軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

ディスペンセーション主義Q&A:「3つの特徴」編

f:id:balien:20181012220911j:plain

「ディスペンセーショナリズムQ&A」セミナーテキストに関する雑感

今や遠い昔となってしまった感が強い10連休……とりあえず次は年末がうまくいけば9連休なので、そこに希望を置いて日々を過ごしてます。

さて、そんな10連休中、ハーベスト・タイム・ミニストリーズの中川健一氏によるセミナー「ディスペンセーショナリズムQ&A」が開催されました。私は参加しなかったのですが、参加された方からテキストをお借りして、一通り目を通してみました。基本的には、チャールズ・ライリーが1965年の『Dispensationalism Today』や1995年の改訂版『Dispensationalism』で説明している*1、いわゆる「修正ディスペンセーショナリズム」についての解説がまとまっています。

前者の旧版はエマオ出版から『ディスペンセイション主義』として昨年邦訳出版されましたが*2セミナーテキストの『Q&A』の方は、未邦訳の改訂版の内容もふまえられています。特に漸進的ディスペンセーショナリズムに関する議論が取り上げられているのは大きいですね。また、ライリーの方では旧版・改訂版ともに7つのディスペンセーションについては解説されていますが、聖書的契約の方はそれほど触れられていません。ですが、『Q&A』ではそちらも概要が取り上げられています*3。ですので、『Q&A』はディスペンセーショナリズムに関して日本語でまとまっているテキストとして、非常に貴重な文献であると感じています。

さて、このブログの「Q&A」シリーズにも目を通してくださっている参加者の方とお話させていただく機会がございました。そこでお話した内容をいくつか、ここでご紹介したいと思います。

今回はチャールズ・ライリーが提唱したディスペンセーション主義の「3つの特徴」あるいは「3つの必須条件」について、次回は「ディスペンセーション」と「契約」の問題について取り上げます。

Q18:ディスペンセーション主義の「3つの特徴」について

Q:なぜこちらのブログでは、ディスペンセーション主義について「3つの特徴」を使って説明していないのですか? 「3つの特徴」を使った方が分かりやすいと思います。

A:「3つの特徴」というのは、チャールズ・ライリーが提唱した「ディスペンセーション主義の3つの必須条件」のことですね。

ライリーの3つの必須条件は、以下のものです。*4

  1. イスラエルと教会の一貫した区別
  2. 聖書の字義通りの解釈
  3. 聖書が書かれた目的は「神の栄光」であるという主張

結論としては、ここで彼が言っている内容は聖書に対する姿勢としては個人的に共感できますし、同意できます。しかし、これらを使ったディスペンセーション主義の定義は正確ではないと思っていますので、これまであまり触れてきませんでした。

具体的に、各項目について見ていきましょう。

イスラエルと教会の一貫した区別

まず、ディスペンセーション主義における「イスラエルと教会の関係性」の理解を的確に表現するには、「イスラエルと教会の一貫した区別」では曖昧さが残ります。たとえば、一部の非ディスペンセーション主義者は教会を「新しいイスラエル」や「霊的イスラエル」と捉えます。そうした風に考える人々の中には、旧約のイスラエルを「旧約時代の教会」に含めて考える者もいます。しかし、全員がそうではありません。中には、「イスラエル民族」と「教会」はイコールではない、とはっきり「区別」している者も多くいます。ただ単に「イスラエルと教会の一貫した区別」とだけ言ってしまうと、そういう意味での「区別」も含み得る表現になってしまいます。

ですので、ディスペンセーション主義者のジョン・ファインバーグやマイケル・ヴラックなどは、「イスラエルと教会の区別」に似た表現は使いつつ、他の要素も加えることで、もっと慎重な形で区別を説明しています。ファインバーグはディスペンセーション主義の6つの本質的要素を提示していますが、その中からイスラエルと教会の区別に直接関連する項目を抜き出してみます。*5

