前回、ダビデ契約の成就──メシアの到来と彼の王国の確立──において、それまでの諸契約の成就、そして被造世界の回復がもたらされることを見た。この契約の成就と被造世界の回復と密接に関係しているのが主の日である。預言書で幾度も登場するこの概念は、聖書的契約を考える上で絶対に外すことができない、重要なものとなっている。
これから新しい契約を理解するためにも、主の日について考えておかなければならない。なぜなら、主の日において(またはその後で)実現する契約の成就と被造世界の回復は、新しい契約を通して実現するからだ。今回、なるべく包括的に主の日について見ていくことで、次回から新しい契約を取り上げるための準備運動としたい。
【主】の日について
預言書の多くは、近い将来に成就することとなるイスラエルへの裁き(アッシリア捕囚およびバビロン捕囚)を警告している。しかし、預言者たちはそれだけではなく、さらに将来において、より終末的な裁きの時がもたらされることも警告している。この裁きの時と深く関係しているのが「【主】の日」という概念である*1。
【主】の日(ヨム・ヤハウェ yôm yhwh)というフレーズは、【主】が超自然的な形で人間の歴史に介入される「比類なき期間」を表している*2。また、このフレーズ自体は、過去に実際に起きた出来事にも、将来もたらされる終末的な出来事にも適用され得る。
このような視点を理解するには、預言の性質を考えておく必要がある。将来に対する予告となっている預言全般は、各預言者が直面していた特定の歴史的状況と結びついている。時には、特定の出来事を使って、遠い未来の「終わりの日」に起こる出来事が告げられていることもある。【主】の日に関する預言もまた、例外ではない。たとえばエゼキエルは、バビロンがもたらす南王国の滅亡の時が【主】の日であると言っている(エゼ13:5)。イザヤ書13:1–10の場合、【主】の日はバビロンの滅亡と結びつけられているが、その言葉遣いはさらに遠い将来──終末的出来事──をも見据えたものであるように思われる。特に【主】の日をテーマとしているヨエル書の場合でも、ヨエルが直面したいなごの災害をモチーフに、終末的な【主】の日が語られている。
こうしたことからまず分かるのは、【主】の日というフレーズ自体は「常に終末の出来事を指しているわけではない」ということである。「むしろ、預言者たちはあたかも一つの出来事であるかのように、歴史的出来事と終末的出来事、過去と未来を繰り返し結びつけている。」ここには「当時の出来事によって、……未来を説明するという視点」がある*3。すなわち、歴史的出来事で起きたパターンが、終末においても起こるだろうという視点である*4。そして、歴史的出来事として記されている【主】の日は、終末にもたらされる究極的な【主】の日を理解するための土台となる。したがって、「聖書本文を通して、どのような裁きの時であれ、主の日を指し得る。しかし遂には、終末的な裁きの日、最終的または究極的な主の日があるということが明らかになる。よって、主の日は『神が行動を取ることを決め、人間の歴史に介入される将来の時』を指す。」*5
本稿において重要な点は、【主】の日がこれまで見てきた契約の成就とも結びつく概念だということである。事実、「ヨム・ヤハウェ」というフレーズそのものが、この概念と契約との関係を示唆している。【主】は、神がイスラエルと契約を結ばれた方であることを示す特別な御名である(出3:14)。【主】の日という呼び名からは、この日が契約の民イスラエルにとって特別であり、また重要であることが推測される*6。
この「ヨム・ヤハウェ」というフレーズそのものは、旧約聖書で15回使われている*7。また、この日に言及している文脈では他にも「万軍の【主】の日」(イザ2:12)、「【主】の復讐の日」(イザ34:8)、「【主】の怒りの日」(ゼパ2:2, 3)、さらには単に「その日」など、様々なバリエーションが見られる*8。そういったバリエーションまで含めると、【主】の日に関する章句は非常に多くなる*9。
したがって、【主】の日という概念は「預言書の終末論の核心」であり*10、特に小預言書を貫くテーマとなっているのである*11。本稿では、預言書を通して見られる【主】の日の特徴を、いくつか見ていきたい。
【主】の日の特徴
A) 神ご自身が特別な形で介入される日
まず【主】の日は、神ご自身が特別な形で歴史に介入される日である。既に見たように、【主】の日というフレーズそのものが、この日が【主】に属する特別な日であることを表している。
