軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

まだまだ ディスペンセーション主義Q&A

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これまでディスペンセーション主義/ディスペンセーショナリズムについて、Q&A形式の記事を3つ投稿してきました。

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今回はQ&Aシリーズの(一応の)完結編として、これまで取り上げていなかった「契約神学」、「イスラエル支持」、「聖霊の賜物」といった問題に触れておきたいと思います。

Q11:ディスペンセーション主義と契約神学

Q:よく「ディスペンセーション主義は契約神学と違う」と聞くけど、契約神学って何? それから、具体的に何がどう違うの?

これは難しい質問ですね。ディスペンセーション主義と同様、契約神学というのも定義が難しいものなのです。

ある神学事典では、契約神学(federal theologyもしくはcovenant theology)について次のように定義されています。「この神学は、聖書全体が二つの契約の下にあるとする。すなわち(1)わざの契約、(2)恵みの契約、である。」*1

カルヴァンやツヴィングリといった人々の後、16世紀の終わりから17世紀にかけての宗教改革者たちの中には、神の計画における「契約」という概念の重要性を強く主張する者たちが現れました。契約神学というのは本来、こういった考えが17世紀に神学体系としてまとめあげられていったものです。伝統的な契約神学では、先の定義で見たように「わざの契約」と「恵みの契約」という二つの契約が聖書を読み解く鍵であるとされています。この二つの契約に関する記述は、有名なウェストミンスター信仰告白の第7章にも見られます。以下に日本キリスト改革派教会による訳文を引用いたします。

2 人間と結ばれた最初の契約はわざの契約であって、それによって、本人の完全な服従を条件として、アダムに、また彼においてその子孫たちに命が約束された。

3 人間は自分の堕落によって、自らを、この契約によっては命を得られないものにしてしまったので、主は、普通に恵みの契約と呼ばれる第二の契約を結ぶことをよしとされた。それによって、神は罪人に、命と救いを、イエス・キリストによって、価なしに提供し、彼らからは、救われるためにキリストへの信仰を要求し、そして命に定められたすべての人々が信じようとし、また信じることができるようにするために、聖霊を与える約束をされた。*2

よってディスペンセーション主義者の中には、契約神学が鍵としている「わざの契約」と「恵みの契約」に十分な聖書的根拠のない概念だと批判する者がいます。たとえば中川健一氏は、「わざの契約」も「恵みの契約」も、聖書から直接読み出される概念というよりは「種々の聖句から類推される」ものであると指摘しています*3。その上で、次のように述べてます。

契約神学は3つの神学的契約の存在を主張するが、その中で最重視するのが、「恵みの契約」である。突き詰めれば、「契約神学は、『恵みの契約』の上に立っている神学体系である」とさえ言える。そこから、契約神学の問題点が見えてくる。契約神学は、聖書にある諸々の契約(聖書的契約)を、すべて一つの契約(「恵みの契約」)に集約しようとする不自然な神学体系である。*4

しかし、それではこの「わざの契約」と「恵みの契約」に基づく神学体系=契約神学であるかというと、今ではそうも言い切れなくなってきています。たとえば、今世紀初頭に台頭してきた「New Covenant Theology」という陣営がいます。これは「ディスペンセーション主義と契約神学の長所を合わせ、両者の弱点を打ち消す」ことを試みる神学体系を提唱する陣営です*5。この立場では、「わざの契約」や「恵みの契約」は充分な聖書的根拠が得られないことを理由に、その二つの契約を否定しています。また、似たような性質を持つ取り組みが、別の本では「漸進的契約主義」(Progressive Covenantalism)とも呼ばれています*6。ですから、契約神学をルーツに持つ神学的立場がこうも多様化してきますと、「契約神学とは『わざの契約』と『恵みの契約』に基づいた立場である」という単純な定義は意味を成さなくなってくるのです。

一方で、New Covenant TheologyやProgressive Covenantalismといった立場では、「新約の教会こそが唯一のまことの神の民である」という考えが持たれています。この考え方は、イスラエルと教会を区別し、イスラエルの将来の回復を信じるディスペンセーション主義とは異なった見解であり、契約神学の見解と一致しています。

契約神学では一般的に、ディスペンセーション主義のような形でイスラエルと教会の区別を厳密に捉えてはいません。たとえば自らを契約神学者と自認するジョージ・ラッドは、「教会」こそが「新しいイスラエル、真のイスラエル、霊的イスラエルである」と言っています*7。この類の見解は、他の契約神学の支持者にも見られるものです*8。ですから少なくともこの点では、ディスペンセーション主義と契約神学は異なっているといえます。

こういったことをふまえて、マイケル・ヴラック博士はディスペンセーション主義と契約神学の最大の違いは解釈学ストーリーラインの2点であると述べています*9。中でもおそらく一番大きな違いであろうと思われるのは解釈学です。これについて、ヴラック博士は次のように述べます。

