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聖書の物語と契約(10)メシアの誕生と諸契約の成就

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前回:エゼキエル書と新しい契約の祝福

 これまでモーセ五書から預言書までをざっと見渡してきた。神はこの被造世界を、本来の「非常に良かった」状態へ回復させてくださる。その計画を明らかにしているのが聖書に見られる物語(ストーリー)であり、その物語は、神が人にお与えになった契約を軸として展開している。神は、ノアを通して全人類と結ばれた契約、またアブラハム、イサク、ヤコブとその子孫たちと結ばれた契約を通して、被造世界の回復を成し遂げられる。

 中でも強調されていたのが、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエル民族の将来についてである。神の契約のプログラムにおいて、イスラエルは「祭司の王国」として回復させられ、諸国民に祝福をもたらす器となる。こうして実現するイスラエルと諸国民の回復は、被造世界の回復という視点からすると、神がこの世界を治めるよう創造された「人」の回復であるといえる。

 そして、イスラエルの回復、諸国民の祝福、被造世界の回復をもたらす存在こそが、創世記3:15から「女の子孫」として啓示され、後にはダビデの子孫から来る王として啓示されてきたメシアである。このメシアこそ、神が人として来られる究極的な王であり、万物の回復をもたらす「新しい契約」という枠組みの仲介者となる。今回からは、新約聖書を通して、実際に到来されたメシアであるナザレのイエスに目を向けていこう。

系図によるメシア到来の宣言

 新約聖書は、福音記者マタイによる「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリスト系図」という一文によって幕を開ける(マタ1:1)*1。これは、単なる系図のタイトルではない。アブラハム契約とダビデ契約を通して約束されていたメシアが、ナザレのイエスとして遂に到来したという宣言なのである。

マタイはイエスが「ダビデの子」であり、イスラエルのメシアへの希望の成就であると強調することによって、ただちに読者の関心を惹いている。イエスの到来は、ダビデの子孫のひとりが永遠の王座に就くという預言を成就するものである(2サム7:11b–16)。しかし、イエスは「アブラハムの子」でもある。これは、イエスの到来によって神がアブラハムと結ばれた契約が成就することを示している。この契約は、アブラハムの家系がイスラエルだけではなくすべての諸国民に対しても祝福となるという約束を含んでいる。*2

 系図によるメシア到来の宣言は、ルカの福音書にも見られる(ルカ3:23–38)。マタイの系図アブラハムから始まっているのに対して、ルカの系図はイエスから始まり、アダムまで遡っている。イエスは、アブラハム契約とダビデ契約だけではなく、ノア(3:36)に与えられた希望とアダムに与えられた希望(創3:15)──すなわち「旧約の希望すべて」と結びつけられているのである*3。しかし、ルカの系図はアダムの名ではなく、「そして神に至る」という言葉によって締め括られている(ルカ3:38)。系図の結論として神に至っているということは*4エスが「神の子」であるという、神とイエスの特別な関係を示唆しているのであろう*5

 実際に、マルコはイエスのことをまず「神の子、イエス・キリスト」と呼んでいる(マコ1:1)。イエスに与えられた「神の子」という称号は、ダビデ契約の約束から理解される必要がある。その契約において、神とダビデの子孫から出る王の関係は、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」という特別なものになることが約束されていた(IIサム7:14; I歴17:13)*6。ここで約束されている関係性は、契約の成就の保証ともなっていた。ダビデ契約の成就をもたらすメシアは、この契約に基づく究極的な「神の子」なる王なのである(ヘブ1:5参照)*7

受胎告知

 イエスダビデの子孫の王であることは、天使ガブリエルがマリアに与えた告知の中にも見られる。「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」(ルカ1:31–33)。イエスは「いと高き方の子」、すなわち神の子である。そして彼は「父ダビデの王位」に就き、永遠にイスラエルを統べ治めることとなる。