B) 神が地上のすべての民に対して裁きを下される日
特に強調されているのは、【主】の日が、神が地上のすべての民に対して裁きを下される日だということである。イザヤは、この「憤りと燃える怒りの、残酷な日」に、「主は罪人どもをそこから根絶やしにする」と預言している(イザ13:9)。そしてこの裁きは、世界中の悪しき者たちに対して下される(13:11)。
ヨエルも、【主】の日が「地に住むすべての者」にとって恐るべき時であることを警告している(ヨエ2:1)。
またゼパニヤにとって、【主】の日は「激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日、角笛と、ときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日」である(ゼパ1:15–16)。この「【主】に対して罪を犯した」人々に対する裁き(1:17)は、「諸国の民」、「もろもろの王国」、そして「全地」に及ぶ(3:8)。
C) イスラエルに契約違反への最終的な裁きが下される日
【主】の日は、特にイスラエルにとっては、モーセ契約への違反に対する最終的な裁きが下される日である。預言者たちの主な聴衆はイスラエル民族である。ヨエルは、民が経験したいなごの災害が、【主】の日の苦しみの予表となっていることを伝えている。【主】の日の苦しみが、イスラエルの上にも及ぶことが予期されているのである。
特にアモス書では、北王国に神の裁きが下るという文脈において、【主】の日に関する宣告が与えられている。北王国の住民たちにとって、【主】の日は「闇であって、光ではない」(アモ5:18)。そして、この裁きは、結果的に民の離散と捕囚をもたらす(5:27)。よって、モーセ契約への違反に対する最終的な裁きである約束の地からの離散(レビ26:33–39; 申28:63–65)は、【主】の日においてもたらされるのである*12。
バビロン捕囚後の預言者であるマラキもまた、「大いなる恐るべき【主】の日」(マラ4:5、直訳)について預言した。彼によれば、【主】の日の裁きから逃れる道はただ一つ、「わたしのしもべモーセの律法を覚え」ることだけである。言い換えれば、イスラエルにとっての終末的【主】の日とは、律法への違反に対して与えられる最終的な裁きの時なのである。
D) イスラエルに敵対する諸国民が裁かれる日
一方で、【主】の日は全世界の悪に対する裁きの時であるから、この日にはイスラエルに敵対する諸国民もまた裁かれることになる。イザヤ書13章で言及されている【主】の日は、メディア人によるバビロンの滅亡を指しているようでもある(13:1, 17)*13。同時に、裁きが「全世界」(13:5)や天体、地にまで及ぶ(13:10, 13)という記述は、イザヤがより終末的な裁きまでも見通していることを示唆している。よって、イザヤ書13章では「バビロンの絶滅のメッセージを通して、全世界の絶滅のメッセージが語られている」と考えるべきだろう*14。しかし、その裁きの中に、バビロンの滅亡も含まれていることは注目に値する。エゼキエル書13:5では、バビロンによる南王国の滅亡が【主】の日とされている。一方で、イスラエルに敵対したバビロンもまた、【主】の日の裁きによって滅ぼされるのである。ヨエルも、神がイスラエルに敵対した諸国に最終的裁きを下すことを宣告している(ヨエ3:1–21)。
E) 裁きには仲介者も用いられる
これまでのことからも分かるが、【主】の日の裁きは、神から直接的に下されるだけではなく、人間の軍隊などの仲介者を用いたものでもある。エゼキエル書13章における南王国の滅亡にはバビロンが用いられ、イザヤ書13章におけるバビロンの滅亡にはメディア人が用いられている。また、ヨエルの預言によれば、【主】の日には比類なき軍隊による侵略がもたらされるのである(ヨエ2:2)。
F) 裁きの影響は被造世界全体に及ぶ
さらに、【主】の日の裁きの影響は被造世界全体に及ぶ。この日の「子を産む女が身もだえするよう」な「苦しみと激しい痛み」(イザ13:8)は、人々だけではなく、全地を襲う。「見よ、【主】の日が来る。憤りと燃える怒りの、残酷な日が。地は荒廃に帰し、主は罪人どもをそこから根絶やしにする。」(13:9)そして、先に述べたように、裁きの影響は天体にまで及ぶのである(13:10, 13)。
