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聖書の物語と契約(9)エゼキエル書と新しい契約の祝福

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前回:エレミヤ書と新しい契約の希望(その2)

 前回、前々回で、私たちはエレミヤ書のいわゆる「慰めの書」(30–33章)から、新しい契約がどのような契約であるか、新しい契約と諸契約の関係はどのようなものであるか、その全体像を大まかに見てきた。

 新しい契約は、この被造世界に「のろい」をもたらした罪の問題の解決──すなわち罪の赦しをもたらす、贖いの契約である。この契約は、自らを「代償のささげ物」にするというメシアの業をもたらす枠組みである。この契約によってイスラエルに対して、また諸国民に対して罪の赦しがもたらされ、創世記以降啓示されてきた諸契約が成就し、そして遂には被造世界の回復が実現させられるのである。

 今回は、本シリーズで旧約聖書を扱う稿の最後として、エゼキエル書に見られる新しい契約の祝福を、やはり大まかではあるが見ていくことにしたい。エゼキエル書は、新しい契約がもたらす祝福について、その霊的側面のみならず、物質的側面までも具体的に明らかにしている。それらの祝福を見ることによって、新しい契約がイスラエルの民族的・国家的回復の希望と固く結びついていることが確証されるだろう。

エゼキエル書における契約

 旧約における新しい契約論の最後として、エゼキエル書のいくつかの預言を通して、この契約がもたらす祝福をさらに具体的に見ていくこととしたい。

 エゼキエルは、捕囚によりバビロンへ引かれていった祭司の一人であり、捕囚の地で同胞たちに向かって神のメッセージを伝えた預言者である(エゼ1:1–3)。エゼキエル書の大まかな構成は、1–24章がエルサレムとユダに下る裁きに関する預言、25–32章がイスラエルに敵対する諸国民への裁きに関する預言、そして33–48章がイスラエルの回復に関する預言となっている*1

 エゼキエルが預言した新しい契約の祝福について理解するためには、この書において神とイスラエルの契約がどのように扱われているのかを、大雑把にでも知っておく必要があるだろう。エゼキエル書2–3章では、神によってイスラエルの不従順が糾弾されている。糾弾の内容は今後も幾度となく繰り返されていくが、そこで使われている表現は、モーセ契約への違反を示唆するものとなっている 。たとえば彼らの「心が頑な」だとする不従順の表現(3:7; cf. 2:3–5; 3:26–27)は、申命記29:19における「頑なな心」を思い起こさせる*2

 4章以降では、エルサレムに下る神の裁きが預言されている。その裁きの内容も、モーセ契約に基づく裁きを示唆するものとなっている。主な裁きは、この町が敵によって包囲されること(エゼ4:3)、民が外国へ追いやられること(4:13)、食糧難に陥ること(4:16–17a)、民は朽ち果て、町は滅ぼされること(4:17b; 5:4)などである。こういった裁きの内容は、レビ記26:14以降で語られたモーセ契約への違反に対する裁きとよく似ている*3。事実、エルサレムが裁かれる理由は、住民たちが神の「定めを嫌い、……掟に従って歩まなかった」からである(5:6–7)。この言葉遣いもまた、レビ記26:14–15における契約違反の表現を思い起こさせる。

 民の契約違反は、モーセが告げていた具体的裁きの前に、神殿から神の栄光が去ってしまうという事態をもたらした(エゼ8–11章)。神の栄光は、出エジプト以来、イスラエルの間に臨在し続けてきた。ソロモンが神殿を建てた時も、「【主】の栄光が神の宮に満ちた」(II歴5:14)。しかし、その栄光は、イスラエルが神の「掟に従って歩ま」なかった(11:12)がゆえに、神殿を去った(11:22–23)。

