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創造前カオス・ギャップ・セオリー

前回:修正ギャップ・セオリーとソフト・ギャップ・セオリー

今回は次回に引き続き、ギャップ・セオリーのバリエーションをご紹介します。今回取り上げるのは、おそらく創世記1章の解釈で最も支持を得ている見解である「創造前カオス説」と組み合わされたギャップ・セオリーです。

創造前カオス説と組み合わされたギャップ・セオリー

メリル・F・アンガーのギャップ・セオリー

ギャップ・セオリーの発展形の中には、創世記1:1と2節の間にギャップがあるという解釈を否定する立場もあります。そこでは創世記1:1が1:3–2:3で語られている創造の御業の要約、または創造の記事全体のタイトルだと見なされています。ただし、その立場でも六日間の創造の前に地が混沌とした状態になったと考えられています。つまり、創世記1–2章には最初の「無からの創造」が書かれておらず、混沌とした状態の描写から始まっているということです。

上記の立場でも、まず原初の創造の御業があり、何らかの理由でその被造世界が混沌とした状態になり、後に再創造の御業が行われたという流れは引き継がれています。よって、この発展形もまたギャップ・セオリー/復元説/破壊─再構築説と呼ぶことができます*1

この新しい形のギャップ・セオリーが提唱される中で重要な役割を担った一人が、ディスペンセーション主義者でありダラス神学校の旧約聖書学者であったメリル・F・アンガーです*2。彼は1958年に発表した論文の中で、創世記1:1, 2の間にギャップを想定する古典的ギャップ・セオリーに代わる、新たなギャップ・セオリーを提唱しました*3

アンガーはまず、創世記1:2は1節の状況を説明している、または1節で述べられている創造の理由を説明していると解釈すべきであると主張しています*4。2節が1節の状況説明であるという文法的な理解自体は、以前の記事で紹介したチャールズ・ライリーやウェストン・フィールズの理解と同じです。つまり、文法的理解に関しては、創世記1:1で最初の創造が述べられ、2節で創造された地の状態が説明されているという「伝統的見解」と共通していることになります。

しかし、アンガーは2節における地が「混沌とした状態」に陥っているものと解釈しています*5。このように2節の内容を否定的なものとして捉えている点は、伝統的見解と大きく異なっています。

アンガーの論理は創世記1:2における地の状態の否定的な理解を前提としているため、1–2節の内容が最初の創造であるとは考えられません*6。したがって、1–2節は最初の「無からの創造」を伝えるものではなく、混沌とした世界が再創造されていく1:3–2:3のタイトルであり、要約であると考えられています*7。つまり、創世記は世界の完全な始まりではなく、荒廃した世界の再創造から始まっているということです。そして、アンガーはまず世界が荒廃してしまった理由として罪の存在やサタンの堕落を示唆しています*8。加えて、彼は創世記で伝えられていない最初の創造が行われたのは「数億年も前のことかもしれない」とも述べています*9

創造前カオス説

現在、アンガーの主張が細部まで引き継がれている例はあまりありません。しかし、以下の点には多くの研究者が同意しています。

  1. 創世記1:1は創造の記事(1:1–2:3)全体のタイトルまたは要約である。
  2. 創世記1:2は既に存在する地が混沌とした状態であったことを伝えている。
  3. 創世記1章は原初の創造ではなく混沌とした地の描写から始まっており、世界を混沌から「非常に良い」状態に変えられた神の御業が強調されている。

創世記1章に対するこのような解釈は創造前カオス説(the precreation chaos theory)*10、タイトル説(the title view)*11、要約説(the summary view)*12などと呼ばれています。本稿では主に創造前カオス説という呼び名を使います。この見解は、近年の研究者の間で最も人気があるものといえるようです*13

創世記1:1–3について創造前カオス説を主張する代表的な神学者と言われているのが旧約聖書学者のブルース・K・ウォルトキです*14。「創造前カオス説」という呼び名が有名になった理由の一つは、それが使われたウォルトキの著書や論文が大きな反響を呼んだことにあります*15。また、創造前カオス説に対する反論がなされるときは、多くの場合、議論の相手として主にウォルトキの文献が選ばれています*16

ウォルトキ自身は創造前カオス説を「2節のカオスが聖書で言及されている創造の前に存在していたと考える宇宙観」だと説明しています*17。この立場の考え方は次のようにまとめることができます。

本質的に、[創造前カオス説の支持者は]創世記1:1を創造の究極的な始まりとは考えていない。むしろ、1:3–31にある創造の働きを要約した記述であると考えている。さらに、彼らは創世記1:2が1:3以降で詳細に述べられている創造の働きの前に存在していたカオスを描写しているものと理解している。よって、その見解は「創造前カオス」と呼ばれている。提唱者はみな創世記1:2がカオスを描いていることに同意しているが、その意味するところについては異なる見解を持っている。何人かは、それが創世記1章では伝えられていない創造の働きにおける初期の段階であると考えている。一方で、ほとんどの者はそれが神の創造の働きと対立する否定的な状態であると考えている。*18