このテーマは、ヨエル書でも繰り返されている(ヨエ2:10, 30–31)。だからこそヨエルは、「【主】の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられるだろう」と述べたのである(2:11)。
G) 【主】の日は差し迫っている
【主】の日について述べた預言者たちのメッセージで共通しているのは、この日が近いということである。イザヤは「泣き叫べ。【主】の日は近い」と、この日が差し迫っていることを警告した。なぜなら、この日が「全能者からの破壊としてやって来る」からである(イザ13:6)。
ヨエルもまた同様に、「全能者による破壊の日」である「【主】の日は近い」と警告した(ヨエ1:15; 2:1)。このような【主】の日の切迫性(imminency)は、「その日がいつでももたらされ得ること、そして警告なしに急にもたらされることを意味している。警告は既に与えられた。さらなる警告は約束されておらず、それを期待すべきではないのである」*15。
H) 裁きを通した祝福がある
しかし、【主】の日には、裁きを通した祝福も含まれている。ヨエルはイスラエルに対して「だれがこの日に耐えられるだろう」と問いかけた後で、「心のすべてをもって……わたしのもとに帰れ」という神の呼びかけを伝えた(ヨエ2:11–12)。申命記30:1–5が伝えていたように、希望の土台はイスラエルが悔い改め、【主】に立ち返ることである(2:12–14)。その結果、特にイスラエルにもたらされる回復を、ヨエルは3つの段階──物理的回復(2:21–27)、霊的回復(2:28–32)、国家的回復(3:1–21)──で記している*16。この回復は、「【主】はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民を深くあわれまれた」という神の愛に基づいたものである(2:18)。それゆえ、地には喜びがもたらされる。野の獣から恐れが取り去られ、地は本来の創造の秩序がそうであったように、豊かな実りをもたらすようになる(2:22)。
回復の御業における神の主権は、イスラエルの霊的回復にも見られる。この回復は、彼ら自身の悔い改めによるものであると同時に、神ご自身がもたらしてくださるものでもある。「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。」(2:28–29)神は御霊を注ぐことにより、イスラエルの「心に割礼を施」されるのである(申30:6)*17。2:32は、この祝福を受けるのが「シオンの山、エルサレム」にいる「生き残った者たち」であることを明らかにしている。そして、地の物理的状態や、民の霊的状態が回復される時、神が「ユダとエルサレムを回復させる」(3:1)──すなわち、国家的回復がもたらされる。モーセ契約の違反により裁かれた「祭司の王国」、ダビデとソロモンがエルサレムから確立させたように見えたが滅ぼされた王国が、回復させられるのである。
ヨエル書において、回復が起こるのは「その日」と言われている(2:29)。これは、単に回復の時とも考えられる。すなわち、【主】の日の後で回復がもたらされるということである。しかし、ヨエル書における【主】の日の強調を考えると、「その日」というフレーズもまた、【主】の日への言及であると考えることができる。その考え方が正しければ、【主】の日は「裁きだけが占めているものではなく、神の祝福をも含んでいる」ものだといえる*18。
【主】の日に(またはその後で)ダビデの王国が再建されるという希望は、アモス書でも預言されている(アモ9:11–12)。そこでは、王国の確立が、異邦人諸国にも祝福をもたらすことが告げられている。エドムには裁きが告げられていたが(1:11–12)、9:12ではその「残りの者」がイスラエルによって所有されると言われている。言い換えれば、「イスラエルがエドムを所有することは、エドムが神の民に入れられることに繋がる」のである*19。そして、同じことが「わたしの名で呼ばれるすべての国々」にも当てはまる。ここでエドムは、異邦人諸国の代表格として扱われているのだ。したがって、ダビデ契約の成就がもたらす王国の確立は、創世記12:2–3で約束されていたアブラハムの子孫による諸国民の祝福をもたらすことがわかる。「異邦人諸国もまた、この王国の恩恵に与り、そしてイスラエルとともに神の民に入れられるのである。」*20
