軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

修正ギャップ・セオリーとソフト・ギャップ・セオリー

前回:古典的ギャップ・セオリーへの反論

前回までは古典的ギャップ・セオリーの歴史とその見解に対する批判について、大まかに確認してきました。現在、古典的ギャップ・セオリーが主張されることは(少なくとも学術的には)ほとんどありません。しかし多くの批判がありながらも、ギャップ・セオリーそのものは主張され続けています。今回と次回では、何らかの点で古典的ギャップ・セオリーから修正が加えられた形で主張されている場合を見ていきます。

「非地質学的」or「修正」ギャップ・セオリー

伝統的ディスペンセーション主義に立つアーノルド・G・フルクテンバウムは、創世記1:1と2節の間に時間的ギャップが認められ、そのギャップの中でサタンの堕落〜さばきが起こったものと考えています。この考え方は以前の投稿で述べた狭義のギャップ・セオリーの定義に当てはまるもので、古典的ギャップ・セオリーの考え方とも共通しています。

一般的には、また狭義には、ギャップ・セオリーとは創世記1:1で「神が天と地を創造された」ことと、1:2で「地は混沌として……」(共同訳)という状態になったことの間に、時間的な隔たり(ギャップ)があったと考える見解を指します。 この立場では1節と2節の間にサタンの堕落と反乱(エゼ28:11–19参照)、またサタンとその軍勢に対するさばきがあったと見なされています。つまり、1節で神が本来の天地を創造された後に、サタンの堕落・反乱・さばきがあり、そのさばきの結果2節で地が「混沌」とした状態になっていると考えられているのです。

創世記1:1–2のギャップ・セオリーについて - 軌跡と覚書

フルクテンバウムの見解がチャーマーズ、ペンバー、スコフィールドらと異なっているのは、創世記の記事と現代科学を調和させようとする試みや、創造におけるギャップに数十億年のような長い期間を当てはめることが否定されている点です。よって、ある学者はフルクテンバウムの見解を「非地質学的」なギャップ・セオリーと称しています*1

フルクテンバウムはいくつかの文書で自身のギャップ・セオリーを主張していますが、最も詳細に論じられているのは彼による創世記の注解書です*2。彼は主に次のような形でギャップ・セオリーを論じています。

  1. 創世記1:2冒頭のワウは離接的ワウであり、「さて、地は……」と訳すことができる。ここでは1節の「天と地」のうち「地」が注目され、新しい情報が加えられている。また、2節では1節の結果ではなく、3節に向けた背景が伝えられている*3
  2. 2節で地に関して使われている動詞ハイェターは「になった」(became)と理解することができる(創3:20, 22; 21:20; 37:20)。その場合、2節の描写は地が「茫漠として何もなかった」のではなく、「茫漠として何もなくなった」という意味になる*4
  3. 1節の創造の時点では地が「茫漠として何もない」(トーフー・ワ・ボーフー)状態ではなく、最初の創造の後で「茫漠として何もない」状態になったという解釈は、神が地を「茫漠としたもの(トーフー)として創造せず、住む所として形造った方」であるというイザヤ45:18の内容と調和している*5
  4. 「茫漠として何もない」(トーフー・ワ・ボーフー)で使われているヘブル語トーフーとボーフーが合わせて使われている箇所は、他にイザヤ34:11とエレミヤ4:23だけで、どちらも神のさばきの結果が伝えられている。また、トーフーは必ず否定的な意味で使われており、中立的な意味で使われていることはない(申32:10; 1サム12:21; ヨブ6:18; 詩107:40; イザ24:10など)。以上の情報を合わせて考えると、トーフー・ワ・ボーフーは神のさばきによってもたらされた混沌(カオス)や荒廃の状態を表している*6
  5. 2節では「闇」が言及されており、闇は旧約聖書を通して神のさばきの象徴である(出10:15; 1サム2:9; ヨブ3:4, 5; 詩35:6; イザ8:22など)。よって、創世記1:2の「闇」もまた神のさばきの結果を示している*7
  6. 2節で言及されている「大水」(テホーム)は「塩の深淵」という意味であり、原始世界の海(詩104:6; 箴8:24; イザ51:10など参照)や「アビス」を表している。多くの聖書箇所で水のモチーフと竜(蛇、レビヤタン、ラハブ)のモチーフはともに用いられており、それらの箇所では敵に対する神の勝利が扱われていることが多い(イザ27:1; 30:7; 51:9–10; 黙12:1–17; 20:1–3など)。したがって、創世記1:2で混沌および闇とともに言及されている大水もまた、神のさばきの結果を表している*8
  7. エゼキエル28:11–16ではサタンの堕落や反乱が言及されているが、そこでサタンがいる「神の園、エデン」は「あらゆる宝石に取り囲まれて」おり(28:13)、これは創世記1–3章におけるエデンの園の描写とは合致しない。サタンが「神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いていた」(28:14)という描写についても同様である。このような記述と創世記1:1–2を調和させるには、1節で創造された世界は今と非常に異なったものであり、最初の創造の後でサタンの堕落・反乱とそれに対する神のさばきがあり、地が荒廃したと考えるほかない*9
  8. 黙示録21–22章の「新しい天と新しい地」には海がなく(21:1)、様々な宝石で覆われている(21:11, 18–21)。こうした状態は、これまでの情報から推測される最初の創造における地の状態と調和する。よって、新しい地は最初の創造におけるサタンの堕落以前の状態への回復であると考えることができる*10