ヴラックもディスペンセーション主義の本質的要素が6つだと主張していますが、そこでイスラエルと教会の区別に直接関係する要素は以下の通りです。*7

  • 予型の存在は認められるが、イスラエル民族が教会に置き換わるという意味での予型ではない。
  • イスラエルと教会は区別される。よって、教会を新しい、または真のイスラエルと定義することはできない。
  • 救いにおいてユダヤ人と異邦人の間にある一致と、将来におけるイスラエルの民族的役割とは両立する概念である。
  • イスラエル民族はやがて救われ、回復させられる。彼らには、将来の地上的千年王国において特別な役割が与えられる。
  • アブラハムの子孫」という用語には複数の意味がある。よって、教会が「アブラハムの子孫」であるということは、神が信仰を持つユダヤ人という「アブラハムの子孫」に与えられた約束を無効にするものではない。

またつい最近、ライオネル・ウィンザーという学者が「イスラエルと教会の区別」をする神学的立場の多様性を指摘しています*8ウィンザーによれば、ディスペンセーション主義はその一部です。他にも契約神学の立場から千年期前再臨説を支持するバリー・ホーナー*9、ウェスレー派の組織神学者であるケンダル・ソーレン*10、そしてメシアニック・ジュー神学(メシアニック・ジュダイズム)が、イスラエルと教会を区別し、イスラエルに特別な将来があると信じる立場に含まれます*11。これらの立場では、イスラエルと教会の関係性の理解に違いはあります。しかし「イスラエルと教会の一貫した区別」という表現にこだわる限り、これをディスペンセーション主義者だけの特徴とするのは難しいと思います。

聖書の字義通りの解釈

次に、「聖書の字義通りの解釈」についてですが、ライリーも中川氏も、「字義通りの解釈」と「比喩的解釈」を対比させて、「一貫した字義通りの解釈をしているのはディスペンセーション主義だけだ」と主張しています。しかし、実際の問題はもっと複雑なものです。ディスペンセーション主義者のジョン・ファインバーグは、ディスペンセーション主義と他の立場で異なっているのは「字義通りか字義通りでないか」ではなく、「何が字義通りの解釈を構成しているのか」の理解であると指摘しています*12。そして、「一貫した字義通りの解釈」という表現とその説明の内容について、「単純すぎる」と批判しています*13。何が問題であるかは、以前ブログの記事で考察したことがありますので、詳しくはそちらをご参照ください。

「字義通りの解釈」についてのあれこれ(前編) - 軌跡と覚書

「字義通りの解釈」についてのあれこれ(後編) - 軌跡と覚書

ともかく、これについても「字義通りの解釈」と表現するだけでは、ディスペンセーション主義を定義するのは難しいでしょう。

聖書が書かれた目的は「神の栄光」であるという主張

最後に、「聖書が書かれた目的は『神の栄光』であるという主張」についてです。ライリーは、この特徴は「聖書の統一原則」に関するものだと言っています*14。つまり、旧新約あわせて一つの書である聖書について、全巻通して貫かれているテーマは「神の栄光」だというのですね*15

これもまた、表現が問題です。「聖書が書かれた目的は『神の栄光』である」と言っただけでは、ディスペンセーション主義だけの特徴とは到底いえません。たとえばウェストミンスター信仰告白2.1では、神が「ご自身の栄光のために、すべての物事を営み」と、また2.2では神が「ただご自身の栄光を、それら[被造物]の中に、それらによって、それらに対して、またそれらの上に表される」とはっきり告白されています*16。また、聖公会カルヴァン主義に属するJ・I・パッカーは、「神の目的はご自身の栄光である」と断言しています*17

ライリー自身、ディスペンセーション主義以外の立場(特に契約神学の伝統を持つ改革派神学)でも「神の栄光」が強調されていることを認めています*18。彼が実際に言わんとしているのは、「神の栄光」を神の目的の中心と考えるにしても、その中で救いの計画だけにフォーカスを当てるのは良くないよ。神の計画は霊的な救いも含む幅広いものでしょう。その点、契約神学よりもディスペンセーション主義の方が包括的に捉えているのだよ、ということです。これ自体は的確な理解だと思うのですが、まるでディスペンセーション主義だけがそうした理解を持っているかのように考えるのは正確とは言い難いです。だって、ウェストミンスター信仰告白の時点で「ご自身の栄光のために、すべての物事を営み」とはっきり言われているのですから。

