ソフト・ギャップ・セオリーを除くすべてのギャップ・セオリーでは、2節における地の描写──新改訳で「茫漠として何もなく」、共同訳で「混沌として」と訳されているヘブル語表現トーフー・ワ・ボーフーが、神のさばきを受けて荒廃した様子(または混沌とした様子)を示すものとして理解されています。
この理解は、ギャップ・セオリー(=破壊─再構築説)が成立するために不可欠なものです。よって、ギャップ・セオリーを検証する上ではトーフー・ワ・ボーフーをどのように解釈するかが鍵となります。また、創造前カオス説もトーフー・ワ・ボーフーは混沌(カオス)を意味することが前提となっている見解です。ここでは、この重要な表現の意味について考えてみましょう*1。
「混沌」と表現することの問題
新改訳で創世記1:2を見てみると、まずは「茫漠として何もな[い]」地があり、「大水の面の上」に「闇」があり、その中で「水の面」を「神の霊」が動いています。9節で水が集められてから初めて「乾いた所」が現れているので、2節の時点では、地は大水の下にあるようです。よって、2節で描かれている世界の状態だけに着目すると、まず茫漠として何もない地を大水が覆い、大水の上の空間を闇が覆っていることがわかります。
多くの研究者は2節で描かれている世界の状態について、 “chaos”すなわち「混沌とした」という言葉で表現しています*2。こうした傾向は創世記の日本語訳の一部にも反映されており、新共同訳および聖書協会共同訳ではトーフー・ワ・ボーフーに「混沌であって/として」という訳が当てられています。
ここで注意すべきは“chaos”や「混沌」といった言葉の意味です。英語の名詞chaosの語源であるギリシャ語のカオスは「空虚」を意味しますが、現代においてchaosは主に「完全な無秩序や混乱」という意味で使われています(Oxford Living Dictionaries) 。日本語の形容動詞「混沌」の近現代的な意味は、たとえば精選版日本国語大辞典(小学館)では「物事の区別がはっきりしないこと。また、そのさま。もやもやしている状態」や「事態が流動的で、どう結着がつくかわからないさま」と説明されています。特に創世記の天地創造を扱う文脈では、「混沌」は“chaos”の訳語として、「無秩序」な状態を指して使われているものと思われます。
創世記1:2の宇宙が現代的な意味でchaosである、すなわち無秩序な状態にあるという考え方は、基本的にメソポタミアの創造神話──特にバビロニアのエヌマ・エリシュと創世記の比較研究に基づくものです*3。
エヌマ・エリシュはまず、天も地も存在しない頃に真水の男神アプスーと、大きな竜のような姿をした塩水の女神ティアマトから神々が生まれていくところから始まります。それから数世代を経て嵐の男神マルドゥクが生まれ、ティアマトと戦って勝利します。そして、マルドゥクはティアマトの亡骸から天地を創造したのです*4。このように、エヌマ・エリシュには「最初に、混沌の力との戦いがあって、それに対する勝利があり、その勝利の結果、創造がなされた」という流れが見られます*5。
創世記1:2で「大水」と訳されている語テホームは、エヌマ・エリシュのティアマトから来ているという仮説のもとで、創世記の創造はエヌマ・エリシュと同じ流れを汲むものだと見なされてきました。すなわち、創世記でも神の「混沌に対する勝利」の結果として創造が語られており、「『混沌から秩序へ』の神話パターンそのものが下敷きとしてあるのだと主張されてきた」のです*6。
実際には、「混沌との戦い」や「混沌から秩序へ」といったテーマが古代オリエントのすべての創造神話で見出されるわけではないようです。むしろ、津村俊夫は「古代オリエントにおいて明らかに戦いのモチーフと創造のモチーフが共存している神話は、……エヌマ・エリシュだけであ」り、ゆえにエヌマ・エリシュが「例外的な神話」であると述べています*7。したがって、彼はエヌマ・エリシュなどの混沌や戦いの要素を含む神話が創世記1:2の背後にあると「想定することには、積極的な根拠が存在しない」という結論を述べています*8。
ギャップ・セオリー支持者の多くは、非常に保守的なクリスチャンです。興味深いのは、彼らもまた創世記1:2の記述に対して異教神話との比較研究に根ざしたchaosという表現を使っていることです。彼らのような保守的立場では通常、創世記は神による真理の啓示であり、他の創造神話とは明確に区別されます。しかし、そのような彼らにとっても、創世記1:2における地の描写は明確に「混沌とした」様子を表しているものと考えられているのです。