ゼパニヤ書でもまた、次のような回復の預言が告げられている。「そのとき、わたしは、諸国の民の唇を変えて清くする。彼らはみな【主】の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。」(ゼパ3:9)ここでゼパニヤが予見しているのは、アモスが見たような、「異邦人諸国がイスラエルとともに神の民に入れられる」という希望である*21。
ゼパニヤが見た希望の光は、イスラエルにも及ぶ(3:12–20)。それは、ヨエルが預言したような、「イスラエルの残りの者」にもたらされる回復の希望である。その時、エルサレムは回復させられる(3:14–17)。そこには、民に敵対した国々への裁きも含まれている(3:19a; cf. ヨエ3:1–21)。また「そのとき」、イスラエルは神によって約束の地に集められる(3:19b–20)。そして、イスラエルが回復させられる時、彼らは諸国民の間で「栄誉ある名を与え」られる(3:20b)。これは、彼らが「大いなる国民」となるというアブラハム契約の成就である(創12:2)。ここでもまた、イスラエルの回復は、諸国民の祝福と結びつけられている。そして、このシーケンスは、「大いなる国民」によって諸国民が祝福されるというアブラハム契約の約束と調和していることがわかる。
以上のことから、神の諸契約に基づく回復は、【主】の日にもたらされるのである。その回復は、イスラエルだけに与えられるものではない。【主】の日の裁きが「民族性に関わらず全ての罪人」に下されるものだったように、この日は「信じる者全てが[民族性に関わらず]祝福される日」でもある*22。
【主】の日・契約の成就・被造世界の回復
以上のことから、【主】の日にはイスラエルへの裁き、諸国民への裁き、そして回復という3つの要素が含まれていることがわかる*23。まるで一般的な「日」が夕と朝によって構成されているように、【主】の日もまた、「夕[裁き]と朝[回復]という2つの要素を持っている」のである*24。
イスラエルがモーセ契約に不従順であったことにより、アッシリア捕囚やバビロン捕囚がもたらされた。しかし、この裁きは最終的な裁きではなかった。預言書群は、捕囚から帰還した後も、民が不従順であり続けることを示唆している。言い換えれば、民は捕囚に遭った後もまことに悔い改めることはせず、遂に契約不履行に対する最終的裁きが下されるのである。そして、その裁きの時には、地上にいるすべての民の罪もまた裁かれることになる。この裁きの時が、神ご自身が大きく介入することによってもたらされる【主】の日である。イスラエルに関して言えば、この時、モーセが予見していた最終的な裁き(世界大の離散)が実現することになる。
しかし、神はその後、イスラエルに最終的な回復をもたらし、メシアの王国を確立される。すなわち、ダビデ契約が成就する。この成就について見てきたとおり、王/メシアの王国が永遠に確立されることで、モーセ契約やアブラハム契約の約束も成就する。イスラエルは「祭司の王国」として確立され、「大いなる国民」として諸国民を祝福する器となる。そして、これらの祝福が実現する時に、被造世界もまた回復され、創造本来の秩序が取り戻されるのである。
この裁きと回復の計画は、神ご自身が超自然的に人類の歴史に介入されるという、特別な【主】の日を通して実現することになる。したがって、契約を軸とした神の計画において、【主】の日は特別な役割を担っているのである*25。
*1:旧約聖書に見られる【主】の日に関する包括的な考察は、たとえば以下を参照されたい。Joel D. Barker, “Day of the Lord,” in Dictionary of the Old Testament: Prophets, eds. Mark J. Boda and J. Gordon McConville (Downers Grove, IL: InterVarsity, 2012), 132–43; Irvin A. Busenitz, Joel and Obadiah (Geanies, Fearn, Ross-shire, Great Britain: Christian Focus, 2003), 36–48; Craig A. Blaising, “The Day of the Lord: Theme and Pattern in Biblical Theology,” Bibliotheca Sacra 169 (January–March 2012): 3–19.
