軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

創世記1:1の「天と地」の意味

前回:創世記1:1〜3の構成

前回は創世記1:1〜3の構成に触れ、創世記1:1は「天と地の創造」という、創造の六日間における最初の出来事を示しているという結論をご紹介しました。

今回は創世記1:1の「天と地」という表現に注目していきましょう。

世界/宇宙全体を示す表現

ギャップ・セオリーを含む創世記1:1–3に関する諸見解の中では、1節の「天と地」という表現をどのように理解すべきかという点でも意見が分かれています。まず、立場を問わず研究者がおおむね一致している点は、「天と地」(ハシャマイーム・ウェエット・ハアレツ)という表現が世界や宇宙全体を表しているということです*1。多くの場合、これはメリスムス(or メリズム)という表現であると指摘されています*2

メリスムスは2つの対照的な言葉を組み合わせて全体性を示す表現手法です。津村は次のように述べています。

この「天と地」という表現は,両極にある二つの事柄を意味する対立関係にある二つの語を並記することによって,その二つの間にある「すべて」のものを指し示すメリスムス(merismus)の表現である.*3

たとえば「日夜」、「南北」、「生死」といった表現がメリスムスに当たります。一般的な結婚式の誓いの言葉でも「病める時も、健やかなる時も」と「富める時も、貧しき時も」という二つのメリスムスが組み合わされています。聖書では「天と地」のほかに「ダンからベエル・シェバ」(士20:1; Ⅰサム3:20; Ⅱサム3:10など)、「座るのも立つのも」(詩139:2)、「小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも」(黙13:16; 参照:同6:15; 19:18)など、数多くのメリスムスが登場します。

しかしながら、創世記1:1の「天と地」が被造世界全体を意味するメリスムスだと理解されているとしても、この表現の具体的な理解は諸見解によって異なっています。

  • 伝統的立場
    • 1節の「天と地」は創造されたものの完成への途上にある(つまり未完成な)世界または宇宙
    • 2節では特に「地」の未完成な状態が述べられ、3節以降で完成形に向けて整えられていく。
  • 古典的/修正ギャップ・セオリー
    • 1節の「天と地」は現在の世界とは異なる、破壊され荒廃する前の完ぺきな世界/宇宙
  • 創造前カオス説や創造前カオス・ギャップ・セオリー
    • 「天と地」は完成され秩序立てられた世界/宇宙
    • ただし、古典的/修正ギャップ・セオリーが主張するような破壊前の世界ということではない。
    • 「天と地」は(再)創造が完成した視点からの世界/宇宙を示す。

創造前カオス説に立つウォルトキは、「天と地」が「すべて」を意味するメリスムスであり、常に完成した「秩序立てられた宇宙」全体を意味する表現であるということを強調しています。それを否定する伝統的立場(原初カオス説)の「天と地」理解は、「平易かつ単純な意味」とはいえないというのがウォルトキの主張です*4。伝統的立場を採用するケネス・A・マシューズも、「天と地」というメリスムスが創造前カオス説や要約説の「最も有力な論拠」であり、伝統的立場にとっては「最も重要な障害」であることを認めています*5

ウォルトキはまず、聖書において「天と地」という組み合わせの表現が常に「秩序立てられた宇宙」を示していることを指摘しています*6。また、この表現はメリスムスであるため、「天と地」は一体の表現として理解すべきで、「天」と「地」それぞれに分割して考察されるべきではないとも言われています*7。すなわち、「天と地」という表現は、構成要素である「天」と「地」単体の用例から切り離して理解されなければならないということです。以上の主張が正しければ、「地」だけに注目し、しかもその「地」が不完全な状態が述べられている2節は1節の状況説明になり得ないことになります*8

以上のウォルトキの主張は、1節を要約として理解することを支持するもので、伝統的立場だけではなく古典的ギャップ・セオリーやソフト・ギャップ・セオリーの可能性も排除します*9。しかし、「天と地」が常に完成した「秩序立てられた宇宙」を示すという点に関しては、古典的/修正ギャップ・セオリーの根拠となり得る主張になっています。