彼がギャップ・セオリーの根拠として論じていることは、多くの点で古典的ギャップ・セオリーの支持者たち、特にペンバーやカスタンスの論点と共通しています。ただし、創世記1:2を1節から繋がるものではなく、3節の背景の記述と考えている点は次回紹介する「創造前カオス説」と組み合わされたギャップ・セオリーに立つ人々と共通しています。

既に述べたように、フルクテンバウムのギャップ・セオリーが古典的立場と大きく異なっているのは、創造の記事の解釈と地質年代や化石の存在との調和が試みられていない点です*11

彼は自然科学と調和させるために創造におけるギャップを主張することを誤った試みとして退けています。その際、彼は「聖書がアダムの堕落以前にどのような肉体的死も存在しなかったと教えている」ことを認めています。彼の場合、ギャップが存在したと考えるべき最大の根拠は「サタンの堕落」という事実と、2節のトーフー・ワ・ボーフーが混沌(カオス)を表しているという解釈です。したがって、ギャップが数十億年などの長い期間であったと考える必要はないと主張されています。

フルクテンバウムの考え方は、その根拠とされる論点の多くが従来のギャップ・セオリー支持者と共通していることから、ギャップ・セオリーと呼んでも差し支えないでしょう*12。よって、彼の論拠は既にギャップ・セオリーに向けられていた反論を踏まえて検証される必要があります*13

しかし、自然科学との調和は想定されていないことから、古典的ギャップ・セオリーとは明確に区別されるべき見解であるように思われます。私としては、フルクテンバウムの見解は「修正ギャップ・セオリー」(revised gap theory)と呼ばれるべきではないかと考えています*14

ソフト・ギャップ・セオリー

他にギャップ・セオリーの発展形として取り上げられることが多いのは、元航空機器エンジニアのゴーマン・グレイが提唱した見解です*15

彼は自然科学の一般的な見解に基づいて、地球などの天体を含む宇宙の創造は定義できないほどの昔であったことを主張しています。その一方では創世記1–11章の記述に基づいて、生命の創造は8,000年前以前に遡ることができず、また現在の地球の地質学的特徴はノアの時代に起こった洪水に起因するものだと主張しています*16。後者の考え方は、若い地球説を支持する人々と基本的に共通しています。

