軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「恥の文化」からの聖書神学、ついでに遠藤周作と内村鑑三について。

去年から遠藤文学の流れで記事を書こうと思っていたのだけれど、中々まとめられなかったテーマがいくつかある。そういうテーマのひとつに関連して考えさせられたことがあって、まとまってはいないのだけれど今思っていることを忘れたくないのもあって、思いきって雑談的に書き残しておきたいと思う。無駄に長くなっちゃったけど……。

昨日、久しぶりに会った友人と話している中で、面白そうな本を薦められた。インターヴァーシティから2016年に出た『Ministering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentials』という本で、題名通り「誉れと恥」の文化での伝道について書かれているらしい。前にタイトルだけ見てAmazonウィッシュリストには入れていたのだけど、猛烈なプッシュを受けて俄然読みたくなった。

Ministering in Honor-Shame Cultures: Biblical Foundations and Practical Essentials (English Edition)

詳しくないのだけれども、誉れと恥の文化というのは、いわゆる文化類型論における枠組みなのだろう。ルース・ベネディクトが『菊と刀』で提唱した、あの有名な「罪(guilt)の文化」と「恥(shame)の文化」というやつだ。さっきの『Ministering in...』の著者のひとりJayson Georgesの著書に『The 3D Gospel』というのがあって、これも読んだことはなくてウィッシュリストに入れただけなのだけど、そこでもうひとつ「恐れ(fear)の文化」というのがあるのを知った。

en.wikipedia.org

ベネディクトの恥の文化っていう類型化はすごく批判されていると聞いているけれども、今でも当然の前提として語られていることは多い気がする。ともかく紹介してもらった本は、いわゆる「恥」という側面から聖書の全体像を考察していて、それから実践の基礎についても提案されているのだという。(ちなみにGeorgesは、ムスリム伝道に従事している人なのだそうだ。だから、そういう点で実践論的なことは、日本文化では通用しない部分もあるらしい。)

友人から本の内容を聞いていてもうひとつ面白かったのは、聖書の全体像を見れば、「罪」も「恥」も「恐れ」も認められるという話だった。で、「罪」の側面からの聖書神学は西洋キリスト教界が十分に展開してきたし、「恐れ」の側面はペンテコステ派の登場によって補強されてきたけれども、残された「恥」の側面はまだ十分には展開されていないのではないか。本来古代ユダヤ文化にも古代ギリシャ・ローマ文化にも「恥」の概念は十分にあったのに、そういう文化的背景で書かれた聖書を研究するのに、そこが未発達になっている。だからGeorges and Bakerはそこに取り組んでいるのだけど、本当はこれは「恥」の文化の中にいる人々が取り組むべきだと。(ということを著者たちが言っているらしい。捉え方が間違っていたら申し訳ない限り……)

彼がさらにその本のどこを気に入っているかというと、いきなり実践の話から入るのではなくて、まず聖書釈義から始まって、聖書神学が展開されているからだという。その聖書神学からストレートに宣教論が提示されているのが、素晴らしい点なのだそうだ。

──いやもう読みたくてたまらないので、給料が入ったら取り寄せてみるつもりだ。それに、ぼくが個人的に考えていたこととも重なりそうなテーマだから期待している。

一応日本人のクリスチャンとして、日本人に分かるようにどう聖書を伝えていくか? というのは当然考えたことのある問題だ。それに遠藤周作の文学的な一大テーマのひとつは「日本人にどうキリスト教を伝えるか」だったから、愛読者としてはやっぱりぶつからざるを得なかった。遠藤もまた、「恥の文化にいる日本人には〈原罪〉は分からない、じゃあどうやって〈原罪〉を日本人に伝えるのか」ということを問題にして、そこから『黄色い人』や『海と毒薬』なんかが生まれてきた。そういう問題意識の温床にあったのは、日本人であるのに異国の宗教であるキリスト教を信じているという実存的な葛藤だった。

内村鑑三もそういうところで苦しんだ。そこから武士道とキリスト教の接ぎ木論とかが出てきたわけだ。

内村鑑三遠藤周作も、問題意識という点では非常に似ている。そこを1980年代に鋭く衝いたのが批評家の武田友寿だと思っている。彼の『「沈黙」以後─遠藤周作の世界』(女子パウロ会、1985年)の終章では、先のふたりに正宗白鳥も加えて、彼らの問題意識の類似点が詳しく論じられている(「鑑三・白鳥・遠藤」)。すごく興味深いのは、鑑三も遠藤も「日本人に分かるキリスト教とは何か」という問題の答えを「聖書に書かれていること」に探そうとしたことだ。