ライリーは、自身の主張を補強するため、ジョン・ウォルヴォードというディスペンセーション主義者の著作から引用しています。

被造世界のすべての出来事は、神の栄光を現すことを意図されている。契約神学者たちの過ちは、彼らが神の目的の多くの側面を結合して、恵みの契約の成就という一つの目的にしていることである。論理的観点からいうなら、これは還元的過ちと言える。すなわち、全体の一側面を決定的要素にしているのである。*19

興味深いことに、ウォルヴォードはライリーが引用した本の同じページの中で、次のようにも言っているのです。

この説明は、神が統治者であり、全ての御心はご自分の栄光を現すことに繋がるという、カルヴァン主義の基礎的な主張を完全に支持するものである。*20

ですので、ウォルヴォードやライリーらの主張というのは、ディスペンセーション主義特有のものというより、改革派の伝統に則った主張と見なす方が正確なのだと思います*21

さて、このテーマは大変重要なので、私がここで申し上げていることが誤解されないよう、もう少し詳細を続けさせてください。次に考えたいのは、他のディスペンセーション主義者が「聖書の統一原則」についてどう考えてきたのかということです。

実際は、神の目的を「神の栄光」にすることと、「聖書の統一原則」を「神の栄光」とすることには、もっと入り組んだ議論が必要になります。ライリーの考えでは、神の目的は栄光を現すことであって、栄光を現すこと自体も「聖書の統一原則」とされています。しかし、目的を「神の栄光」に置きつつ、その方法に関して何か聖書に一貫した原則が見られるなら、それが「聖書の統一原則」になります。あるいは、何かAというテーマがあって、そのテーマが聖書に一貫して見られ、しかも神の栄光を現すことに繋がるなら、そのAというテーマが「聖書の統一テーマ」ということになります。

では、ディスペンセーション主義者の主張を見てみましょう。

まず、ライリーは非ディスペンセーション主義者が「聖書の統一原則」を救いの計画とすることを批判しましたが、一部のディスペンセーション主義者はまさしく神の救いの計画(贖いの計画とか救済史ともいえます)を「聖書の統一原則」や「聖書の統一テーマ」としています。

たとえば、ライリーの少し前の時代から活躍していたドイツのディスペンセーション主義者であるエーリッヒ・ザウアーは、人類の歴史の3大テーマが「創造」「贖い」「世界の完成」だと言っています*22。彼はその中でも、特に贖いの重要性を強調しているのです*23

また、漸進的ディスペンセーション主義者のクレイグ・ブレイシングは、神の計画には複数の側面があることを認めつつ、その軸は贖いの計画にあると主張しています*24。どちらかといえばライリーのような修正ディスペンセーション主義寄りの立場を取っているグレン・クライダーも、「聖書の物語とは贖いの物語」であり、「神の贖いの御業が神の栄光を表す」のだと主張しています*25

さらに、ディスペンセーション主義者の中には「神の御国」や「御国の計画」こそが聖書の統一原則/テーマだと主張する人々もいます。ライリーと同時代の修正ディスペンセーション主義者であるドワイト・ペンテコストは「聖書の大部分を占めているのは神の御国の計画である」と言っています*26。同じくアルヴァ・マクレインも、「神の御国は聖書全体の中心にある壮大なテーマである」と言っています*27

漸進的ディスペンセーション主義者のロバート・ソウシーも、聖書の統一原則を特定する難しさを認めつつ、「『御国』が聖書の歴史における神の御業を完全に包含できる最良の概念だと思う」と考えています*28