グレイは以上の二つの考えを調和させるために、創世記1:1–2で宇宙の創造が伝えられており、その後長い期間が置かれた後、創世記1:3以降の創造の御業が行われたと解釈しています。すなわち、1節と2節の間にギャップを置く古典的ギャップ・セオリーとは異なり、グレイは2節と3節の間にギャップ(インターバル)を置いているのです*17。この見解では生命の創造を3節以降に置くことで、アダムの堕落以前に生命の死を想定することへの批判が回避されています。

彼は自身の見解をいわゆるギャップ・セオリーとは区別し、「生物圏理論」(biosphere theory)と呼んでいます*18。この呼び名は、創世記1:3以降の六日間が生命と生物圏の創造を伝えているという考えに基づいたものです。しかし、グレイの見解を批判する若い地球説支持者の間では、それが「アダムの罪の前に死や艱難があったという矛盾を避けようとして提唱された」ギャップ・セオリーであるという理由で、ソフト・ギャップ・セオリー(soft gap theory 柔軟間隙説)と呼ばれています*19

グレイは2節のヘブル語本文冒頭にある接続詞ワウが離接的ワウであり、2節は1節で創造された地の描写であると理解しています*20。一方で、3節冒頭のワウは連結的ワウであるため「その後」(then)と訳すことが可能であり、ゆえに2節の3節の間に時間的ギャップを認めることができると主張されています。彼はテキストへの「読み込み」(eisegesis)の危険性と自然な読み方を尊重する「シンプルな解釈学」の必要性を主張していますが*21、創世記の記述そのものを「シンプル」に読めば、2節と3節の間にギャップがあるとは考えられません。むしろ、彼の解釈は天体の古い年代と3節以降の文字通りの理解を調和させるための「読み込み」によるものであるように思われます。

また、彼は16節で天体の創造に使われている動詞アサーについて、1節で既に創造された天体が「見えるようになった」という意味で理解しています。しかし、この解釈は創造の文脈におけるアサーの一般的な理解から外れています。また、同じ文脈の中で乾いた所(地)が「現れる」ことにはラアーという別の動詞が使われています(9節)。ここで、グレイの主張については「ただ太陽、月、星が……見えるようになったのであれば、創造主は……[創世記の]記者にこの単語ra’ahを使わせることができたはずです」という疑問が生じます*22

グレイの生物圏理論(またはソフト・ギャップ・セオリー)については、「伝統的に理解されてきたヘブル語の語彙や文法に様々な変更を加えているため、聖書ヘブル語研究者の間で大きな支持を得られるとは考えにくい」ものと考えられます*23

また、ジョナサン・サルファティは天体の古い年代と生命の若い年代を調和させようとする考え方そのものの矛盾を指摘して、次のように述べています。

また、「地球は古いが生命は若い」という見解は、それが解決しようと試みたまさにその問題を解決することができていない。ソフト・ギャップ支持者が「年代」の証拠として使っている岩石層そのものが、化石を含んでいるか、化石を含む岩石の上にある。すなわち、彼らが受け入れている地質学的な「年代測定」の方法は、生命を岩石と同じ年代に位置づけているのである。したがって、この見解は罪より前の肉体の死を避けることができていない。*24

これまで指摘してきた点を含めてグレイの見解には様々な問題があり*25、創世記1:1–3の解釈を巡る議論の場ではほとんど取り上げられていないのが実情です。

次回では、現在最も広く受け入れられているギャップ・セオリーのバリエーションと思われる創造前カオス・ギャップ・セオリーをご紹介します。

balien.hatenablog.com

*1:Paul Martin Henebury, The Words of the Covenant: A Biblical Theology, vol. 1: Old Testament Expectation (Maitland, FL: Xulon Press, 2021), 78 n. 19. なお、Henebury自身はギャップ・セオリーを否定しています。

*2:Arnold G. Fruchtenbaum, The Book of Genesis, Ariel's Bible Commentary (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2008), 28–29, 36–43. 参照:idem, The Footsteps of the Messiah: A Study of the Sequence of Prophetic Events, 2nd ed. (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2003), 548–56; “The Seven Days of Creation: Genesis 1:1–2:3,” The Messianic Bible Study Collection, MBS186, Digital ed. (Ariel Ministries, 2005[1992]), 9–12.

