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神学と文学を追いかけて

聖書的契約とは何か?

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 これまでの記事で取り上げてきたとおり、ディスペンセーショナリズムでも、契約神学やその派生形でも、聖書神学において「契約」は大変重要な概念だ。

 しかし、(個人的な感覚だと)特にディスペンセーショナリズムでは、そもそも「契約とは何か」という話がなされないまま、聖書的契約そのものへの議論へ進んでいくことが多い。今回はそのそもそも論を少しだけ考えてみたい。

【2019/9/21:本文の最後に、ダビデ契約について追記しました。】

トピック

聖書における「契約」の重要性

 聖書では、神と人の関係性を規定するものとして「契約」という概念が重要な位置を占めている。この事実は、我々が聖書を、古い契約を意味する「旧約」、新しい契約を意味する「新約」に区分していることからも確認される。

 契約という概念は、まず創世記からマラキ書までを通して、旧約聖書で詳細に展開される。神とイスラエルの関係に重点を置いた旧約聖書では、契約は非常に重要である。W・ブルッゲマンが言うように、「神がイスラエルとの間で結んだ契約は、おそらく旧約聖書の神学的確信の中心にあり、これを決定づけるものである」*1

 そして、新約聖書ではイエス・キリストを通してこの概念が発展させられている。特に、旧約聖書で待ち望まれていた「新しい契約」(エレ30–33章)に関して、キリストは逮捕される夜、この契約を結ばれた(ルカ22:20; Iコリ11:25)ことが重視されている。ヘブル人への手紙の著者はキリスト論を展開する中で、「キリストは新しい契約の仲介者です」と宣言している(ヘブ9:15)。新しい契約は、キリストにある終末論的希望の土台となっている。

聖書的契約の定義

 本稿では、聖書本文から読み取ることができる神が人と結ばれた契約という意味で、聖書的契約という語を使用する。この聖書的契約について考えていくならば、神と人との「契約」の定義が重要だと思う者もいるだろう。聖書で様々に語られる神と人との関係のうち、どのような関係を聖書的契約と呼ぶことができるのだろうか。それを考える上では、確かに概念の定義が重要である。しかし、聖書的契約の定義は容易なものではない。

契約を指す用語の意味による定義

 聖書的契約を定義するためにまず考えられる方法は、契約に使われている単語から定義を試みることである。特に、この概念が旧約聖書で展開され始めたものであるために、そこで神と人の契約を指して使われているヘブライ語「ベリート」(bᵉriṯ)の意味から契約の定義を考えようというのである。

 ベリートという語は、確かに神と人の契約をさして使われているのであるが*2、人同士の契約や盟約にも使われている*3。これは第一義的に複数の当事者間での合意や約束を意味し得る、意味範囲の広い言葉である*4

 また、ベリートはその語源も未だ明らかではない。たとえばPaul R. Williamsonは、ベリートの語源として提唱されている5つの見解を紹介している*5

  1. brh (I):動詞「食べる」。(契約締結の儀式と共同体の食事の関係を反映している。)
  2. brh (II):動詞「見る」。(派生して「選ぶ、決定する」という意味も持つ。よって、名詞になれば決定や義務を表すようになる。)
  3. birit:「間に」を意味するアッカド語の前置詞。(二者間の合意を示唆している。)
  4. birtu:「帯、枷」を意味するアッカド語の名詞。(よって、契約は「結びつき」である。)
  5. br:「取り分ける」を意味する語幹の子音。(よって、契約は特別な指定によるもの、または特別に取り分けられた好意や恩恵のことである。)

 しかしながら、いずれの見解も決定的とは言い難く、未だに「その語[ベリート]の意味を決定するにはいたっていない」*6。Williamson自身がいうように、語源に関する議論は「完全に袋小路に入ってしまうことになるだろう」*7

「関係」という概念に基づく定義

 ベリートの語源による契約の定義は困難であるということをふまえて、O・パーマー・ロバートソンは次のように述べている。

旧約聖書で「契約」(ベリート)といわれている語の語源については、さまざまな研究がおこなわれてきましたが、いまだに結論が出ておらず、その語の意味を決定するにはいたっていません。ただし、この語が用いられているみことばの文脈では、つねに「結びつき」「関係」といった概念が示唆されています。契約のいっぽうの当事者となるのはつねに人格的存在、つまり神かひとです。さらに、契約のもういっぽうの当事者も、わずかの例外を除けばやはり人格的存在です。契約を結んで責任を引きうけることで、結果として、民とのかかわりにおいて、民に対して、または民のあいだで、関係が確立されることになるのです。*8

