軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

宇宙神殿説と霊的終末論(2/4)

f:id:balien:20190317212557j:plain

(画像出典:Hubble Space Telescope Images | NASA

Paul Martin Henebury氏のブログから、以下の記事を拙訳によりご紹介します。

The Cosmic Temple and Spiritualized Eschatology (Pt.2) | DR. RELUCTANT

第1回目はこちらから↓

宇宙神殿説と霊的終末論(1/4) - 軌跡と覚書

なお、前回同様、超絶意訳となっているのでご了承下さい(^^;

また文中〔〕は訳者による補足です。

宇宙神殿説と霊的終末論(The Cosmic Temple and Spiritualized Eschatology) Pt. 2

By Paul Martin Henebury

確かな土台

聖書の物語を追っていくと、幕屋/神殿のデザインおよび装飾とアダムが失った楽園との間には、何かしらの類似点があることが明らかになる。その類似点は単に、失ったものが何であるか、また約束の人(創3:15)が回復するものが何であるかを強調するための「記念」を示しているものである。この「記念」は信仰を励ますものとなるだろう。そして、聖所が天の神殿を模したものであると啓示されたことで(出25:9;ヘブ8:1–5)*1、信仰による期待はますます高められていく。以上のような考え方を合わせることで、地上の神殿の聖所については、神と(一人の)人が出会う場所と見なすことができる*2。しかし、贖い主がその御業を完成させたなら*3、全ての聖者がまことの聖所に入ることができるようになるだろう(黙21:21–26参照)。

以上の見解が受け入れられるなら、エデンや後の神殿は、宇宙全体のモデルとして考えられるべきではない。それらはむしろ、「人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋」(ヘブ8:2)に基づいた「パターン」もしくは「模倣」なのである*4。当然ながら、もしもまことの神殿が宇宙を模したものであるなら、その神殿のコピーもそうだということになる*5

宇宙神殿と予型論

しかし福音主義神学では多くの場合、この概念が神学的モチーフとして使われている。つまり、聖書の終末論をある種の予型論によって読むための出発点として使われているのである。またこのモチーフは、他の古代文明では宇宙の理解を表すために神殿を築かれたこととの類似性に大きく依存している。既に見たように、エデンについては園、エデンの地、拡張された地という三層構造になっているという概念が持ち出されることもある*6。ある推論が別の推論の上に重ねられ、そこからさらに推定が引き継がれているのである。

私たちが想像力のギアをトップに入れるなら、次のような結論に達する。アダムは祭司かつ兵士であり、外にいる悪と戦いながら、楽園の境界を外側に押し広げていくよう命じられたのである。アダムがこれを行うのは、神が創造の週になされた混沌(カオス)との戦いを再現するためである*7。聖書の物語が進むにつれて、アブラハムイスラエルは「新しいアダムたち」となり*8、アダムと同じシナリオを辿る運命となる。このシナリオは、イエスにおいて完結する。イエスの復活は、教会(「新しいイスラエル」と見なされる)にその務めを遂げさせる力を与えるのである。おそらく、この偉業を文字通りに成し遂げることを期待されていたのは、アダム(そして他の「アダムたち」)である。しかし、それは今、キリストが教会を通して霊的に成し遂げつつある。

エデンの園が神殿であるという見解に多くのページを費やしているビールによれば、次の通りである。

後の日の神殿に関する預言は、神が特別に啓示されたご自分の臨在を通して、キリストの初臨と教会によって成就しはじめた。この神の臨在は、過去の神殿の本質的要素である。……過去の神殿を去った神の臨在が最初にあらわされたのは、キリストにおいてであった。そして、キリストの御霊が教会の内に住まわれることで、将来の神殿が継続的にあらわされ始めた。結局のところ、神殿の象徴的なデザインが指し示していたのは、神の「至聖所」における臨在が最終的に宇宙全体を満たすようになるということだったのである。よって、小さな実際の家ではなくて宇宙そのものが、この栄光ある臨在の入れ物となるだろう。……内住される神の臨在は成就し始めており、歴史のクライマックスにおいて、宇宙全体を満たし尽くすことになる。エゼキエル40–48章で預言されている神殿のデザインが最初から意図していたのは、こういうことだったのである。*9

千年王国説あるいは千年期後再臨説を主張する者は、このようなシナリオを受け入れやすい*10。エデン、アダム、アブラハムに約束された地、幕屋とエルサレムの神殿、イスラエルの民といったものは、全てキリストと教会の予型なのである。「まことの神殿」は、神の臨在が宇宙全体を満たすということを象徴している。神の計画の適切な解釈は、そういった予型論に拠っている*11。聖書の壮大な物語を覆っているのは予型であり、諸契約ではないと思われている。後者は(当然ながら)予型論的解釈に抵抗するものだからである。