彼らが気づいたのは、自分たちがキリスト教を信じているのはそもそも聖書がグローバルな真実を有していて、聖書を読んで得られる真実こそがそのまま日本人にも分かるキリスト教の本質といえるのではないかということだった。だから彼らは、聖書研究に打ち込んでいった。遠藤は『沈黙』『死海のほとり』『侍』といった代表作の前に必ず「聖書物語」的な評伝がある。彼は「愛の宗教」としてのキリスト教を主張する上で、それが聖書に書かれているということを示そうとしてあの『イエスの生涯』や『キリストの誕生』を書いたのだった。鑑三も言わずもがな、あの『ロマ書の研究』に代表されるように、社会活動家ではなく「聖書の精読者」として人生を締め括った。

そういう風に、鑑三も遠藤も、いわば「聖書神学」の問題として日本宣教を考えようとしたわけだ。(というと、二人とも「神学じゃない!」と怒りそうだけど)この視点、今よくいわれている「日本的キリスト教」とかを考える時にものすごく重要なところだと思う。この「日本的キリスト教」に対する反発っていうのは、端的にいうと「そもそもキリスト教は聖書的であるべきだ」っていうところでしょう。鑑三や遠藤といった人々は、実存的なところで「日本的キリスト教」を求めたし、「そもそも聖書的でなければ」というところにぶつかった。そういうところで悩み苦しんだ人たちという意味で、彼らの著作っていうのはもっと日本のキリスト教界で考えられるべきだと思う。

……じゃあもう鑑三と遠藤がそれを考え尽くしているかというと、残念ながらそうとは言えない。遠藤の行き方はリベラルなカトリシズムというべき、キリスト論からしてみればすごく異端的な行き方で、厳密な聖書釈義には耐えられない。では内村はというと、『ロマ書の研究』はいつ読んでも心打たれるのだけれども、これが当時も人々にはどれくらい通じたのかなぁと考えざるを得ない。いや、聖書の内容を論ずる限り、それが人々に広く通じる内容だという前提は捨て去らなければなるまい。でも、どういったらいいのか……聖書神学──いや聖書研究といってもいい──からの日本宣教というテーマでは、彼らは志半ばで人生を終えてしまったんじゃないかなぁ。

もっとも、ぼくが不勉強だからそう思っちゃうのかもしれない。彼らの著作をもっとちゃんと読み込んで、言われていることを体系的にまとめれば、何かしらの答えが出るのかも。でも去年から、聖書研究からの日本宣教という視点で二人の著作を読み返し続けているのだけれども、これは全く未解決のまま残された問題という気がしてならない。

ぼく自身、日本的キリスト教なんていうことを言うよりも、まず聖書に書かれていることから聖書の大枠なり各論なりを宣べ伝えることが大事じゃないかと思う。でもお前のディスペンセーション主義的な読み方は、そもそも西洋の神学体系を通した読み方じゃないかと言われると、答えに窮することもある。それで解釈学的に「聖書をそのまま読んでいるんだ」と言い返そうとしたりするけれど、そういう論じ方じゃどんどん袋小路に入っていっちゃうわけだ。

だから大事なのは頭こねくり回すことじゃなくて、実際に聖書の言葉を伝えて、自分でもその言葉に留まってみせることだ……そう言い聞かせてみる。でも考えてみれば、西洋神学の影響をたっぷり受けているというのはまさしくその通りで、これについては自分なりにけじめをつけておかなきゃいけない問題だという気もしている。鑑三や遠藤に出会っちゃったから、余計に。無理矢理話を戻すと、そういうところでグルグル悩んでいる時にさっきの『Ministering...』を紹介されたので、ハッとさせられたというわけだ。

ただし、ぼくは「罪の文化」とか「恥の文化」とか言われてもそんなに実感を持って考えることはできない。確かに言われてみればそうかもなぁとは思うし、「恥の文化だから罪が理解できないんだ」と言われてもそうかもしれないと思うけれども、じゃあそれが西洋とどう違うのか? となると、そういうカルチャーショックを経験してきていない身としてはよくわからない……。だから、「恥」という側面から聖書神学を展開するってどういうことなのか? そうする必要があるのか? っていうそもそも論になると、ピンと来ない。

だけど、視点としてすごく面白いと思う。鑑三も遠藤も、そこでまともな回答は出していないから。

鑑三は江戸末期の日本人として一般的な儒教教育を受けたし、ワシントンDCで武士道とかの日本人の美徳について講演したくらいだから、恥の文化の問題とは無縁ではない。でも『ロマ書の研究』とかを読んでみても、結局は「義」と「罪」の問題が前面に出されているから、展開されているロマ書の聖書神学としては、欧米のものと大差ないように思える。

遠藤はさっき言ったように恥と罪という問題意識を持っていたけれども、『沈黙』以降はその問題をうまく避けてしまったような気がする。というか、多分後年はそこに重点は置いていなかったんじゃないかな。

ともかく、今の段階でこれ以上考えてみても仕方ないか。実際に勉強してみないと進まない。