それでは、伝統的立場からはどのような応答が可能なのでしょうか。

メリスムスにおける構成要素の重要性

まず、「天と地」という表現を単純に「すべて」(everything)と同じ意味だと捉えて単独の「天」や「地」を無視する場合、1節と2節で「地」が共通要素になっているという繋がりを失うことになります*10

前回で見たように、ヘブル語本文では1節の最後で「天と地」(ハシャマイーム・ウェエット・ハアレツ)が言及された後、2節の冒頭でワウ+「地」(ハアレツ)が言及されています。このような流れでは、1節と2節が「地」というキーワードで関連していると理解するのが自然です。しかし、「天と地」と単体の「地」を完全に切り離してしまうと、「地」への言及で繋がっているという事実が無視されてしまいます。

実際のところ、メリスムスにおいて構成要素は無視できるものではなく、むしろポイスレスが指摘しているように「メリスムスの意味は構成要素の意味から推測」されます*11。また、メリスムスが全体性を表しているとしても、常に「すべて」という単純な表現に置き換えることができるとは限りません。多くの場合、メリスムスが示す全体性は構成要素によって「視点」を定められています。

たとえば、「ダンからベエル・シェバまで」という表現は北から南までという全体性を示していますが、「ダン」と「ベエル・シェバ」という地名によって、「約束の地の全体」という視点が定められています。

また、黙示録13:16では「すべての者」に対して、「すなわち、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも」というメリスムスによる補足説明が付け加えられています。ここでは著者が「獣」によって「刻印を受けさせ」られた人々の幅広さを強調する中で、3つのメリスムスが組み合わされています。しかし、3つのメリスムスそれぞれを単に「すべての者」と言い換えてしまうと、複数のメリスムスを用いた著者の意図が無視されてしまうように思われます。1つ目の表現は「小さい者」と「大きい者」という、おそらく社会的地位に注目したものです*12。2つ目の表現「富んでいる者にも貧しい者にも」では経済状態が、3つ目の表現「自由人にも奴隷にも」は自由(市民権)の有無が注目されています。このように、それぞれのメリスムスは「すべての者」を表すにしても視点が限定されています。黙示録の著者は地位、経済状態、自由の有無それぞれに着目した複数のメリスムスを使うことで、「すべての者」の幅広さを強調しているのです*13

同じようなことが、一般的な結婚式の誓いの言葉にも当てはまります。「あなたは……病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、妻/夫として……慈しむことを誓いますか」という言葉では、「いつでも」を強調するために「病める時も、健やかなる時も」と「富める時も、貧しき時も」という2つのメリスムスが組み合わされています。その中でも前者は健康状態に、後者は経済状態に焦点が当てられた表現です。

したがって、メリスムスは単純に「すべてのもの」(everything)や「すべての者」(everyone)と言い換え可能な表現ではありません。あるメリスムスが表す全体性を理解するためには、まず構成要素となっている2つの言葉に注目し、その視点を理解する必要があります*14

この考え方に基づくと、「天と地」という表現は「天」と「地」という領域、または空間に注目したものだといえるでしょう*15。たとえば、申命記31:28では「私は天と地を彼らに対する証人に立てる」と言われていますが、すぐ後の32:1では同じことが「天よ、耳を傾けよ。私は語ろう。地よ、聞け。私の口のことばを」と、「天」と「地」に分けて説明されています。

また、エレミヤ32:17の「あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました」と同様なことが、51:15で「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を張られた」と表現されています。後者では「天と地」が「地」と「天」に分けられており、両節の関連によって32:17の「天と地」も51:15の「地」と「天」も被造世界の領域を指していることが示されています*16

旧約では申命記32:1やエレミヤ51:15のように「天」と「地」がセットでありながら別々に使われている例が数多く見られます。ポイスレスは次の8つの例を挙げています*17