新約聖書まで対象とした考察としては、たとえば、Clarence E. Mason Jr., “The Day of Our Lord Jesus Christ,” Bibliotheca Sacra 125 (July–September 1968): 352–58; Richard L. Mayhue, “The Bible’s Watchword: Day of the Lord,” The Master’s Seminary Journal 22/1 (Spring 2011): 65–88; Glenn R. Kreider, “The Rapture and the Day of the Lord,” in Evidence for the Rapture: A Biblical Case for Pretribulationism, ed. John F. Hart (Chicago: Moody, 2015), 73–97.
*2:Mark F. Rooker, “The Doctrine of the Future in the Prophets,” in Eschatology, 179; Busenitz, Joel and Obadiah, 39.
*3:Ibid., 48.
*4:J.Randall Price, “Old Testament Tribulation Terms,” in When the Trumpet Sounds, eds. Thomas Ice and Timothy Demy (Eugene, OR: Harvest, 1995), 63.
*5:Kreider, “The Rapture and the Day of the Lord,” 75. 文中『』内はJ. Danny Hays, J. Scott Duval, and C. Marvin Pate, Dictionary of Biblical Prophecy and End Times (Grand Rapids: Zondervan, 2007), 109からの引用である。
このような【主】の日理解は、聖書本文の字義的・歴史的・文法的釈義から導き出されるものであり、また神学的立場を問わず一般的なものである。しかしながら、一部のディスペンセーショナリストは、【主】の日という用語は終末的出来事のみを指していると考えている。たとえばArnold G. Fruchtenbaumは、この「用語が見られる箇所は全て例外なしに、患難時代への言及である」と主張している(The Footsteps of the Messiah: A Study of the Sequence of Prophetic Events, rev. ed. [San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2003], 173)。
*6:Busenitz, Joel and Obadiah, 38–39.
*7:うち3回は大預言書(イザ13:6, 9; エゼ13:5)、12回は小預言書(ヨエ1:15, 2:1, 11, 31; 3:14; アモ5:18, 20; オバ15; ゼパ1:7, 14a, 14b; マラ4:5)で登場している。Barker, “Day of the Lord,” 133.
*8:特に断りがない限り、聖書引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会による。
*9:Craig A. Blaisingは、包括的な【主】の日章句として以下を提示している(“The Day of the Lord: Theme and Pattern in Biblical Theology,” 13)。イザ2:6–22; 13:1–22; 22:1–25; 24:1–23; 34:1–17; エレ25:30–38; 46:1–12; エゼ7:1–27; 38:1–39:29; ヨエ1:1–20; 2:1–11, 28–32; 3:1–21; アモ5:16–27; オバ1–21; ナホ1:1–15; ハバ3:1–16; ゼパ1:1–18; 2:1–15; 3:8–13; ゼカ12:1–9; 14:1–15; マラ3:1–5; 4:1–3
*10:Rooker, “The Doctrine of the Future in Prophets,” 179–80.
*11:Blaising, “The Day of the Lord: Theme and Pattern in Biblical Theology,” 11.