 そこで、ベリートの語源に着目するのではなく、これが神と人との何らかの関係を指して使われていることをふまえ、「関係」という概念に基づく定義が様々な形で試みられている。

 たとえば、ブルッゲマンは次のように述べている。

最も広く捉えるならば、契約は、あらゆるものの創造者である神が、この選ばれた民イスラエルに、信実をもって深く関わってくださっていることを確証するものである。さらに、この関与は、そのような関係を結ぼうという神御自身の決定以外の何ものをも根拠としない。この真実なる不変の関与のゆえに、イスラエルは常にYHWHの民とされ、YHWHはいついかなる時も、イスラエルの神とされる(エレ11:4; 24:7; 30:22; 31:33; 32:38; エゼ11:20; 14:11)。*9

 しかし、「契約は神がイスラエルと関係を持っておられることを確証するもの」というのは、概念の定義としては意味範囲が広すぎるように思われる。

 Richard E. Averbeckの定義は、ブルッゲマンのものよりも具体的である。

基本的に、契約とは厳粛かつ公式な形で明らかにされ、確立された関係性のことである。契約においては少なくとも2人の当事者がおり、1つもしくは複数の方法で、目下の問題について、常に彼らの関係性の中で取り組まれる。この用語が神と民の関係について使われているときは、堕落した罪深い私たちとの関係において、聖なる神がいかなる形で関わって下さるかを理解するための方法として意図されている。*10

 ロバートソンによる定義はさらに具体的なものである。

主権的に与えられた血による結びつき。これが契約です。ひとと契約関係を結ぶとき、神は主権的にいのちと死にかかわる結びつきを打ちたてます。契約とは、主権的に与えられた血による結びつき、いのちと死にかかわる結びつきなのです。*11

 また、彼は「聖書のみことばにおいては、神の契約を正式のものとするために欠くことのできない要素として、ことばによる宣明がおこなわれます」と述べている*12。その「ことばによる宣明」は、「誓約やしるし」といった形で現れる*13

 ロバートソンはAverbeckがいうところの「厳粛かつ公式な形で明らかにされ」ることを、具体的に「誓約やしるし」という形で表し、また「ことばによる宣明」という要素を聖書的契約の定義に取り入れている。しかし、契約を「血による結びつき」と捉えることは、いささか限定的すぎるようにも思われる。確かにノア契約(創8:20)やアブラハム契約(創15:9ff)では動物の血が流され、新しい契約では主イエス・キリストの血が流された(マタ26:28; マコ14:24; ルカ22:20; Iコリ11:25)。しかし、ダビデ契約が与えられた文脈(IIサム7; I歴17)では、犠牲の血は流されていない。

 Williamsonは、「誓約」という要素を強調した形で契約を定義している。彼によれば、契約(bᵉriṯ)とは「正式な関わりであり、当事者の片方または双方が責任を持って確約した約束もしくは責務であり、誓約によって結ばれるものである」*14

 Peter J. Gentry and Stephen J. Wellumは、まずGordon Hugenberger*15やDaniel C. Lane*16の研究で契約がどのように定義されているかを紹介し、その上で聖書的契約の定義を試みている*17

 まずHugenbergerは、以下のような簡潔かつ明快な定義を示している。

契約とは、その通常の意味においては、自然な形に対して選択された形の、誓約の下における義務的な関係のことである。

 Laneもまた、Hugenbergerと同様ながらも、やや詳細な定義を示している。Hugenberger自身、上記の定義に加えて、イスラエルの歴史において契約が含む4つの要素を提示している。

  1. 関係
  2. 非親族との間で
  3. 責務を含む
  4. 誓約を通して確立される

 以上をふまえて、Gentry and Wellumは次のような定義を提示する。

よって、běrîtとは誓約によって結ばれた結びつきを含む関係のことである。*18

契約の定義に関する考察

最も問題点の少ない定義?