この見解に対する情熱的な支持は、予型論を取り入れたときに高まっていく。エデンの園とその反復は、キリストの教会を通して広げられていく「まことの」終末論的神殿の予型であると解釈される。原型はキリストとそのみからだである。現在推奨されてきているのは、こういった考え方である。そしてこの考え方は、終末に関する置換神学的見解(a supercessionist view)を必要としている*12

*1:ここで取り上げたテキストを素直に読めば、本文中で述べたこと〔神殿は天の神殿を模したものであること〕は明らかである。問題は、クリスチャンとユダヤ人の読者双方が、この情報をどのように扱うかということにある。残念ながら、多くのクリスチャンはこれを信じようとしない。なぜなら、これとは異なる神学的立場を取っているためである。また、ユダヤ人の中にはヘブル人への手紙を置換神学的書物のひとつと捉え、出エジプト記とヘブル書の間にある一致を真剣に考えようとしない者もいる。後者については以下を参照のこと。Jonathan Klawans, Purity, Sacrifice, and the Temple, 243.

*2:この(一人の)人とは、贖いの日における大祭司のことである。

*3:私がここで言いたいのは、サタンが永遠に打ち負かされ、「創造の計画」が完結したときにのみ、キリストの御業は完成するということである。このテーマについては、まだ述べたいことがたくさんある。

*4:すなわち、モーセが設けた幕屋とまことの神殿とは対照的な関係にある。

*5:読者の方々には、イスラエルの神殿について、その三層構造が宇宙の三層構造と対応していると言われていることを思い出していただきたい。

*6:これはG. K. BealeがThe Temple and the Church's Mission, 32–33で主張していることである。また、以下も参照のこと。G. K. Beale and Mitchell Kim, God Dwells Among Us, 52.

*7:G. K. Beale, A New Testament Biblical Theology, 40. この見解には以下のような反対意見がある。「異教の神話的概念への反対は、創造においていかなる戦いもなく命令によって大空や海を広げられた(創1:6、7)ということにも見られる。……創世記は古代の宇宙論を吸収あるいは反映しているのではなく、それを超越しているのである。」Gerhard F. Hasel and Michael G. Hasel, "The Unique Cosmology of Genesis 1 against Ancient Near Eastern and Egiptian Parrallels," in The Genesis Creation Account and Its Reverberations in the Old Testament (Berrien Springs, MI: Andrew University Press, 2015), ed. Gerald A. Kingbeil, 22. Cf. John W. Oswalt, The Bible Among the Myths, 67–68.

*8:E.g. G. K. Beale, A New Testament Biblical Theology, 39, 60, 62. イスラエルは「共同体的アダム」と呼ばれている。

*9:Ibid., 647.

*10:ただし、この見解の主な支持者は無千年王国説に立つ傾向がある。

*11:私はこれを予型論的予定説(typological predetermination)と呼んでいる。詳しく論じるためには、予型論的解釈についてくどくどと述べるよりは、細かい事柄を取り上げていく必要があるだろう。しかし、そういったことは次回以降で扱うことにしたい。

*12:たとえば、BealeはA New Testament Biblical Theologyの19章に「エデンの聖所、イスラエルの神殿、キリストの物語。そして、新しい創造の王国における聖霊の終末的神殿としての教会」というタイトルを付している。読者は、本書に蔓延している置換神学から逃れることはできない(たとえば161, 173. 182 n.65, 215, 307, 574, 770など)。211頁では、贖われた諸国が「まことのイスラエル」と呼ばれている。また、新しい契約にある信者たち(つまり教会)は「まことのエルサレム市民」である(671)。ある者が置換神学かどうかを試す聖句であるマタイ21:41について、Bealeは、神が「国家的民族的イスラエルがまことの神の民であることを拒否された」と言っている(680)。そして、イスラエルの役割は彼らから取り去られ、異邦人に与えられたとされる(681)。彼によれば、「イエスはご自分を、不信仰な諸国を打ち砕くダニエルの石と同一視された。……その諸国には、イスラエルも含まれている」(682)。一般的に、こういった見解を提唱する者は、自分は置換神学者ではないのだと訴える。しかしこういった訴えは、彼らが置換神学という言葉をかなり弱め、本来の意味を保持していないから出て来るものである。