 しかしながら、エゼキエルは【主】の栄光が去るという悲劇的な幻を見せられつつ、希望のメッセージも与えられ、捕囚民にそれを告げている。「【神】、主よ。あなたはイスラエルの残りの物たちを滅ぼし尽くされるのでしょうか」(11:13)というエゼキエルの叫びに対して、神は、捕囚民の間でご自分が「しばらくの間、彼らの聖所とな」ることを宣言された(11:16)。栄光は民によって汚された神殿を去ったが、神は「イスラエルの残りの者たち」を見捨てられたわけではなかったのである。

 そして、多くの預言者たちと同様に、エゼキエルもまた、将来もたらされるイスラエルの回復のメッセージを告げるよう命じられた。

それゆえ言え。「【神】である主はこう言われる。わたしはあなたがたを諸国の民の中から集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを呼び寄せ、あなたがたにイスラエルの地を与える。」彼らがそこに来るとき、すべての忌まわしいもの、すべての忌み嫌うべきものをそこから取り除く。わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。こうして、彼らはわたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行う。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(11:17–20)

 ここでは、約束の地への帰還というイスラエルの物理的回復とともに、彼らの「心」の頑なさが取り除かれるという霊的な回復も宣言されている。この回復は、神ご自身が彼らに「新しい霊」をお与えになることによって実現する。民は、神の「掟に従って歩み」、また神の「定めを守り行う」ようになる。

 離散からの帰還と霊的回復がセットで告げられているのは、申命記30:5–6でのモーセの預言通りである。モーセもまた、霊的回復について、イスラエルの民の「心に割礼」が施され、彼らが「再び【主】の御声に聞き従」うようになると告げていた(申30:6, 8)。

 イスラエルの物理的回復と霊的回復について、イザヤは【主】のしもべ/メシアがもたらす「永遠の契約」によって実現すると告げていた。その契約はエレミヤを通して、【主】がイスラエルの家およびユダの家と結ばれる「新しい契約」であることが明らかになっていた。エゼキエルが11:17–20で伝えた回復のメッセージに見られる表現は、エレミヤ書31:33のものとよく似ている。どちらの預言も、回復の時には神が民の心に直接働きかけられ、それから民が神のことばに対して従順になることを伝えている。この回復の結果について、神は「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」と仰せられた(エゼ11:20)。エレミヤに与えられた啓示においても、新しい契約がもたらす結果は「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と言われていた(エレ31:33)。したがって、エゼキエルが告げた回復のメッセージは、申命記30:1–10の成就を確証するものであると同時に、新しい契約がもたらす祝福に関するものでもあったのである。

イスラエルの回復と諸国民の祝福(36章)

 新しい契約の祝福に関するエゼキエルの預言は、他に20:33–44などでも告げられているが、特に集中しているのが最後のセクション(33–44章)である。中でも36:24–38は、11:17–20のメッセージを詳細に再展開したものとなっている。イスラエルは離散先の国々から集められ、約束の地に「連れて行」かれる(36:24)。また彼らの汚れは、神が「きよい水を……振りかける」ときに「きよめ」られる(36:25)。

 ここでいう「汚れ」は偶像崇拝のことだと思われるが、神が民に振りかけられる「きよい水」とは何だろうか。第一義的には、これは民がきよめられ、罪赦されることを象徴的に表しているのだろう*4。しかし、イザヤはイスラエルの霊的回復と神の御霊を関連付けて語っており(イザ59:21)、またヨエルは霊的回復において御霊が民全体に注がれることを告げていた(ヨエ2:28–29)。こういった他の預言との整合性からすると、民に「きよい水」が注がれるということは、神の御霊が注がれることであるとも考えられる。実際に、神はイスラエルのきよめについて「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える」と言われている(エゼ36:26a)。これは11:19の内容の反復であると同時に、イスラエルがいかにしてきよめられ、罪赦され、神に立ち返るのかを教えている。彼らは「新しい霊」、すなわち神の御霊が注がれることによって、「石の心を取り除」かれ、神の「定めを守り行うように」されるのである(36:26b, 27)*5

