軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

ディスペンセーション主義の定義(再考)

年末年始にディスペンセーション主義の近況に関する論考を紹介しました。そこで触れたとおり、2023〜2024年はディスペンセーション主義の是非や特にその歴史を巡る議論が盛んだった印象です。

しかし、ディスペンセーション主義の歴史を考えたり、その是非を考えるために他の神学的立場との比較をしようとすると、ディスペンセーション主義をどう定義するかという難問にぶつからざるを得ません。

定義の問題については私も時々扱ってきましたが、難問ゆえに、絶えず勉強し続け、認識をアップデートし続けていく必要があります。そこで久しぶりに、この問題について今のところ考えていることをお分かちしたいと思います。

ディスペンセーション主義の定義という難問は数多のディスペンセーション主義者によって取り組まれてきましたが、未だに満場一致の答えは見出されていないのが実情です。

「ディスペンセーション主義」という名称の起源

まず定義が問題となってしまっている理由のひとつとして考えられるのは、現在確認されている限り、このラベルが(今日ディスペンセーション主義と呼ばれている)一定の形の聖書理解を批判するために使われ始めたものだということです。厳密にいえば、ディスペンセーション主義というラベルを考案したのがその信奉者なのか、批判者なのかは不明です*1。しかし、現在確認されている限りこのラベルが最初に活字で言及されたのは、1927–28年に出版された、フィリップ・マウロという米国の弁護士によるディスペンセーション主義に批判的な著作においてです*2。そして、20世紀半ばの代表的なディスペンセーション主義者であり、信奉者としてこのラベルを受け入れた最初期の一人であるルイス・スペリー・チェイファーは、「ディスペンセーション主義」と題した1936年の長い論文の冒頭で「本論文の題は不本意ながら選んだものである」と述べました*3。このラベルは、聖書的・神学的に精緻であり続けたとは言い難い──時に感情的な──議論の中で使われ始め、その代表的な信奉者からも「不本意ながら」受容されたことで普及してきました。このようなラベリングの歴史の当初を振り返ると、神学的に厳密な定義は困難であろうことが想像できます。

ディスペンセーションとディスペンセーション「主義」

ディスペンセーション主義の定義が困難であるもうひとつの理由として考えられるのは、ディスペンセーションという神学用語や概念が、必ずしもこの「主義」に特有なわけではなく、キリスト教神学において比較的一般的なものだということです。

ディスペンセーション(dispensation)という英語名詞は、「運営」や「責務」などを意味するラテン語ディスペンサティオ(dispensatio)がフランス語を経由して英語化したものです*4。そして、ラテン語のディスペンサティオは、「家事・家計の管理」や「職務」などを意味するギリシャ語オイコノミア(οἰκονομία)に相当する語です*5。神学用語としてのディスペンセーション(ディスペンサティオ/オイコノミア)は、教会史の時期や人物によって意味するところや強調点は異なりますが*6、基本的には神の「配分・配剤」という概念を指します*7。現代の保守的なキリスト教神学におけるディスペンセーションという用語は、神が世界を管理し治める際の被造物に対する取り扱い、もしくは統治する方法や原則を指す場合が多いです*8

多くのクリスチャンは、被造物に対する神の取り扱い・統治方法・統治原則が、対象となる被造物によって、またはその被造物を治める時期(時代)によって異なると見なしています。たとえば、モーセの律法がイスラエル人に適用される生活ルールであり、異邦人には適用されないという考え方は、人間という被造物の中にあるイスラエル人と異邦人という区分に応じて、神の取り扱い(ディスペンセーション)が異なるという見方に繋がっています。また、キリストの死や復活や昇天、もしくは使徒2章に出て来るペンテコステの日を境にモーセの律法(の少なくとも一部)が適用されなくなったという考え方は、その日の前後の時期(時代)でディスペンセーションが異なるという見方に繋がっています。

以上のような場合、対象の被造物や時代によって神の取り扱いや統治原則が異なるということは、神の計画が進んでいくにつれて与えられていく啓示の情報の進展によって明らかにされると考えられています。したがって、ここでいうディスペンセーションは「神の計画が進んでいく段階に応じて区別できる世界の統治方法」と簡潔に定義することもできるでしょう*9

なお、文献によっては、ディスペンセーションが「時代」──すなわち「ある長さをもった年月。また、歴史上の区分*10」と説明されていることがあります*11。確かに、聖書に書かれている歴史について、何らかの「歴史的な特色をとらえて区分*12」しようと試みる場合、ディスペンセーションの変化を区分の目安とすることができます。しかし、これまで述べてきたとおり、厳密に言えば「ディスペンセーション」(配分・配剤)と「時代」(一定の期間)を同一視することはできません*13。それでも、ディスペンセーションの移行/変化という概念を扱う場合、歴史上のある時期における変化を認めることであるため、その概念には時間的要素が含まれることになります。よって、キリスト教神学の伝統において、ディスペンセーションという概念は時代区分という概念とも密接に関連づけられてきました*14