*12:Robert B. Chisholm, Jr., “A Theology of the Minor Prophets,” in A Biblical Theology of the Old Testament, Kindle locations 10224–10279.
*13:ただし、イザ13:17–22におけるバビロンの荒廃の描写がペルシアによるバビロニア征服に該当しないことから、この箇所は終末的バビロン(黙17–18章)において成就すると考える者もいる。Cf. Michael Rydelnik and James Spencer, “Isaiah,” in The Moody Bible Commentary, eds. Michael Rydelnik and Michael Vanlaningham (Chicago: Moody, 2014), 1029.
また、一般的にバビロニアはギリシアによって廃虚になったものとされているが、これもまた事実とは言い難く、したがってバビロンの荒廃は歴史的に未だ成就したことはないと主張する者もいる。Cf. Charles H. Dyer, “Jeremiah,” in The Bible Knowledge Commentary: Old Testament, eds. John F. Walvoord and Roy B. Zuck (Wheaton, IL: Victor, 1985), 1199–1203; idem, Future Babylon: The Biblical Arguments for the Rebuilding of Babylon (Taos, NM: Dispensational Publishing House, 2017).
*14:鍋谷尭爾『イザヤ書注解』上(いのちのことば社、2014年)298–99頁。
*15:Kreider, “The Rapture and the Day of the Lord,” 79.
*16:Busenitz, Joel and Obadiah, 161.
*17:御霊が注がれる対象は「すべての人」(kol-bāśār)と言われている。これは文字通り全人類とも取れるが、イスラエル民族に重点が置かれている2:18以降の文脈からすると、イスラエル民族全体と取るべきだろう(Ibid., 185)。この解釈は、申30:1–10とも調和している。
*18:Ibid., 46; Kaiser, Toward an Old Testament Theology (Grand Rapids: Zondervan, 1978), 191; Rooker, “The Doctirne of the Future in the Prophets,” 181.
*19:Vlach, He Will Reign Forever, 228.
*20:Ibid.
*21:Ibid., 234.
*22:Busenitz, Joel and Obadiah, 48.
*23:Cf. Price, “Old Testament Tribulation Terms,” 62. この理解により、伝統的ディスペンセーショナリズムでは一般的に、【主】の日が患難時代だけではなく千年王国まで含む概念だと考えられている(Blaising, “The Day of the Lord: Theme and Pattern in Biblical Theology,” 6–8)。E.g., J. Dwight Pentecost, Things to Come: A Study in Biblical Eschatology (Grand Rapids: Zondervan, 1958), Kindle locations 4184–4224; John F. Walvoord, Every Prophecy of the Bible (Colorado Springs, CO: David C Cook, 2011), 471–75; Renald E. Showers, Maranatha: Our Lord, Come! (Bellmawr, NJ: The Friends of Israel Gospel Ministry, 1995), 30–40; Paul N. Benware, Understanding End Times Prophecy: A Comprehensive Approach, rev. ed. (Chicago: Moody, 2006), 294.
しかしFruchtenbaumは、「その日」というフレーズは肯定的にも使われるが、【主】の日という用語自体は「常に否定的に使われているため、千年王国が含まれることはない」と主張している(The Footsteps of the Messiah, 173)。より最近では、Kreiderが「主の日は……闇であり、光ではない」ために、「祝福は主の日に含まれているのではない」と主張している(“The Rapture and the Day of the Lord,” 75, 77–78)。
Mayhueもまた【主】の日は「裁きだけを含む」ものであると主張しているが、彼の場合はその期間を「患難時代の終わり」と「千年王国の終わり」における神の直接的裁きだけに限定している(“The Bible’s Watchword: Day of the Lord,” 88)。
*24:Rydelnik, “Joel,” in The Moody Bible Commentary, 1332, 1334.
*25:本稿では、旧約預言書に見られる【主】の日の特徴を概観してきた。旧約における【主】の日については、また別の機会に主な章句の概観と、より詳細な考察を試みたい。