軌跡と覚書

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漸進的契約主義(PC)と聖書的契約

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新しい契約神学(NCT)と聖書的契約 - 軌跡と覚書

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漸進的契約主義(PC)の特徴と契約論

 伝統的な契約神学の修正を試みるもうひとつの聖書神学的立場が、漸進的契約主義(Progressive Covenantalism; 以下PC)である。この立場は、伝統的契約神学とディスペンセーショナリズムの両者の長所を継承し、かつ両者の短所を克服する「代替的見解」として提唱されたものである*1

 「漸進的」(progressive)という語は、「神の啓示が時間とともに展開されてきたという性質を強調」している。一方で「契約主義」(covenantalism)という語では、神の計画が諸契約を通して展開されてきたのであり、全ての契約がその成就/終着点をキリストに見出すのだという概念が強調されている*2

 救済史の理解に関して、Peter J. Gentry and Stephen J. Wellumは、「恵みの契約」という概念によって神の計画の統一性を強調する伝統的契約神学や、ディスペンセーションという概念によって歴史の区分を強調するディスペンセーショナリズムと比較して、自分たちの考えを次のように述べている。

より正確なのは、新しい契約において成就する神のひとつの計画について、その漸進的啓示の段階として、諸契約の複数性という観点(たとえばガラ4:24; エペ2:12; ヘブ8:7–13)から考えることである。*3

 彼らは、複数の契約という形で漸進的に啓示されてきた神の計画が、新しい契約において完結すると考えることで、神の計画の連続性(continuity)を正確に捉えることができると主張する。一方では、契約の複数性を正しく捉えることにより、神の計画には様々な神学的問題について非連続性(discontinuity)が存在することも正確に認識できるという*4

 この陣営が、以前からあった新しい契約神学(NCT)という名称ではなく、あえてPCという名前を用いるのはなぜなのか。主な理由は、PCを主張するWellumらが、NCTの提唱者たちと幾つかの点で見解を異にしているからである*5。彼らが容認できないNCTの見解の例として挙げているのは、創造の契約の否定、教会生活におけるモーセの律法の教導的役割を低く見ていることなどである。またPCの主張者の一部は、NCTが(ディスペンセーショナリストなどと同様に)諸契約を無条件/条件付契約という枠組みで区別していることに反対している。よって、Wellumらは「NCTに立つ者の中には我々の主張に共感している者もいる」ことを認めつつ、「それでも『漸進的契約主義』というラベルを用いることを選んでいる」のである*6

PCと贖いの契約

 NCTと同様な流れでPC陣営の主張を見て驚かされるのは、Wellumが贖いの契約という概念に対して、NCTで見られるような強固な反対を示していないことである。むしろ、彼は次のように述べている。

改革派神学は、「贖いの契約」(pactum salutis)、あるいは父、子、聖霊の間における神の永遠の計画という表現を使うことで、神の位格間における契約関係という真理を正確に捉えようと試みてきた。*7

 Wellumは、神が諸契約を通してご自分の計画を啓示して来られたことから、聖書の神が契約の神であるということの重要性を指摘している*8。したがって、彼は聖書が神の位格間の契約関係を明示していないことは認めつつも、「神のそれぞれの位格の間にある関係性は、まさしく契約的であると考える十分な理由がある」と結論づけているのである*9

 しかしながら、Gentry and Wellumは、神の計画/救済史の一体性を表現するうえで、基本的には贖いの契約という表現を用いていない。彼らがあくまで強調しているのは、神が諸契約を通してご自分の計画を啓示して来られたという点である。

PCとわざの契約

 PCでは、契約神学と全く同じ形のわざの契約の存在は肯定されていない。しかしGentry and Wellumは、創世記1–3章において神と人との間に契約関係が見られることを認めている。そして、伝統的契約神学者のO・パーマー・ロバートソンが提唱しているのと同じ「創造の契約」という名称を用いて、創世記1–3章に見られる神と人との関係性全体がひとつの契約であると主張している*10。しかし、ロバートソンが創世記1–2章における神と人との関係性を「創造の契約」、創世記3章における関係性を恵みの契約の一部である「アダム契約」に区別していたのに対して、Gentry and Wellumは、あくまで創世記1–3章の関係性全体がひとつの契約だとしている。

 ノア契約(創6–9章)以前にも契約という概念が見られることについて、Gentryによる釈義的説明は、創世記1–2章に集中している*11。創世記3:14–19における蛇、エバ、アダムに対する宣告については、どのように捉えるべきかは明示されていない。おそらく、これらの宣告は創世記1–2章の契約への違反に対する裁きとして見られているのだろう*12。Wellumは、その裁きの中でも恵みの要素(3:15における「女の子孫」の約束)が与えられていることの重要性を指摘している*13

PCと恵みの契約

 PC陣営では聖書的契約の複数性が認められているが、これらは新しい契約において包括的に成就するものとして捉えられている*14。彼らは、伝統的契約神学者のように、聖書の歴史的諸契約がある一つの契約の「段階」であるとは見なしていない。その点では、彼らは伝統的契約神学の「恵みの契約」という概念を否定しているということになる。しかし、すべての契約が新しい契約において成就するという考え方や、NCTと比較してモーセ契約の継続性が認められている点*15では、神の計画/救済史の一体性および連続性がかなり強調されているということになる。