  1. 創27:28「天の露と地の肥沃」
  2. レビ26:19「あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする」
  3. 申4:36「天から御声を聞かせ、地の上では大いなるご自分の火を見せられた」
  4. 申10:14「天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものでは」
  5. 申11:21「天が地の上にある日数のように」
  6. ヨシ2:11「上は天において、下は地において」
  7. イザ24:11「天では天の大軍を、地では地の王たちを」
  8. イザ66:1「天はわたしの王座、地はわたしの足台」

以上の例はいずれも、「天」と「地」の組み合わせによって全体性が表現されています。しかし、それぞれの場合では「天」と「地」それぞれにある物や人を含めた「すべてのもの」が示されているのではなく、「天」と「地」という領域に着目した全体性が表されています。

創世記1:1と近い文脈では、2:1の「こうして天と地とその万象が完成した」という表現に注目すべきです。そこでは「天と地」だけではなく、そこにある「万象」も言及されているため、「天と地」だけを「すべてのもの」と言い換えることはできません*18。「天と地」はあくまでも「万象」が存在する領域を示しているのです。創造の記事(1:1–2:3)の結論近くで「天と地」を「すべてのもの」に言い換えることができないとすれば、1:1の「天と地」も「すべてのもの」に読み替える必要はないように思われます。

以上のように、「天と地」を被造物の文字通り「すべて」を意味する専門的な表現として捉える必要はありません。この理解は、「天」と「地」という構成要素に注目することによって得られます。すなわち、「天と地」という表現の意味は「天」と「地」それぞれと密接に関連しているのです。したがって、「天と地」という表現を構成要素から完全に切り離して理解することはできません。

「秩序立てられた」という要素の必要性?

古典的/修正ギャップ・セオリー、創造前カオス説、創造前カオス・ギャップ・セオリーで重要になっているのは、「天と地」が秩序立てられた完成形の宇宙を表しているという理解です。上記の立場では2節の「茫漠として何もなく」(トーフー・ワ・ボーフー)が混沌を示す表現として理解されているため、1節の秩序立てられた「天と地」がトーフー・ワ・ボーフーであったと考えることはできません。また、2節の「地」は未完成の状態であるため、1節で言及されている完成形の「地」と同一視することはできません。

ポイスレスはこの点に対して、「秩序立てられた」(organized or ordered)という意味が不明瞭であることを指摘しています*19。実際のところ、2節の状態でも地の上に大水があり(9節参照)、大水の上に空間があり、そこを神の霊が動いているという一種の「秩序」が見られます*20。単に「秩序立てられた」状態であるべきというのであれば、2節の「地」の状態もそのように見なされるべきです。

ギャップ・セオリーや創造前カオス説の主張では、むしろ「天と地」が完成形の世界/宇宙を表しているという点が重要であるように思われます。しかし、「天と地」というメリスムスの意味に「秩序立てられた」や「完成形」という要素を含める必要はありません。

ウォルトキは「天と地」が秩序立てられた宇宙を表している例として創世記2:1, 4を挙げていますが、そのどちらからも彼の主張とは異なる結論が導き出されます。

まず創世記2:1では「天と地(とその万象)」が「完成した」と言われています。この表現は、「天と地」というメリスムスで表現されている対象物が「完成した」という状態に向かうプロセスがあったことを示唆しています。よって、そのプロセスの途上にある対象物を表す場合にも「天と地」という表現を用いることは適切だと考えられます*21

また、2:4では「これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が、地と天を造られたときのこと」と、「天と地」が「地と天」と語順を入れ替えた形で繰り返されています。前回論じたように、「経緯」(トーレドート)を含む4節aは4節b以降の物語のタイトルであると考えられます。そして、そのタイトルは続く文章に先行する事柄を示しています。5–6節では「野の灌木もなく、野の草も生えていなかった」状態が述べられており、7節で人間が創造されます。よって、4b–7節の段階では、取り上げられている「地と天」は完成形ではありません。それゆえ、先行する「天と地が創造されたときの経緯である」というタイトルに含まれる「天と地」も、完成形の世界/宇宙として理解する必要はないものと考えられます。