 36:28は、霊的に回復させられた民が約束の地に住むことによって、イスラエルが【主】の民となり、【主】が彼らの神となることを告げている。ここで約束の地は「わたしがあなたがたの先祖に与えた地」と表現されている。「これは、ヤハウェが契約の誓いを土台として、その地を約束したことを民に思い起こさせる」*6アブラハム契約に基づく土地の所有は、新しい契約において、霊的回復とともに成就させられるのである。【主】が民の神となるという新しい契約の約束は、民の霊的回復だけではなく、約束の地への帰還と所有とも結びつけられているのである(エレ31:1–9参照)。新しい契約は、イザヤやエレミヤが預言していた通り、エゼキエル書においても、民の霊的回復と物理的回復の両方をもたらす枠組みになっている。

 新しい契約で約束されている土地の祝福には、その地が豊かな作物を実らせることも含んでいる(エゼ36:29–30)。「国において個々人が霊的変革を経験するように、イスラエルの地そのものも回復させられる。」*7

 イスラエルが回復させられ、霊的にも物理的にも祝福されるというメッセージは、それを告げられた同時代の人々に悔い改めを呼びかけるものでもある(36:32)。さらに、回復と祝福の成就は、諸国民に【主】こそ神であることを知らせる「証し」になると言われている 。裁きの結果廃虚となった地は、「エデンの園のように」豊かに回復させられる(36:34–35)。この様子を見て、諸国民は【主】こそが主権者であることを「知る」ようになる(36:36)。神はイスラエルを通して諸国民にご自分を示され、諸国民はそれを知る。これもまた、「大いなる国民」を通して諸国民が祝福されるという、アブラハム契約の約束の成就であるといえるだろう。

 イザヤとエレミヤも預言していた通り、新しい契約はイスラエルの霊的回復と物理的回復だけではなく、諸国民の祝福ももたらす枠組みである。神の諸契約に基づく祝福は新しい契約によって成就することが、エゼキエル書でも確証されているのである。

干からびた骨の幻と杖のたとえ(37章)

 約束の地そのものの回復が新しい契約によってもたらされるということは、エゼキエル書37章でも強調されている*8。この章では、「干からびた骨の幻」とその解説(37:1–14)、また杖のたとえとその解説(37:15–28)によって、新しい契約の中で成就するイスラエルの霊的回復と物理的回復が絵画的に描かれている。

 まずエゼキエルが見せられた幻は、「平地」に「干からびた骨」が満ちているというものだった。エゼキエルは、神が骨たちに息を吹き入れるとそれらが生き返ることを、骨に向かって預言せよという命令を受けた。彼が命じられた通りに預言していると、骨が互いに繋がり、肉体が再生させられた。それから、神の息が吹き入れられると、その肉体は「生き返り、自分の足で立った」(37:10)。

 37:10では「非常に大きな集団」とも言われているこの謎めいた骨の幻については、神ご自身が「これらの骨はイスラエルの全家である」と解説を与えておられる(37:11)。骨の上に肉体が再生させられるという段階は、民が「イスラエルの地に連れて行」かれるという、離散の地からの帰還を表している(37:12)。次の肉体に息が吹き入れられるという段階は、帰還した民に神の霊が入れられて「生き返る」ことを表している(37:14)。すなわち、干からびた骨の幻は、イスラエルの物理的回復と霊的回復を象徴的に告げたものなのである。そして、民が約束の地に帰還することも、御霊の注ぎによって霊的に回復させられることも、新しい契約の祝福として約束されていたものである。

 37:15以降では、また別の形で新しい契約の祝福が教えられている。ここでまずエゼキエルに命じられたのは、2本の杖を繋いで1本の杖とせよという象徴的行為である(37:17)。また、2本の杖の片方には「ユダの、それにつくイスラエルの人々のために」と、もう片方には「エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために」と書き記すようにも命じられた(37:16)。以上のことから分かるように、2本の杖はそれぞれ南王国と北王国を象徴している。よって、2本の杖をひとつにするという行為は、南北に分かれたイスラエルの民が再統一させられることを象徴敵に教えるものである(37:19)。