創造前カオス説の具体的な主張にはいくつかのバリエーションがありますが*19、ウォルトキによる主張は次の6点にまとめられます*20

  1. 創世記1:1の「天と地」はメリスムスという手法による表現であり、完成した秩序ある宇宙を表している*21
  2. 創世記1:1は1:3–31を要約した記述である。
  3. 創世記1:2は1:1ではなく1:3の状況説明である。
  4. 創世記1:1のバーラーは無からの創造を意味しているのではない。
  5. 創世記1:1のバーラーは完結した創造の行為を表す限界動詞(telic verb)である。
  6. 創世記1:2のトーフー・ワ・ボーフーはカオスを描く表現であり、1:1で要約されている創造の前に存在していた否定的な状態を表している。

創造前カオス・ギャップ・セオリー

ウォルトキの創世記1:1–3解釈がアンガーの解釈と大きく異なっているのは、1:2を1節の説明文ではなく3節の説明文だと理解している点です*22

また、ウォルトキは2節における混沌(カオス)を神のさばきの結果とは見なしていません*23。よって、彼はさばきによってカオスがもたらされたとするアンガーの見解をギャップ・セオリー/復元説/破壊─再構築説に含めて退けています*24

ウォルトキは神による「無からの創造」という教えが旧約聖書に明言されておらずとも、示唆されていることを認めています*25。しかし、地が混沌とした状態になった原因については明言を避けています。したがって、ウォルトキの見解そのものをギャップ・セオリーに含めることはできないように思われます。

しかしながら、ウォルトキの創造前カオス説(または、創世記1:1が1:3以降の要約であるという見解)を採用する人々の中には、2節の地の状態がサタンの堕落〜さばきによってもたらされたものだという考えが時々見受けられます。

中でも代表的なのがディスペンセーション主義に立つ旧約聖書学者のアレン・P・ロスです。彼は1985年の創世記注解ではアンガーの考え方を紹介していますが、1996年の注解では明確にウォルトキの創造前カオス説を支持しています*26。それと同時に、ロスは創世記の中で地が2節の状態になった理由は明言されていないことを認めながらも、創世記1章の前にサタンの堕落が起こり、それに対する神のさばきが地に混沌をもたらしたことを示唆しています*27

ディスペンセーション主義者のエリオット・E・ジョンソンもまた、創世記1:1が3節以降の要約であり、2–3節の前にサタンの堕落が起こり、2節ではサタンに対するさばきによってもたらされた混沌が描かれているものと考えています*28。さらに彼の場合は、エゼキエル28:11–16で述べられているサタンの堕落が創世記1:3–2:3で整えられた地で起きた出来事とは考えられないという、フルクテンバウムと同様な理解をも根拠としています。

ロスやジョンソンのような考え方は、ギャップ・セオリーに見られる破壊─再構築の流れを継承しています。彼らの見解は創造前カオス説と組み合わされたギャップ・セオリー(創造前カオス・ギャップ・セオリー)だと表現することができるでしょう*29

ただし、創世記1:1を創造の記事の要約として理解している人がみな、2節の地の状態を「混沌」と表現するような悪いものだと捉えているわけではありません。2節では単に地が未完成である状態が述べられているに過ぎないと考えられている場合もあります*30。このような見解について、日本語で最もアクセスしやすいのは津村俊夫による文献だと思われます。彼は1–3節における2節の位置づけについて、次のように述べています。

2節は全体として,3節から始まる出来事(EVENT)への状況設定(SETTING)であって,出来事そのものの叙述ではない.したがって,「光」が造られる前に「地」や「水」が造られていた(または造られていなかった)のかということは物語の語り手の関心事ではない.著者または語り手の意図は,初めに「荒地のような所」があったということを積極的に言おうとしているのではなく,むしろ「地」が「まだ」われわれが知っているような地ではない──まだ植物・動物・人間がいない──こと,すなわち「まだ何もない状態の地」であったことを経験的な普通のことばを用いて読者または聴き手に予備知識として提供しているだけなのである.*31

1節が3節以降の要約として理解されていても、2節のトーフー・ワ・ボーフーが否定的な描写と捉えられていない場合は、その理解の仕方を「創造前カオス説」に分類することはできないでしょう。この場合、あえて見解にラベルを貼るのであれば、単にタイトル説または要約説という呼び名を用いるのが良いと思われます。

ちなみに、こうした純粋にタイトル説/要約説と呼ぶことができる見解は、ディスペンセーション主義者の間ではたとえばムーディ聖書学院の教師陣が執筆した注解書の中で採用されています*32

↓次回↓

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*1:Bruce K. Waltke, “The Creation Account in Genesis 1:1–3 Part Ⅱ: The Restitution Theory,” Bibliotheca Sacra 132 (April–June 1975): 137, 144; John Zoschke, “A Critique of the Precreation Chaos Gap Theory,” 56, 66.

*2:Ibid., 66.

*3:Merrill F. Unger, “Rethinking the Genesis Account of Creation,” Bibliotheca Sacra 115 (January 1958): 27–35.