そして、ディスペンセーションや時代区分といった概念は、ディスペンセーション主義に特有のものではなく、教会史の初期から広く共有されてきたものです*15。近代以降の神学的伝統を見ても、この概念は改革派神学における伝統的なものでした*16。それゆえ、「ディスペンセーション主義」という立場の歴史を辿るにも、「ディスペンセーション」という概念だけに注目していくのでは、ほぼすべての神学的立場や伝統が対象になってきてしまいます。すなわち、ディスペンセーションを定義するだけでは、今日ディスペンセーション主義と呼ばれている立場を特定することはできないのです*17

ディスペンセーション主義の正統性や独自性を巡る論争が繰り広げられていた最中、1963年に、アルドリッチが次のように述べていることは注目に値します。

しかしながら、ディスペンセーション主義の立場は、[ディスペンセーションという]言葉の意味や、その様々な用法に完全に依拠しているわけではない。*18

「必須条件」による定義の難しさ

ディスペンセーションの定義によるディスペンセーション主義の定義は困難なことから、様々な要素や表現を含む定義が提案されてきています*19。代表的なものは、ディスペンセーション主義とそれ以外の立場を区別するような本質的特徴をいくつか挙げて、それらの特徴の組み合わせを定義とするものです。この種の定義で、ディスペンセーション主義者の間で広く受け入れられてきたのは、チャールズ・C・ライリーが1965年に『今日のディスペンセーション主義』(Dispensationalism Today)で提案した以下の3つの「必須条件 sine qua non*20」を用いるものです*21

  1. イスラエルと教会の一貫した区別
  2. 聖書の字義通りの解釈
  3. 聖書が書かれた目的は「神の栄光」であるという主張*22

この必須条件の中で、1. と3. は神学的な結論であり、2.の「聖書の字義通りの解釈」という方法論によって導き出されるものです。ライリーは後に、条件1. および3. を使い、「ディスペンセーション主義神学」を次のように定義しています。

ディスペンセーション主義神学(dispensational theology)とは、以下の2つの本質的概念を含む体形のことである。(1)教会はイスラエルから区別される。(2)神の包括的な目的は、ご自分の栄光をあらわすことである。*23

この他にも有名なディスペンセーション主義の「本質」リストとして、ファインバーグによる6つの本質(1988年)、およびヴラックによる6つの本質的信条(2008年)があります。どちらも、ライリーの必須条件の正確さ・厳密さを高めようという試みの産物です。

  • ファインバーグによる6つの本質(1988年)*24
    1. ユダヤ人、アブラハムの子孫などの言葉には複数の意味がある。
    2. 解釈学:旧約聖書はそれだけで解釈されるべきであり、新約聖書に照らして解釈されるべきではない。
    3. 旧約聖書の預言は民族としてのイスラエルのために成就する。
    4. イスラエルには固有の未来が待っている。
    5. 教会はイスラエルとは別の存在である。
    6. 歴史哲学:救済論的、霊的論点だけでなく、社会的、経済的、政治的論点がある。
  • ヴラックによる6つの本質的信条(2008年)*25
    1. 聖書のどの聖句についても、第一義的な意味はその聖句自体において見出される。新約聖書は、旧約聖書著者の本来の執筆意図を否定するような、または打ち消してしまうようなことはない。すなわち、新約聖書旧約聖書の意味を再解釈あるいは変換してしまうものではない。
    2. 予型の存在は認められるが、イスラエル民族が教会に置き換わるという意味での予型ではない。
    3. イスラエルと教会は区別される。よって、教会を新しい、または真のイスラエルと定義することはできない。
    4. 救いにおいてユダヤ人と異邦人の間にある一致と、将来におけるイスラエルの民族的役割とは両立する概念である。
    5. イスラエル民族はやがて救われ、回復させられる。彼らには、将来の地上千年王国において特別な役割が与えられる。
    6. アブラハムの子孫」という用語には複数の意味がある。よって、教会が「アブラハムの子孫」であるということは、神が信仰を持つユダヤ人という「アブラハムの子孫」に与えられた約束を無効にするものではない。

上記の「必須条件」や「本質」、また「信条」で挙げられているポイントはいずれも、ディスペンセーション主義者であれば重要視しているし、同意できる内容になっています。これらのポイントは、ディスペンセーション主義者と呼ばれる人々の共通項だといえます。問題なのは、逆に「これらのポイントを満たせばディスペンセーション主義者である」とは断言できないことです。

ライリーの必須条件でいえば、ディスペンセーション主義者であれば誰もが聖書の字義的解釈、すなわち歴史的文法的解釈を重視しています。そして誰もが、歴史的文法的解釈に基づく神学的結論として、イスラエルと教会の区別や、神の栄光を最重視すべきということに同意できるでしょう。

しかし、ライリーが必須条件で挙げたポイントを重視していても、神学的にはディスペンセーション主義に位置づけられていない人々もいます。たとえば、ディスペンセーション主義を含む多様な立場の福音主義者によって採択された「聖書解釈学に関するシカゴ声明」(1982年)では、字義的・歴史的・文法的解釈の「必要性」が主張されています*26。 また、ウィンザーが指摘しているとおり、イスラエルと教会を区別する神学的立場はディスペンセーション主義に限定されません*27。近年のメシアニック・ジュー神学者の多くはその好例です。 そして、「聖書が書かれた目的は『神の栄光』である」という主張は「カルヴァン主義の基礎的な主張を完全に支持するもの」であり*28、ディスペンセーション主義の特徴というよりも、改革派の伝統に則った主張です*29