仮に「地と天を造られたとき」という4節bの表現に1:1–31の期間全体が含まれるとしても、「地と天」は始まりと終わりを含むすべてのプロセスを通過した世界/宇宙として理解され得ます。よって、その場合でも2:1と同様に、プロセスの途上にある世界/宇宙を「天と地」または「地と天」と呼ぶことが可能です*22

創世記2:1, 4における「天と地」の用例は、この表現に「秩序立てられた」や「完成形」といったニュアンスを読み込む必要がないことを示しています。また、先に確認した他の箇所の用例においても、このメリスムスが持っている視点は「領域」や「空間」であり、「秩序立てられた」や「完成形」という側面は強調されていません*23。メリスムスそのものが、本来は単に全体性を強調する表現です*24

確かに、旧約では多くの場合、「天と地」が創造のプロセスをすべて経た後の世界に使われています。しかし、それらの用例は神が創造を終えた後という文脈にあることを無視すべきではありません。創世記1章の文脈で扱われているのは世界の創造という「唯一無二の出来事」です*25。よって、1:1の「天と地」は「創造という例外的な出来事そのものに関わっているため、ここでは特別な意味で使われている可能性がある」ものと考えられます*26。むしろ「完成された宇宙という意味に固執することは、この表現を他の箇所の用例に従わせ、創世記1章の文脈的要求を無視することに」なりかねません*27

マーク・F・ルーカーが指摘しているように、宇宙の創造や創造における宇宙の初期段階という特殊な文脈では、それを表現するために「天と地」以外にどのような表現を使えば良いのかという疑問が生じてきます*28。著者はこの出来事の目撃者ではないため、描写するためには自分が知っている世界(秩序立てられた完成形の世界)との類比(analogy)を用いるしかありません*29。よって、創世記1章で「天と地」といった表現が使われているとしても、それが既に秩序立てられた完成形を指していると考える必要はないのです。

たとえば、ポイスレスは「世界」という言葉を例にとっています*30。一般的に「世界」は何らかの形で秩序立てられた世界(金融界、音楽界、古代ギリシャ世界など)に使われるものですが、類比として使う場合には、その限りではありません。彼は類比として使われている「天と地」や「地」を「世界」に置き換え、創世記1:1–3を次のように読み替えてみせます。「はじめに神は世界を創造された。世界は形なく空しく、闇が覆っていた。そして神は仰せられた。『光、あれ』」

そして、次のように指摘しています。

2文目の「世界」は現代の秩序立てられた世界という通常のパターンと「矛盾」しているように思われる。しかし、一般的な読者は矛盾を感じるだろうか。一般的な読者は著者が一般的ではない用法で表現を使っているのを見て、その表現がより自由な、または派生的な意味で使われていることをすぐに理解できるのではないだろうか。*31

以上の指摘と「同様なことが、『天と地』というヘブル語表現の根底にある類比にも当てはま」ります*32。創世記1:1–3の語りの流れにおいて、当時の読者または聴衆が「天と地」を完成形の世界を表す専門的表現としか捉えられなかったとは思われません。初期ユダヤ教文献で「天と地」が第一日に創造されたという考え方が見られることは(前回参照)、当時の読者/聴衆が「天と地」を「宇宙の初期段階」を表すものとして理解できた可能性を示唆しています*33。「天と地」の意味を「秩序立てられた完成形の世界/宇宙」に限定することは、むしろ「言語の柔軟性と、言語における意味の柔軟性」を過小評価しているように思われます*34

さて、ギャップ・セオリーの主張で最重視されているのは創世記1:2の内容です。次回からは、創世記1:2の内容を詳しく見ていきたいと思います。

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*1:例:Gordon J. Wenham, Genesis 1–15, WBC (Waco, TX: Word, 1987), 15; Kenneth A. Mathews, Genesis 1:1–11:26, NAC (Nashville, TN: B&H, 1996), 130; Arnold G. Fruchtenbaum, The Book of Genesis, Ariel's Bible Commentary (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2008), 39.