端的に言えば、2つの陣営における違いの多くは、旧約聖書の契約における物理的・民族的約束をどれほど字義的に読んだら良いのかということに関係している。ディスペンセーション主義者はそれらが未だに成就していないならば、必ず成就しなければならないと考えている。一方で契約神学者の場合には、そういった事柄はイエスにおいて成就した影および予型であり、字義的成就の必要はないと考えていることが多い。*10

そしてこれによって、神の計画におけるイスラエルの役割や立ち位置といったものが、ディスペンセーション主義者と(種々の)契約神学者たちとの間では異なってくるのだといえるでしょう。

つまるところ、ディスペンセーション主義と契約神学の違いが何かということになると、シリーズ最初の記事でご紹介したディスペンセーション主義の定義に帰着することになります。

ですが、契約神学とディスペンセーション主義とでは、聖書が神のことばであること、人は福音を信じることによってのみ救われること、クリスチャンにとって福音を宣べ伝えることが重要であること……等々、多くの点で一致しています。ですから両者については、違いを知るすると同時に、同じキリストのみからだなる教会に連なっている者であるという認識をしっかり持つことが大切だと思います。

Q12:ディスペンセーション主義とシオニズム

Q:ディスペンセーション主義の人って、今のイスラエルという国を無批判に支持する人ばかりみたい。親イスラエルシオニズムを支援するクリスチャンは、皆ディスペンセーション主義者なの?

シオニズム」というのもここで定義を論じるにはあまりに膨大な概念ですので、ここではひとまずご質問のエッセンスから、「ユダヤ人や現代のイスラエル国家を積極的に支援する人々は、皆ディスペンセーション主義者か?」という問題としてお答えしたいと思います。また混乱を避けるため、以下ではイスラエル民族のことを「ユダヤ人」と呼び、「イスラエル」という言葉は現代の中東に存在するイスラエル国家に限定しておきたいと思います。

まずディスペンセーション主義というのは、これまで何度も確認しているように将来におけるユダヤ人の民族的救いと回復を信じている立場ですから、ユダヤ人による国家が再建されたというイスラエル建国の出来事が神の計画の一部であると信じる考え方、そして親イスラエルの立場とは親和性があります。

しかし、ユダヤ人を愛し、イスラエル再建を信じて支援していくという流れは、決してディスペンセーション主義によって始まったわけではありません。これは最低でも、17世紀頃からのピューリタニズムに遡ることのできる流れであり、川端光生牧師のいうように「四百年以上続く福音主義クリスチャン本流の運動」といっても過言ではないでしょう*11。このことについては、今年邦訳出版がなされたダニエル・ジャスター氏の『イスラエルの情熱』の中で詳しく説明されています。また、ジェラルド・マクダーモット博士は、イスラエルの再建が神の計画でありこれを支持していくという考え方はかのカール・バルトにも見ることができるものと主張しています*12。当然、バルトはディスペンセーション主義者ではありません。

もちろん、歴史において多くのディスペンセーション主義者たちがユダヤ人とイスラエルを愛し、イスラエルへの支援を行ってきたことは事実です。ですが、これがディスペンセーション主義者にのみ見られる特徴だということはありません。したがって「ユダヤ人や現代のイスラエル国家を積極的に支援する人々は、全員がディスペンセーション主義者だということではない」というお答えになるでしょうか。

もうひとつ補足しておきますと、ディスペンセーション主義の考え方と親イスラエルの立場との間には親和性がありますが、かといってディスペンセーション主義者になると必ず親イスラエルになるという必然性があるわけではありません。ディスペンセーション主義が神学的立場として問題としているのは「イスラエルと教会の区別」と「将来におけるイスラエルの救いと回復」であって、現代のイスラエルを支持する必然が生じてくるわけではないのです。前に興味があって海の向こうのディスペンセーション主義者のブログや発言などを調べてみたとき、うろ覚えなのですが、イスラエルを政治的には批判している方もいて、ユダヤ人に対しては神学的な関心以外特に抱いていないという方もいたと思います。ディスペンセーション主義というのはあくまで教会論と終末論に関する神学的立場であり、何かひとつの倫理的見解や政治的見解と繋がったものではないということです。

Q13:ディスペンセーション主義と聖霊の賜物

Q:ディスペンセーション主義では異言や預言、奇跡の賜物は無くなったと教えているというのは、本当?

