先日、ある方とお話しているなかで「どうして今も遠藤周作が好きなんですか」という質問をいただいた。代表作「沈黙」の映画化に伴って、クリスチャン界隈でその内容が再び問題視されたことは記憶に新しい。遠藤周作のキリスト教は聖書的キリスト教ではないのだと。けれども福音派の中でもなかなか保守的な立場にいる私が「遠藤周作が好きなんです」というと、当然「なぜ?」といわれることがある。
先日いただいた質問は、別に批判されたわけでもなんでもなくて、純粋な疑問としていただいたものだ。しかし時には、怪訝な顔をされたり、叱責されることもある。(特に、ご年配の方々とのお交わりの中でそういうことが多い。)たとえば、まずこういう会話から始まる。
「どんなことがご趣味なんですか?」
「そうですねえ、読書が好きです」
「ほう、どんなものをお読みに?」
ここで素直に「遠藤周作が好きで、よく読みます」と答えるとしよう。でも遠藤周作が国民的作家であったというのは私も生まれる前のことだ。大抵はよく知らないので「そうですか」とだけいわれて別の話題にいくか、「あ、『沈黙』有名ですよね」とだけでも言ってもらえる。でも遠藤周作を読んだことがありその内容に眉をしかめた方々からは、違った反応がかえってくる。
「遠藤周作はねぇ、あの人は本当のクリスチャンじゃないから……」
こう言われるだけの時はまだいい。「そうですねぇ」と心から同意して終わる。
だがご年配の方々からは、これに続いてご叱責いただくことも少なくない。ああいう本のせいで日本人がキリスト教を間違って理解しているのであって、伝道の妨げになっている云々……。まあそういう批判の内容はたしかに間違ってはいないのであって、私自身も問題ではあると思うし、好きな作家だからこそ心を痛めているところでもある。
ただそんなことは分かっているのであって、そこから始める議論は犬も食わないしち面倒くさいものだ。だから最近はそういう議論から逃げるため、遠藤周作以外で実際に読んでいるもの、読んだことがあるものでお答えしている。大抵、1冊は神学書や信仰書の類を傍に置いているから、それを選ぶ。あるいは小説ならば遠藤と同世代でも三浦朱門や安岡章太郎とか、もっと無難に漱石やらドストエフスキーやらトルストイといった巨匠の影に身を隠す。
だけどこの間純粋に疑問をいただいて、その時には「文学的に好きなんです」とお答えはしたが、自分でも改めて「そういえば、なぜ遠藤周作がこんなに好きなんだろう」と考えさせられた。
このブログで何度か申し上げてきたとおり、今は遠藤周作の「母なる宗教としてのキリスト教」といった類の主張に感化されることはない。だが、作家としてのストイックな姿勢には未だに惚れている。彼は「日本人である自分にとってのキリスト教」という問題意識を学生時代から持ち始め、そこから出発して「神々と神」「東方と西方」「キリスト教と文学」といった問題を生涯追求しつづけた。彼のフランス留学時代の日記(「作家の日記」)を読むと、己の問題をストイックに追求し続けていく姿勢、そこから始まる熾烈な勉強に唸らされる。つい最近もあの日記を読み返して、ああ自分はなんと勉強不足なのだろうと猛省させられた。とにかく、ひとつの問題に執着してああも烈しく追求していく遠藤の作家としての姿勢からは、今もずっと影響を受け続けている。
でもそれ以上に、遠藤の小説や評論は、単に小説や評論として好きなのである。
キリスト教をテーマとしていた日本人作家では、椎名麟三や三浦綾子の作品も好きだ。でも彼らと比べるとどうしても遠藤周作の方が手に取る回数が多い。いくら遠藤文学の方が慣れ親しんでいるのだとはいえ、椎名や三浦の未読作にも手を伸ばしていけばいいのに、ついこの間読んだばかりの遠藤の著作に戻って行ってしまう。なぜなのか。当人としては2つ、「物語の紡ぎ方」と「作中人物の魅力」というキーワードが思い浮かんだ。
