軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

宇宙神殿説と霊的終末論(4/4)

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(画像出典:Hubble Space Telescope Images | NASA

Paul Martin Henebury氏のブログから、以下の記事を拙訳によりご紹介します。

The Cosmic Temple and Spiritualized Eschatology (Pt.4) | DR. RELUCTANT

第3回目はこちら↓

宇宙神殿説と霊的終末論(3/4) - 軌跡と覚書

最後の最後まで、超絶意訳となってしまいました。

なお、文中〔〕は訳者による補足です。また聖書引用は新改訳2017を使っています。

宇宙神殿説と霊的終末論(The Cosmic Temple and Spiritualized Eschatology) Pt. 4

By Paul Martin Henebury

ブロックの挑戦

最近のことだが、旧約聖書学者のダニエル・ブロックが宇宙神殿説に対する力強い挑戦を行った*1。彼の反論は暫定的なものかもしれず*2、またその中には疑問の余地がある問題も含まれている。(たとえばエデンにおける契約の存在*3、イエスエルサレムの神殿を置き換えたこと*4など。)それでも、私は彼が棺に何本かの釘を打ち込んだものと思っている。彼の批判の要点をいくつかまとめさせていただきたい*5

  1. ブロックによれば、創世記1および2章におけるエデンの描写では、聖域は強調されていない。むしろ「人が王としての役割を演じる王の世界」が強調されている*6。私としては、聖域という概念があることは認めるものの、祭司制度は含まれていないと考えている*7。そう考える根拠は複数ある。祭司の座というものは、他の者が祭司から除外されているということを意味していると思われる。しかし、創世記においてそのようなことは示唆されていない。アダムの子孫全員がその父に従って祭司としての役割を果たしたと考える理由はない。もしそうだとしたら、彼らは誰を代表していたというのか。祭司制度の存在が前提としているのは、神と人の関係が良好である状態ではなく、その関係が破壊されているという状態である*8。したがって、この状態がエデンを表しているとはいえない*9
  2. 創世記3:8で神が園を「歩き回られ」(hithallek)ていたということは、園が「聖域」であるということよりも、神と人との関係について言及している*10
  3. いのちの木を守るケルビムの存在について、エデンが聖域だったことを示していると考える必要はない。ブロックは、宮殿と門に関する古代中近東の資料において、様々な要素を合成したような生き物が描かれていることを指摘している*11。こういった描写は聖域に限られてはいない。よって、こういった点で古代中近東の資料と比較をすることは意味を成さない。さらには、罪が世界に入り込む後になるまで、そういった生き物の存在は記録されていない。
  4. 神がアダムにお与えになった〔皮の〕衣は、エバにも与えられている。もしここでアダムに与えられたのが祭司の衣服だとしたら、エバにもそれが与えられたということになる。しかし、旧約聖書では女性祭司は存在しない*12宇宙神殿説の支持者たちはこういった不一致を問題としていない。しかし、堕落前の栄光ある衣服がその後動物の皮の衣に変わったということは支持されない。もしビールが主張するようにエゼキエル28:13がアダムを描写しているとしたら、このことについて説明が必要となる。
  5. 創世記3章は、エデンの園の入口が東側にあったかどうかについては沈黙している*13。そうだったかもしれないが、我々がこれを知る術はない。
  6. ブロックの指摘は、原始時代における環境の三層構造(園、エデン、エデンの外側)は、神殿の特徴と合致しないというものである。なぜなら、神殿には至聖所、聖所、庭、そしてその外側といった〔三重ではなく四重の〕構造になっていたからである。厳密な調査の下では、エデンと神殿の類比は成立しない*14
  7. エデン/小宇宙としての神殿という構造の支持者がいうように創世記1–3章を後代のテキストに照らして読むべきかどうか、ブロックは疑問を呈している。彼は次のように応答している。「宇宙神殿あるいはエデンの神殿といった概念について、創1–3章の内容は何の手がかりも提供していない。」むしろ彼は、イスラエルの神殿は、堕落によって園で失われたものを思い出させるものではないかと指摘している*15。彼は観察を続けて、創世記1–3章が神殿神学というコンセプトに基づいているのではなく、神殿神学の方が創造の神学に基づいているのだと結論づけている*16。すなわち、後代の神殿の方が失われた楽園を記念しているのだということである。
  8. エデンの描写でも宇宙の描写でも、礼拝の場としての神殿を表す言葉は使われていない*17。彼は、旧約聖書イスラエルを「聖なる地」と呼ぶとき、これによってイスラエル全体が神殿となるわけではないことを指摘している。同様に、たとえ我々がエデンを「聖域」という用語で呼ぶとしても、それによってエデンを神殿としているわけではないのである*18。さらに言えば、神はご自分の住む場所を要求してはおられない*19。個人的に付け加えておくと、こういったシナリオでは、宇宙は(悪の存在によって)汚された神殿であり、園は汚された神殿の中の聖なる神殿ということになる。

