軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

創世記1:2のトーフー・ワ・ボーフー

前回:創世記1:2の世界と「混沌」

前回、創世記1:2で地に使われているヘブル語表現「トーフー・ワ・ボーフー」を訳す際に「混沌」という言葉や概念を用いることは、英語・日本語ともに標準的な翻訳聖書では特殊な事例であることを確認しました。

今回はより重要なこととして、トーフー・ワ・ボーフーという表現の具体的な意味について考えてみたいと思います。

トーフーの意味

トーフー・ワ・ボーフーという表現はトーフーとボーフーという2語を組み合わせたものですが、まずトーフーは旧約全体で20回使われています*1モーセ五書では創世記1:2の他に申命記32:10で使われており、「荒野の地」と並行して使われていることから「荒れ地」を意味しているのでしょう*2。他にもヨブ6:18; 12:24; 詩篇107:40では「荒れ地」と思われる具体的な場所がトーフーと呼ばれているため、この語は本来、荒れ地(荒野)を意味するものだと考えられています*3

この荒野という意味をベースにして、津村は旧約におけるトーフーの用例を以下の3つに分類しています*4

  1. 荒地(申32:10; ヨブ6:18; 12:24; 詩107:40)
  2. 荒地のような所(ヨブ26:7; イザ24:10; 45:18, 19; 34:11; エレ4:23)
  3. 荒地のような状態であること(Ⅰサム12:21; イザ29:21; 40:17, 23; 41:29; 44:9; 49:4; 59:4)

分類1は上記のとおり、具体的な荒野を示す用例を含むものです。

分類2の用例では、荒野そのものが指し示されているわけではありませんが、具体的な場所(の状態)が荒野にたとえられています。

たとえば、ヨブ26:7では被造世界で見られる神の御力を表現する中で「神は北を、茫漠としたところ(トーフー)に張り広げ、地を、何もないところに掛けられる」と言われています。「北」(ツァフォン)が神の住まわれる天や空を示しているとすれば*5、7節前半に出てくるトーフーは荒野そのものではあり得ません。これは、ヨブ記のトーフーの用例では唯一、荒野そのものを指し示していないケースです。後半の「地を、何もないところに掛けられる」と並行していることからすると、前半のトーフーもまた「何もないところ」と似た何か(どこか)を意味していることになります。トーフーが本来荒野を意味する語であるならば、ここでは「荒地のような茫漠とした所」、すなわち荒野のように広々として何もないところが指し示されているものと考えられます*6

イザヤ24:10では、世界に及ぶ神のさばきが告げられていく中で「都は壊されて荒れ地(トーフー)となり、すべての家は閉ざされて入れない」と言われています。共同訳ではトーフーを含む表現が「混沌の町」と訳されています(参照:CEB、CSB、NASB20、NRSV)。しかし、ここでのトーフーを「混沌」(すなわち無秩序)という意味で読むことは、節の主題が「人間の秩序の終わり」であるという誤解に繋がりかねません*7。直近の文脈(24:1–12)で取り上げられているのは、地が「荒れ果て」させられ(1, 3節)、その住民が減り(6–9節)、都に「ただ荒廃だけが残」る(12節)といったさばきの内容です。よって、10節のトーフーは町の無秩序な状態(混沌)を表しているのではなく、さばきを受けた町が「荒地のようになって、人がいなくなった」ことを表現しているものと考えられます*8

分類3の用例では、荒野のような状態から連想される「何もないこと」または「欠け・乏しさ」を表すためにトーフーが使われています*9。たとえば、第一サムエル12:21ではまことの神以外を追い求めることが、「役にも立たず、救い出すこともできない」ことであるという意味で「空しいもの」(トーフー)と呼ばれています*10。また、イザヤ29:21では横暴な者が正しい人を「理由もなく」押しのけるという表現の中でトーフーが使われています。このように、トーフーは「価値・目的・真理・益・誠実さなど、そこに存在すべき何ものかが欠けている状態を指し示して」使われることがあります*11。また「重要なことに、この意味でのtōhûは『地』(ʾereṣ)とか『町』(ʾir)を描写するためには用いられてい」ません*12

以上の分類に基づき、津村はトーフーの意味を次のようにまとめています*13

  • (a)「荒野」“desert”
  • (b)「荒野のような所」“a desert-like place,”即ち、「荒涼とした、何もない所」“a desolate or empty place”;「人の住んでいない所」“an unhabited place”
  • (c)「何もないこと」“emptiness”または「欠け・乏しさ」“lack”