 民の再統一もまた、エレミヤが新しい契約によってもたらされる祝福として伝えていたことである(エレ31:31; 33:1–13)。また、この回復は、新しい契約によってダビデ契約が成就することとも関係していた。すなわち、ダビデ的王/メシアによって、この再統一が成就させられるのである。

 エゼキエル書においても、イスラエルの再統一は彼らの王と関連付けられている。「わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で一つの国とするとき、一人の王が彼ら全体の王となる。彼らは再び二つの国となることはなく、決して再び二つの王国に分かれることはない。」(37:22)ここでの「一人の王」は、37:24で「わたしのしもべダビデ」と呼ばれている。この王/牧者の下で、民は神の掟を守る従順な国民となる。そして、「彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与え、あなたがたの先祖が住んだ地に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちが、とこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。」(37:25)

 言うまでもなく、37:24–25はダビデ契約の成就を告げている*9。これまでの預言群から見てきたように、民の回復はダビデ契約で約束されていた王/メシアによってもたらされる。そして、そのメシアが仲介者となって、新しい契約の祝福が成就させられるのである。

 さらに、エレミヤ書33:14–26などで新しい契約の祝福という文脈においてアブラハム契約およびダビデ契約の成就が結びつけられていたように、エゼキエル書37:25–26でも、新しい契約とアブラハムおよびダビデ契約の成就が結びつけられている。回復の時、民はアブラハム契約によって先祖に約束されていた地に住み、ダビデ契約が約束していた王によって統べ治められる(37:25)。この回復は、神が民と結ばれる「平和の契約」または「永遠の契約」によるものである(37:26a)。預言の内容とこれまでの文脈から見て、この契約はイザヤが告げていた「永遠の契約」、すなわちエレミヤが預言した新しい契約であると考えて良いだろう*10

 37章の最後部は、新しい契約の祝福を考える上で注目すべき内容となっている。新しい契約によってもたらされる祝福として、神は民が増し加わることだけではなく、「わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く」ということも宣言された(37:26b)。その「聖所」すなわち神の「住まい」が民とともにあることにより、【主】は彼らの神となり、彼らは【主】の民となる(37:27)。また、聖所が「永遠に彼らのうちにある」ことによって、諸国民は「イスラエルを聖なる者とする【主】」こそが神であることを知るようになる(37:28)。すなわち、37章では、神がイスラエルに神殿を再びお与えになることにより、新しい契約の目的──【主】がイスラエルの神となり、イスラエルは【主】の民となり、諸国民もまた【主】を知るようになるということ──が達成されると宣言されているのである。

神殿の回復(40–48章)

 エゼキエルは、民の契約違反に対する裁きとして、まず【主】の栄光が神殿を去ったこと(8–11章)、そしてエルサレムが滅ぼされることを預言していた(たとえば21–23章)。彼は、バビロンの王がエルサレムを陥落させ、その預言が成就したことを知っていた(24:2)。その時、「神の宮は焼かれ、エルサレムの城壁は打ち壊され、その高殿はすべて火で焼かれ、その中の宝としていた器も一つ残らず破壊された」(II歴36:19)。かつては【主】の栄光の臨在があった神殿は、打ち壊されたのである。

 その後にエゼキエルが伝えた希望のメッセージにおいて、新しい契約がもたらす民と諸国民の回復は、打ち壊された神殿が再び与えられることによって成就する。この神殿の回復(再建)というテーマは、エゼキエル書の最後部である40–48章によって詳細に展開されている。そして、43:1–5では、東の門からソロモンの神殿を離れ去った神の栄光(10:18–19; 11:22–23)が、再建された神殿の「東向きの門」を通って戻ってくることが預言されている。