 私たちはここに、イザヤが預言したダビデの子孫の王が、遂に到来したという事実を見る。「ひとりのみどりご」が生まれ、永遠の「ダビデの王座」に就く(イザ9:6–7)。聖霊が彼の上に留まり(11:2)、また彼自身が「力ある神」でもあるのだ(9:6)。イエスは、ダビデの子孫から出る王であり、また神ご自身でもあるという意味で、特別な「神の子」である。そして、待ち望まれていた理想的な王、メシア(キリスト)として来られた方なのである。

マリアとザカリヤの賛歌

 アブラハム契約およびダビデ契約の成就とイエスの誕生は、イエスの母マリアによる賛歌(ルカ1:46–55)と、バプテスマのヨハネの父ザカリヤによる賛歌(1:67–79)でもはっきりと宣言されている。マリアは、神が彼女の上になされた「大きなこと」(1:49)を、「しもべイスラエル」に対する「あわれみ」であると理解していた(1:54)。そのあわれみは、彼女の「父祖たちに語られたとおり」の「アブラハムとその子孫に対するあわれみ」である(1:55)。彼女は、自分からダビデの子/メシアが生まれてくることが、アブラハム契約に基づくイスラエルへの恵みであると理解していたのである。

 ザカリヤが「聖霊に満たされて預言した」(1:67)内容は、「エリヤの霊と力」(1:17)によってメシアの先駆者として仕えることになるヨハネが生まれ、また間もなくイエスが生まれようとしているという文脈で理解される必要がある。彼の預言/賛歌は、驚くべきことに、自身の子ヨハネに直接関係するものではなく、マリアの上になされた御業への賛美から始まっている。

ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。(1:68–71)

 これは、明らかにダビデの子孫が王として生まれること、すなわちマリアからイエスが生まれることへの賛美である。ザカリヤはイエスの誕生が、主による「御民」への「贖い」であると言っている(1:68)。その贖いは、「救いの角」が「しもべダビデの家に立てられ」ることによる。ザカリヤによれば、これは「古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られた」ことの成就である。事実、サムエルの母ハンナは「主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を、高く上げてくださいますように」と祈った(Iサム2:10)。また、詩篇132篇の著者(おそらくダビデ)は、次のような神のことばを伝えている。「そこにわたしはダビデのために一つの角を生えさせる。わたしに油注がれた者のためにともしびを整える。」(132:17)ザカリヤの預言において、イエスの誕生はハンナの祈りの成就であり、またダビデ契約の約束の成就とされているのである。

 彼もまたマリアのように、この神の御業が、父祖たちに対する「聖なる契約」、すなわちアブラハム契約に基づく「あわれみ」であることを宣言している(ルカ1:72–73)。ザカリヤの預言では、アブラハム契約の成就とダビデ契約の成就が結びつけられている。そして、エスの誕生が両契約の成就をもたらすことが、はっきりと告白されているのである。

エス誕生から幼年期の記録群

 ルカが記しているイエス誕生および幼児期の記録では、他にもイエスアブラハム契約およびダビデ契約の成就を結びつける表現が見られる。たとえば、「ダビデの町」ベツレヘムでイエスが生まれたこと(2:4–7)は、ミカ書5:2が成就したことを教えている(マタ2:5–6参照)。天使が羊飼いたちに与えた知らせもまた、このことを強調している。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10–11)「主」であり「キリスト」(メシア)である方の誕生は、ミカが預言したアブラハム契約とダビデ契約の成就そのものであるから、イスラエルの民全体に与えられる「大きな喜び」だったのである。

 両親ヨセフとマリアが幼子イエスエルサレムの神殿に連れて行った時、シメオンという人が聖霊に導かれて彼らと出会った(2:25–27)。彼がイエスを抱いて語った賛美(2:29–32)は、イザヤ書の「しもべの歌」を思い起こさせる内容になっている。彼は、イエスが「万民の前に備えられた救い」(2:31)であり、「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光」(2:32)であるとして神をほめたたえた。イザヤは、メシアが神の栄光を現すまことのイスラエルであると告げていた(イザ49:3)。また、メシアはイスラエルに回復をもたらすだけではなく、諸国民の「光」となり、「地の果てにまで[神]の救いをもたらす者」である(49:6)。シメオンの賛美は、イザヤが預言した【主】のしもべ、すなわちイスラエルと諸国民に贖いと回復をもたらすメシアが遂に到来したことを宣言しているのである。

