軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

ディスペンセーション主義Q&A:これまでの経緯と心境

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これまで「ディスペンセーション主義の3つの特徴」、「7つのディスペンセーション」、「8つの聖書的契約」と、最近の日本のディスペンセーション主義者にとって代表的といえる3つのテーマについて、私の考えを申し上げてきました。こうした最近の「Q&A」記事は、ハーベスト・タイムの『ディスペンセーショナリズムQ&A』参加者の方との交わりにおいて触れることがあったので、そこでお話したことを補完しながらまとめてきたものです。

以前、ある記事で「がっちりとした修正ディスペンセーション主義」に立つ中川健一氏とは、「少し理解が違うところも出てきた」ということを申し上げました。その後Twitterで「理解が違う内容と、そこに至るまでの経過、そして心の内を教えてください」という質問をいただいたことがありました。

理解が違う主な点については、最近の記事で取り上げて来れたかと思います。修正ディスペンセーション主義が嫌いだから理解を歪めてきたわけではありません。批判したくて批判しているわけでもありません。今回、経緯や心の内をお分かちするなかで、ご理解いただければ幸いです。

Q21:今の理解に至るまでの経過と心境

Q21:ディスペンセーション主義について今のような理解になるまでの経過、そして心の内を教えてください。

A:これまでの経緯と心境をお伝えするのは、大変難しいです。これまで取ってきた聖書研究ノートや、ノートを取った時の個人的状況、そうしたことを全部公開しなければ、伝えきれないように感じています。多くの人との出会い、直接的交わり、読書、個人的状況下での祈り、そういったことが聖書研究やデボーションと絡み合い、今の聖書理解や神学理解につながっています。

ですが当然、それを全てお伝えすることはできません。とりとめのない形になると思いますが、質問にお答えするに当たって、主にディスペンセーション主義者との直接的&間接的交わりに関する証しのようなものをお分かちしたいと思います。

私のルーツ

このQ&Aシリーズでは、中川健一氏やアーノルド・フルクテンバウム氏の著作に何度か言及してきた上で、時には反対意見も述べてきました。ですから、ここでまず申し上げておかなければならないことがあるように感じています。私は、中川健一先生に大変感謝していますし、今でも敬意を抱いています。

私は「ハーベスト聖書塾」で学び、修了しました。ここで聖書の全体像を、また組織神学を学んだことが、今の聖書理解のみならず今の私自身に繋がっています。何よりも、私の聖書観が自由主義的なものから福音主義の形に変わったのは、聖書塾で学んでいる最中でした。ですからあの学びがなければ、今の私はありません。

また、中川先生は賜物のある、とても優れたメッセンジャーであり、神様がその賜物を広く用いてくださっていると思います。少なくとも、私はその賜物を通して、今も祝福をいただき続けています。

フルクテンバウム先生に対しても、感謝が尽きることはありません。直接お会いしたのは、4回参加したセミナーだけです。言葉を交した時間も、セミナー後に質問をしたり、短く感謝をお伝えしたりと、ほんの僅かなものです。それでも私は彼に感謝していますし、尊敬しています。彼がもう一人の「師匠」だと心から思っています。

まず彼がいなければ、中川先生の聖書塾もなく、今の私もなかったかもしれません。

また、神学書を原書で読み始めるきっかけになったのが、フルクテンバウム先生の『Israelology』(邦訳『イスラエル学』)と『The Footsteps of the Messiah』でした。この2冊でイスラエルを軸とした聖書神学を学び、終末論をじっくり学んだのが、その後の私にどれほど影響を与えたことか。何よりも彼の著作を通して、歴史を支配しておられる神の偉大さ、そしてご計画の成就していく先に輝く神の栄光の素晴らしさを感じさせていただきました。神学を独学し始めてすぐに神の偉大さに感嘆したこの経験が、今の神への信頼に深く繋がっていると信じています。

私の今の聖書研究や神学の学びは、中川先生とフルクテンバウム先生を通して教わってきたものの延長線上にあります。聖書塾を受講でき、フルクテンバウム先生のセミナーにも参加できたのは、私にとってかけがえのない経験なのです。

ディスペンセーション主義者たちへの敬意

他にも、立場の種類を問わず、多くのディスペンセーション主義者の先輩たちに感謝しています。

私が神学書を読み始めた時期は、大学と大学院で研究のメソッドを教えてもらっていた時期でもありました。専攻は工学でしたが、そこで教わったのは、文献調査はひとつの文献で挙げられている参考文献から、可能な限りどこまでも広げていけということでした。たとえ工学であっても、それを研究するときの視野の広さを決める要素は、基礎理論や、実験や、現象観察だけではない。文献調査も重要な要素のひとつなのだと。