 ここで扱われている神殿は、その大きさやデザインなどからして、ソロモンの建てた神殿ではあり得ない。また、イスラエルが帰還後に再建し、後にヘロデ大王によって再建された第二神殿も、エゼキエル書の神殿と同一視することはできない。そこでこの神殿は、たとえばメシア自身やメシアのもたらす理想的世界など、何らかの象徴として用いられていると考えられることもある*11

 しかし、この神殿を単なる象徴としか受け取ってはならない理由はない。むしろ40–48章のテキスト自体は、イスラエルが回復させられる時、実際に神殿が再建されるという理解を読者に要求しているように思われる*12。37章の干からびた骨の幻では、「これらの骨はイスラエルの全家である」と、告げられた内容が何かの象徴であることが明らかにされていた(37:11)。しかし、この「XはYである」という指示物を明示する形式は、40–48章では見られない。したがって、読者はこの箇所のテキストを読む時、将来における神殿の再建を期待させられるのである*13

 上記の解釈は、エゼキエル書自体の構造とも調和している*14。8–11章において、モーセ契約への違反により、神の栄光はエルサレムの神殿から離れ去った。しかし40–48章において、新しい契約の祝福により、神の栄光はエルサレムの神殿のもとへ戻ってくる*15。神が神殿を離れたという描写も「幻」と言われているが、神殿に神の栄光が満ちていたのは事実である。よって、その栄光が神殿に戻ってくるという記述もまた、「幻」と言われているものの、何らかの象徴的表現と考える必要はない*16。「我々にとってのキーポイントは、幻が起こっているものの、これが文字通りの意味で受けとるよう意図されているのは疑いようがないということである。エゼキエルは、彼が終わりの日に存在している神殿を実際に見たのだと、読者たちに信じるよう求めている。……幻の中には奇跡的なところや、信じるのが不可能に思えるところさえある。それにもかかわらず、エゼキエルは読者たちに対して、彼が記したことが実際に起こると信じるよう意図しているという事実は残るのである。」*17

 エゼキエルが記している祭儀法では、犠牲のささげ物(43:13–27)、レビ人の祭司たちによる奉仕(44:4–31)、例祭や安息日の掟(44:24; 45:17)など、モーセの律法を思い起こさせる要素が数多くある。しかし、中にははっきりとした相違点もある。たとえば、モーセの律法は「祭壇に階段で上る」ことを禁じているが(出20:26)、エゼキエルの見た祭壇の前には階段が設けられている(エゼ43:13–17)*18。また、45:17–25では五旬節の祭り(レビ23:15–22)、ラッパの祭り(レビ23:23–24)、宥めの日(レビ23:26–33)への言及がない。

 最大の違いは、エゼキエルの祭儀法では大祭司に関する言及がないことである*19。これは、回復の時におけるレビ的祭司の復興を告げるエレミヤ書33:18でも同様であった。エゼキエルもエレミヤと同じく、新しいエルサレムにおいては王であるメシアが大祭司の役割も果たし、その下でレビ的祭司たちが仕えることになることを予見しているのかもしれない(詩110篇;前回注10参照)。

 以上の祭儀法の違いは、この神殿と新しい礼拝形態が、破られたモーセ契約とは別の、新しい契約の下で再建されることによるものと考えられる。そして、こういった礼拝形態は、イスラエルが回復させられた後に関する記述であるエレミヤ書33章およびエゼキエル書40–48章にしか書かれていない。よって、新しい契約によるイスラエルの回復が成就する時、エレミヤやエゼキエルが預言した礼拝形態が始まるのであろう。

 しかし、新しい契約による祝福が成就しているならば、メシアの犠牲による究極的な贖いとそれによる罪の赦しも成就しているのであり、動物の犠牲をささげる必要はないのではないか。これに対する明確な答えはテキストには書かれていないため、聖書読者自身が推測するほかない。考えられる答えのひとつは、エゼキエルが記した礼拝形態は、読者が理解できる用語によって新しい礼拝形態を象徴的に表しているのであり、実際に動物の犠牲がささげられると想定する必要はないというものである*20