私は上記全てにおいてブロックが正しいと思っているが、エデンと神殿を結びつける考えから完全に退くべきだということではない。最も良いのは、幕屋/神殿は神の楽園の記念を含んでおり、楽園で無下にされてしまった神との繋がりを備えてくれるものと考えることである。私は以下のブロックの考えを全面的に支持している。

エデンのミニチュアとしてデザインされたイスラエルの神殿は、人が王なる神から隔てられてしまったこと、そして被造物一般も隔てられてしまったことの両方を扱っている。*20

これは決定的なポイントだと思う。隔てられたという概念は、宇宙神殿が広げられ遂には全てを包み込むという概念とは対照的である。そして、隔てとはイスラエルの物理的神殿の中心にある概念である。

我々は今後数年間で、より多くの学者が宇宙神殿説への効果的な反論を示してくれることに期待したい。

宇宙神殿と聖書の十分性

これまで示してきたように、神殿→エデン→宇宙という理論の提唱者が教えてくれるのは、聖書自体からこういった考え方を導き出すことはできないということである。また、何が何を象徴しているのかということについて、昔と今では解釈者が必ずしも一致していないこともわかった。聖書の興味深い特徴として宇宙神殿を追求し続けたり、創世記に交錯配列法的(chiasmic)なパターンが見られると考えたり、あるいは創世記の最初の方が聖書の歴史の小宇宙であると考えたりし続けている限り*21、こういった状況は変わらないだろう。残念だが、これが現状である。契約神学や新契約神学(New Covenant theology)では、終末論に関する主な著作の中で、先に述べたようなコンセプトが取り入れられている。ロジックは以下の通りである。もしも教会が神の住まわれる場所を広げつづけている「まことの神殿」であり、エデンの園ユダヤ教の物理的神殿が単にこの「終末の神殿」の先駆者であるだけだったなら、キリストが再臨された後に千年王国は必要ないだろう。あとに残るのは、新しい天と新しい地における神の神殿の完成だけである。千年期前再臨説の敗北である。しかし、ここで聖書の十分性について考える必要があるだろう。

聖書の十分性の原則というのは、キリスト教信仰において最も継続して攻撃され続けてきた教義であると考えられる。攻撃はキリスト教への批判者だけによるものだったと思いたい。だが実際には、キリスト教の支持者たちによっても攻撃されてきた。聖書が神の息吹によるものと信じている我々は皆、聖書に根差していない教えを権威あるものと認めてはならない。教理を定義する権利を持っているのは聖書だけである。そして、聖書の内容をねじ曲げなければ支持できないのであれば、その教理は成立し得ない。

創造の6日目以後の地球がエデンを除いて、あるいはエデンの中の園を除いては悪が潜む場所だったという考え方は、聖書からは全く支持されないものである。この考え方は、神が秩序や美や平和の創造主だという概念と対立するように思われる。創世記2:15で「耕させ」、また「守らせた」と訳されているヘブル語が、民数記18:5–6の「〔聖所の〕任務」と「〔天幕の〕奉仕」という言葉と関連させて考えられることがある。しかし、これらの箇所は全く文脈が異なっているのであり、エデンにおける文脈を無視してしまっていると思われる。本来の世界が(エデンの園を除いて)最初から死と罪が存在する場所だった可能性は、わずかながらも考えられる。このような立場を取ることによってのみ、宇宙神殿というモチーフを使い、神殿の境界を広げて悪魔を制圧するという考え方に至ることができる。ビールが主張しているのは、教会は「新しいイスラエル」であり、神がカオスに勝利して天に平安をもたらしたのと同じことを繰り返しているのだということである*22。彼によれば、神は次のようなものを今もたらしておられる。

カオスが罪深い人間を覆っているが、新しい創造の王国は、聖霊による御言葉によって、約束、契約、贖いを通してもたらされている。その結果、信仰者には王国を前進させるという世界的な任務が与えられ、不信仰者には裁き(敗北もしくは追放)がもたらされる。そうして、神の栄光が実現する。*23

このような考え方を支えているのは「新しいアダム」と「新しい出エジプト」というモチーフや、古代世界における類似した世界観*24である。こういった要素が全て独創的な推測によって結び合わされていった結果、置換神学的な無千年王国説の終末論に行き着くのである*25