 こうした強調は、契約神学における恵みの契約とも通ずるものである。ロバートソンは新しい契約の特徴を次のように述べているが、これはGentry and Wellumらの理解と非常によく似ている。

神のこの最後の契約[新しい契約]は、これまでの歴史におけるさまざまな契約の約束の筋道をひとつにまとめるという、かつてない役割を果たします。このことから、完成の契約と呼ぶにふさわしいものだといえるでしょう。この契約は、これまで与えられたすべての契約を超えるものとなります。同時に、イスラエルが歴史上経験したさまざまの契約の本質を、まとめあげ実現するのです。最後の契約は、徹頭徹尾このような完成を特徴としています。*16

 したがって、PCは伝統的契約神学と同じ形で恵みの契約を信じているわけではないが、彼らの新しい契約理解は「恵みの契約的」であるといえるだろう。

 しかし、既に示したように、Wellumらが契約の複数性を十分に認識していることを忘れてはならない。新しい契約が恵みの契約と似た役割を為しているものの、それまでの諸契約が一つの契約という枠組みで捉えられているわけではない。この点で、PCの新しい契約理解は、恵みの契約とは明らかに異なっている。したがって、PCの全体的な契約理解そのものは、伝統的契約神学から一線を画しているのである。

PCと聖書的契約

 Gentry and Wellumは、以下の諸契約が聖書的契約であると提唱している*17

  1. 創造の契約
  2. ノア契約
  3. アブラハム契約
  4. イスラエル契約(モーセ契約)
  5. ダビデ契約
  6. 新しい契約

 NCTとの違いは、創世記1–3章における神と人との契約を認めている点、またダビデ契約を独立した聖書的契約と認めている点である。

 伝統的契約神学者の一部が提唱し、NCTでも継承されてきた諸契約の無条件性/条件性に基づく分類についてはどうだろうか。既に見たように、Wellumによれば、この分類を認めるかどうかがPCとNCTを区別するポイントのひとつである。彼は、旧約聖書における契約をこうした形で分類することは「還元主義的」だと批判している*18。なぜなら、いずれの契約にも無条件性(片務性)と条件性(双務性)の両方が見られ、「互いに混ざり合っている」からである*19。いずれの契約にも、祝福をもたらす神の一方的(片務的)な恵みが見られる。同時に、いずれの契約でも、創造主なる神への従順が求められているという双務性が見られるのである*20

 そして、全ての契約に両方の要素を認めてこそ、従順に歩まれた御子キリストの贖いの必要性が強調される。このキリストを通して締結された新しい契約において、全ての契約が究極的に成就するのである*21。PCでは、これが聖書神学における最大の強調点である。これは、ロバートソンがダビデ契約の無条件性/条件性について論じる際、「キリストにおいて、契約の条件的な側面と確約された側面とが、完全な調和のもとに一致します」と結論づけているのとよく似ている*22

*1:Stephen J. Wellum and Brent E. Parker, “Introduction,” in Progressive Covenantalism: Charting a Course between Dispensational and Covenant Theologies, eds. Stephen J. Wellum and Brent E. Parker (Nashville, TN: B&H, 2016), Kindle ed., 9–10; idem, “What Is Progressive Covenantalism?,” May 3, 2016. Chad O. Brand and Tom Pratt Jr.は、伝統的契約神学と伝統的ディスペンセーショナリズムの「中道」を行くのが、漸進的ディスペンセーショナリズムおよびPCであると述べている(“The Progressive Covenantal View,” in Perspectives on Israel and the Church: 4 Views, ed. Chad O. Brand [Nashville, TN: B&H, 2015], 231–32)。
 なお、Progressive Covenantalismの寄稿者のひとりであるThomas R. Schreinerもまた契約論に関する著作を著している。Thomas R. Schreiner, Covenant and God's Purpose for the World, Short Studies in Biblical Theology (Wheaton, IL: Crossway, 2017).

*2:Wellum and Parker, “Introduction,” 10.

*3:Peter J. Gentry and Stephen J. Wellum, Kingdom through Covenant: A Biblical-Theological Un-derstanding of the Covenants (Wheaton, IL: Crossway, 2012), 602. 強調=原著者。

*4:Ibid.

*5:Wellum and Parker, “Introduction,” 10–12.

*6:Ibid.

*7:Gentry and Wellum, Kingdom through Covenant, 656.

*8:Ibid., 655–56.

*9:Ibid., 656.

*10:Ibid., 177–217, 611–28.

*11:Ibid., 181–216.

*12:Ibid., 216–17, 619–22.

*13:Ibid., 623–28.

*14:Ibid., 644–52.

*15:Ibid., 635–40.

*16:O・パーマー・ロバートソン『契約があらわすキリスト──聖書契約論入門』高尾直知訳、清水武夫監修(PCJ出版、2018年)363頁。下線部=引用元の傍点部。

*17:Gentry and Wellum, Kingdom through Covenant.

*18:Ibid., 609.

*19:Ibid.

*20:Ibid., 610.

*21:Ibid., 611.

*22:ロバートソン『契約があらわすキリスト』325頁。Cf. Gentry and Wellum, Kingdom through Covenant, 665–66.