したがって、ライリーの著作で書かれているとおりに3つの必須条件を「ディスペンセイション主義者と、そうでない者とを区別する……必須条件*30」と捉えてしまうと、「福音主義コミュニティの広範な層が、当然ながらその中に含まれてしまう」ことになります*31。現実的に、ライリーが挙げた3つの特徴はディスペンセーション主義の必要条件と言えても、必要十分条件にはなっていません。自身もディスペンセーション主義者であるスウィートナムが指摘しているとおり、ライリーの主張の論理的弱点は、ディスペンセーション主義を定義するための十分条件として必要条件(sine qua non)を使っていることです*32

これまでライリーの必須条件による定義の限界を見てきましたが、同様な限界はファインバーグやヴラックのリストを用いた定義にも当てはまるでしょう。ディスペンセーション主義者と呼ばれる人々に共通する「本質的特徴」によって神学的立場を定義しようとすると、ディスペンセーション主義に限定されない立場も含み得る「ルーズな定義」になってしまいかねません*33。またこの方法では、共通項を抽出するための観察範囲が不十分な場合、現にディスペンセーション主義者と呼ばれている人々の多くを含めることができない定義に着地する恐れがあります。スヴィーゲルが指摘しているとおり、「どのようなsine qua nonも結局は広すぎる……か、狭すぎる……という結果に終わってしまう」のです*34

「伝統」としての定義(または「一般的」特徴による定義)

以上の諸問題を踏まえて、個人的には、ディスペンセーション主義という立場はいくつかの聖書理解を組み合わせた神学的なパターンを持つ伝統と定義するのが一番良いのではないかと思うようになってきています。この定義は、ブレイジングおよびボックが米国のディスペンセーション主義を「米国の福音主義におけるひとつの伝統」と捉えたことに則ったものです*35。彼らはまた、聖書の権威、教会の独自性、未来主義千年期前再臨説*36イスラエルの民族的将来など、ディスペンセーション主義という伝統に見られる「一般的特徴」も提示しています*37

興味深いことに、何人かのディスペンセーション主義者は、この立場を「神学的パターンを持つ伝統」と捉えた上でディスペンセーション主義史を辿っています。たとえば、スヴィーゲルは次のように述べています。

それでは、その起源と軌跡を論じる目的で、ディスペンセーション主義をどのように定義すべきだろうか。その過去全体を考慮し、現在の多様な表現を考慮すると、ディスペンセーション主義は少なくとも、一定の聖書解釈と教理のパターンと見なすことができる。したがって、この立場はプロテスタント福音主義の様々な教派や信条を超え、またその中に存在している「伝統」だと考えるのが最も適切である。*38

ライリーの必須条件による定義を批判したスウィートナムは、ディスペンセーション主義の歴史的・文化的影響に関する研究の観点から定義の方向性を提示しています*39。ディスペンセーション主義のように多様性をもち定義が困難な神学的ラベルの代表例としては、「福音主義」が挙げられます。スウィートナムは、ベビントンによる福音主義の定義の「四辺形」──聖書主義、十字架中心主義、回心主義、伝道主義*40──を「神学と実践の多様性を受け入れるのに十分な柔軟性を持っているが、福音主義的な規範を定義している」と評価します*41。そして、ベビントンの方法論を参考に、「ディスペンセーション主義を特徴づける5つの認識可能な強調点」を列挙しています。

マーシュおよびファジオもまた、字義的解釈法、イスラエルと教会の区別、イエスの再臨に続く地上の千年王国の実現、患難期前携挙説などの複数の信条を組み合わせたパターンが20世紀に入ってからディスペンセーション主義とラベリングされるようになったと理解しています*42。彼らは後にディスペンセーション主義と括られるようになった立場で一般的に見られる聖書解釈や教理を「ディスペンセーション主義的思想」(dispensational thought)と呼び、それらの思想が教会史でどのように継承されてきたかを追跡することで、ディスペンセーション主義史を辿ろうと試みています。

ディスペンセーション主義というパッケージに含まれると考えられる聖書理解や教理について、ブレイジングおよびボックによる「一般的特徴」、スウィートナムによる「認識可能な強調点」、マーシュおよびファジオによる「ディスペンセーション主義的思想」を列挙すると、以下のとおりです。