2節が混沌とした状態を描いているという考え方には、「大水」(テホーム)の意味も大きく関係しています。しかし、ここではまず「混沌」と表現されることが多い、地に対するトーフー・ワ・ボーフーという表現に着目していきましょう。
翻訳の方向性と「混沌」という表現
創世記1:2のトーフー・ワ・ボーフーは従来、「形がなく何もない」という意味で訳されてきました(文語訳、口語訳、新改訳第二版)*9。この訳の方向性はKJV以降、比較的最近の英語訳でも保たれている伝統的なもので(例:CSB、ESV、NASB20、NET、NIV、NRSV)、七十人訳の「目に見えず形がない*10」に影響下にあるものと考えられています*11。ちなみに、七十人訳では本節を翻訳するためにカオスというギリシャ語は使われていません。
フランシスコ会訳の「むなしく何もなかった」という訳では、ヒエロニムスのヴルガタ訳(ラテン語訳)で見られる“inanis et vacua”が踏襲されているようです。「何もない」が重ねられているこの形は、ユダヤ教への改宗者であるアキラやテオドティオンのギリシャ語訳(2世紀頃)にも見られます*12。
新改訳第三版で採用され、新改訳2017にも継承された「茫漠として何もなく」という形の訳は、ルター訳の“wüst und leer”、ASVの“waste and void”、またREBの“a vast waste”などに近い訳し方となっています*13。
以上のような訳に見られる表現では、共通して「何もない」ことが強調されています。訳によっては「形がない」ことや、「茫漠として」いることも加えられていますが、いずれの訳でも、指し示されている状態はchaosや混沌が意味するものと異なっています。「空虚」という本来のギリシャ語カオスの意味からすれば、「形がなく何もない」や「むなしく何もなかった」をカオスと言い換えることができるかもしれません。しかし、現代においてchaosや混沌が持つ「無秩序」という意味は、伝統的な翻訳聖書における「地」の描写には見出されません。
実際のところ、創世記1:2でchaosという語が使われている標準的な英語訳はありません。新共同訳や聖書共同訳で「混沌」という語が採用されたのは、翻訳聖書においてはかなり特殊な事例だと言えるでしょう*14。
次回では、トーフー・ワ・ボーフーという表現そのものの意味に着目していく予定です。
*1:本稿含めトーフー・ワ・ボーフーの意味を扱う上で、各論点について津村俊夫氏の論考を大変参考にさせていただきました。
*2:例:A. H. Konkel, “בֹּהוּ (bōhû); תֹּהוּ (tōhû),” NIDOTTE 1:597; Wenham, Genesis 1–15, 15–16; Waltke, “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅱ,” 136; Ross, Creation and Blessing, 106–7; Plaut and Stein, ed., Torah, 19.
*3:参照:Waltke, “The Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅰ: Introduction to Biblical Cosmogony,” BSac 132 (January–March 1975): 26; 津村「『無からの創造』とトーフー・ワ・ボーフー」39頁。
*4:参照:矢島文夫「Ⅰ 天地創造の神話」『メソポタミアの神話』(筑摩eBooks、2020年);津村『創造と洪水』49–50頁。
*5:前掲書、50頁。
*6:同上、50–51頁。
*7:津村「『無からの創造』とトーフー・ワ・ボーフー」43頁。なお、津村はエヌマ・エリシュそのものについても、冒頭ではアプスーとティアマトが平和のうちに存在しており、「最初から『混沌との戦い』というモティーフがあったわけではないのです」と指摘しています。『創造と洪水』53頁;「『無からの創造』とトーフー・ワ・ボーフー」41–42頁。
*8:津村「創造における『神の息』(創世記1:2c)」25頁。
*9:文語訳「定形なく曠空くして」、口語訳「形なく、むなしく」、新改訳第二版「形がなく、何もなかった」。聖書協会共同訳でも、注釈で「形なく、むなしい」という別訳が提示されています。
*10:ἀόρατος καὶ ἀκατασκεύαστος
*11:津村「『無からの創造』とトーフー・ワ・ボーフー」47–48頁。
*12:前掲書、48–49頁。
*13:前掲書、45頁。
*14:同上。