旧約の他の箇所におけるトーフーの用例や意味と照らし合わせると、創世記1:2では「地」という場所にトーフーが使われているため、抽象的な(c)の意味は当てはまりません。また、創世記1:2の地は大水に覆われているため、直接的に荒野と呼ばれている(a)とも考えられません。したがって、創世記1:2ではヨブ26:7やイザヤ24:10のように、地が「荒野のような所」(b)であることを指してトーフーが使われているものと考えられます*14

トーフー・ワ・ボーフーの意味

創世記1:2ではトーフーが単体で用いられているのではなく、ボーフーという語と組み合わされています。ボーフーは創世記1:2; イザヤ34:11; エレミヤ4:23の3箇所にしか出てこない稀な語です。

ボーフーの語源や具体的な意味は明らかではありませんが、上記の3箇所では必ずトーフーとの組み合わせで使われていることから、トーフーの「意味を補足または強調する働きをしている」ものと考えられています*15。これらの箇所ではトーフーが「荒野のような所」を指して使われているので、ボーフーはトーフーが指し示している「荒野のような」状態、すなわち「何もない」状態を強調しているのでしょう*16

イザヤ34:11では、トーフーとボーフーが並行した形で使われています。ここは神のさばきによってエドムが荒廃することを伝えている箇所です(5節)。「測り縄」と「重り」は、さばきがもたらす破壊の深刻さを強調するための比喩として使われているものと考えられます(Ⅱ列21:13参照)*17。それらの語を修飾するために、トーフーとボーフーが使われています。

この文脈ではエドムが荒廃して「廃虚」になるという点、また誰もいなくなるという点が強調されています(10, 12節)。「トーフーの測り縄」という表現は、エドムの地が測り縄で測定しようにも荒野のように広々となってしまって測りきれなくなる、もしくは何も測るものがなくなってしまうことを表しているのでしょう。また、「ボーフーの重り」は、重りで測ろうとしても何もないために測ることができない状態を表しているものと思われます。

次に、同じく神のさばきが扱われているエレミヤ4:23では、創世記1:2と同じくトーフー・ワ・ボーフーという組み合わせの表現が使われています。新改訳および共同訳では、創世記1:2との対応から、エレミヤ4:23のトーフー・ワ・ボーフーがそれぞれ「茫漠として何もなく」(新改訳)もしくは「混沌であり」(共同訳)と訳されています。

考えるべきは、エレミヤ4:23で「混沌」、すなわち無秩序な状態というテーマが見出されるかどうかです。ここでは「地」と「天」の両方が言及されており、トーフー・ワ・ボーフーと闇(光がない状態)が合わせて言及されています。こうした特徴から、エレミヤ4:23と創世記1:1–2は関連していると考えることが可能です。よって、多くの注解者はエレミヤ4:23の意味について、神のさばきによって被造世界に「原初の混沌」が、すなわち創造前のような闇と無秩序がもたらされるということだと考えています*18

エレミヤ4:23–28で強調されているのはさばきがもたらす荒廃ですが(26–28節)、その荒廃は具体的に人も鳥もいない状態(25節)や豊かな地から荒野への変化(26節)として描かれています。こうした荒廃の描写を踏まえると、28節の「地は喪に服し」という表現は、荒野のように荒れ果てた「地の不毛さ」を指し示しているものと考えられます*19

23節と28節ではともに「地」と「天」が主題となっており、両節の天は「その光はなかった」(23節)と「暗くなる」(28節)という状態が共通しています。よって、23節でトーフー・ワ・ボーフーと表されている地の状態も、28節と同じく「地の不毛さ」を表しているものと考えられます。すなわち、エレミヤ4:23でもトーフー・ワ・ボーフーは荒野のように何もなく、不毛な地の状態を表しているのです。この解釈はイザヤ34:11で見られるトーフーとボーフーの使い方とも、またトーフー本来の「荒野」という意味とも調和します*20。エレミヤ4:23において、トーフー・ワ・ボーフーによって「混沌」や「無秩序」という概念が示されていると断言することは困難です*21

以上により、トーフーまたはトーフー・ワ・ボーフーは「本来的に『混沌、すなわち無秩序』という意味を持っていた語ではない」と言えます*22

創世記1:2の「地」に使われているトーフー・ワ・ボーフーに関して、トーフーが「荒野のような所」を表していると考えられることを踏まえると、ボーフーは「荒野のような」地に「何もない」ことを補足または強調するために使われているものと推測されます。