 もうひとつの答えは、エゼキエルが記した礼拝におけるいけにえは、メシアの犠牲を記念するために捧げられるというものである*21。これに加えて、祭儀的きよめという役割を見出すこともできるかもしれない。モーセ契約におけるいけにえの規定は、民族が罪を犯して汚れてしまった状態を、信仰に基づいていけにえを捧げることによってきよめてもらうことを目的としていた。すなわち、「旧約のいけにえは、一時的または祭儀的赦しという意味で贖いをもたらすものであった」*22。いくつかの預言において、回復させられたイスラエル(および諸国民)の間からも、罪が完全に消え去ることはないことが示唆されている(イザ2:4; 65:20; エゼ45:17ff; ゼカ14:16–19)*23。よって、新しい契約が成就して以降のいけにえの規定もまた、「祭儀的きよめのために有効な」ものとなるのかもしれない*24

 エゼキエル書40–48章では、【主】がイスラエルの神となり、諸国民もまた【主】を知るようになるという新しい契約が成就することがきわめて詳細に記されている。エゼキエルには、民が新しい契約の希望を確証できるようになるため、この具体的な啓示が与えられたのだろう。このこともまた、旧約聖書において新しい契約がいかに重要で大きな希望となっているかを表している。

*1:Richard S. Hess, “The Future Written in the Past: The Old Testament and the Millennium,” in A Case for Historic Premillennialism, 27; Mark F. Rooker, “Evidence from Ezekiel,” in The Coming Millennial Kingdom: A Case for Premillennial Interpretation, eds. Donald K. Campbell and Jeffrey L. Twonsend (Chicago: Moody, 1997), 119–20.

*2:特に断りがない限り、聖書引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会による。

*3:Rooker, “The Book of Ezekiel,” in The World and the Word: An Introduction to the Old Testament, by Eugene H. Merrill, Mark F. Rooker, and Michael A. Grisanti (Nashville, TN: B&H, 2011), 400.

*4:Ralph H. Alexander, “Ezekiel,” in The Expositor’s Bible Commentary, rev. ed., 7:845.

*5:Ibid.

*6:Rooker, "Evidence from Ezekiel," 124.

*7:Ibid., 124–25.

*8:Merrill, “A Theology of Ezekiel and Daniel,” Kindle locations 9581–82.

*9:エレ33:17–22と同様に、エゼ37:24–25は、復活したダビデによる統治を指している可能性もある。その主な根拠は、メシアが「ダビデ」と直接的に呼ばれている例が他にないこと(この立場ではエレ30:9; ホセ3:5もダビデ本人への言及であると捉える)、またダビデに与えられている「君主」(prince)という称号が王(king)ではないということである。「わたしのしもべダビデ」のことは、エゼ34:23でも告げられている。Dyerは当該箇所の注解において「エゼキエルが文字通り、復活してイスラエルの義なる君主として仕えるダビデ王に言及している」という理解を妨げるものは、何もないのだと述べている(“Ezekiel,” in The Bible Knowledge Commentary: Old Testament, 1295)。
 一方で、後年のDyerとEva Rydelnikの共著によるThe Moody Bible Commentary内のエゼキエル書注解では見解が修正されており、34:23の「わたしのしもべダビデ」について「ダビデの偉大なる子、メシアを指していると理解するのが良い」と言われている(“Ezekiel,” in The Moody Bible Commentary, 1254)。なぜなら、第一に、ほとんどの王に関する預言はメシアを指しているからである。次に、37:25で「君主」と訳されている単語(nāśiʾ)には支配者という意味もあり、王を意味する言葉と同義語として使われていることもある(Iサム9:16; IIサム3:38; エゼ12:10, 12参照)。よって、nāśiʾが「王」を指す言葉ではないと簡単に結論づけることはできない。
 「ダビデ説」を支持する主張については、以下を参照されたい。Fruchtenbaum, The Footsteps of the Messiah, 396−97; J. Randall Price, “Ezekiel 37:15−28: The Restoration of Israel under the One Shepherd,” in The Moody Handbook of Messianic Prophecy: Studies and Expositions of the Messiah in the Old Testament, eds. Michael Rydelnik and Edwin Blum (Chicago: Moody, 2019), 1097−113.
 また、「メシア説」については、以下を参照されたい。Charles Lee Feinberg, The Prophecy of Ezekiel: The Glory of the Lord (Eugene, OR: Wipf and Stock, 2003[1969]), 198; Daniel I. Block, “Ezekiel 34:20−31: The Shepherd of Israel,” in The Moody Handbook of Messianic Prophecy, 1083−96.

