軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

創世記1:1–2のギャップ・セオリーについて

創世記1:1–2を解釈する上で、「ギャップ・セオリー」という見解があるのをご存じでしょうか。

これからしばらく、その「ギャップ・セオリー」という説を再考していくシリーズを続けていきたいと思います。

前書き

創世記1:1–2は聖書全体の冒頭でありながら、その読み方・解釈を巡って様々な議論が展開されています。専門的な議論に深入りするまでもなく、初めて旧約聖書を最初から開く人にとっては理解が追いつかないように思われるのではないでしょうか。

私が最初に触れた聖書は新共同訳でしたが、創世記を開いてみたとき、何が何やら分からなかったことを覚えています。その印象は、後に新改訳第三版で読み返してみたときも変わりませんでした。

ここで、両者の訳し方をそれぞれ継承している聖書協会共同訳(以下、単に「共同訳」といいます)、新改訳2017(以下、単に「新改訳」といいます)から創世記冒頭の数節を引用してみます(最低限の文脈を考慮して5節まで引用します)。

[1]初めに神は天と地を創造された。[2]地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。[3]神は言われた。「光あれ。」すると光があった。[4]神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、5光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。(聖書協会共同訳*1

[1]はじめに神が天と地を創造された。[2]地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。[3]神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。[4]神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。[5]神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。(新改訳2017*2

共同訳で読むと、神なる存在が「天と地」を創造したにもかかわらず、その「地」は「混沌」とした状態だったとあります(1–2節)*3。神が世界を創造したというのなら、なぜその世界が「混沌」であったのか。というよりも、なぜ神は「混沌」とした世界を創造したのか。同じような疑問を持った方は、決して少なくないのではないでしょうか。

一方の新改訳では、創造された「地は茫漠として何もな」かったと訳されています(2節)。「茫漠」という馴染のない言葉が使われているために、いまいち具体的な状態が掴めず、どう理解したら良いのかさらに悩みました。ただ、2節にある「何もなく」、ただ「闇」があったという表現に、とてもネガティブな印象を持ったことを覚えています。

どうして、神によって創造された世界がまず「混沌」として「闇」に覆われた状態だったのか。この疑問に答える様々な見解が提唱されていますが、その中のひとつが本稿で取り上げる「ギャップ・セオリー」(gap theory)です。これは「間隙説」などと呼ばれることもありますが、どのような見解であるかは後ほどご説明していきます。

私はクリスチャンになってから、創世記1:1–2の見方として最初にしっかり教わったのがギャップ・セオリーであったため、しばらくこの見解を受け入れていました。聖書の読み方の枠組みとして「字義通りの解釈」や「ディスペンセーション主義」と一緒にギャップ・セオリーを教わったので、この見解が創世記冒頭の最も字義通りな解釈であり、ディスペンセーション主義的な解釈だと思っていました。

しかし、ギャップ・セオリーや他の見解について調べ、創世記1章を読み直した上で、今は別の見方(いわゆる「伝統的」見解*4)を採用しています。

ギャップ・セオリーを見直してみようと考えた最初のきっかけは、学生時代に友人からこの立場が聖書的根拠と説得力に欠けているのではないかという指摘を受けたことでした。当時、同じく理系の学生でありつつ、聖書研究と神学的思考に精通していた彼との会話はいつも刺激的だったのですが、疑ったことのなかったギャップ・セオリーに疑問を投げかけてもらえたことは特に刺激的でした。

次のきっかけは、あるセミナーで知り合った方から創造論(創造科学)に関する文献を数冊いただき、その中でギャップ・セオリーが痛烈に批判されていたのを目にしたことでした。私にギャップ・セオリーを教えてくださった方々はみな、創造論者と同じく6日間の創造を文字通り24時間×6日の間に起こったものと考え、「若い地球説」を支持していました。創造に関して共通認識を持っている人々から激しく批判されているという事実を知り、さらなる刺激を受けたことを覚えています。

こうしたきっかけを与えてくださったI・MさんとM・Mさんには、この場を使って感謝を申し上げたいと思います。

さて、私は創世記1:1–2についてギャップ・セオリーではない見方を選ぶようになりましたが、聖書全体の読み方の枠組みとしては今なお、字義通りの解釈やディスペンセーション主義に留まり続けています。私はいちディスペンセーション主義者として、創世記1:1–2の字義通りの解釈はギャップ・セオリーが唯一の選択肢ではないと考えており、本稿ではそれを示したいと思っています。当然、ギャップ・セオリーを検証し私自身の立場を説明する上では、本文の釈義が一つの神学的立場に依存しただけのものとはならないよう、細心の注意を払います。この記事を開いてくださったディスペンセーション主義者の方には、私もまたディスペンセーション主義者であると知っていただいた上で、この先を読み進めていただければと思います。また、これを明確にすることで、別の神学的立場を採る方にディスペンセーション主義内での議論をご紹介する形にもできるかと思っています。

もうひとつ本稿で目的としていることは、ギャップ・セオリーに関して可能な限り客観的な視点で論じる資料を残しておくことです。日本語で「ギャップ・セオリー」または「間隙説」と検索してみても、この見解を包括的に、また冷静に扱ってくれている資料はごくわずかです。そこで、少なくともギャップ・セオリーの概観についてはできる限り客観的な記述をすることで、この見解に賛成な方にも反対な方にも参考にしてもらえるような記事を残しておきたいと思っています。