創世記1章では3節以降、特に創造の三日目以降が扱われる12節以降において、何もない地の上に植物・動物・人が創造されていくことになります。こうした創造の物語の流れを踏まえると、2節のトーフー・ワ・ボーフーは荒野のように「まだ何もない状態の」地*23、すなわち「非生産的で無人の場所」としての地を指し示しているものと考えられます*24。津村は2節のトーフー・ワ・ボーフーの意味について、次のようにまとめています。

私の理解では、創世記一章二節の「茫漠として何もない」という表現は、地がまだ正常でない状況を、何とか人間が用いている言葉、あるいは、人間が理解できる言葉で説明しようとして用いられたものです。人間が体験的に知っているのとは違う状態の「地」をどう表現するか、それを「トーフー・ワ・ボーフー」といっているのです。それは「何もない地」のことを指しているのです。普通だったら、「荒地」という言葉を聞くと、読者(又は聴衆)は「ああいう場所だ」と具体的な場所を思い浮かべます。しかし、それは荒地そのものではなくて「荒地のような、茫漠として何もない」ところであると説明されます。そうすると、地はまだ木があり動物がいて人がいるようなそういう普通の地ではないのだと受け止めることができます。創世記一章二節は、……普通の言葉で、人間が体験的には与り知りえないことを、ある程度その意味がわかるような表現で説明しているのではないかと思うのです。*25

これまで論じてきたトーフー・ワ・ボーフーの解釈を前提にした場合、日本語訳として、無秩序を意味し得る「混沌として」(共同訳)は適切な訳とはいえません。また、伝統的な「形がなく何もない」という訳では「形がなく」という部分が問題となります。地は大水の下にあり、何らかの形や質量を取っているはずです*26フランシスコ会訳の「むなしく何もなかった」では、「むなしく」という抽象的な語が「荒野のような所」というトーフーの意味の具体性を削いでしまっているように思われます。

広く使われている日本語訳聖書で、残る選択肢は新改訳第三版および2017の「茫漠として何もなく」です。「茫漠」は一般的な言葉とはいえません。しかし、この形容動詞は「広々としてとりとめのない」という空間的な広がりを表すもので(大辞泉)、「荒野のような所」を意味するトーフーの訳語としては適切だといえます。より直接的には、トーフー・ワ・ボーフーを「荒野のように何もない」と訳すのが良いのかもしれません。しかし、既存の広く用いられている日本語訳聖書の中では、「茫漠として何もなく」が最も良い選択肢であると思われます*27

神にさばかれた状態?

創世記以外の書、特に預言書において、トーフーは多くの箇所で神のさばきの結果を表すために用いられています(イザ24:10; 29:21; 34:11; 40:17, 23; エレ4:23)。また、創世記1:2以外でトーフーとボーフーが組み合わされている場合は、常に神のさばきの結果が表されています(イザ34:11; エレ4:23)。したがって、ギャップ・セオリー支持者は創世記1:2のトーフー・ワ・ボーフーもまた神のさばきの結果として捉えるべきだと主張します*28

この考え方の問題は、イザヤ書エレミヤ書でトーフーとボーフーが使われている文脈を創世記1章に読み込んでいることです。既に見てきたとおり、トーフーとボーフーという語の意味には「神のさばきの結果」という概念は含まれていません。イザヤもエレミヤも、神のさばきの結果を表すために、荒野のような状態を意味するトーフーと何もない状態を意味するボーフーを使ったに過ぎません。トーフーとボーフーが神のさばきの結果を表すということは、語が使われている文脈に基づく判断です。しかし、イザヤとエレミヤの使い方に基づいて創世記1:2のトーフー・ワ・ボーフーも神のさばきの結果を表しているという考えは、表現の意味そのものだけではなく、預言書の文脈までも創造の記事に読み込んでしまっています。

