ギャップ・セオリーにおいて創世記1:2で神にさばかれた被造世界が描かれていると考えられている根拠は、地がトーフー・ワ・ボーフーであったという記述だけではありません。創世記1:2では続けて「闇が大水の面の上にあり」と言われています。ここに出てくる「闇」と「大水」それぞれの要素について、ギャップ・セオリーでは創世記1:2の前に神のさばきが下ったことの根拠とされています。まずは本稿で「闇」を、次稿で「大水」を取り上げて、ギャップ・セオリーの主張を検証してみましょう。
「闇」(ホシェク)は、確かに神のさばきによってもたらされることがあります(出10:21–23; Ⅰサム2:9など)。また、聖書で闇は悪や死を表す象徴としても使われています(詩88:13; 箴2:13; イザ5:20; 参照:ヨハ1:5; 3:19; Ⅰヨハ1:5; 2:8, 9, 11)。闇が一貫してさばきの結果や悪などを表しているのであれば、これが際立っている創世記1:2の状態は、神による創造の最初の段階としてふさわしくないように思われます*1。
しかし、まずは創造の記事の文脈で闇がさばきの結果や悪の象徴として使われているかどうかを考える必要があります。創世記1:3以降では「神は仰せられた」という形で創造の御業が記述されていきますが、その最初の行為は「光」の創造です*2。そこで神は「光と闇」を分けられ、「光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられ」ました(4–5節)。ここでは「名づける」ことによって、神が光と闇に対して主権を持っておられることが強調されています。そして、闇=夜には光=昼とともに「夕」と「朝」のサイクルを司る役割が与えられています(詩104:19–23参照)。そのサイクルは神が「非常に良かった」(創1:31)と判断された被造世界の一部とされています*3。創造の記事だけを見れば、闇そのものがさばきの結果や悪を表していると示唆する要素は見出されません。
また、2節の構成は闇が否定的なものではないことを示唆しています。既に述べてきたとおり、本節の「地は茫漠として何もなく」、「闇が大水の面の上にあり」、「神の霊がその水の面を動いていた」という3つの句は、いずれもワウ+名詞で始まる離接ワウによる状況説明句です。よって、本節では同格または並行的な3つの句によって、1節の「地」が説明されていることになります*4。最初の「地は茫漠として何もなく」に関しては、前に見たとおり神のさばきの結果と解釈する必要はありません。また、最後の「神の霊がその水の面を動いていた」もさばきの結果を踏まえたものとは断言できません。こうした中で、「闇が大水の面の上にあり」がさばきの結果を表していると断言するのは困難です。
さらに、闇が後に悪の象徴として使われることになったとしても、象徴的表現の意味と、その元になった実体の性質を混同すべきではありません。2節の闇を悪の象徴と決めつけることは、「パン種が霊的に悪を象徴しているからパン種は悪だと言うようなもの」です*5。
闇を自動的に悪と結びつけるべきでないことは、闇が悪の象徴として使われていない箇所があることからもわかります。たとえば、ダビデが敵から救い出された喜びを歌っている詩篇18篇では、「主は闇[ホシェク]を隠れ家とし 水の暗闇 濃い雲を ご自分の周りで仮庵とされた」と言われています(11節)。ここでの闇は神の「輝き」を際立たせるものであり(12節)、神が響かせる「雷鳴」(13節)の背景となっているようです。ここでは、闇が神ご自身と関連付けられており、さばきの結果や悪の象徴としては使われていません*6。
闇という実体が最初の被造物に含まれていなかったとしたら、誰がそれを創造したのか(存在するようにしたのか)という問題が生じてきます*7。そのために理解を助けてくれる可能性があるのはイザヤ45:7です。
わたしは光を造り出し、闇[ホシェク]を創造し、
平和をつくり、わざわいを創造する。
わたしは【主】、これらすべてを行う者。(イザ45:7)
既に取り上げた45:18と同じ文脈に属する45:7では、主の他に神はいないという神の主権が強調されています。注目すべきは「闇」(ホシェク)と「創造する」(バーラー)がともに使われている点です。
ここでは「光」と「闇」が「平和」と「わざわい」とそれぞれ対になっているため、光の創造と闇の創造は象徴的な表現である可能性があります。その場合、闇は神がもたらすわざわいの象徴として使われているのでしょう。しかし、象徴には背景があります。本節の文脈で主題となっているのは、神が創造主であるという事実です(44:24参照)。ここでは光と闇の創造が象徴的に用いられていることから、そもそも光と闇が神の創造物であるという事実が示唆されています*8。
イザヤは創造の記事を背景として、それを「平和もわざわいもすべて神の主権の下で起こることである」という真理に適用しているものと思われます。神は光と闇を創造された創造主にして主権者であるがゆえに、光や闇からイメージされる平和やわざわいも神の主権の下にあると教えられているのでしょう。
よって、イザヤ45:7の「わざわい」という否定的な概念を、逆に創世記1:2の闇に読み込む必要はありません。それどころか、ここでは闇が本来神の被造物であったと示唆されていることになります。こうした理解は、創世記1:2の文脈とも調和します。創世記1:2で創造の「はじめ」における地の状態が説明されていることを踏まえると、闇もまた創造の結果であるといえます。その闇はニュートラルな性質を持つ実体であり、「万物」の創造主なる神によって造られたと考えるべきです*9。
*1:Allen P. Ross, Creation and Blessing: A Guide to the Study and Exposition of Genesis (Grand Rapids: Baker, 1996), 722; Arnold G. Fruchtenbaum, The Book of Genesis (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2008), 39.
*2:以下、聖書引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会による。
*3:Kenneth A. Mathews, Genesis 1:1–11:26, NAC (Nashville, TN: B&H, 1996), 132–33.
*4:Mark F. Rooker, "Genesis 1:1–3: Creation or Re-Creation? Part 2," BSac 149 (Oct.–Dec. 1992): 422.
*5:Ibid.
*6:Mathews, Genesis 1:1–11:26, 133. 参照:Gordon J. Wenham, Genesis 1–15, WBC (Waco, TX: Word, 1987), 16.
*7:Rooker, "Genesis 1:1–3, Part 2," 421.
*8:Geoffrey W. Grogan, "Isaiah," The Expositor's Bible Commentary, rev. ed., 6:759. 参照:Mathews, Genesis 1:1–11:26, 133.
*9:参照:Multiple Faculty Contributors, "Genesis," in The Moody Bible Commentary, eds. Michael Rydelnik and Michael Vanlaningham (Chicago: Moody, 2014), 35.