ギャップ・セオリーそのものを扱い始める前に明確にしておきたいのは、(ある人々の間で見られるように)この見解を異端扱いするような気は毛頭ないということです。同じくディスペンセーション主義に立ってギャップ・セオリーを採用しておられる方々とは聖書の無誤性、神の栄光を最重視する聖書理解、字義通りの聖書解釈、三位一体、信仰と恵みのみによる救い、イスラエルと教会の区別、千年期前再臨説、患難期前携挙説、伝道の必要性と重要性など、実に多くの点で一致させていただいています。そして、こうしたことに比べれば、創造の記事に対する見方の違いは些細な問題だと信じています。現在、こうした思いを抱いていることも承知いただいた上で、続けてお読みいただけますと幸いです。

ギャップ・セオリーとは何か

まず、ギャップ・セオリーについて詳しく見ていく前に、そもそも「ギャップ・セオリーとは何か」ということをざっとご紹介しておきましょう。

一般的には、また狭義には、ギャップ・セオリーとは創世記1:1で「神が天と地を創造された」ことと、1:2で「地は混沌として……」(共同訳)という状態になったことの間に、時間的な隔たり(ギャップ)があったと考える見解を指します。

この立場では1節と2節の間にサタンの堕落と反乱(エゼ28:11–19参照)、またサタンとその軍勢に対するさばきがあったと見なされています。つまり、1節で神が本来の天地を創造された後に、サタンの堕落・反乱・さばきがあり、そのさばきの結果2節で地が「混沌」とした状態になっていると考えられているのです。

現在、この見解にはいくつかのバリエーションがあることが認識されています*5

古典的なギャップ・セオリーでは、1節と2節の間に何十億年というような長い期間が想定され、地質学や古生物学における地球の年代との調和が図られることがありました*6。ただし、最近の支持者の間では、1節と2節の間に見出される出来事はサタンの堕落〜さばきだけであって、数十億年といった長期間を想定すべきではないと論じている人もいます*7

また、1節と2節の間に「ギャップ」があるという読み方は否定しつつも、やはり2節の前にサタンの堕落〜さばきを想定するバージョンもあります。この場合、基本的に1節は最初の創造の「行為」を記述したものではなく、創造の記事(1:1–2:3)全体の「タイトル」であると見なされています*8。しかし、サタンの反乱に対するさばきの結果、地が「混沌」とした状態になったと考える点では一般的なギャップ・セオリーと同じです。

なお、ギャップ・セオリーという呼び方は、その考え方の中でも創世記1:1, 2の間に時間的ギャップを想定するという面を強調したものです。創世記1:3以降にある創造の働きはさばかれた被造世界の「復元」(または回復)であるという面を強調する場合は、復元説(restitution theory)と呼ばれることがあります*9。また、この見解は被造世界がさばかれて(破壊されて)再構築されたという流れを想定していることから、破壊─再構築説(ruin-reconstruction view)と呼ばれることもあります*10

次回では、古典的なギャップ・セオリーがどのように広まり、受け入れられていったのかという歴史を大まかに見ていければと考えています。

次回:

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*1:聖書 聖書協会共同訳 ©︎日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 2018

*2:聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

*3:新共同訳の場合、創1:2冒頭は「地は混沌であって」と訳されています。

*4:参照:Vern S. Poythress, “Genesis 1:1 is the First Event, Not a Summary,” Westminster Theological Journal 79/1 (Spring 2017): 97–121; Mark F. Rooker, “Genesis 1:1–3: Creation or Re-Creation? Part 1,” Bibliotheca Sacra 149 (July–September 1992): 318; Kenneth A. Mathews, Genesis 1:1–11:26, NAC (Nashville, TN: B&H, 1996), 142.

*5:参照:John Zoschke, “A Critique of the Precreation Chaos Gap Theory,” in Proceedings of the Sixth Interna-tional Conference on Creationism, ed. A. A. Snelling (Pittsburgh, PA: Creation Science Fellowship, 2008), 66–67; Bodie Hodge and Troy Lacey, “Modified Gap Theory,” November 5, 2010.

*6:Ken Ham, “The Gap Theory (Part A)”, originally published in Creation 3/3 (August 1980): 11–16; GotQuestions日本語版「ギャップ説とは何ですか?創世記1:1と1:2の間に何か起こったのですか?」; ドン・バッテン編『聖書に書かれた「創造」の疑問に答える』安井亨訳(バイブル・アンド・クリエーション、2009年)62–64頁;エーリッヒ・ザウアー『世界の救いの黎明』(聖書図書刊行会、1955年)50–52頁。

*7:たとえばArnold G. Fruchtenbaum, The Book of Genesis, Ariel’s Bible Commentary (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2008), 37.

*8:例:Allen P. Ross, Creation and Blessing: A Guide to the Study and Exposition of Genesis (Grand Rapids: Baker, 1996), 105–7, 718–23; Elliott Johnson, A Dispensational Biblical Theology (Allen, TX: Bold Grace Ministries, 2016), Kindle ed., ch. 3.

*9:Bruce K. Waltke, “The Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅱ; The Restitution Theory,” Bibliotheca Sacra 132 (April–June 1975): 136–37.

*10:たとえばZoschke, “Critique of the Precreation Chaos Gap Theory,” 66; Weston W. Fields, Unformed and Un-filled: A Critique of the Gap Theory (Green Forest, AR: Master Books, 2005[1976]; reprint), 7.