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聖書の物語と契約(3)ダビデの王国とダビデ契約

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前回:アブラハム契約とモーセ契約

 聖書に出て来る有名な「契約」について、その契約が書かれている箇所を前後の文脈をふまえて学ぶということには、恥ずかしながらそれほど力を入れてこなかった。サムエル記第二7章および歴代誌第一17章に出て来る「ダビデ契約」をそのように学んだのも、聖書的契約に関心を持ち始めてからさらに後になってのことである。

 だから、ダビデ契約とアブラハム契約、モーセ契約との関係というのは、それほど立体的には見えていなかった。そして、ダビデ契約というのが聖書においていかに重要な概念であるかということも、あまり呑み込めていなかった。

 今もさほど分かってはいないと思うが、それでも前に比べたら、ダビデ契約の大切さが実感できるようになってきたと思う。そんな今の理解を、ここでお分かちさせていただきたい。

ダビデの王国とダビデ契約

統一王国への歩み

 モーセの死後、彼の後継者ヨシュアの下で、イスラエルは約束の地に帰還した。神は彼らを用いてカナン人を裁き、その地を彼らに所有させられた。ヨシュア記が伝えるこの物語は、イスラエルに対する主権が神ご自身にあることを伝えている*1。その主権の下で、彼らは領土のある国家として実際に整えられ始めた。イスラエルは王なる神、国民、そして領土を持つ「王国」として成立し始めたのである。

 ヨシュア記の最後では、モーセ契約の再締結が行われている(ヨシ24:1–17)。ここからは、イスラエルが主の契約と、王なる神に従い、「祭司の王国」として歩むことが期待されているのである*2

 しかし、既にヨシュア記の時点で、イスラエルの民はカナン人と彼らの偶像崇拝を約束の地から完全に取り除くことはできなかった。また、約束の地の征服も完了しなかった。

 士師記の時代を見ると、彼らはモーセの時代で既に示唆されていたように、不従順な民として歩んだことが、さらに明らかにされている。士師記全体で繰り返されているのは、イスラエルの「平安→反抗→裁き→悔い改め→回復」というパターンである*3。私たちはこのパターンから、モーセ契約が約束していた「従順ゆえの祝福」と「不従順ゆえの裁き」が確かであったことを知る。

 士師記の最後(17–21章)は、目を覆いたくなるような堕落した民の物語となっている。この書自体、次のように締め括られている。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」(21:25)*4 この記述は、不信仰なイスラエルの上に、約束の王が立てられる必要性を示唆している。

 この間も、神の計画が止まっていたわけではなかった。この時代、イスラエルの民が不信仰な歩みを積み重ねていた間、神に立ち返ったモアブ人の女性ルツと、その夫となるユダ族の男性ボアズを通して、王を生み出す家系が整えられていた(ルツ4:17–22)。

サウルの王国

 しかし、イスラエルの最初の王の擁立は、不信仰なイスラエルの要請によるものとなった(Iサム4:1–8)。彼らは「ほかのすべての国民のように」王を求めた。王の要請自体は、悪いことではない。神は既に王の約束を与え、またモーセの律法自体にも王制を想定した規定があったのだ(申17:14–20)。問題は、民が神ご自身ではなく、人間の王に信頼を置きたがったことだ。彼らの要求は、神ご自身を拒絶することと同じだったのである(Iサム8:7)。

 神は、民の願いを聞き入れられた。しかし、ここで擁立されたのは、ユダ族ではなくベニヤミン族の王サウルであった。サウルもまた、神ご自身が任命された王である(Iサム9:6)。彼は一時的に、宿敵ペリシテ人からの勝利をイスラエルに与えた。しかし彼は、モーセ契約への違反を積み重ねた。モーセ契約が王に要求していたのは、王自身が神を恐れ、信仰をもって歩むことだった(申17:19–20)。すなわち、王の役割というのは、民に正しい信仰と神理解を示すことなのである*5。しかしサウルは神に不従順になり、この役割に失敗した。

 そして、神は遂にユダ族からボアズとルツの子孫ダビデをお選びになり、王として立てられた。サウルの失敗とダビデの選びは、人ではなく神ご自身こそが常に最善であること、そして神より自分の計画を優先させようとする人の試みは必ず失敗することを、イスラエルに教える視聴覚教材となった*6