修正的立場と漸進的立場の間を取る者の場合では、ヴラックがマクレインやソウシーの見解を支持しています*29。また、ユージーン・メリルは、旧約聖書の中心にある神学的テーマを「神の支配」、すなわち「神が王であること」としています*30。これは、ペンテコストやマクレインのように神の御国を聖書の中心に据えつつ、より神ご自身にフォーカスを当てた形の主張だといえるでしょう。

さらに言えば、ライリー自身、「千年王国」こそが「神のご計画の偉大なゴール」だと言っています*31。これはペンテコスト、マクレイン、ソウシー、メリル、ヴラックらの主張とほとんど同じです*32。結局のところ、ライリーは神の計画の究極的目的は「神の栄光」であるとしつつ、そこに向かっていく歴史(聖書の物語)の統一的テーマは神の王国(千年王国)に見出しているのです。

以上のことから、全てのディスペンセーション主義者が「聖書の統一原則」を「神の栄光」にしているというライリーの主張は、正確さを欠いていると思われます。他のディスペンセーション主義者が「神の栄光」を軽んじているということではありません。私の知る限り、そのようなディスペンセーション主義者はいません。しかし、このことがディスペンセーション主義と他の立場をはっきり区別する「必須条件」であるとするのは、はっきり言えば、誤っているとさえいえると思います。

この問題を巡って、ヴラックは次のように結論づけています。

しかし、ライリーの言葉遣いは適切とは言い難い。すべての非ディスペンセーション主義者は神の栄光を真剣に捉えている。彼らにとっては、ライリーが「ディスペンセーション主義者は非ディスペンセーション主義者よりも神の栄光を重んじる」と主張しているように見えるだろう。非ディスペンセーション主義者もまた神の栄光を大いに尊重しているのだから、これでは牛の前で赤い旗を振るようなものである。よって、ライリーが意図したことは正しいのだが、それを説明する方法は賢明ではなかったといえる。*33

結論

長くなってしまいましたので、今回の質問に対する結論をまとめておきたいと思います。

ライリーが提唱した「3つの必須条件」は、それをそのままディスペンセーション主義全体に当てはめて、この立場だけの特徴とするのは無理があるといえます。

これは、ライリーの考えが聖書的に誤っていると言っているのではありませんイスラエルと教会を区別することも、聖書全体に「字義通りの解釈」を適用すべきと言っていることも、また神の目的がご自分の栄光を現されることにあるというのも、私は聖書的に支持できると考えています。しかし、これはあくまでライリーやそのフォロワーの聖書に対するアプローチを表明しているに過ぎないのです。

特にイスラエルと教会の区別や字義通りの解釈については、これを具体的にどう考えていくのか、まだ発展の余地(または検証の余地)が残されているでしょう。(それを聖書本文から追求していくのが私自身の関心事でもあります。)

そして、神の栄光の強調については、これをディスペンセーション主義だけの特徴と考えるのではなく、むしろ他の神学的立場を取る人々と共有し、一致することのできる重要な要素だと考えるべきではないでしょうか。

さて、次回は「ディスペンセーション」および「契約」というポイントでディスカッションした内容をお分かちしたいと思います。
ちなみに、今回と次回で扱う内容は、今チマチマまとめている別のテーマともかなり被っておりますので、そちらのシリーズでもっと詳しく、また包括的に取り上げたいと思います。夏までにはアップし始めたいと思っているところですが、どうなることやら。

*1:Charles C. Ryrie, Dispensationalism Today (Chicago: Moody, 1965); idem, Dispensationalism: Revised and Expansed (Chicago: Moody, 2007).

