軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

終末論と聖書預言に関する参考文献(1)解釈論

聖書神学舎教師会編『聖書信仰とその諸問題』(いのちのことば社、2017年)

  • 福音主義の保守的聖書信仰(いわゆる聖書の「無誤性」を信じる立場)の再主張となっている本。

D.A. Carson, ed. The Enduring Authority of the Christian Scriptures. Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2016.

John MacArthur, ed. The Inerrant Word: Biblical, Historical, Theological, and Pastoral Perspectives. Wheaton, IL: Crossway, 2016.

バーナード・ラム『聖書解釈学概論』村瀬俊夫訳(聖書図書刊行会、1963年)

  • 「もう古い」と言われるかもしれないが、やっぱり福音主義の聖書解釈を考える上では読まざるを得ないでしょう。
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私の読書(7)山本健吉『正宗白鳥─その底にあるもの─』

こんなブログでも、閲覧してくださる方々がいらっしゃるのは、本当に有り難いことだ。当ブログのアクセス解析を覗いてみると、最もアクセス数が多いのは「遠藤周作の『沈黙』について」で、その後にはイスラエル、聖書信仰、ディスペンセーション主義に関する記事が続いている。タイムリーな本や、神学的にタイムリーな話題を扱えばアクセス数がぐんと跳ね上がるのは重々承知しているのだが、いつもいつもそういった話題を追いかけるのは疲れる。せっかく趣味で始めたブログなのだから、その時々考えていること、また自分が好きな話題で細々と書き続けていきたいと思う。

そこで、今回も懲りずに正宗白鳥である。ただし、最も最近読んだのは白鳥本人の作ではなく、白鳥に関するいわゆる作家論だ。山本健吉正宗白鳥──その底にあるもの──』(昭和50年)は、白鳥の死後13年が経って刊行された。

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私の読書(6)正宗白鳥『内村鑑三─如何に生くべきか─』

正宗白鳥内村鑑三・我が生涯と文学』(講談社、1994年)

この前は若きキリスト者学生会主事らによる『生き方の問題なんだ。』を取り上げたが、訳あって正宗白鳥という作家の紹介から記事を始めた。最後の方でも白鳥に言及した。そうした訳のひとつは、白鳥が自身の内村鑑三論に「如何に生くべきか」という副題をつけていたからだった。『生き方の問題なんだ。』に手を出したのは、内村と白鳥という2人について思いを巡らす中で、この「如何に生くべきか」という問題を自分にも引きつけて考えようと思ったからだった。

十代の頃から「如何に生くべきか」を追い求めて、内村鑑三らを通してキリスト教に近づき、離れ、また内村に近づき……ということを繰り返してきた白鳥の人生は、とても興味深い。しかも彼が繰り返し近づき離れていったのは、聖書をそのままに信じていく福音主義キリスト教だった。「如何に生くべきか」を問うて一人の福音主義者である内村鑑三から、また聖書そのものから、白鳥はこの問題をどう考えていったのだろう。

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私の読書(5)大嶋重徳ほか『生き方の問題なんだ。』

大嶋重徳・桑島みくに・佐藤勇・吉村直人『生き方の問題なんだ。』(いのちのことば社、2017年)

今はもうあまり読まれなくなっているのかもしれないが、正宗白鳥という作家がいる。小説家でもあったが、むしろ批評家・評論家としての評価が高い作家である。彼は1879年生まれ、1962年没なので、明治期に生まれ、敗戦まで経験した。彼は若き日に内村鑑三に魅せられたものの、その後は反キリスト教的な、ニヒリズムに満ちた評論を書き続けた。しかし終戦後、彼は若き日の師・内村を考え直さざるを得なくなり、長編評論『内村鑑三』を1950年に上梓する。改めて内村と向き直った白鳥は、その評論に「如何に生くべきか」という副題をつけた。白鳥が再び内村から学び取ろうとしたのは、その「生き方」だったのである。

白鳥が惹かれていったキリスト者内村鑑三の「十字架を仰ぎ見、復活に希望を置き、再臨を待ち望み、大なる希望の中に善行を力む」という「生き方」を考える中で、やはりキリスト者である私自身が「如何に生くべきか」を考えざるを得なかった。それで、今年の2月に出版されていた本書の存在を思い出し、急いで取り寄せて目を通してみた。

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私の読書(4)内村鑑三の著作色々

私の地元である群馬県には「上毛かるた」という郷土かるたがある。このかるたの読み句を見ていくと、内村鑑三新島襄という、明治期の有名なクリスチャンが2人登場している。試しに、群馬出身のクリスチャンに「上毛かるたの『こ』って何?」「『へ』って何?」と訊いてみてください。小学校辺りまで群馬で過ごした人であれば、きっとすぐに「心の燈台 内村鑑三」「平和の使徒(つかい) 新島襄」と返って来ると思う。だから群馬出身である私にとって、「内村鑑三」というのは、初めてその名前を覚えたクリスチャンの一人なのだ。今でもその名前を聞くと、左上に十字架が黄色く輝き、その下で温和な顔つきで丸い顔のおじいさんが佇んでいるという、かるたの絵札を思い出すことができる。

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