確かに、ディスペンセーション主義者の中には、現在奇跡的な賜物はなくなったと考える「終焉説」の立場を取る人々もおります。ですが回答としては、「ディスペンセーション主義だからといって、奇跡の賜物は無くなったと考えているわけではない」ということになります。

たとえばジョン・マッカーサー博士が学長を務めているディスペンセーション主義に立つ神学校のThe Master's Seminaryでは、こういった奇跡の賜物が「使徒たちのメッセージを確証するため、使徒たちの時代に一時的に与えられたもの」であり、「今日では癒しの賜物が与えられている者はいない」とする終焉説の見解が教理声明に含まれています*13

しかし、漸進的ディスペンセーション主義者である故ロバート・ソウシーは、奇跡的賜物が今日も与えられる可能性を認めています*14

また伝統的ディスペンセーション主義からの立場ですと、故チャールズ・ライリーは、預言の賜物については新約聖書の完結によって終了したと考えるも、癒しや異言の賜物については結論を下していません*15。一方で、やはり伝統的立場に立つアーノルド・フルクテンバウム博士については、預言の賜物についてはライリーと同様に今日既に終了していると考えていますが、癒しや異言については終了を否定しておらず、むしろ今も存在していることを肯定するかのような書きぶりを示しています*16

結局のところ、この聖霊論や教会論に属する問題は、第一コリント12–14章の釈義などにかかわるものであって、ディスペンセーション主義の本質とはあまり関係がない問題だといえるでしょう。実際、ディスペンセーション主義とは何かを論じる文献のなかでこういった問題に触れているものは見たことがありません。

おわりに

ディスペンセーション主義/ディスペンセーショナリズムに関するQ&Aを4つの記事にわたってお届けしましたが、とりあえずよくいただく質問についてはこれで一通り取り上げられたかなと思います。「まだまだ」に続くタイトルも思い浮かばないので笑、ひとまずこれで完結です。(他にも取り上げられていない細かい問題が多くあるので、そういう問題を質問されるような機会があればその都度再開したいと思いますが。)

以前書いた「ディスペンセーション主義とは何か?」というシリーズを振り返り、もっと簡単に参照してもらえるような記事が必要だと思ったのが、今回のQ&Aシリーズを始めたきっかけでした。これまで3年間掘り下げてきたことを、それなりにまとめることができたかなと思います。

書いてきた中で新たに出てきた問題もあり、これからそれを掘り下げなくてはと思っています。それにもちろん、「ディスペンセーション主義とは何か?」を書き直したいという気持も変わっていません。ですが、それに着手するにはもしかしたら、また3年間を要するかもしれません。

このシリーズを終えたこと今は、正直いって肩の荷が下りた気分です。前シリーズを読み直して感じていたもやもやした感情も、一応はこれで一区切りつきました。虚心坦懐に聖書を読むことは今まで通りご飯を食べるように続けていきたいですし、それ以外の勉強としてはようやく、この数年間に噴き出してきた文学に集中できるかなと。これからは心機一転、新しい探究に入っていけるぞ!という思いであります。

*1:George N. M. Collins, "Covenant Theology," in Baker's Dictionary of Theology (Grand Rapids: Baker, 1960), 144. 訳文はチャールズ・C・ライリー『ディスペンセイション主義』前田大度訳(エマオ出版、2018年)189頁による。

*2:聖書根拠省略。また太字強調部は引用者によるものである。

*3:中川健一『一日でわかる「イスラエル論」』11–13頁。

*4:前掲書、13頁。

*5:Dennis M. Swanson, "Introduction to New Covenant Theology," The Master's Seminary Journal 18/1 (Fall 2007): 149.

*6:Stephen J. Wellum and Brent E. Parker, eds., Progressive Covenantalism: Charting a Course between Dispensational and Covenant Theologies (Nashville, TN: B&H, 2016).

*7:ジョージ・エルドン・ラッド『終末論』安黒務訳(いのちのことば社、2015年)30頁。

*8:Robert L. Reymond, "The Traditional Covenantal View," in Perspectives on Isarel and the Church: 4 Views, eds. Chad O. Brand (Nashville, TN: B&H, 2015), 25; Marten H. Woudstra, "Israel and the Church: A Case for Continuity," in Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments, ed. John S. Feinberg (Wheaton, IL: Crossway, 1988), 221–38.

*9:Michael J. Vlach, Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths, rev. ed. (Los Angeles: Theological Studies Press, 2017), 85–91.拙稿「2つの解釈学、2つのストーリーライン」で同内容のブログ記事を紹介しているため、参照のこと。

*10:Ibid., 88–89.

*11:川端「推薦のことば」ダニエル・C・ジャスター著『イスラエルへの情熱』石川秀和訳(ゴスペル・ライト出版、2018年)4頁。

*12:Gerald R. McDermott, "A History of Christian Zionism," in The New Christian Zionism: Fresh Perspectives on Israel and the Land, ed. Gerald R. McDermott (Downers Grove, IL: InterVarsity, 2016), 71–73.

*13:The Master's Seminary, Doctrinal Statement.

*14:Robert L. Saucy, "An Open but Cautious View," in Are Miraculous Gifts for Today?: 4 Views, ed. Wayne A. Grudem (Grand Rapids: Zondervan, 1996), 97–148.

*15:Charles C. Ryrie, Basic Theology: A Popular Systematic Guide to Understanding Biblical Truth, rev. ed. (Chicago: Moody, 1999), 429–30.

*16:Arnold G. Fruchtenbaum, "The Gifts of the Holy Spirit," The Messianic Bible Studies Collection, MBS071, 2005.