  • Blaising and Bock:一般的特徴*43
    1. 聖書の権威
    2. 複数のディスペンセーション
    3. 教会の独自性
    4. 普遍的教会という概念の実践的重要性
    5. 聖書預言の重要性
    6. 未来主義千年期前再臨説
    7. キリストの再臨の切迫性
    8. イスラエルの民族的将来
  • Sweetnam:認識可能な強調点*44
    1. 福音主義へのコミットメント
    2. 字義的聖書解釈へのコミットメント
    3. 人類に対する神の扱いの現れにおける区別の認識(そこで神の計画におけるイスラエルと教会双方の重要性が強調される)
    4. 携挙におけるキリストの差し迫った再臨への期待
    5. 黙示的および千年王国的期待の強調
  • Marsh and Fazio:ディスペンセーション主義的思想*45
    1. ディスペンセーションという聖書的用語の共時的使用
    2. 聖書に対する字義的解釈というアプローチ
    3. 千年期前再臨説の終末論
    4. 未来における反キリストという人格的存在の登場
    5. 再臨から区別される差し迫ったキリストの現れ(すなわち携挙)
    6. 未来における患難期
    7. 神の経綸を通して発展する歴史
    8. ユダヤ人の救いと回復
    9. 国家的イスラエルと教会の区別
    10. 聖書原語と帰納的聖書研究の強調

いくつかの神学的特徴を組み合わせたパターンとしてディスペンセーション主義を定義することは、複数のポイントを列挙している点で、ライリーらの本質的特徴による定義と似ています。しかし、それらの定義とは異なり、ポイントとなる特徴はディスペンセーション主義に不可欠なものというよりも、あくまで一般的なものとして理解されます。

このような方法による定義は、厳密さを満足することはできません。しかし、そもそもディスペンセーション主義というラベル自体が曖昧に使われてきたものであり、現状では厳密な定義ができないという視点を出発点とする必要があると思われます。

既往研究における一般的な神学的特徴のうち、スウィートナムが1番目に挙げている「福音主義」は、たとえば私のように、福音主義の枠組み内でディスペンセーション主義の定義を考えている場合は、純粋に前提として良いかと思います。また、ブレイジングおよびボックが4番目に挙げている普遍的教会という概念の実践的重要性については、それが「ディスペンセーション主義の一般的特徴」に含まれるのかどうか、まだ個人的に腑に落ちていません。

したがって、私としては、今後も定義を考え続けていくための「作業上の定義」のため、ディスペンセーション主義という名前で括られてきた一般的な神学的特徴を以下の6点で設定したいと思います。

  • 特徴1:聖書本文(特に預言箇所)の字義的解釈
  • 特徴2:神の計画における複数のディスペンセーションの認識
  • 特徴3:千年期前再臨説
  • 特徴4:終末預言の成就の未来主義的な理解
  • 特徴5:患難期前携挙説
  • 特徴6:イスラエルの民族的救いと国家的回復(代替説/置換神学*46の否定)

以上の一般的特徴からなる伝統としてディスペンセーション主義を捉ることで、「ディスペンセーション主義」というレッテルを貼られてそれを受容した人々を中心にして、同時にある程度の幅も持たせつつ、この伝統の歴史や教理的・思想的発展の流れを探究していくことができるものと思われます。

補足:ディスペンセーション主義に替わる名称について

※本項は2025年2月17日に追記したものです。

「ディスペンセーション」主義という名前は、この立場の特徴を分かりやすく伝えていないのではないか? ならば、別の名前を使った方がいいのかもしれない──これはディスペンセーション主義の定義を考える際に私が必ず思い浮かべることでありまして、「『ディスペンセーション主義』という名前への違和感」として記事にしたこともありました。

ディスペンセーション主義者のペテグリュー曰く、「あるディスペンセーション主義者たちは、我々がその体系を『未来主義千年期前再臨説 futuristic premillennialism』と呼ぶよう提唱してきている」とのことです*47。「ディスペンセーション主義」と「未来主義千年期前再臨説」を実際に同義語として使っている方や文献にはまだお目にかかっていませんが、少し無理があるかと感じています。

未来主義千年期前再臨説という神学的ラベルがある程度ポピュラーになってきた一つのきっかけは、ジョン・マッカーサー&リチャード・メイヒュー編『キリストの預言的計画:未来主義千年期前再臨説入門』(Christ's Prophetic Plans: A Futuristic Premillennial Primer, Chicago: Moody, 2012)かと思います。しかし、マッカーサーおよびメイヒューは、未来主義千年期前再臨説をディスペンセーション主義で一般的な終末論的立場(未来主義・患難期前携挙説・千年期前再臨説)に対するラベルとして用いています。マッカーサー自身、同書の前書きにてディスペンセーション主義が「未来主義千年期前再臨説」よりも意味の広い用語だと述べています*48。スタラードも指摘しているとおり、これらの「用語は単純な置き換えではない」のです*49

マッカーサーやメイヒューはザ・マスターズ・セミナリーという神学校を代表する人々です。同校と関わりが深いマイケル・リッカルディとピーター・サモンズは、最近、たとえばこちらのPodcastにて、彼ら自身の神学的立場に「改革派ディスペンセーション主義」(Reformed Dispensationalism)というラベルを使っています。その立場とは、基本的に改革派神学に準じつつ、字義的・歴史的・文法的解釈を方法論として重視し、イスラエルと教会の区別を認め、終末論は未来主義千年期前再臨説であるというもので、まさにザ・マスターズ・セミナリーの信仰表明と合致する立場です。その神学を強く主張するリッカルディやサモンズが、彼らの立場を表すのにわざわざ「ディスペンセーション主義」という名前を使ったこと自体が、ディスペンセーション主義と未来主義千年期前再臨説を同義語とすることの難しさを体現しているように思われます。