たとえば物語の紡ぎ方、その構築の仕方から見ていくと、遠藤周作は上手い。椎名麟三はプロテスタントへの回心を経験した小説家だが、ドストエフスキーの影響を受けた彼の小説からは作中人物を現実味のある生きた人物として描こうという努力を感じるし、またたしかに「自由の彼方へ」「美しい女」といった小説の登場人物たちは生き生きしている。しかし、自伝的側面のある前者はともあれ、後者は物語に捻りがあるとか、シンプルな物語としても構造や紡ぎ方に感心させられるということがなかった。
だけど遠藤周作の代表作といわれる長編小説のストーリーテリングや構造には舌をまく。「海と毒薬」の物語を、あの奇妙だけれど重厚な序章から始めようとするアイデア。古代イスラエルと現代イスラエルが交錯していく「死海のほとり」。主役ふたりの最期を、それぞれに全くふさわしい形で、しかもわざとらしくなく着地させる熟練の業を見せた「侍」……。晩年の「深い河」は文章的には息切れのするところが目立つが、群像劇の交錯の仕方でそれをカバーできていると思う。中には「おバカさん」のようにストーリーテリングが面白いとは思われないようなものもあるが(同じガストンという人物の出る作品なら、私は「悲しみの歌」の方が好きだ)、いわゆる純文学に分類されている小説の場合、遠藤の紡ぎ方は椎名麟三よりも断然上手いと思うのだ。
「作中人物の魅力」に視点を変えてみると、どうしても三浦綾子と比較してしまう。たとえば「氷点」「続・氷点」の陽子や、「塩狩峠」の永野信夫および吉川ふじ子などを見てみると、どうも彼らは作者のなかでのみ生きているだけの人々のように感じられてしまう。彼らは作品のなかで生活はしているが、その生活のなかの息遣いが読者に伝わってこない。生きて感情をあらわにしてはいるが、それでも彼らはなぜか観念的人物のように見えてしまう。なんだか、ダイジェスト版の伝記を読んでいるような気持になってしまうのである。ただ信夫やふじ子についてはクライマックスの事件が近づくと急に生命感があふれてきて大変興味深いのだが、それはいつか「塩狩峠」について書く時が来たら触れることにしたい。
もちろん、陽子や信夫やふじ子が生きた人々、実在の人物以上に生命感あふれる人々であるかのように感じ、感動させられた方々も多くいらっしゃると思う。「ひつじが丘」の奈緒実や「積木の箱」の一郎といった人々に心を馳せた方々は多いだろう。だが彼らと比べると、遠藤が創作した作中人物たちの方がはるかに生き生きしているように感じられてならない。
たしかに「黄色い人」の主人公や「海と毒薬」の上田ノブなどは、観念的人物のように思われる。また野心作といわれる「スキャンダル」も、ストーリーテリングはもちろん作中人物の魅力という点からしても成功作とは言い難い。しかし「海と毒薬」でいえば、それぞれがどうにもならぬ苦しみと悲劇を抱えるふたりの主人公勝呂と戸田の、なんと生き生きしていることだろう。あえぐ彼らの息遣い、彼らの動悸が読者にも伝わってくるようだ。「沈黙」が今なお話題にされ続けるのも、それは作品に込められた作者のメッセージ以前に、ロドリゴやフェレイラ、キチジローらがあかたも実在の人物であるかのように読者のなかで息衝き始めるからだと思うのだ。
なんだか偉そうに椎名麟三や三浦綾子を引き出して好き勝手語ってしまったが、小説の書けない私に彼らを批判する資格のないことは理解している。それに、上記のことは厳密な比較をして客観的理論的に示せる論でもない。第一、椎名麟三や三浦綾子の小説は私にとって十分愛読書になっている。だが、どうしても彼らを遠藤周作と比べてしまうと先に申し上げたことを感じてしまうのであって、それゆえに遠藤周作の小説を手にすることが多くなってしまうのである。
文学についてなんやかんやと書いてはきたが、やっぱり小説を読むのはそれが面白く、作中人物が魅力的だからだ。文学は人生を考えさせられるものでなくてはならぬ。という桑原武夫のような高尚な文学論も頷けるが、やっぱり小説自体が面白くないと読書は面白くない。ドストエフスキーの「罪と罰」や「悪霊」、トルストイの「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」、ジッドの「贋金づくり」やモーリヤックの「テレーズ・デスケルー」、それにグリーンの「権力と栄光」や「ヒューマン・ファクター」……これらもまた私の十代のころからの愛読書だが、そのどれも別に小難しいことを考えさせられるからではなく、単純に面白く、その作中人物たちに魅了されているからこそ、今読んでも飽きが来ない。遠藤周作が彼らと比肩しうる作家だというのではないが、私が今でも遠藤周作が好きなのは、純粋にはそういう理由によるのである。