創造前カオス説に立つウォルトキは、ギャップ・セオリーにおける解釈の仕方を次のような比喩を用いて批判しています。

「ギャップ・セオリー」の提唱者に使われている推論の誤りは、次のように説明することができる。ある子どもが新しいおもちゃのセットを与えられたとしよう。彼は箱から部品を取り出して、やぐらを組む。しかし、しばらくすると、彼はそのやぐらに不満を感じ、怒りに任せて作った物を解体し、棒と糸巻きを容器に入れ替える。さて、この子が怒りに任せてセットを解体し、元の容器に入れ替えたから、製造者も元々は怒りに任せてセットを解体し、その破片を箱に入れていたと結論付けられる人はいるだろうか。もちろん、その可能性は認めざるを得ない。しかし、子どもの行為によって証明されるものでないことは確かである。*29

創世記1:2のトーフー・ワ・ボーフーについて言えば、確かに神のさばきの結果として、地が荒廃して何もない状態になったことが表されている可能性は否定できません。しかし、この表現はまだ植物・動物・人が創造されていない地が、「まだ茫漠として何もない」状態であることを表している可能性もあるのです。

むしろ、創造の記事全体の文脈は、トーフー・ワ・ボーフーが「まだ茫漠として何もない」地を表しているという解釈を支持しています。創世記1:1–2では2節のトーフー・ワ・ボーフー、「闇」、「大水」といった表現がさばきの結果を表しているという仮定が証明されない限り、さばきという文脈を見出すことはできません。そして、少なくともトーフー・ワ・ボーフーに関しては創世記1章の中でも、他の用例を踏まえた上でも、神のさばきの結果を意味していると証明することはできないのです。

イザヤとエレミヤは、創世記1:2の「茫漠として何もない」地を思い起こしながら、さばきの結果荒廃して何もなくなった地をトーフーとボーフーによって描いたのかもしれません*30。しかし、元となった箇所の表現の解釈に、それが後に使われた際の文脈まで読み込んでしまうのは、「字義通りの解釈」から外れているように思われます。

なお、フルクテンバウムはトーフーの用例がすべて否定的なものであるということを、トーフー・ワ・ボーフーがさばきの結果であるという解釈の補足的な根拠としています*31。確かに、トーフーが荒野、荒野のような所、荒野のような状態を表しているいずれの箇所においても、トーフーからあまり良い印象を受けることはありません。

しかし、印象が良くない(否定的である)ことは、創世記1:2のトーフーがさばきの結果であることには繋がりません。創造の記事は、神の創造の御業によって被造世界が「非常に良かった」(創1:31)という状態になるところへ向かっています。よって、その最初の段階である2節においては、まだ被造世界が「良しと見られ」る状態になっていないのです。言い換えれば、神は1節で創造された世界を、六日間で「良し」と判断される状態へ整えていかれたのです。2節におけるトーフー・ワ・ボーフーは、地が「まだ茫漠として何もない」ことを「消極的に……、しかし破壊的にではなく、伝えようとしている」のでしょう*32

したがって、創世記1:2のトーフー・ワ・ボーフーを神のさばきの結果と捉えるというギャップ・セオリーの考え方を支持するのは困難です。

イザヤ45:18に関する問題

神が創造された地がトーフー・ワ・ボーフーであったという伝統的解釈の問題とされる箇所のひとつがイザヤ45:18です。ここでは「地」に関して、神は「これをトーフーとして創造」されなかったと言われています。この箇所を根拠にして、創造前カオス説やギャップ・セオリーの支持者は、創世記1:2で神が創造された地はトーフーであったと言われているという伝統的立場の解釈を批判しています*33

イザヤ45:18の問題のフレーズでは、創世記1:1の「創造された」と同じ動詞バーラーが使われています。イザヤが「神が創世記1:1で創造された地はトーフーではなかった」という意味で「[神は地]をトーフーとして創造せず」と言ったのであれば、創世記1:2の伝統的解釈は否定されることになるでしょう。

しかし、イザヤは本当にそのようなことを言っているのでしょうか。まず、45:18では地に対して創造に関する動詞バーラー(創造する)、ヤツァール(形造る)、アサー(仕上げる)が並列して使われています。そして、バーラーが使われている「これを茫漠としたものとして創造せず」とヤツァールが使われている「住む所として形造った方」は並列させられています。後者で言われていることは、神は地を(人が)住む所にするという目的をもって創造の御業を行われたということです。よって、45:18で述べられているバーラーもまた、その目的に向かってなされた創造の一連の行為全体を表しているものと考えられます*34。すなわち、ここでのバーラー、ヤツァール、アサーといった動詞は「神が六日間で行われたすべてのことを含む一連の出来事を広範囲に参照している」のでしょう*35。「これを茫漠としたものとして創造せず」のバーラーが指し示している行為を創世記1:1にある最初の行為に限定することは、文脈的にかなり「ぎこちない」解釈であるように思われます*36