私にとって、宇宙神殿説は明らかに聖書で教えられていない考え方である。だからこの考え方はアレクサンドリアのクレメンス、テルトゥリアヌス、バシレイオスといった教父たちの書物に見出されないのであり、また宗教改革者たちの間にも見出されないのである。我々が聖書のみに拠り頼むのであれば、この理論は大いに疑わしいものとして扱わなければならない。

聖書からの明確な教え

文脈に従って聖書の言葉に聞けば、次のような考え方が明らかになる。

  1. 神がアダムにお与えになったエデンの園は特別な場所である。なぜなら、アダムのために特別に造られた場所だからである*26
  2. 園は「良い」とされた被造世界の中で、エデン(この名は「喜び」という意味である)の東に置かれた。これは園の外が美しく平和であり、外に出て行くこともできたことを表している。アダムが造られた時、地球全体が「非常に良かった」のである。
  3. 創世記1:28–30における創造の命令は、アダムとエバおよび彼らの子孫が、園の外にまで広がっていくことを期待させるものであった。
  4. アダムの堕落によって「罪と死」が入ったというのだから、アダムが罪を犯す前は地上に罪も死もなかったのである*27。サタンはこの世界に属さない侵入者であった。
  5. エデンの園が「聖域」だと主張するための唯一の方法は、古代中近東の記述を導入すること(これは聖書の十分性という教理への侵略である)、あるいは幕屋のような聖域の概念を創世記2–3章に読み込むことである。私は前者の考え方を否定するが、後者については何かしらの関係があると思っている。
  6. エデンが聖域だったとしても、それでアダムが祭司だということになるわけではない。祭司とは神と他者の間をとりなす存在である。しかし、エデンには祭司を必要とする者がいたのだろうか? 祭司制度は堕落した世界における仲介のために必要とされるものである。よって、楽園においては祭司制度は必要とされていなかったといえる。
  7. 地を支配せよという命令(創1:26–31)には、聖域を全地へ広げるという考え方は含まれていない。地を支配下に置く(地を「従える」)という命令から分かるのは、人が神の導きのもとで治めるものとして地が創造されたということだけである。創世記が明確に述べているように地が「非常に良かった」のだとしたら、宇宙神殿説は非常に疑わしいものだということになる。

*1:Daniel I. Block, "Eden: A Temple? A Reassessment of the Biblical Evidence," in From Creation to New Creation: Biblical Theology and Exegesis (Peabody, MA: Hendricksen, 2013), edited by Daniel M. Gurtner and Benjamin L. Gladd, 3–29.

*2:Ibid, 3.

*3:Ibid, 10.)、エデンの外に猛威があったこと((Ibid, 11 and 16.

*4:Ibid, 27.

*5:Blockの批判のポイントは相当量に上る。

*6:Ibid, 5.

*7:たとえば、モーセが燃える柴の箇所でヤハウェの前に立った時、彼は祭司ではなかった。

*8:イスラエル人の間では、神殿は堕落した世界の象徴だと考えられていた。……堕落前の世界は神殿を必要とはしていなかった。」Ibid, 24–25.

*9:Blockが21–22頁で指摘しているのはこのことであると思われる。

*10:Ibid, 7–8.

*11:Ibid, 8–9. これによって、古代中近東資料との比較は諸刃の剣であることがわかる。

*12:Ibid, 12.

*13:Ibid, 16.

*14:Ibid, 16–17.

*15:Ibid, 21.

*16:Ibid, 26.

*17:Ibid, 22.

*18:Ibid, 22.

*19:Ibid, 24.

*20:Ibid, 26.

*21:Warren Austin Gage, The Gospel of Genesis: Studies in Protology and Eschatology (Eugene, OR: Wipf & Stock, 2001), 7–16. 個人的にはGageの予型論は無理があると思う。

*22:G. K. Beale, A New Testament Biblical Theology, 40.

*23:Ibid, 62.

*24:古代中近東における類似点が注意深く扱われている場合でも、そうした「古代の世界観」は聖書的世界観より前から存在していたと見なされているようである。E.g., J. Richard Middleton, A New Heaven and a New Earth, 44–46.

*25:このような見解に説教的価値(sermonic value)を与えようと試みる時、個人の想像力にどれほど依拠した見解であるかが明らかになる。E.g., G. K. Beale and Mitchell Kim, God Dwells Among Us: Expanding Eden to the Ends of the Earth.

*26:これは、世界がキリストのために造られたということと似ている(コロ1:16)。

*27:細胞と植物の退化に言及してこの見解に反対する人々がいるが、彼らは創世記の「死」という言葉(これは悪とされている)、また聖書におけるこの言葉の用法を正しく把握できていない。これらはネフェシュ(生命)を持っていないため、これらの崩壊は専門的には死ではない。〔訳者補足:繰り返しますが、Henebury氏の見解です。〕