さて、ペテグリュー自身は、ディスペンセーション主義の聖書理解の土台がディスペンセーションという概念よりも聖書的契約であるということから、「聖書的契約主義」(biblical covenantalism)という名称の方が良いのではないかと述べています*50。実際、(ペテグリューの意見を受けてではないと思いますが)ポール・ヘネブリーは自身の立場に対して「聖書的契約主義」というラベルを用いて、種々のブログ記事や聖書神学*51を展開しています。そのヘネブリーの立場とは、聖書的契約を土台にして構築し直した伝統的ディスペンセーション主義です。

個人的には、未来主義千年期前再臨説よりも聖書的契約主義の方がしっくりきます。また、グレン・クレイダーやジェームズ・ファジオのようにディスペンセーションに土台を置いた聖書神学を強調するディスペンセーション主義者がいる一方で、聖書的契約に土台を置いた聖書神学を「聖書的契約主義」と強調することで、より根本的な方法論に関する議論を深めるきっかけになるかもしれません。

しかし、聖書的契約主義というラベルも、積極的に使っていくのはためらわれます。一番の理由は、自分たちの立場を聖書的契約主義と呼ぶことで、契約神学(covenant theology; covenantalism)や漸進的契約主義(progressive covenantalism)といった"covenantalism"を含む名前を持つ他の立場が聖書的ではないと言っているかのような、攻撃的なニュアンスを持ってしまうのではないかと危惧しているからです。誤解のないようにしておくと、ペテグリューやヘネブリーは「聖書的」という部分だけよりも「聖書的契約」まで含めて強調していると思いますので、これはあくまで私の個人的な懸念に過ぎません。ただ、神学的議論の中で自分たちの立場の優位性を「聖書的」という用語で表現することも時には必要かもしれませんが、そうだとしても、ラベルの時点で攻撃的ニュアンスを受け取られかねないものを、あえて積極的に使っていくべき理由が見出せません。

マイク・スタラードは、今日の伝統的ディスペンセーション主義陣営を代表する学者のひとりとして、ディスペンセーション主義という名称への愛着や、ディスペンセーション主義者への敬慕を露にし、字義的・歴史的・文法的解釈に立つ伝統をディスペンセーション主義と呼ぶことは今なお意義深く、この名称を棄てるならば得るものよりも失うものの方が大きいだろうと述べています*52

私は、正直言うとラベル自体にはそこまで愛着は持っていませんし、(幸いなことに?)伝統的ディスペンセーション主義陣営を代表するという重荷も背負ってはいません。ですから、そこまで失うものが大きいとは感じられていません。

しかしながら、ディスペンセーション主義というラベルは、神学用語として広まり、定着してきたものです。もしラベルを使わないようにするとしても、その聖書理解の内容がディスペンセーション主義の一般的特徴に同意したものであれば、結局はディスペンセーション主義というラベルを使った議論を避けることはできないでしょう。

良くも悪くも、私たちはしばしの間、ディスペンセーション主義というラベルから逃げ切ることはできないのでしょう。「自分はディスペンセーション主義者」だと積極的にアピールしていく必要はありません。スタラードが「あらゆる場で[ディスペンセーション主義というレッテル]を使うべきだと主張しているのではない。私たちが使うレッテルよりも重要なのは、聖書を忠実に表現する内容だ」と述べていることに、心から同意します*53。ただ、逆にディスペンセーション主義というラベルを使われたならば、それを否定するよりは、冷静に受け止める方が建設的かもしれません。これもスタラードが述べているように、私たちはこのラベルに対しても賢く振る舞う必要があるのでしょう*54

ディスペンセーション主義というラベルに左右されない、主を賛美して御言葉を楽しむ交わりを求めて励みつつ、現に存在し親しみ続けているこのラベルとも向き合い続けていきたいと思います。

*1:Mike Stallard, "The Term Dispensationalism in Historical Perspective: How Useful is the Term in Today's Theological Climate?" The Journal of Ministry and Theology 27/1 (Spring 2023): 3–20.

*2:ハンメルによれば、「ディスペンセーション主義」が活字で最初に使われたのは、マウロの1927年の著作How Long to the End?とのことです(Daniel G. Hummel, The Rise and Fall of Dispensationalism: How the Evangelical Battle over the End Times Shaped a Nation (Grand Rapids: Eerdmans, 2023), 3)。Brethren Archiveで公開されているマウロの著作の中では、「ディスペンセーション主義」が使われた最も古いものは1928年出版のThe Gospel of the Kingdom with an Examination of Modern Dispensationalismです。参照:Todd R. Mangum, The Dispensational-Covenantal Rift: The Fissuring of American Evangelical Theology from 1936 to 1944, Studies in Evangelical History and Thought (Eugene, OR: Wipf and Stock, 2007), 6 n. 16.