 これまでブルッゲマン、Averbeck、ロバートソン、Williamson、Gentry and Wellumらによる契約の定義を巡る議論を紹介してきた。

 ブルッゲマンのように、契約をただ神とイスラエルの関係性を確証するものとして捉えると、定義としては意味範囲が広すぎるように思われる。一方で、ロバートソンの「血による」結びつきとする定義は、意味範囲を限定しすぎてしまうように思われる。よって、Averbeeckがいう「契約とは厳粛かつ公式な形で明らかにされ、確立された関係性」という定義はかなり適切ではないだろうか。しかし、契約を明らかにする「厳粛かつ公式な形」については、ロバートソン、Williamson、Gentry and Wellumのように「誓約」(oath)という表現を用いた方が、より具体的になる。

 ブルッゲマンからロバートソンまでの問題を克服していると思われるのが、Gentry and Wellumによる定義である。すなわち、契約とは、誓約によって結ばれた結びつきを含む関係のことである。そしてここには、Williamsonの定義にあるような4つの要素が含まれる。

  1. 正式な結びつき
  2. 約束または責務の確約
  3. 当事者の片方もしくは双方に対する義務
  4. 誓約によって結ばれる

聖書的契約を判別する際の「尺度」

 これまで見てきたことをひっくり返してしまうようだが、「関係」に着目して聖書的契約を定義しようとしても、やはり問題は残ってしまう。

 前項まで考えてきたような契約の定義は、聖書的契約を考える上では有益であろう。しかし、この定義をもってしても、神と人との関係のうちどれを聖書的契約と呼ぶことができるのか判断する上では、曖昧さが残る。たとえば「誓約」という概念はAverbeckのいう「厳粛かつ公式な形」よりは具体的だが、それでも何をもって「誓約」と言えるのかは判断が難しい。そういった概念に関する議論を先行させて聖書的契約について論じることは、ベリートの語源を巡る議論のように、袋小路に入ってしまうことになる可能性が高い。

 また、契約の性質を固定させた上で演繹的に聖書的契約を論じ始めてしまうと、実際には契約ではない関係性についても、その性質を読み込んでしまう可能性がある。

 したがって、聖書的契約を巡る議論において、契約を判別する段階では、その関係性が直接聖書本文で契約と呼ばれているかどうかを最初の「尺度」とすべきではないだろうか。この尺度は、以下の2段階で表される。

  1. ある関係性が記述されている箇所で、それが契約と呼ばれているか。
  2. 1.には該当しない場合、その関係性について他の箇所(または他の書)で契約と呼ばれているか。

 定義を巡る議論で示唆されているように、契約にはそれを契約たらしめる何らかの特徴があるように思われる。よって、たとえ本文中で契約と呼ばれておらずとも、ある関係性を契約と見なすことができる可能性は確かにある。しかし、ある関係性について契約の性質をふまえた演繹的議論を展開するのは、上記の判断基準のいずれにも該当しないと判明した後の段階である。まずは聖書自体がその関係性を契約と呼んでいるかどうか。もしその関係性が契約のように見えたとしても、契約と呼ばれていないのであれば、その理由を考える必要がある。そうした作業の後で、他の契約の性質をふまえた議論に進むべきであろう。

追記:ダビデ契約と血の犠牲について(2019/9/21)

 この記事を読んでくださった方より、以下のようなご指摘をいただいた。

第二サムエル7章は、6章の事件を受けての7章ではないか。6章では犠牲の捧げ物があり、ダビデ契約でも血の犠牲はあるように思われる。血の犠牲に限定できるのかは検証の余地があると思うが、6章を血の犠牲と読む余地はあるのではないか。

 結論から言えば、確かに「第二サムエル6章で捧げられた犠牲(6:17)について、ダビデ契約に伴う血の犠牲と読む余地はある」と思われる。しかし、そう結論づけるのは容易なことではない。そのことを、追記としてご説明させていただきたい。

 まず、ダビデ契約のメインテキストである第二サムエル7章および第一歴代誌17章は、どちらもダビデが契約の箱をエルサレムに運び入れた出来事(2サム6章; 1歴15–16章)の後に置かれている。サムエル記の著者および歴代誌の著者は、このような書き方によって、まずダビデ契約で重要となる神学的ポイントを提示し、読者に準備をさせているように思われる。ここからは、少なくとも以下のポイントが読み取れるだろう。

