前回に引き続き、ダニエル・ハンメルのエッセイ「今日のディスペンセーション主義に関する4つのスナップショット」への応答である、ポール・ヘネブリーによる自己批判的ブログ記事を拙訳にてご紹介します。
ディスペンセーション主義は死につつあるのか?(Pt. 2)
Paul Martin Henebury, “Is Dispensationalism Dying? (Pt. 2),” Dr. Reluctant, March 15, 2024.
ディスペンセーション主義の現状に関する私見を続けると、さらに4つの要因がある。
6. 現実的で包括的なディスペンセーション主義の組織神学の欠如
これは既に言及済みだが、もう少し調査が必要である。ディスペンセーション主義の組織神学は、決して簡単に生み出されるものではない。福音主義の界隈において組織神学が一般的に普及している中で、これは異例なことである。私が知る主なディスペンセーション主義の著作は以下の通りである。
- ルイス・スペリー・チェイファー(1947年)―優れた章もある大作。しかし、骨の折れる作業はディスペンセーション主義以外の著者に任されている。
- ヘンリー・シーセン(1979年改訂)―かつては人気があった簡潔な神学書で、A.ストロングにかなり依存している。
- エメリ・バンクロフト(1977年)―簡潔な概説書。
- チャールズ・C・ライリー(1986年、1999年)―非常に優れた入門的な神学書だが、タイトル通り「基礎」的な内容である。
- ノーマン・ガイスラー(2005年)―大部のものを少し簡略化して一巻にまとめたもの。この本では哲学が神学と競合している。
- ローランド・マクキューン(2009年)―これも堅実な作品だが、あまり探求的でも独創的でもない。
- ジョン・マッカーサー&リチャード・メイヒュー〔編〕(2017年) – さまざまな寄稿者によるしっかりとした体系。基本的には改革派神学で、終末論がディスペンセーション主義的。
- マイケル・スヴィーゲル&ネイサン・ホルステン〔編〕(2014年) – 複数の著者が執筆した基礎的な著作。
ルイス&デマレストによる大著もここに加えてもいいかもしれないが、ディスペンセーション主義者はルイスだけだ。他にもあるが、主なものは以上だ。これらの著作はエリクソン、フレイム、リーサム、カルヴァー、グルーデム、オーデン、レイモンド、ビーク&スモーリー、ケリー、ホートンなどの著作の水準には達していないと私は思う。ベルコフ、ホッジ、シェッド、ダブニー、バーフィンクなどの古い著作については言うまでもない。
実際、ディスペンセーション主義者は「深い」神学を避ける傾向があり、また、その体系の必須条件とされるものの中から神学を構築することもしていない。さらに、彼らは(ごく少数の例外を除いて)旧約および新約の聖書神学において、より多くの作業を行う必要がある。そのためには、終末論以外の事柄については改革派の著者の言葉を単に引用するのではなく、解釈上の前提から組織神学の体系をそれぞれ構築する必要があるだろう。もしこの表現がきつすぎると感じるのであれば、意図的にそうした表現を用いたことを認める。ディスペンセーション主義者たちに、この傾向を止めてもらいたいからだ。この傾向は、運動内部においても、真剣な神学者たちをディスペンセーション主義の組織神学から遠ざけるものだ。これは、私が10年以上前に到達した結論である。当時私が悟ったのは、ご自慢のディスペンセーション(特に「良心」、「政府」、「約束」などだが、すべてに問題がある)は、文法的歴史的解釈によって到達されたものではないということだった。しかし、その後の道のりは、ますます聖書的契約的で、ディスペンセーション的ではないものになっていった。
7. ディスペンセーション主義的世界観の欠如
少し考えれば、組織神学が基本的に世界観であることは明らかである。したがって、「ディスペンセーショナル」な序論が完全に練り上げられた上で、完全に発展した体系が生まれる。ディスペンセーション主義者は、その神学の多くを改革派の著作から借りているため、世界観も同じ源から借りている。したがって、ディスペンセーション主義は目的論的な見通しとして貧弱に見える。
8. 規定的神学的思考の欠如
