軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

再び「聖書信仰」論争について

トピック

2年前を振り返って

2年ほど前、このブログで「聖書信仰」や「聖書の無誤性」について取り上げたことがあった。

balien.hatenablog.com

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このテーマはぼくが福音主義的な信仰をいただいて以来ずっと追いかけてきたものであったし、当時の福音派における「流れ」もあっての記事だった。

2015年、藤本満氏の『聖書信仰──その歴史と可能性』がいのちのことば社から出版された。山崎ランサム和彦氏によれば、この本は「現代日本福音派プロテスタント教会の聖書観のルーツを歴史的に検証し、その意義を問い直す意欲作」であった。そして2017年、同じいのちのことば社より聖書神学舎教師会編『聖書信仰とその諸問題』が出版された。これは藤本氏の著作で歴史的に批評されていた「保守的」な聖書観を持つ人々からの応答という側面を持つ論文集であった。

藤本氏の『聖書信仰』から大いに学びつつも、その内容に疑問を感じていたぼくにとって、『聖書信仰とその諸問題』はシンパシーを感じた本であり、それがあの3つのブログ記事に繋がっていったのである。そして、ぼく自身の聖書観というのは、2年前に書いた記事からほとんど変わってはいない。

あれから2年。山崎ランサム氏のブログにおいて、藤本氏が『聖書信仰とその諸問題』への応答記事を寄稿された。

『聖書信仰とその諸問題』への応答1(藤本満師) | 鏡を通して ―Through a Glass―

『聖書信仰とその諸問題』への応答2(藤本満師) | 鏡を通して ―Through a Glass―

これを受けて抱いた感想を、ここで備忘録的に書き記しておきたいと思う。

なお、「聖書信仰」や「聖書の無誤性」、また聖書信仰に対する「保守的」という用語については、冒頭でご紹介した拙稿で説明しているので、まずはそちらをご参照いただきたい。

藤本氏の「応答」記事を読んで

さて、藤本氏の記事を一読した感想だが、氏の応答は、厳密には『聖書信仰とその諸問題』で論じられている内容自体への応答とはいえないだろう。氏は、聖書信仰を巡る日米の論争の歴史を簡単に振り返りながら、「聖書観を異にするクリスチャン同士が、対話を展開しつつ一致していくことの重要性」とでもいったようなことを論じている。

まず大まかに言えば、藤本氏の主張は(彼自身の書物『聖書信仰』の内容よりも)頷けるものであった。ぼくもまた、聖書観を異にするクリスチャン同士が、対話をしつつ一致していくことが重要であり必要な課題だと思う。

その上で、率直な感想も述べておくと、応答記事であるにも関わらず内容的な応答がほとんど見受けられないのは残念だった。特に、藤本氏が先の著作で展開している中で目立っていた、聖書観の哲学的前提に対する批判──「聖書の無誤性」という聖書観には合理主義的哲学が前提にあるが、近代合理主義の誤りが認められる今日においてはそういう聖書観に縛られるべきではないという批判について。これについて、『聖書信仰とその諸問題』では、赤坂泉氏が次のように応答している。

聖書信仰の前提を見つめ直すべきとの藤本満氏の問いかけは重要である。ただ、北米の福音主義が、啓蒙主義の理性主義的認識論とスコットランド常識哲学を前提としていることに気づかず、理性に対する全的信頼、言語に対する信頼をもって聖書の性質を論じてきた、という評価ははたして妥当か。神の実在を前提とし、聖霊の神性と活動を信じる福音主義において、そこまで言い切るのは極端ではないだろうか。(前掲書36–37頁)

だが、こういう哲学的議論に対する応答は、藤本氏の記事では見受けられない。藤本氏はそこでも、聖書の無誤性を主張する聖書信仰には「スコットランド常識哲学が前提にある」ことを繰り返しているのみである。

個人的に言うと、聖書信仰の諸見解をある程度客観的に論じていく上では、この哲学的前提に関する議論が肝であると思う。たとえばぼくのように保守的な聖書信仰を持つ者が、自分の聖書観を表明していく上では、『聖書信仰とその諸問題』で鞭木由行氏がいうようにキリスト論──「キリストの権威」が肝になるといえる。しかし、この聖書信仰そのものを客観的に、論理として提示していく上では、聖書に書かれているキリストのことばを用いて体系化しようとする限り、循環論から逃れることはできない。だが、無誤性に縛られない聖書信仰を体系化していく上でも、聖書のことばや他の何か(教会の伝統や他の哲学的前提)を用いていく限り、やはり前提やパラダイムによる循環論から逃れることはできない。

聖書信仰についての議論というのは、究極的にいうと「聖書には何が書いてあるか」を超えた議論なのだと思う。これは、ぼくらが聖書のテキストをいかに認識すべきかという、認識論の議論なのである。なので、聖書信仰を議論しようという流れの中でも科学哲学的な議論があまり深められていないのは、ぼくにとっては少々不満なのである。(なお、このことは拙稿「『聖書信仰』を考える(後編)」および「聖書の『無誤性』論争をゆる〜く考える」でもう少し詳しく説明させていただいた。)