*2:チャールズ・C・ライリー『ディスペンセイション主義』前田大度訳(エマオ出版、2018年)。

*3:主な契約にも触れている修正ディスペンセーショナリズム側からの著作としては、未邦訳ですが、レナルド・シャワーズ(Renald Showers)のThere Really is a Difference! (Bellmawr, NJ: Friends of Israel Gospel Ministry, 1990)もよくまとまっています。

*4:ライリー『ディスペンセイション主義』43–48頁; Ryrie, Dispensationalism, 45–48. 表現は中川健一『ディスペンセーショナリズムQ&A』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2019年)23–26頁より。

*5:John S. Feinberg, "Systems of Discontinuity," in Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments, ed. John S. Feinberg (Wheaton, IL: Crossway, 1988), 71–85. 訳および表現は2016年フルクテンバウム博士セミナーテキスト『ディスペンセーショナリズムとは何か─体系的な聖書理解を求めて─』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2016年)12頁より。

*6:Feinbergは「ユダヤ人」という言葉に民族的意味、政治的意味(ユダヤの国の市民、あるいはユダヤ教徒という意味)、霊的意味(民族的かつ霊的にすくわれているユダヤ人)があると認めている(Ibid., 72)。

*7:Michael J. Vlach, Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths, revised and updated ed. (Los Angeles: Theological Studies Press, 2017), 30–50.

*8:Lionel J. Windsor, Reading Ephesians and Colossians After Supersessionsim: Christ's Mission through Israel to the Nations (Eugene, OR: Cascade Books, 2017), 6.

*9:Barry E. Horner, Future Israel: Why Christian Anti-Judaism Must Be Challenged, NAC Studies in Bible and Theology, vol. 3 (Nashville, TN: B&H, 2007).

*10:Kendall Soulen, The God of Israel and Christian Theology (Minneapolis: Fortress, 1996).

*11:Windsor, Reading Ephesians and Colossians After Supersessionism, 6–17.

*12:Feinberg, "Systems of Discontinuity," 74.

*13:Ibid., 73.

*14:『ディスペンセイション主義』103–11頁

*15:前掲書、47–48頁。

*16:引用は日本キリスト改革派教会ホームページより。

*17:『聖書教理がわかる94章──キリスト教神学入門』篠原明訳(いのちのことば社、2012年)84頁。

*18:『ディスペンセイション主義』110頁。

*19:John F. Walvoord, The Millennial Kingdom (Findlay, OH: Dunham, 1959), 92. 引用はライリー『ディスペンセイション主義』48頁より。

*20:Ibid. 引用はCraig A. Blaising, "Development of Dispensationalism by Contemporary Dispensationalists," Bibliotheca Sacra 145 (July 1988): 268より。

*21:Blaising, "Development of Dispensationalism by Contemporary Dispensationalists," 267.

*22:Erich Sauer, The Dawn of World Redemption: A Survey of Historical Revelation in the Old Testament, trans. G. H. Lang (Grand Rapids: Eerdmans, 1951), 15.

*23:Ibid., 192.

*24:Craig A. Blaising and Darrell L. Bock, Progressive Dispensationalism, paperback edition (Grand Rapids: Baker, 2000), 47.

*25:Glenn R. Kreider, "What Is Dispensationalism?," in Dispensationalism and the History of Redemption: A Developing and Diverse Tradition, eds. D. Jeffrey Bingham and Glenn R. Kreider (Chicago: Moody, 2015), 19.

*26:J.Dwight Pentecost, Things to Come: A Study in Biblical Eschatology (Grand Rapids: Zondervan, 1958), Kindle ed., location 7703ff.

*27:Alva J. McClain, The Greatness of the Kingdom: An Inductive Study of the Kingdom of God (Winona Lake, IN: BMH, 1959), 3–4.

*28:Robert L. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism: The Interface Between Dispensational and Non-Dispensational Theology (Grand Rapids: Zondervan, 1993), 27.

*29:Michael J. Vlach, He Will Reign Forever: A Biblical Theology of the Kingdom of God (Silverton, OR: Lampion Press, 2017), 21.

*30:Eugene H. Merrill, Everlasting Dominion: A Theology of the Old Testament (Nashville, TN: B&H, 2006), 646–48.

*31:『ディスペンセイション主義』110–11頁。

*32:ただしペンテコスト、マクレイン、ソウシー、ヴラックらは、黙示録21–22章の永遠の御国までを含めた「神の御国」が聖書の統一テーマであるとしている。

*33:Vlach, Dispensationalism, 24–25. 強調=引用者。