*10:Lamar Eugene Cooper, Sr., Ezekiel, NAC (Nashville, TN: B&H, 1994), 328.

*11:たとえばジョン・B・テーラーは、エゼキエルが神殿という象徴を用いて「来るべきメシヤ的時代」について語っているものと見ている(『エゼキエル書』ティンデル聖書注解、関野祐二訳[いのちのことば社、2005年]269頁)。

*12:Richard S. Hessによれば、聖書外の古代中近東の預(予)言において、特定の出来事や事物が言及されている場合、読者/聴衆は文字通りの成就を期待した(“The Future Written in the Past,” 29–30)。彼はまた、神殿について述べられる場合も、実際の建造物に関する記述として理解されていたことを指摘している(Ibid., 31–32)。実際に、死海文書も含めて第二神殿期の古代ユダヤ人たちもまた、エゼ40–48章から将来実際の神殿が神によって再建されることを期待していた(Ibid., 32–33; cf. Price, Rose Guide to Temple, expanded ver., 80–81)。

*13:Hess, “The Future Written in the Past,” 30–31.

*14:Ibid., 33.

*15:Vlach, He Will Reign Forever, 203.

*16:Hess, "The Future Written in the Past," 33.

*17:Ibid.

*18:Price, Rose Guide to Temple, expanded ver., 82, 87.

*19:Paul Martin Henebury, “Ezekiel’s Temple: Premillennial Achilles’ Heel?” May 9, 2008.

*20:Rooker, "Evidence from Ezekiel," 133–34.

*21:フルクテンバウム『イスラエル学─組織神学の失われた環─』佐野剛史訳、中川健一監訳(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2018年)313頁; Rooker, “Evidence from Ezekiel,” 132–33; Alexander, “Ezekiel,” 7:871–77.

*22:Rooker, “Evidence from Ezekiel,” 132.

*23:これは、罪の問題の最終的解決が実現しないという意味ではないだろう。イザヤは、死が滅ぼされることをはっきりと預言している(イザ25:8)。また、ダニエルは聖者と罪人双方が復活し、「ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に」入ることを預言している(ダニ12:2)。さらにいえば、罪ののろいが完全に覆されない限り、「女の子孫」の約束(創3:15)が成就するとはいえない。
 しかし、これまで見てきた諸契約の約束とその成就の物語からは、創3:15における回復の約束が、様々な段階を踏んで成就していくことがわかる。ある預言において、回復させられた被造世界にも罪の問題が残されているということは、イスラエルと諸国民の回復と最終的な回復の間にも段階があることを示唆しているのである。

*24:Rooker, “Evidence from Ezekiel,” 133; John C. Whitcomb, “Christ’s Atonement and Animal Sacrifices in Israel,” Grace Theological Journal 6/2 (1985): 201–17; Fruchtenbaum, Price, et al., “The Purposes of the Millennial Sacrifices,” Ariel Ministries Magazine, 1/20 (Fall 2016): 8–12.