  • ダビデに与えられた王権(およびダビデ契約で確立される王権)は、ダビデ自身の主に対する従順に基づいている。*19
  • ダビデ契約は、契約の箱自体が密接に結びついている国家的契約(モーセ契約)と関係している。すなわち、ダビデ契約はダビデの王家だけではなく、イスラエルの民全体と関わっている。*20

 しかし、第二サムエル7:1および第一歴代誌17:1では、契約の箱移転とダビデ契約授与の間に「時間的ギャップ」が示唆されてもいる。少なくとも、ここからナラティヴが転換している。このことから、契約の箱移転の中でささげられた犠牲と、ダビデ契約の締結を直接結びつけるのが困難であるのも確かである*21

 契約の箱移転の出来事がダビデ契約の神学的ポイントを示唆していることからすると、前者の出来事でダビデがささげた犠牲が「ダビデ契約に伴う血の犠牲」と捉える余地はあるものと思われる。しかしながら、神学的繋がりが認められても、それは二つの出来事が直接繋がっていることの証明にはならない。したがって、ダビデ契約は他の契約と比べると、血の犠牲との結びつきが明確ではない。このことからすると、やはりロバートソンがいう「契約とは主権的に与えられた血の結びつき」であるとする定義は、そのように断言できるほど確実なものとはいえないものと考えられる。

*1:W・ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典──響き合う信仰』小友聡・左近豊監訳(日本キリスト教団出版局、2015年)181頁。

*2:例:創6:18; 15:18; 出24:7; 民25:12, 13; IIサム23:5; 詩89:3; エレ31:31。

*3:例:創14:13; 21:27; 出34:15; ヨシ9:15, 16; Iサム23:18; IIサム3:12, 13; I列20:34; ダニ9:27。

*4:HALOT, 1:157.

*5:Paul R. Williamson, Sealed with an Oath: Covenant in God’s Unfolding Purpose, NSBT, vol. 23 (Downers Grove, IL: InterVarsity, 2007), 37. 他に、O・パーマー・ロバートソン『契約があらわすキリスト──聖書契約論入門』高尾直知訳、清水武夫監修(PCJ出版、2018年)32頁注3も参照のこと。

*6:ロバートソン『契約があらわすキリスト』22頁。

*7:Williamson, Sealed with an Oath, 37.

*8:ロバートソン『契約があらわすキリスト』22頁。下線部=引用元傍点部。

*9:ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典』181頁。

*10:Richard E. Averbeck, “Israel, the Jewish People, and God’s Covenants,” in Israel, the Church, and the Middle East: A Biblical Response to the Current Conflict, eds. Darrell L. Bock and Mitch Glaser (Grand Rapids: Kregel, 2018), 24. 太字部=引用元斜体部。

*11:ロバートソン『契約があらわすキリスト』21頁。下線部=引用元傍点部。

*12:前掲書、22頁。

*13:前掲書、23–24頁。

*14:Williamson, Sealed with an Oath, 43. Cf. idem, “Covenant,” in Dictionary of the Old Testament: Pentateuch, eds. T. Desmond Alexander and David W. Baker (Downers Grove, IL: InterVarsity, 2003), 139–55.

*15:Gordon Hugenberger, Marriage as a Covenant: A Study of Biblical Law and Ethics Governing Mar-riage Developed from the Perspective of Malachi, Supplements to Vetus Testamentum, 52 (Leiden, Neitherlands: Brill, 1994).

*16:Daniel C. Lane, “The Meaning and Use of the Old Testament Term for ‘Covenant’ (bᵉrît): with Some Implications for Dispensationalism and Covenant Theology,” PhD diss., Trinity International University, 2000.

*17:Peter J. Gentry and Stephen J. Wellum, Kingdom through Covenant: A Biblical-Theological Understanding of the Covenants (Wheaton, IL: Crossway, 2012), 129–45.

*18:Ibid., 132.

*19:ロバートソン『契約があらわすキリスト』328頁; Williamson, Sealed with an Oath, 122.

*20:Ibid., 122–23.

*21:Ibid., 120.