*3:Fruchtenbaum, Genesis, 36

*4:Fruchtenbaum, Genesis, 37–38; “Seven Days of Creation,” 10.

*5:Fruchtenbaum, Genesis, 36; Footsteps, 555 n. 1; “Seven Days of Creation,” 9.

*6:Fruchtenbaum, Genesis, 38–39; “Seven Days of Creation,” 10–11

*7:Fruchtenbaum, Genesis, 39; “Seven Days of Creation,” 11–12.

*8:Fruchtenbaum, Genesis, 39–40; “Seven Days of Creation,” 12.

*9:Fruchtenbaum, Genesis, 40–41; Footsteps, 548, 555; “Seven Days of Creation,” 12.

*10:Fruchtenbaum, Genesis, 41; Footsteps, 524, 529–31, 555–56; “Seven Days of Creation,” 12.

*11:Fruchtenbaum, Genesis, 37; Footsteps, 556; “Seven Days of Creation,” 10.

*12:ただし、「ギャップ・セオリー」という呼び方は自然科学との調和が試みられた古典的ギャップ・セオリーを想起させることから、Fruchtenbaum自身は「理想的な名前ではない」と述べています(Genesis, 37)。

*13:若い地球説を支持するJonathan D. Sarfatiは、フルクテンバウムがアダム以前の死の存在を否定していることからその解釈が「ギャップ・セオリーに対する最も強力な反論によって傷つけられるものではない」ものの、文法的問題や神学的な問題などの「他のほとんどに対して脆弱である」と述べています(The Genesis Account: A theological, historical, and scientific commentary on Genesis 1–11, 2nd ed. [Powder Springs, GA: Creation Book, 2015], Kindle ed., p. 159)。

*14:安藤和子自身のホームページにおいて、フルクテンバウムが主張しているような見解を明確に指しているかは分かりませんが、「近年、この間隙の時間は数十億年でなくても、ごく短期間でも良いと考える『新間隙説』が提案されている」と述べています。

*15:Gorman Gray, The Age of the Universe: What are the Biblical Limits? (Washougal, WA: Morningstar Publica-tions, 2005).

*16:Ibid., ch. 1, Kindle location 333.

*17:Ibid., ch. 1, Kindle location 361.

*18:Ibid., Appendix E., Kindle location 3459.

*19:バッテン編『「創造」の疑問に答える』63, 70頁。参照:Don Batten, “‘Soft’ gap sophistry,” originally published in Creation 26/3 (June 2004): 44–47; Sarfati, The Genesis Account, Kindle ed., pp. 151–52; Hodge and Lacey, “Modified Gap Theory”; Zoschke, “Critique of the Precreation Chaos Gap Theory,” 67.

*20:Gray, The Age of the Universe, ch. 3, Kindle locations 1142ff; ibid., Appendix E., Kindle locations 3452ff.

*21:Ibid., ch. 2, Kindle locations 700ff, 754ff.

*22:バッテン編『「創造」の疑問に答える』72頁。

*23:Zoschke, “Critique of the Precreation Chaos Gap Theory,” 67.

*24:Sarfati, The Genesis Account, Kindle ed., p. 159.

*25:ソフト・ギャップ・セオリーに対する包括的な批判は以下をご参照ください。バッテン編『「創造」の疑問に答える』70–73頁;Batten, “‘Soft’ gap sophistry”; Frank DeRemer, “Young biosphere, old universe?” originally published in Journal of Creation 19/2 (August 2005): 51–57. DeRemerの記事はGrayの著作の批判的書評ですが、これに対するGrayの応答とDeRemerの再応答をJournal of Creation 20/1 (April 2006): 37–39で見ることができます。