるべく客観的に、なるべく包括的に、この立場について考え直して、同じ「もがき」の途上にある方々とお分かち合えたら……と思います。

と、ここまで大言壮語してきてしまったものの、もういつ実際に書き始められるやら、いつ終わることやら……という感じです。このテーマについては、実は先のシリーズ完結後からロクなノートも残してきませんでした。なので、この3年間で集めた文献に目を通し直し、ノートを作るところから始めなければならないと思うと、気が遠くなるような思いです。

でもブログに全精力を注ぐわけにはいかないので、本当に時間がかかると思います。教会生活もありますし、仕事もありますし。聖書自体の学びにももっと時間を割きたいし、文学だってまだまだ深めていきたいので、それ以外の時間ができた時にちょこちょこ進めていく感じになるでしょう。

とりあえずはここで宣言しておいて、いつかはちゃんと改訂版を出したいと思います。……HUNTER×HUNTERが完結するまでには終わらせたいなぁ。笑

*1:Charles C. Ryrie, Dispensationalism, rev. ed. (Chicago: Moody, 2007).

*2:ダニエル・ジャスター『イスラエルへの情熱─ユダヤ人とイスラエルを愛した福音主義教会の軌跡─』石川秀和訳(ゴスペル・ライト出版、2018年)。また、以下も参照のこと。Gerald R. McDermott, Israel Matters: Why Christians Must Think Differently about the People and the Land (Grand Rapids: Brazos Press, 2017); Idem, "A History of Christian Zionism: Is Christian Zionism Rooted Primarily in Premillennial Dispensationalism?," in The New Christian Zionism: Fresh Perspectives on Israel and the Land, ed. Gerald R. McDermott (Downers Grove, IL: InterVarsity, 2016), 45–75.

*3:Craig Blaising, "A Theology of Israel and the Church," in Israel, the Church, and the Middle East: A Biblical Response to the Current Conflict, eds. Darrell L. Bock and Mitch Glaser (Grand Rapids: Kregel, 2018), 85–100.