*2:例:Bruce K. Waltke, “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅲ: The Initial Chaos Theory and Precreation Chaos Theory,” Bibliotheca Sacra 132 (April–June 1975): 218; Allen P. Ross, Creation and Blessing: A Guide to the Study and Exposition of Genesis (Grand Rapids: Baker, 1996), 106; John H. Sailhamer, “Genesis,” in EBC-R, 1:53; Vern S. Poythress, “Genesis 1:1 is the First Event, Not a Summary,” WTJ 79/1 (Spring 2017): 102; 松本任弘「創世記」『新実用聖書注解』宇田進・富井悠夫・宮村武夫共編(いのちのことば社、2008年)121頁;ドン・バッテン編『聖書に書かれた「創造」の疑問に答える』安井亨訳(バイブル・アンド・クリエーション、2009年)65–66頁;津村俊夫「『無からの創造』の教理とトーフー・ワ・ボーフー」『古代におけるモーセ五書の伝承』秦剛平・守屋彰夫共編(京都大学学術出版会、2011年)56頁。
 なお、伝統的立場のZoschkeは「天と地」が「すべて」を意味するメリスムスであるという理解を批判しています(“Critique of the Precreation Chaos Gap Theory,” 58–60)。彼は旧約における「天と地」という表現の種類を事細かに分類した上で議論を展開していますが(ibid., 68–70)、その手法では定冠詞の有無などによる違いが強調されすぎているように思われます。Poythress, “Genesis 1:1,” 102–14で見られるようなメリスムスの適切な理解は、Zoschkeが固守しようとしている伝統的立場を脅かすものにはなりません。

*3:津村「『無からの創造』の教理とトーフー・ワ・ボーフー」56頁

*4:Waltke, “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅲ,” 217–18.

*5:Mathews, Genesis 1:1–11:26, 140, 142.

*6:Waltke, “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅲ,” 217–18. 似た主張としてMultiple Faculty Contributors, “Genesis,” in The Moody Bible Commentary, ed. Michael Rydelnik and Michael Vanlaningham (Chicago: Moody, 2014), 35もご参照ください。

*7:Waltke, “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅲ,” 218.

*8:Ibid., 218–19.

*9:Fruchtenbaumの修正ギャップ・セオリーでは創1:2が3節に対する状況説明だと見なされているため、Waltkeのメリスムス理解を肯定しても成立し得るかもしれません。

*10:Poythress, “Genesis 1:1,” 103.

*11:Ibid., 104.

*12:Robert L. Thomas, Revelation 8–22: An Exegetical Commentary (Chicago: Moody, 1995), 179.

*13:コロ1:16「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました」も「すべてのもの」の全体性が視点の違う3つのメリスムスによって補足されています。

*14:Poythressの言い方を借りれば、Waltkeのメリスムス理解では表現の指示物(referent)と意味(sense)が混同されてしまっているということになります(“Genesis 1:1,” 105)。

*15:Ibid., 107, 110–12.

*16:Ibid., 111.

*17:Ibid., 110–11.

*18:Ibid., 106–7.

*19:Ibid., 107.

*20:Ibid.

*21:Ibid., 108.

*22:Ibid., 108–12.

*23:Ibid., 108–12.

*24:Wenham, Genesis 1–15, 15.

*25:Ibid., 13.

*26:Mathews, Genesis 1:1–11:26, 142.

*27:Ibid.

*28:Mark F. Rooker, "Genesis 1:1–3: Creation or Re-Creation? Part 1," Bibliotheca Sacra 149 (July–September 1992): 319.

*29:Poythress, "Genesis 1:1," 113.

*30:Ibid., 113–14.

*31:Ibid., 114.

*32:Ibid.

*33:Rooker, "Genesis 1:1–3, Part 1," 319.

*34:Poythress, "Gensis 1:1," 112.