*3:Lewis Sperry Chafer, “Dispensationalism,” Bibliotheca Sacra 93 (October 1936): 390. この論文は1844年創刊の米国で最も古い神学論文誌Bibliotheca Sacraで発表されたものであり、同誌で最初に“dispensationalism”という語が使われた論文でもあります。

*4:Online Etymology Dictionary, s.v. “dispensation.”(2025年1月25日閲覧)

*5:佐々木雄大「〈エコノミー〉概念の思想史──アリストテレスからピケティへ」(『Nύξ〔ニュクス〕』第1号、堀之内出版、2015年)12–21頁; 土橋茂樹「教父哲学におけるオイコノミア」(『Nύξ』第1号); 津田謙治「初期キリスト教教父思想におけるオイコノミア概念──否定神学、悪の問題を手掛かりとして──」(『宗教研究』第91巻第2号、2017年、153–75頁); BDAG, 697–98; NIDNTTE, 3:465–69.

*6:参照:佐々木「〈エコノミー〉概念の思想史」20–27頁; James I. Fazio, “New Testament Era (AD 30–100),” in Discovering Dispensationalism: Tracing the Development of Dispensational Tought from the First to the Twenty-First Century, ed. Cory M. Marsh and James I. Fazio (El Cajon, CA: SCS Press, 2023), 26–28, 40–42.

*7:佐々木「〈エコノミー〉概念の思想史」20頁。参照:土岐正策〔訳〕『キリスト教教父著作集13 テルトゥリアヌス1』(教文館、1987年)90頁注2

*8:神学用語、あるいは神学的概念としてのディスペンセーションは、新約におけるオイコノミアの用例(例:Ⅰコリ9:17; エペ1:10; 3:2; コロ1:25)、また派生語であるオイコノモス(οἰκονόμος;管理人、管財人、役人などの意味)の用例(例:ルカ12:42; 16:1–8; Ⅰコリ4:1–2)に基づいて形成されてきました。オイコノミアやオイコノモスの聖書的用例と絡めた詳細な考察は以下の文献をご参照ください。チャールズ・C・ライリー『ディスペンセイション主義』改訂増補版、前田大度訳(エマオ出版、2022年)29–41頁; Craig A. Blaising and Darrell L. Bock, Progressive Dispensationalism, paperback ed. (Grand Rapids: Baker, 2000[1993]), 106–16; Glenn R. Kreider, “What is Dispensationalism? A Proposal,” in Dispensationalism and the History of Redemption: A Developing and Diverse Tradition, ed. D. Jeffrey Bingham and Glenn R. Kreider (Chicago: Moody, 2015), 22–27; Fazio, “New Testament Era.”

*9:拙稿参照

*10:時代」精選版 日本国語大辞典小学館)(2025年1月25日閲覧)

*11:例:C. I. Scofield et al., ed., Scofield Reference Bible, New and improved ed. (New York: Oxford University Press, 1917), 5; Kreider, “What is Dispensationalism?” 21; Michael J. Vlach, Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths, rev. ed. (Los Angeles: Theological Studies Press, 2017), 70.

*12:「時代」精選版 日本国語大辞典

*13:ライリー『ディスペンセイション主義』37–38頁

*14:参照:Craig A. Blaising, s.v. “Dispensation, Dispensationalism,” in Evangelical Dictionary of Theology, 3rd ed., ed. Daniel J. Treier and Walter A. Elwell (Grand Rapids: Baker, 2017), 248; Richard A. Muller, Dictionary of Latin and Greek Theological Terms, 2nd ed. (Grand Rapids: Baker, 2017), s.v. “oeconomia foederis”; “oeconomia salutis.”

*15:参照:Blaising and Bock, Progressive Dispensationalism, 116–17; Larry V. Crutchfield, "Rudiments of Dispensationalism in the Ante-Nicene Period Part 2: Ages and Dispensations in the Ante-Nicene Fathers," Bibliotheca Sacra 144 (Oct.–Dec. 1987): 377–401.

*16:参照:ウェストミンスター信仰告白7.2。また、Muller, Dictionary of Latin and Greek Theological Terms, 239–40(s.v. “oeconomia foederis”)では、改革派神学の伝統において、旧新約のディスペンセーションが「アダムからノア、ノアからアブラハムアブラハムからモーセモーセからキリスト、そしてキリストから世の終わりまで」という区分で理解されてきたと指摘されています。伝統的なディスペンセーション主義におけるディスペンセーションの区分は、この改革派的理解に非常に近いものです(参照:Louis Berkhof, Systematic Theology (Edinburgh: The Banner of Truth Trust, 1958), 293–300)。

*17:John S. Feinberg, “Systems of Discontinuity,” in Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship between the Old and New Testaments, ed. John S. Feinberg (Wheaton, IL: Crossway, 1988), 68–69. たとえばディスペンセーション主義者であるチェイファーやライリーと、ディスペンセーション主義を強く攻撃したラッドとの間でも、ディスペンセーションの区分という考え方が聖書研究者の間で一般的に見られるということは共通見解でした。参照:Chafer, “Dispensationalism,” 391; ライリー『ディスペンセイション主義』53–54頁; ジョージ・エルドン・ラッド『終末論』安黒務訳(いのちのことば社、2015年)8頁。
 近年のディスペンセーション主義者の間でも、ディスペンセーションという概念の定義を用いてディスペンセーション主義を定義しようという方向性は見られます。参照:Kreider, "What is Dispensationalism?" 22, 27; Fazio, "New Testament Era," 45; idem, "Traditional Dispensationalism" Journal of Biblical and Theological Studies Online, 2023. しかし、これまで述べてきたような理由から、それは困難な道のりではないかと感じています。

*18:Roy L. Aldrich, "A New Look at Dispensationalism," Bibliotheca Sacra 120 (Jan. 1963): 43.