ダビデの王国

 サウルの死後、ダビデイスラエル全部族の王となってエルサレムを獲得し、そこをイスラエルの宗教的・政治的首都として定めた(IIサム5:5–10)。サムエル記の著者および歴代誌の著者は、エルサレムの擁立、そして放置されていた契約の箱をエルサレムに移転させる記事(IIサム6章; I歴15–16章)の後で、神がダビデに約束をお与えになったことを語っている(IIサム7章; I歴17章)。ダビデは、自分が定めた都に契約の箱を運び入れ、神はそれを受け入れられた。これにより、ダビデはサウルとは異なり、モーセ契約に忠実な王であることが示された。ダビデが全イスラエルの王であるということは、彼が神に従順な「しもべ」であることに基づいているのである(IIサム7:5)*7。私たちはここに、「しもべたる王」として失敗したアダムの役割がいつか回復させられる、その予兆を見ることができる。

 契約の箱移転の記事において、サムエル記および歴代誌の著者たちは、明らかにダビデを全イスラエルの代表として描いている。彼は全イスラエルを導き、神に賛美を捧げ、いけにえを献げ、「万軍の【主】の御名によって民を祝福した」(IIサム6:15–18)。彼は民の王/代表として、民に神である【主】を証した。彼はここで、サウルとは異なり、王としての務めを果たしているのである。

ダビデ契約

 こうしてダビデが神の意志に適った王であることが示された後で、神がダビデに約束をお与えになったということが語られていく。それを伝えているテキストが、サムエル記第二7章および歴代誌第一17章である。ここで与えられた約束の内容、またここで見られる神とダビデの関係性はダビデ契約と呼ばれている。2つのテキストでは「契約」という言葉は一度も使われていないにも関わらず、この呼び名は聖書に基づいたものである。たとえばサムエル記第二23:5では、7章で与えられた約束が「永遠の契約」と呼ばれている。また、詩篇89篇はサムエル記第二7章の「注解」のような役割を担っているが*8、そこでもダビデに与えられた約束が「契約」と呼ばれている(89:3, 28, 34, 39)*9

 サムエル記第二7章の時点で、ダビデは自らの家(王宮)に住んでいた。そして、「【主】は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた」(IIサム7:1)。彼が気掛かりだったのは、自分は杉材で造られた宮殿に住むことができているのに、契約の箱が置かれているのは天幕であるということだった。直前に契約の箱をエルサレムに運び入れることができており、しかも「守り」と「安息」が与えられていたことは、神がこの町を「【主】の御名を住まわせるため」の場所として選ばれたことを示唆していた(詩132:13, 14)。そこで彼は、神のために「家」すなわち神殿を建てることを願った*10。しかし、神はそれを拒否された(IIサム7:5–7)。幕屋は神ご自身が選ばれた臨在の場であり(7:6)、神殿が建てられるとしても、それは神の主権の下で建てられるべきであった(申12:11参照)。よって、ダビデは神の指示を待つべきだったのである。

 しかし、神はダビデの願いをただ退けただけではなかった。ダビデが神のために家を造るのではなく、神こそがダビデのために「一つの家」を造られるという約束をお与えになった(IIサム7:11)。このテキストにおいて、「家」という言葉は多層的に、印象深い形で使われている。ダビデは杉材の「家」(王宮)に住んでおり、神のために「家」(神殿)を建てたいと願った。しかし、神はダビデに「一つの家」、すなわち「王国」(王朝)をお与えになる(7:12, 13)。ダビデの「世継ぎの子」によって王朝は確立され、その子孫によって、神の「家」(神殿)が建てられるというダビデの願いが成就するのである(7:13)。以上のことは、王国の主権が人間の王であるダビデではなく、王の王である神にあることを示している。

 この約束が与えられた文脈は、確かにダビデの思い上がりを神が叱責されるというものである。しかし約束自体は、ダビデが神の「しもべ」であり「君主」であることに基づいたものである(IIサム7:8)。だからこそ、神は忠実な「しもべ」であるダビデに対して、彼の願いをはるかに超えた祝福を与えてくださるのだ。テキストにおける「家」の強調からわかるのは、この約束の最大の強調点が、ダビデの「子孫」による王国の永遠の確立に置かれているということである(7:12–13)。その約束の保証として、神がダビデの子孫として来る王の父となり、王は神の子となることが宣言された(7:14–15)。この特別な関係こそが、ダビデ契約の柱であるといっても過言ではないだろう。