私は指導教員のひとりから賜ったこの教えを、趣味の神学の勉強にも応用しました。それで、最初に触れたフルクテンバウム先生の著作で挙げられていた参考文献を皮切りに、多くのディスペンセーション主義者の著作に触れていきました。

特に、フルクテンバウム先生の師でもあるチャールズ・ライリーの著作。このシリーズでさんざん批判してきましたが、彼からもどれだけ多くのことを教えられたかわかりません。なんだかんだ言って、彼の『Dispensationalism』によって私自身のディスペンセーション主義理解が体系づけられたのは否めません。また、彼の『Basic Theology』で組織神学を学び直していた時期は、本当に楽しかったですし、その楽しさによって聖書を読む喜びがさらに増しました。

他にもルイス・シェーファー、エーリッヒ・ザウアー、アルヴァ・マクレイン、ジョン・ウォルヴォード、チャールズ・ファインバーグとポール&ジョン・ファインバーグ親子、ロバート・トーマス、ロバート・ソウシー、クレイグ・ブレイシング、ダレル・ボック、ブルース・ウェア、トーマス・アイス、ランダル・プライス、マイケル・ライデルニック、マイケル・ヴラック……。これは、感謝と敬意を感じているディスペンセーション主義者のリストの、ほんの一部です。

こうしたディスペンセーション主義者たちの中でも特に印象深い方々が3人います。1人目は、トーマス・アイス(リバティ大学教授)です。ディスペンセーション主義についてオンラインの文献調査を始めた時、最初に出会ったのが彼の論文でした。卒業論文の準備をしていた頃、合間を見つけてはリバティ大学のアーカイヴで公開されている各種論文をむさぼるように読みました。彼からは、ライリーから教わったディスペンセーション主義についての理解や、ウォルヴォードやフルクテンバウムから教わった終末論の理解について、より深めてもらうことができました。

2人目は、アルヴァ・マクレイン(1888–1968;グレイス神学校創設者)です。色々なディスペンセーション主義者が、彼の『The Greatness of the Kingdom』を必読書として挙げていました。ならば読まねばと思って手に入れた本書からは、「神の国」というテーマの奥深さを教わりました。それに、聖書塾のテキストを除けば、創世記から黙示録までの聖書全体をカバーするテキストに触れたのは、これが初めてでした。御国というテーマで展開される包括的な聖書神学に、ワクワクしながらページをめくっていったのを覚えています。今でも調べものをする中で本書を開くと、ワクワクしながら、つい先へ先へと進めていってしまいます。

3人目のマイケル・ヴラック(マスターズ神学校教授)との出会いは、もうはっきりと覚えています。同じ教会に集っていた友人のN・K君がネットで調べて、置換神学の分析や反証に関してはヴラックの『Has the Church Replaced Israel?』という本がよさそうだと教えてくれました。これまでの学びの中でも、『イスラエル学』や『THe Footsteps of the Messiah』の次に決定的な出会いだったと思います。(ですから、教えてくれたK君にもすごく感謝しているのです。)

イスラエルを巡る神学的立場を解釈論的に検証している『Has the Church Replaced Israel?』は、『イスラエル学』で教わったことを方法論の面から補強してくれました。それだけではなく、このテーマに関する用語の選び方や使い方についてもレクチャーしてもらうことができました。

ヴラックの著作で次に読んだのが、このシリーズで何度も引用してきた『Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths』です。これを読んだ頃には漸進的ディスペンセーション主義の著作にも、少しばかり目を通すようになっていました。ディスペンセーション主義について視野を広げつつあり、結果としてこの立場の最大の特徴は終末論と教会論だろうと思うようになっていた頃、この本と出会って我が意を得たりと思い、感動したことをよく覚えています。

最近で言うと、ヴラックがマクレインのように御国を軸にして聖書全体からの聖書神学を展開した『He Will Reign Forever』は圧巻でした。600ページ超えの大著ですが、その読みやすさ、またロジックの追いかけやすさから、一気に読み進めてしまいました。そして、すぐに2週目に入りました。これは21世紀におけるマクレイン『The Greatness of the Kingdom』のアップデート版です。ディスペンセーション主義者にとっての新たな必読書といっても過言ではないと思っています。たしかポール・ヘンブリーも同じようなことをブログで書いていたと思いますが、ディスペンセーション主義者による聖書神学書で、神学的立場を問わず人に薦められる本がやっと出版された! と思いました。立場を問わず、創世記から黙示録まで「聖書の全体像」を学びたいと思っておられる方には、ぜひともオススメしたい1冊です。