*19:参照:Stallard, "Toward a Definition of Dispensationalism," paper presented at the Council on Dispensational Hermeneutics, September 22, 2010.

*20:ここではまず、前田による邦訳版『ディスペンセイション主義』に基づき、ライリーが用いた“sine qua non”に「必須条件」という訳語を充てています。

*21:私は2016年時点では、ディスペンセーションの定義とライリーの必須条件を組み合わせ、ディスペンセーション主義という立場を定義しました(拙稿「ディスペンセーション主義とは何か?(4)」)。同様の考え方は以下でも見られます。アーノルド・フルクテンバウム「ディスペンセーショナリズムとは何か─体系的な聖書理解を求めて─」2016年フルクテンバウム博士セミナーテキスト(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2016年)8頁; 中川健一『ディスペンセーショナリズムQ&A』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2019年)23–26頁

*22:ライリー『ディスペンセイション主義』53–58頁。表現は中川『ディスペンセーショナリズムQ&A』23–26頁に基づきました。

*23:Charles C. Ryrie, s.v. "Dispensationalism," in Dictionary of Premillennial Theology, ed. Mal Couch (Grand Rapids: Kregel, 1997), 94. エンズはライリーの必須条件のうち1. イスラエルと教会の一貫した区別と2. 字義通りの解釈を用いて、これらを含む「解釈の体系」としてディスペンセーション主義を定義しています(Paul Enns, The Moody Handbook of Theology, rev. and exp. ed. (Chicago: Moody, 2014), 553)。

*24:Feinberg, "Systems of Discontinuity," 71–85. 各項の表現はフルクテンバウム「ディスペンセーショナリズムとは何か」12頁より引用しました。

*25:Vlach, Dispensationalism, 30–50.

*26:聖書解釈学に関するシカゴ声明、第15条「聖書を文字通りの、もしくは普通の意味にしたがって解釈することの必要性を、われわれは主張する。文字通りの意味とは、文法的歴史的意味、すなわち記者が表現した意味である。文字通りの意味にしたがう解釈は、聖書本文に見られるあらゆる言い回しと文学様式を考慮する。/文字通りの意味が支持しない意味を聖書に帰するような研究方法の正当性を、われわれは否定する。」“The Chicago Statement on Biblical Hermeneutics,” Article XV. 訳文は宇田進『福音主義キリスト教福音派』(いのちのことば社、1993年)272頁より。参照:Vlach, Dispensational Hermeneutics: Interpretation Principles that Guide Dispensationalism's Understanding of the Bible's Storyline, (N.p.: Theological Studies Press, 2023), 25.

*27:Lionel J. Windsor, Reading Ephesians and Colossians after Supersessionism: Christ's Mission through Israel to the Nations, New Testament after Supersessionism (Eugene, OR: Cascade, 2017), 6–17. ヴラックは一部の契約神学者が非置換神学的であることを認めています(Vlach, The New Creation Model: A Paradigm for Discovering God's Restoration Purposes from Creation to New Creation [Cary, NC: Theological Studies Press, 2023], 274–77, 295–96, 358–61)。さらに、彼はジェラルド・マクダーモットによる“New Christian Zionism”というコンセプトについて考察した結果、「New Christian Zionismは、国家的イスラエルの重要性を信じているのがディスペンセーション主義だけではないことを示している」と述べています(ibid., 381; 参照:Gerald R. McDermott, ed. The New Christian Zionism: Fresh Perspectives on Israel and the Land [Downers Grove, IL: InterVarsity, 2016]; idem, Israel Matters: Why Christians Must Think Differently about the People and the Land [Grand Rapids: Brazos, 2017])。

*28:John F. Walvoord, The Millennial Kingdom, 92.

*29:Blaising, “Developing Dispensationalism Part 2: Development of Dispensationalism by Contemporary Dispensationalists,” Bibliotheca Sacra 145 (Jul.–Sept. 1988): 267. 参照:ウェストミンスター信仰告白2.1, 2; J・I・パッカー『聖書教理がわかる94章──キリスト教神学入門』篠原明訳(いのちのことば社、2012年)84頁

*30:ライリー『ディスペンセイション主義者』53頁

*31:Fazio, "New Testament Era," 43.

*32:Mark S. Sweetnam, "Defining Dispensationalism: A Cultural Studies Perspective," Journal of Religious History 34/2 (June 2010): 196.

*33:Fazio, "New Testament Era," 43.