*4:Ibid., 28.

*5:Ibid., 27–28.

*6:Ibid., 28.

*7:Ibid., 29.

*8:Ibid., 29–35.

*9:Ibid., 27.

*10:Waltke, “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅱ,” 136; “The Creation Account in Genesis 1:1–3 Part Ⅲ: The Initial Chaos Theory and the Precreation Chaos Theory,” Bibliotheca Sacra 132 (July–September 1975): 221–28.

*11:Kenneth A. Mathews, Genesis 1:1–11:26, NAC (Nashville, TN: B&H, 1996), 139. 参照:John E. Hartley, Genesis, UBCS (Grand Rapids: Baker, 2000), 41.

*12:Vern S. Poythress, “Genesis 1:1 is the First Event, Not a Summary,” Westminster Theological Journal 79/1 (Spring 2017): 98.

*13:Ibid.

*14:Ibid., 97 n. 1, 98; Mark F. Rooker, “Genesis 1:1–3: Creation or Re-Creation? Part 1,” Bibliotheca Sacra 149 (July–September 1992): 317; “Genesis 1:1–3: Creation or Re-Creation? Part 2,” Bibliotheca Sacra 149 (October–December 1992): 411; Zoschke, “Critique of the Precreation Chaos Gap Theory,” 56; C. John Collins, Genesis 1–4: A Linguistic, Literary, and Theological Commentary (Phillipsburg, NJ: P&R, 2006), 54.

*15:Waltke, Creation and Chaos (Portland, OR: Western Conservative Baptist Seminary, 1974). 同書の内容は1974年1月〜1975年1月のBibliotheca Sacra 132–33においても、若干の変更が加えられた上で全5回の記事として残されています。

*16:例:Rooker, "Genesis 1:1–3," 2 parts; Mathews, Genesis 1:1–11:26, 140–41; Collins, Genesis 1–4, 54–55; Zosche, "Critique of the Precreation Chaos Gap Theory," 55–65; Poythress, "Genesis 1:1," 97–121.

*17:Waltke, “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅱ,” 136. 強調=原著者。

*18:Zoschke, “Critique of the Precreation Chaos Gap Theory,” 55. 引用中[]内は、原著において“precreation chaos gap theorists”とされています。この呼び方は、著者Zoschkeが創造前カオス説そのものをギャップ・セオリーの一種と見なしていることによるものです。

*19:Waltke, “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅲ,” 221–28; Allen P. Ross, Creation and Blessing: A Guide to the Study and Exposition of Genesis (Grand Rapids: Baker, 1996), 719–20.

*20:Zoschke, “Critique of the Precreation Chaos Gap Theory,” 57. なお、Zoschkeは第7のポイントとして、神の創造の御業がカオスに勝利したという宇宙観と古代中近東の宇宙観の類似性を挙げています。本稿では本文釈義に注目するため省略しましたが、この類の見解に対する反論は以下が参考になります。Poythress, “Genesis 1:1,” 117–19; 津村俊夫「『無からの創造』の教理とトーフー・ワ・ボーフー」『古代におけるモーセ五書の伝承』秦剛平・守屋彰夫共編(京都大学学術出版会、2011年)39–44頁;津村『創造と洪水』聖書セミナー13(日本聖書協会、2006年)48–55頁。

*21:メリスムス(対照提喩)とは「対照的な2語を用いて全体を表す技巧」のことです(松本任弘「創世記」『新実用聖書注解』宇田進・富井悠夫・宮村武夫共編[いのちのことば社、2008年]121頁)。

*22:Waltke, “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅱ,” 144.

*23:Ibid., 139–43.

*24:Ibid., 144.

*25:Waltke, with Cathi J. Fredricks, Genesis: A Commentary (Grand Rapids: Zondervan, 2001), 68.

*26:Ross, “Genesis,” in The Bible Knowledge Commentary: Old Testament, ed. John F. Walvoord and Roy B. Zuck (Wheaton, IL: Victor, 1985), 28; Creation and Blessing, 105, 719–20.

*27:Ross, “Genesis,” 28; Creation and Blessing, 107, 720.

*28:Elliott Johnson, A Dispensational Biblical Theology (Allen, TX: Bold Grace Ministries, 2016), Kindle ed., ch. 3.

*29:この類の解釈に対する伝統的立場からの反論については、たとえば以下をご参照ください。Rooker, “Genesis 1:1–3, Part 2,” 411–25; Collins, Genesis 1–4, 54–55; Zoschke, “Critique of the Precreation Chaos Gap Theory,” 55–65; Poythress, “Genesis 1:1,” 101–21.

*30:例:津村「『無からの創造』の教理とトーフー・ワ・ボーフー」57–60頁;松本「創世記」120–21頁。

*31:津村「『無からの創造』の教理とトーフー・ワ・ボーフー」59–60頁。

*32:Multiple Faculty Contributors, “Genesis,” in The Moody Bible Commentary, ed. Michael Rydelnik and Michael Vanlaningham (Chicago: Moody, 2014), 34–36.