以上の解釈が正しければ、イザヤは「神の創造の目的は地を茫漠としたものにすることではなく、人の住む所にすることであった」と言っていることになります。彼が「これを茫漠としたものとして創造せず」と言ったとき、神の創造のゴールはトーフーの状態ではなかったと言われているに過ぎないのです*37

イザヤ45:18について同様な解釈を持っている津村は次のように述べています。

さらに,ここでのtōhûは,動詞*brʾの結果目的語となっており,神による創造の目的が「荒地のような所」としてではなく「人が住めるような所」として地を造ることであったことを示しているのである.したがって,この箇所は,植物が豊かに生えそこに動物がいて人が住んでいる所として神が地を創造された,と記す創世記1章の記述と矛盾しない.*38

また、ゲイリー・V・スミスはイザヤ45:18の注解で次のように述べています。

実際に創造において、神は世界を最初の「何もない」状態(創1:2)のままにはされず、星、魚、鳥、植物、動物、そして人間で満たされた。これらの宣言はこの方が神であり(この方のような神は他にいない)、この方が世界に計画と目的を持っておられることを示している。よって聴衆は、地に対する残りの目的も実行されるだろうと神を信頼することができるのである。*39

イザヤ45:18の内容は創世記1:1で創造された地が最初は「茫漠として何もなかった」ことを否定するものではありません。むしろ、最初は「茫漠として何もなかった」地が整えられ、植物・動物・人間で満たされたという創造の記事全体の流れとよく調和しています。したがって、創世記1:1–2の伝統的解釈とイザヤ45:18の内容が矛盾しているとはいえません。

*1:創1:2; 申32:10; Ⅰサム12:21(2回); ヨブ6:18; 12:24; 26:7; 詩107:40; イザ24:10; 29:21; 34:11; 40:17, 23; 41:29; 44:9; 45:18, 19; 49:4; 59:4; エレ4:23

*2:申32:11の「鷲が……そのひなの上を舞い」では、創1:2の「(神の霊が……)動いていた」と同じ動詞ラシャフが使われています。トーフーとラシャフが同じ文脈で使われているのは創1:2と申32:10–11の2箇所だけです。後者では荒野をさまようことになったイスラエルに対する神の守りと導きが表現されています。このイメージは、トーフーである地を神の霊が「舞い」、人の住む所として整えていかれるという創1:2以降の描写を想起させます(Mathews, Genesis 1:1–11:26, 131–32)。

*3:津村はヘブル語のトーフーが、荒野を意味するウガリト語thwと語源を同じくしているものと論じています(「創世記一章2節の所謂『混沌』について」『聖書の使信と伝達──関根正男先生喜寿記念論文集』[山本書店、1989年]11–12頁)。参照:David Toshio Tsumura, The Earth and the Waters in Genesis 1 and 2: A Linguistic Investigation, JSOT Supplement Series 83 (Sheffield, England: JSOT Press, 1989), 17–19; HALOT 4:1689.

*4:津村「『無からの創造』とトーフー・ワ・ボーフー」49–53頁;「創世記一章2節の所謂『混沌』について」17–23頁;Tsumura, Earth and Waters(, 30–41. この分類はClaus Westermanの分類(Genesis 1–11: A Commentary* [Minneapolis: Augsburg, 1984], 102–3)に津村が改訂を加えたものです。

*5:Elmer B. Smick, “Job,” EBC-R, 4:816; Gerald H. Wilson, Job, UBCS (Grand Rapids: Baker, 2007), 285.

*6:津村『創造と洪水』66–67頁。

*7:Gary V. Smith, Isaiah 1–39, NAC (Nashville, TN: B&H, 2007), 419.

*8:Ibid.; 津村『創造と洪水』66頁;「創世記一章2節の所謂『混沌』について」19頁。

*9:津村「『無からの創造』とトーフー・ワ・ボーフー」53頁。

*10:Ronald F. Youngblood, “1, 2 Samuel,” EBC-R, 3:129; David G. Firth, 1 & 2 Samuel, AOTC (Nottingham, Eng-land: Apollos, 2009), 143; Tsumura, The First Book of Samuel, NICOT (Grand Rapids: Eerdmans, 2006), 329.