だが、聖書信仰が認識論論争であり、哲学という人間の言葉が肝となる論争であるからこそ、これは大変難しい、ことによっては混乱をもたらしかねない論争であるのは否定できないだろう。

金井氏によるさらなる応答

藤本氏の「応答」記事2つを受けて、金井望氏が以下の記事を公開された。

salty-japan.net

金井氏は「藤本師は「無謬か無誤か」という不毛な聖書論論争を終結させるために問題提起をしておられるのだ、と筆者は理解しました」と述べている。まさしく、先に述べた理由から、ぼく自身も聖書論論争は「不毛」に成り得るものだと認識している。

こういう引用をすると金井氏は藤本氏に全面的に賛同しているかのようだが、金井氏の聖書理解はぼくが同意できるくらいには保守的でもある。長くなるが、以下の引用によって氏の聖書理解をある程度明らかに伝えることができるだろう。

 今、私たちは、近代主義の呪縛から解かれるべき時代に、生きています。
 筆者は基本的に進化論を支持していません。科学の学説は証明されるまでは仮説に過ぎず、進化論ーーと言っても多様ですがーーは未だ証明されていない部分がほとんどです。種の中で起こる小進化=環境適応はありますが、別の種への大進化は証明されていません。
 現代においては、近代科学の前提である経験主義・合理主義の世界観や方法論が疑問視され、その限界を露呈しています。ですから、科学の有用性を認めて、使えるものは聖書学・神学に利用したら良いのですが、創世記1〜3章を科学的に説明しなければならない必要性は、無いのです。
 現代の多元宇宙論においては、超自然的な神の存在と働きを信じ、超自然的な啓示を信じることは何ら問題となりません。むしろ創造主無しに宇宙や生命、DNAの存在を説明することは不可能とさえ言えます。
 創造科学を支持する方々も、大進化を認める有神論的進化論を支持する方々も、同じ信仰を持つキリスト者である、と筆者は思っています。創造科学が正しいとしても、あるいは大進化があるとしても、そのような驚異的な創造を為された神をほめたたえることでしょう。
 このような状況において我々キリスト教会が近代主義の呪縛から解かれるのは、当然であり、必要なことです。JEDP説や史的イエス論など、聖書のテクストを細かく切り分けた近代の聖書批評学は、今や崩壊しつつあります。ロルフ・レントルフが「パラダイムの変化、希望そして恐れ」(1993年)で述べているように、「現在ある最終的な形においてあるがままにテクストに真剣に取り組むこと」が求められているのです。

主張の細かなディテールでは完全に同意できない点もあるが、しかし趣旨には賛同できる。そして、聖書信仰に関する論争が「[聖書の]テクストに真剣に取り組むこと」を超えたところにある論争であり、それが益とならないのであれば、ぼくらはこの論争に向ける姿勢を改めなければならないだろう。

「応答」を読んだ上での不安

最後に。

藤本氏の「応答」は、大体においてはもっともな意見だと思った。また金井氏の主張と提言については、かなり大筋において同意することができた。

だけど、ぼくは不安である……「本当に、大丈夫かな?」という恐れがある。藤本氏が「『無謬か無誤か』という不毛な聖書論論争を終結させるため」に『聖書信仰』と「応答」を執筆されたのだとしても、本当にそれが金井氏のいうように「不毛な……論争を終結させる」ことに繋がるのかな、という疑念が拭いきれない。

藤本氏の著作がキリスト教界に向けて出されたのは、重要なことだと思う。だけど、あの著作とそれへの保守側からの応答である『聖書信仰とその諸問題』、そして藤本氏がさらに「応答」を出されたことは、「論争を終結させる」ものになるのだろうか? 仮にその論争が「不毛」であるとしたら、その論争をさらに過熱させるものにはならないだろうか?

こういう疑問は、時が経ち事実がどのように展開するのかを見ない限り、解決することはないだろう。今の頭では、論者たちがキリストの福音において一致する者である限り、異なる主張が提示されることは重要であり、良いことであるとしか判断できない。だが実際にはその議論がどのような実をもたらすかということは、時間の経過によってしか判別できない。

ぼくが本当に恐れているのは、この論争がきっかけになって、再び聖書論を盾にした排他的姿勢が巻き起こされないかということだ。それは、藤本氏が紹介しているような保守的聖書信仰側からの排他性でもあるが、もうひとつは、そういう保守的聖書信仰に反発する側からの排他性だ。今の社会における「多様性」を盾にした保守的思想への排他性や攻撃性を見る限り、同じようなことが「聖書論」によっても引き起こされてしまうのではないか、ということが、ぼくは怖いのである。

『聖書信仰』と『聖書信仰とその諸問題』による問題提起が、本当に建設的な議論に繋がっていくのか。いや米国側での展開や、日本でもこれまでの経緯を見るならば、これは新たな泥沼を招くことにはならないか……「歴史は繰り返す」のではないか……。

ぼくはそんな恐れを抱きながら、主よ、あなたの御心がなりますように、と祈るしかできないでいる。