*34:Michael J. Svigel, "The History of Dispensationalism in Seven Eras," in Dispensationalism and the History of Redemption, 86.

*35:Blaising and Bock, "Dispenastionalism, Israel, and the Church: Assessment and Dialogue," in Dispensationalism, Israel and the Church: The Search for Definition, ed. Blaising and Bock (Grand Rapids: Zondervan, 1992), 378–79.

*36:未来主義千年期前再臨説(futuristic premillennialism)とは、千年王国だけではなく、それに先立つ患難の時代も含め、終末について預言されている事柄が未来に起こるという「未来主義」(futurism)に立つ千年期前再臨説です。ブレイジングおよびボックは、終末預言の出来事が現在も含む歴史上で実現していると考える「歴史主義」(historicism)と対比するため──特に、終末預言の出来事を今日の状況と過度に結びつける姿勢との対比を強調するため、未来主義千年期前再臨説に言及しています(Blaising and Bock, Progressive Dispensationalism, 19)。

*37:Blaising and Bock, Progressive Dispensationalism, 13–21.

*38:Svigel, “The History of Dispensationalism in Seven Eras,” 70. 強調=原著者。

*39:Sweetnam, "Defining Dispensationalism."

*40:David W. Bebbington, Evangelicalism in Modern Britain: A History from the 1730s to the 1980s (London: Unwin Hyman, 1989), 2–17.

*41:Sweetnam, "Defining Dispensationalism," 197–98.

*42:Cory M. Marsh and James I. Fazio, "Retrospect and Prospect of Dispensational Thought," in Discovering Dispensationalism, 355–64. 参照:Marsh, "Correcting Age-Old Misconceptions," in Discovering Dispensationalism, 7–9.

*43:Blaising and Bock, Progressive Dispensationalism, 13–21.

*44:Sweetnam, "Defining Dispensationalism," 198.

*45:Marsh and Fazio, "Retrospect and Prospect of Dispensational Thought," 364.

*46:ここでの代替説(supersessionism)とは「神の民としての国家的イスラエルが、新約聖書の教会という新しい(真の)イスラエルによって永遠に置き換えられた」という見解を指します(Vlach, Has the Church Replaced Israel? A Theological Evaluation (Nashville, TN: B&H, 2010), 12; idem, The Church as a Replacement of Israel: An Analysis of Supersessionism, Edition Israelogie (Frankfurt: Peter Lang, 2009), 27)。この見解に対する「代替説」という表記は、武田武長『ただ一つの契約の弧のもとで ユダヤ人問題の神学的省察』(新教出版社、2020年)15–16頁より引用しました。また、ここでは置換神学(replacement theology)も代替説の同義語として扱っています。参照:Vlach, The Church as a Replacement of Israel, 25; Ronald E. Diprose, Israel and the Church: The Origins and Effects of Replacement Theology (Downers Grove, IL: InterVarsity, 2000), 29; Walter C. Kaiser, Jr., “An Assessment of 'Replacement Theology': The Relationship between the Israel of the Abrahamic-Davidic Covenant and the Christian Church,” Mishkan 71 (2013): 41; Ralph J. Korner, “Post-Supersessionism: Introduction, Terminology, Theology,” Religions 13/12 (December 2022): 2.
 なお、代替説というラベルが使われる多くの場合「イスラエルユダヤ人が教会に代替された」という点は一致していますが、使用される文脈によっては異なるニュアンスが含まれている場合もあります。この点については、以下を参照してください。Matthew A. Tapie, Aquinus on Israel and the Church: The Question of Supersessionism in the Theology of Thomas Aquinus (Eugene, OR: Pickwick, 2014), 9–24; Stanley E. Porter and Alan E. Kurschner, “Defining Supersessionism: An Introduction,” in The Future Restoration of Israel: A Response to Supersessionism, ed. Porter and Kurschner, McMaster Biblical Studies Series (Eugene, OR: Pickwick, 2023), 2–6.

*47:Larry D. Pettegrew, "Dispensationalism: A Step Up for the 'Israel of God,'" in Forsaking Israel: How It Happened and Why It Matters, 2nd ed., ed. Larry D. Pettegrew (The Woodlands, TX: Kress, 2021), 210. 強調=引用者。参照:Lynda O., "Thoughts on Theological Labels: 'Futurist Premillennialism,'" Scripture Thoughts, March 21, 2014.

*48:John MacArthur, "Preface," in Christ's Prophetic Plans: A Futuristic Premillennial Primer, ed. John MacArthur and Richard Mayhue (Chicago: Moody, 2012), 9.

*49:Stallard, "The Term Dispensationalism," 17.

*50:Pettegrew, "Dispensationalism," 210.

*51:Paul Martin Henebury, The Words of the Covenant: A Biblical Theology, Volume 1: Old Testament Expectation (Maitland, FL: Xulon Press, 2021); The Words of the Covenant: A Biblical Theology, Volume 2: New Testament Continuation (Raleigh, NC: Sojourner Press, 2024).

*52:Stallard, "The Term Dispensationalism," 18–20.

*53:Ibid., 20.

*54:Ibid.