*11:津村「創世記一章2節の所謂『混沌』について」18頁。

*12:津村「『無からの創造』とトーフー・ワ・ボーフー」53頁。

*13:津村「創世記一章2節の所謂『混沌』について」25–26頁。

*14:前掲書、26頁。参照:Mathews, Genesis 1:1–11:26, 131–32.

*15:津村「『無からの創造』とトーフー・ワ・ボーフー」54頁。ボーフーの語源に関する有力な説は、アラビア語bahiyaが語源である、またはbahiyaと同語源であるというものです(同上;津村「創世記一章2節の所謂『混沌』について」13頁;BDB 96)。このアラビア語は「空である」という意味で(ibid.)、津村によれば「基本的には『本来あるべきものがないという状態』を指していたよう」です(「創世記一章2節の所謂『混沌』について」13頁)。

*16:参照:BDB 96; HALOT 1:111.

*17:Smith, Isaiah 1–39, 574.

*18:F. B. Huey, Jr., Jeremiah, Lamentations, NAC (Nashville, TN: B&H, 1993), 85–86. 参照:R. K. Harrison, Jeremiah and Lamentations: An Introduction and Commentary, TOTC (Downers Grove, IL: InterVarsity, 1973), 76; J. A. Thompson, The Book of Jeremiah, NICOT (Grand Rapids: Eerdmans, 1980), 230; Tremper Longman Ⅲ, Jeremiah, Lamentations, UBCS (Grand Rapids: Baker, 2008), 51; Michael L. Brown, “Jeremiah,” EBC-R, 7:131.多くの注解者は、エレ4:23–28では創1:3以降と同じ創造の順序が繰り返され、さばきがもたらす創造前への逆転が描かれているものと考えています。一方で、津村は創1:2とエレ4:23の類似について「創造の順序における類似ではなく、むしろtōhû wābōhûという共通の慣用句とそれと対になっている表現、即ち『暗闇』(創1:2)とその否定反意語(negated antonym)である『光がないこと』(エレ4:23b)における類似だけと考えるべきである」と考えています(「『無からの創造』とトーフー・ワ・ボーフー」52頁)。

*19:津村「創世記一章2節の所謂『混沌』について」24頁。

*20:前掲書、25頁。

*21:参照:John Goldingay, The Book of Jeremiah, NICOT (Grand Rapids: Eerdmans, 2021), 184.

*22:津村「創世記一章2節の所謂『混沌』について」26頁。

*23:津村「『無からの創造』とトーフー・ワ・ボーフー」57–60頁。参照:津村「創世記一章2節の所謂『混沌』について」26–28頁;『創造と洪水』69–70頁。

*24:Tsumura, Earth and Waters, 43; Collins, Genesis 1–4, 54. 参照:Mathews, Genesis 1:1–11:26, 131–32; Mul-tiple Faculty Contributors, “Genesis,” 36.

*25:津村『創造と洪水』70頁。

*26:Multiple Faculty Contributors, "Genesis," 36.

*27:参照:津村『創造と洪水』62–63頁;「『無からの創造』とトーフー・ワ・ボーフー」56頁。

*28:Ross, Creation and Blessing, 722; Fruchtenbaum, Genesis, 38–39.

*29:Waltke, “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅱ,” 141–42.

*30:参照:Mathews, Genesis 1:1–11:26, 132.

*31:Fruchtenbaum, Genesis, 38.

*32:津村「『無からの創造』とトーフー・ワ・ボーフー」58頁。

*33:例:Waltke, “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅲ,” 220; Ross, Creation and Blessing, 722; Fruchtenbaum, Genesis, 38. 参照:Waltke, “The Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅳ: The Theology of Genesis 1,” BSac 132 (October–December 1975): 342;

*34:参照:Smith, Isaiah 40–66, NAC (Nashville, TN: B&H, 2009), 275.

*35:Poythress, “Genesis 1:1,” 115. Waltkeもまた、イザ45:18で言及されている出来事は創造の六日間の出来事全体であることを認めています(“Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅱ,” 144; “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅳ,” 342)。

*36:Poythress, “Genesis 1:1,” 115.

*37:Ibid. 参照:Rooker, “1:1–3, Part 1,” 320–21.

*38:津村「『無からの創造』とトーフー・ワ・ボーフー」51頁。参照:津村「創世記一章2節の所謂『混沌』について」20–21頁;Tsumura, Earth and the Waters, 33–34.

*39:Smith, Isaiah 40–66, 275.