 これまで見てきたルカによるイエス幼年期の記録は、まるで「交響曲の序曲のようだ」*8。この記録は「ルカ─使徒における基礎的な諸テーマの導入」となっている。「基本的なテーマのひとつは、約束されていたダビデの子孫であるイエスが、アブラハムの希望の成就であるというものである。その希望にあるひとつの側面は、イスラエル民族が救いを経験するというものだ。この救いは霊的次元に限定されるものではない。ルカ1–2章に見られる希望は、民のために地上で成し遂げられるのである。」*9

 私たちはイエスの到来に関する福音書の記述群から、アブラハム契約とダビデ契約の約束が成就し始めたことだけではなく、両契約の成就をもたらす新しい契約の希望が、間もなく実現することも知ることが出来る。イザヤは、【主】のしもべが諸国民の光であるとともに、「民の契約」でもあることを告げていた(49:8; 42:6)。既に見たように、彼は新しい契約の仲介者である。そのしもべが到来したということは、新しい契約をもたらす者が到来したということでもある。エス到来の宣言には、新しい契約によるイスラエルの回復と諸国民の祝福、そして被造世界の回復が実現するだろうという希望が満ちているのである。

ヨハネ福音書序文

 福音書におけるイエス到来の宣言で忘れてはならないのが、ヨハネ福音書の序文(1:1–14)である。そこではイエスが神とともにある「ことば」であり、また神ご自身でもあると言われている(1:1)。そして、この神ご自身である「ことば」が「人となって、私たちの間に住まわれた」(1:14)。

 イエスは、創造から被造世界への祝福、そして被造世界の回復の枠組みである契約までもたらした、神のことばご自身である。また、万物を創造され(1:3; コロ1:16–17参照)、被造世界を祝福され、イスラエルと契約を結ばれた神ご自身である。そして、神が被造世界の王として創造された人として来られたお方である。イエスは、聖書の物語の主体である神、契約と約束を啓示した神のことば、そして契約に基づく物語の主要存在である人というアイデンティティを兼ね備えておられる。これまで契約と約束に基づく回復の希望を告げてきた聖書の物語は、メシアであるイエスの到来によって、完成への具体的な道筋を示し始めたのである。

*1:特に断りがない限り、聖書引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会による。

*2:Michael J. Wilkins, “Israel according to the Gospels,” in The People, the Land, and the Future of Israel, 90–91.

*3:Darrell L. Bock, Luke 1:1–9:50, BECNT (Grand Rapids: Baker, 1994), 360. 強調=引用者。

*4:系図tou+人名という形式が連続しており、ルカ3:38の最後はtou theouとなっている。

*5:Ibid.; Robert H. Stein, Luke, NAC (Nashville, TN: B&H, 1992), 142.

*6:IIサム7:14とメシアを結びつける理解は、第二神殿期のユダヤ教文書にも見られる。たとえば死海文書4Q174は、当該箇所をダビデの子であるメシアを指し示すものとして終末論的に解釈している。Wikisource, “Dead Sea scrolls/4Q174." Cf. Youngblood, “1, 2 Samuel,” 3:388; George H. Guthrie, “Hebrews,” in Commentary on the New Testament Use of the Old Testament, eds. G. K. Beale and D. A. Carson (Grand Rapids: Baker, 2007), 929.

*7:Cf. Craig L. Blomberg, The Historical Reliability of the Gospels, 2nd ed. (Downers Grove, IL: InterVarsity, 2007), 315; Markus Bockmuehl, “The Son of David and the Gospel,” in Introduction to Messianic Juidaism: Its Ecclesial Context and Biblical Foundations, eds. David Rudolph and Joel Willitts (Grand Rapids: Zondervan, 2013), 264–72.

*8:Bock, “Evidence from Acts,” in The Coming Millennial Kingdom, 183.

*9:Ibid., 183–84.