話がずれました。正直言って、ごく一部を除けば、ディスペンセーション主義者の著作では、学術書として十分な本というのはそう多くありません。多くの著作は、終末論──特に聖書預言を巡る解釈論争や、預言解釈自体に集中しすぎています。でも、私は彼らの著作の多くに感動を覚えるのです。それは、彼らが御言葉への情熱をもって取り組んでいるからだと思います。預言解釈に集中していたとしても、彼らの多くは、そこから歴史を支配しておられる神の主権をほめたたえ、イエス・キリストによって神の子とされた喜びを表明しています。時には、あまりアカデミックな書き方じゃないからこそ、彼らと喜びを共有し、一緒に神を賛美することができるのだとまで思います。

ディスペンセーション主義者だけがそういう情熱を持っていると言いたいわけじゃありません。違う立場の著作からだって、その情熱に燃やされ、神をほめたたえた経験は私にもあります。クリスチャンの中には、日々御言葉を読んで心を燃やされる中で、信仰書や神学書によってその火がさらに燃えあがったという経験をされた方も少なくないと思います。私の場合、ディスペンセーション主義者の著作を通して、その経験を何度もしたということなのです。私の場合、神は今の私を形成するために、これまで出会ったディスペンセーション主義者ひとりひとり、その著作一冊一冊を用いてくださいました。ここに感謝を覚えないわけがありません。

ディスペンセーション主義を見直すようになったきっかけ

ディスペンセーション主義者の著作を読むようになった頃というのは、自分にとってこの立場を見直す必要があると思い始めていた時期でした。

いつか書いたとおり、福音主義神学としては中川先生から教わったディスペンセーション主義的な考え方しかよく知らなかった頃、キリスト者学生会に参加したことで、これだけが福音派ではないのだと体感的に知ることができました。そこで兄弟姉妹と交わるうちに、「自分の聖書理解は間違っているのではないか」とすごく不安になりました。これが、ディスペンセーション主義やそれまで学んできた聖書理解についても検証しないといけないと思わされた、最初のきっかけでしたね。

そのために、ディスペンセーション主義者の著書と並行して、非ディスペンセーション主義者の著作も大量に読みました。ただし、勉強していく中で今も意識して注意しつづけているのは、とにかく聖書本文から納得できることは何なのかを追求していこうということです。

その結果、キリスト教にとって非常に重要なこと──たとえば三位一体、イエス・キリスト受肉、信仰と恵みによる救いなど──について確信を深められましたし、こういった大事なことを兄弟姉妹たちと共有できていることが、とても嬉しく感じられるようになりました。

聖書を読む姿勢についても同様です。聖書をその背景と文脈をふまえて読むことの大切さは、時にはそれを批判する方もおられますが、今でも多くの兄弟姉妹と共有できています。

何よりも、神学的な考え方が違っていたとしても一緒に神の栄光をほめたたえることができるのだと、実際の交わりによって、読書によって、そして聖書を読むことによって教えられました。

しかし同時に、特に「ディスペンセーション主義的」と見なされることの多い教理について、確信を深め、今も深め続けています。

たとえば、旧約だけではなく新約でも、イスラエルという民族的存在が神のご計画の重要な位置を占めているということ。

たとえば、イスラエルには将来の民族的救いと民族的回復が約束されており、それが将来成就するという希望。

たとえば、イエス・キリストが戻ってこられ、ご自身の王国を地上にお建てになるということ。

たとえば、将来もたらされる「主の日」(患難時代)の前に、信者は天に引き上げられるということ。

──以上のような経緯をたどって、ディスペンセーション主義に関わる教理の確信を深め、また他の兄弟姉妹たちと共有できる事柄も認識していきました。それとともに、これまで(主に中川先生やフルクテンバウム先生から)教わったディスペンセーション主義そのものに関する理解については、「違うのではないか」と感じる点も出始めてきました。

特に感じ始めたのは、自分が確信を深めた「ディスペンセーション主義的」教理については、「7つのディスペンセーション」や「8つの聖書的契約」という枠組みにこだわらずとも、十分説明できるじゃないかということです。これはエーリッヒ・ザウアー、マクレイン、ヴラックらの著作によるところが大きいですね。彼らの著作では「ディスペンセーション」という概念は最低限しか使われていませんでした。というか、彼らの聖書神学を形成するメイン要素は「ディスペンセーション」ではありませんでした。また、彼らはエデン契約やアダム契約、土地の契約を主張していません。にも関わらず、私は彼らの著作から、これまで教わってきたイスラエルの救いと回復、千年期前再臨説などについて理解を深めることができました。

正直に言うと、エデン契約やアダム契約については、教わった当初から「なぜ契約なのか?」という疑問がありました。土地の契約についても、申命記29–30章の主なメッセージは民にモーセ契約の遵守を呼びかけることにあるのに、なぜこれが独立した無条件契約といえるのか、納得したことはありませんでした。しかし「先生」が言うからには、自分には分からない専門的見地からは否定できない枠組みなのだろうということで片付けていたのです。