以上のことをすべて理解すると、これらの重要な領域がどこで発展しうるのかを見つけようとして、その体系を見直したくなる。すると、その体系が体系としてあまりにも制限されているために、これらの強調点を導き出すことができないことが明らかになってくる(少なくとも私にはそうだった)。 ディスペンセーションは、単に(時にはおとなしく)記述的なものにすぎない。 ディスペンセーションが規定的なものではないという点が一つある。
たとえば対照的な例として、解釈学的に感銘を受けることはないとしても、契約神学の「契約」は目的論的である。それは前進の道筋を規定し、その道筋は組織神学と世界観へと発展する。ここでは詳細には立ち入らないが、契約神学や新しい契約神学における救済史的な聖書の読み方は、ある結果、すなわち演繹的プログラムを生み出す。
私は演繹的神学を推奨しているわけではない(改革派神学は演繹的である)。演繹は神学者にとって重要なツールではあるが、神学者が最初に用いるべきツールではない。帰納的解釈は、私たちに利用可能な演繹的選択肢を制限すべきである。例えば、旧約は新約を通して理解されなければならないからといって、イスラエルに対する旧約の契約や約束は、新約における「成就」の型や影であったと主張することはできない。私は、神が結ばれた契約を、記述的なディスペンセーションに代わる規定的なものとして推奨している。聖書を通して辿ると、神の契約は前進の道筋を定めている。それは目的論的かつ終末論的な道筋である(最終的なシナリオに向かって広がっていくという意味で、動いていくものである)。このようなアプローチは、終末論(ディスペンセーション主義の患難期前携挙説のような、制限的な終末論の意味)から体系を分ける。それは世界観の構築である。
9. ディスペンセーション主義を代表する人物に関する識別力の欠如
最後に、奇妙な、誤った、あるいは極めて推測的な意見を持つ人々が、私たちの終末論の基本的な考え方を支持することを防ぐことはできないが、私たちは誰を代弁者としたいかについて、より識別力を高める必要がある。一般向けに分かりやすく説明する人々にも居場所はあるが、彼らは浅薄になりがちであり、彼らが作り出す神学は、より深く掘り下げたいと考える人々を満足させることはない。改革派神学においては、一般向けに分かりやすく説明する人々(R・C・スプロール、マイケル・ホートン、ジョン・パイパー、ティム・ケラーなど)も、その背後には膨大な学術的業績を持つ真剣な学者である。したがって、彼らは多くの一般向けに分かりやすく説明するディスペンセーション主義者たちには真似できないレベルの権威と信頼性を持っている。
ここで明確にしておきたいのは、博士号を持っているからといって、その人がバランスの取れた思考の持ち主であるとか、博識であるとは限らないということだ。自分よりも少し知識がある人に対しては、比較的簡単に感銘を与えることができる。教育者であれば誰でも、いくつかの神学書を読んだだけで、独断的な学生が現れることを知っている。その学生は、自分自身を追い込み、流行の有名な教師に飛びつく。彼らは自分が他の人よりも多くのことを知っていると自覚しているが、相対的に見れば自分がどれほど無知であるかにはまったく気づいていない。彼らにはバランスが欠けているのだ。 さて、私たちはバランス感覚を備え、独自の貢献によってシステムを改善できるような代表者が必要だ(この種の人物の例としては、マイケル・ヴラックやチャールズ・クローなどが挙げられる)。
結びに
もちろん、これら9つの懸念事項は、それぞれ独立して存在しているわけではない。それらの重なり合う性質は容易に見て取れる。それらはすべて相互に結びついている。これらの領域における動きは、必然的にシステムの構造的前提を揺るがすことになるだろう。私は、それは良いことだと考えている。反発を招くことは承知しているが、守りを固めるようなことに繋がらないよう願っている(そうなることを恐れている)。しかし、誰かが多少の論争を巻き起こさなければならないのだ!
私は聖書的契約に傾くというバイアスを持っている。私はディスペンセーションには納得していない。神のディスペンセーションが脇に追いやられ、神の契約が体形の背骨となることを願っている。しかし、「ディスペンセーション主義」は聖書を研究する上で素晴らしい、正確なアプローチである。それは非常に正しい。しかし、ディスペンセーション主義がこれらの方向に進まない限り、私はそれがますます弱体化していくと信じている。