また、彼の書く評論も魅力的なのだ。結論はともかく、勉強量に裏打ちされた洞察の深さには舌を巻くし、何より文体が心地良い。ごく初期の評論も情熱的で好きだが、文体という点では1950年代後期以降のものが特に好きだ。難しい問題をなるべく明瞭に平易に表現しようと試みる彼の評論の作風は、ひとつには間違いなく、明瞭で平易な文章が特徴的であった山本健吉の影響があったのだと思う。ともかく、平易な文章で対象の奥底に下っていくような山本や遠藤の評論は、両者それぞれの独特なリズムも相まって、読めば読むほどに味が滲み出てくるのである。そうなると、「小説でもないし、新書でもないな」という時、手に取るのはどうしても山本や遠藤の評論、それに時々小林秀雄、といった風になってしまうのである。
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では、同じ福音派の兄弟姉妹方にも遠藤周作を読むことをお薦めするかというと、なんとも言えなくなってしまう……。たとえば「沈黙」などの切支丹ものの小説について、これを通して切支丹迫害のことを知れるのは有益かもしれないが、はたしてそのために遠藤周作の小説を読んでいただくのが良い読書、実りある読書になるのかどうか不安である。
それらはあくまで小説であり、当然いくらかの修飾がある。また小説であるからには物語がある。作家の目線、作家のメッセージはその物語や作中人物とは切り離すことができない。切支丹迫害について知るといっても、その歴史的事実だけを作者のメッセージから切り離して読んでいくことは、小説の読み方としては大変難しい。また、仮にそのような読み方ができたとしても、それでその読書が面白いか、味わい深いのかというと、私には甚だ疑問なのである。
だが一端の文学好きとしては、文学を面白く感じる人が、教会の中でも少しでも増えると嬉しいなと思うのも事実だ。となると個人的には、文学的な美味しさからお勧めできる小説家は日本人だと遠藤周作以前の人々になってしまう。では日本文学を抜いて海外文学へ行こうとすると、どうしてもトルストイやドストエフスキー、少し下ってもジッドやモーリヤック、フォークナーやサローヤンなんかにいってしまうので少々敷居が高く感じられてしまい、これもまたおすすめしづらい。
決して新しいとはいえないが、たとえば村上春樹はどうか?……知人の中にも「ハルキスト」の方々がいるので大変申し訳なく思うのだが、村上春樹には文学的な味わいを感じたことがない。読むには読んだが物語もよく練られた面白いものだとは思わなかったし、その表現手法について面白みを感じたことも、心に刺さったこともなかった。でもまあ、笑い飛ばしてください。毎度ノーベル文学賞を期待される作家なので、これは私の感性がよろしくないのかもしれないし、こちらはただの文学好きのド素人、それほど数は読んでいないのでこんなことを言う資格もない。春樹ファンの兄弟姉妹方には、個人的な感想ということでお許し願いたい。あくまで私としては村上春樹を読むよりは、たとえばひとりの男が自らの性慾に苦しむ田山花袋の「蒲団」の方がはるかに教えられること、気づかされることが多かったのである。
遠藤周作とはいわない。入り口は三浦綾子でもいいと思う。いや村上春樹だっていいし、芥川賞の「送り火」だっていい。たまには「文學界」を手にとっていただくのも面白いと思う。今はちょっと分からないのだが、以前一生懸命読んでいた頃は、最低1号に1作は面白い短編小説が載っていた。
でも三浦綾子にしろ誰にしろ、それを読んで「小説って楽しいかも」「文学って美味しいかも」と感じられた方には、ぜひとも古典や、いわゆる20世紀の名作といわれる数々に手を伸ばしていただきたいと思う。いち遠藤周作マニアの、勝手な愚痴でした。