だけど、そういった枠組みを使わずとも、今まで教わり確信を深めてきた御言葉の理解そのものを説明することができる。全く当たり前のことなのに、私にとっては目から鱗だったのです。

この経験がきっかけとなって、私は今まで教わった「枠組み」そのものにこだわるのではなく、あくまで聖書から真理を追求し、確信したことは御言葉から直接説明する方にこだわるようになりました。

おわりに

細部ではなく全体を振り返ってみますと、私はこれまでの聖書解釈を変えたというよりも、教理を体系づけていくいくつかの「枠組み」を変えた、あるいはその「枠組み」にこだわらなくなったということです。中川先生から、またフルクテンバウム先生から教わってきたことを、何から何まで否定しているのではありません。確かに一部の解釈については同意できないところもありますが、全体的には教わった理解について確信を深めたことの方が多いと思います。

考え方が変わった一番大きなポイントは、今まで教わってきたのはディスペンセーション主義という伝統に属するひとつの立場だと認識するようになったことです。ディスペンセーション主義のことも少しは相対的に見られるようになってきたということでしょうか。ライリーの必須条件や7つのディスペンセーション、8つの契約といった枠組みが揃ってこそ「ザ・ディスペンセーション主義」なのではありません。こういう考え方は、これまでの記事で検証してきたとおり、この立場の歴史から見て誠実ではありません。

カトリック自由主義との邂逅を経て、ディスペンセーション主義は私の新たなルーツになりました。このルーツそのものについても見直していく中で、私は事実を事実として把握したいと思っているだけなのです。

私たちには、先輩たちが御言葉の理解を深めようと努めてきた成果と軌跡が、豊かに与えられています。御言葉を教える上で教師たちをも用いられる主は、先輩たちが残したものをも用いることがおできになるはずです。私たちは先輩たちの遺産を受け、時には聖書本文から、時には先輩方の背後にある歴史からも検証し直していくことをも通して、ますます豊かに御言葉の理解を深めていけると思います。そういう先輩たちの軌跡を追いかけていく営みが「歴史神学」です。中川先生は、歴史神学について次のように言っています。

歴史神学は、神学的教理の発展を、歴史的に振り返りながら論じる学問です。歴史を知ることは、今を知ることにつながります。(『ディスペンセーショナリズムQ&A』7頁;強調=引用者)

私は、ディスペンセーション主義の先輩たちの「歴史神学」をなるべく正確に掴みたいのです。そうやって私が立っている「今」までの軌跡を知ることが、先輩たちの教えを検証し、また他の立場の兄弟姉妹たちとの関わりを深めていくためにも益になると信じています。そして、私が立っている「今」は、同じくディスペンセーション主義という立場を共有する方々の「今」でもあるのです。ですから私は、ここ最近のシリーズを通して、「今」に至るまでの先輩たちの軌跡をシェアしていくことは決して無駄ではないと信じています。

また、歴史理解だけではなく、聖書の解釈で中川先生やフルクテンバウム先生と意見が違うところが出てきても、それが彼らから教わってきた「ヘブル的視点」──聖句の文脈を重視する読み方から逸脱した結果だとは思っていません。むしろ、今の私の聖書研究は、中川先生たちから教わってきた学びの延長線上にあります。そして、この読み方を追求しようとして、意見の違いが出てきたのだと思っています。

ですから、結果として聖書解釈やディスペンセーション主義そのものに関する理解が違ってきたとしても、私としては聖書塾で教わってきた神学の在り方、そして教わってきた聖書に対する姿勢を貫きたいのです。

中川先生から教わったことでとても印象に残っているもののひとつは、「聞いたことを鵜呑みにせず、自分で聖書を調べ、考えるように」という学びのスタンスです。私は何も斜に構えて聖書を読んで、無闇矢鱈に難しくしたいわけではありません。聖書が教えていることをもっとよく理解したいから、御言葉そのものを真摯に読むと同時に、教えていただいた解釈もできる限り吟味していきたいのです。(それで、読み方が「ねちっこい」と言われたこともありましたがf^_^;)せっかく教えていただいたディスペンセーション主義についても、その深めていくため、「鵜呑みにせず」吟味していきたいのです。

健全な神学は、私たちを神への従順に導きます。(『ディスペンセーショナリズムQ&A』4頁)

聖書塾で、またメッセージの中で、中川先生からは何度もこういった言葉を聞いてきました。今も、聖書を学び、ディスペンセーション主義についても学ぶ中で、この言葉を忘れないようにしたいと願っているところです。