 神と王の関係の中には、ダビデ家の王が「不義を行ったとき」には、神ご自身がその王を「懲らしめる」ことも含まれている(7:14)*11。それでも、神の「恵み」がダビデの家から取り去られることはない(7:15)。神はこの約束を忠実に守ることで、ダビデ家の王たちに愛を示される。これは、サウルには与えられていなかった、特別な契約関係である。ダビデ契約は、モーセ契約がイスラエルの歩む枠組みとして機能している中で与えられた。よって、王には契約の神である【主】への従順が求められている。また、神が王の不従順を戒めるということは、王が不従順に陥ることを示唆している。しかしこの契約は、最終的に、神の愛によってダビデの王国が永遠に確立されることを保証しているのである。

 ダビデの王国が永遠に確立されるということは、王が代表する国民(イスラエル)もまた永遠に確立されることと等しい。創世記から物語を追ってきた者は、ここに女の子孫──ユダ族から現れるイスラエルの理想的王の約束の成就を見る。「サタンに勝利を収める『女の子孫』は、全地に祝福をもたらす『アブラハムの子孫』へ、そして終わることのない統治を行う『ダビデの子孫』へと移行していく。」*12

 ダビデ契約は、モーセ契約が意図していた「祭司の王国」としてイスラエルが完成すること、またこの完成が女の子孫=ダビデの子孫の王によってもたらされることを保証するものである。そして、モーセ契約はアブラハム契約が成就するための枠組みとして与えられたものであった。したがって、ダビデ契約は、アブラハム契約が成就し、「大いなる国民」によって諸国民が祝福されることをも保証しているのだ。その成就もまた、女の子孫=ダビデの子孫の王によってもたらされる。そして、ヤコブが預言したように、この王によって、遂に被造世界の回復がもたらされる。約束の女の子孫は、ダビデの子孫の王、すなわちメシア(油注がれた者)として到来するのである。

*1:Merrill, Everlasting Dominion: A Theology of the Old Testament (Nashville, TN: B&H, 2006), 420.

*2:Schreiner, King in His Beauty, 117.

*3:Arnold G. Fruchtenbaum, The Books of Judges and Ruth (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2007), 23.

*4:特に断りがない限り、聖書引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会による。

*5:Jessica N. T. Lee, “The Role of the People in Saul’s Rise and Fall,” Bibliotheca Sacra 174 (April–June 2017): 159–78.

*6:Merrill, “God’s Plan for History Prior to Christ,” in Dispensationalism and the History of Redemption: A Developing and Diverse Tradition, eds. D. Jeffrey Bingham and Glenn R. Kreider (Chicago: Moody, 2015), 131.

*7:Paul R. Williamson, Sealed with an Oath: Covenant in God’s Unfolding Purpose, NSBT (Downers Grove, IL: InterVarsity, 2007), 122.

*8:Kaiser, “Israel according to the Writings,” in The People, the Land, and the Future of Israel, 41.

*9:他にダビデ契約が実際に「契約」と呼ばれている箇所として、Ronald F. YoungbloodはI列8:23; II歴13:5; 詩132:12; イザ55:3; エレ33:21、また外典であるシラ45:25を挙げている(“1, 2 Samuel,” in The Expositor’s Bible Commentary, eds. Tremper Longman III and David E. Garland, rev. ed., 13 vols. [Grand Rapids: Zondervan, 2006–2012], 3:377)。

*10:神が幕屋ではなく「恒久的な聖所」に住まわれるだろうという期待は、モーセ時代に示唆されていた(出15:17; 申12:10–11a)。Randall Price, Rose Guide to the Temple (Torrance, CA: Rose, 2012), 20.

*11:IIサム7:14b「彼が不義を行ったときは、……懲らしめる」は、並行箇所であるI歴17:13では省略されている。アーノルド・フルクテンバウムは「サムエル記第二では子は罪人であるが、歴代誌第一では罪についてまったく触れられていない」がゆえに、「サムエル記第二で語られているのはソロモンのことだが、歴代誌第一ではメシアのことである」と結論づけている(『メシア的キリスト論─旧約聖書のメシア預言で読み解くイエスの生涯─』佐野剛史訳[ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2016年]112頁)。

*12:Kaiser, The Messiah in the Old Testament (Grand Rapids: Zondervan, 1995), 83.