軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

神学リテラシーについて

ここ数ヶ月、神学書を読んだり友人とディスカッションする中で、「神学リテラシー」という単語が脳内で反響し続けている。 特に「聖霊によるバプテスマ」とか特定の終末論・教会論、そんな鋭く意見が分かれるテーマに触れたときに。

こんな単語が出て来たきっかけは多分、Corey Marshの『A Primer on Biblical Literacy』(SCM Press, 2022)という本に触れたり、クリスチャンプレスの「宗教リテラシー向上委員会」シリーズに触れたことだと思う*1

A Primer on Biblical Literacy

A Primer on Biblical Literacy

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リテラシー」について

僕たちが日常的に「リテラシー」という言葉に触れるときは、大体以下の意味で使われているんじゃなかろうか。

リテラシー」とは、もともと「読み書きの能力」を意味する言葉ですが、現在の使われ方としては「ある分野に関する知識や能力を活用する力」を指すことがほとんどです。
ビジネスの場では「情報を適切に理解、解釈して活用すること」というニュアンスで使われることが大半となっています。*2

(ちなみに、コトバンクの「リテラシー」の項目は結構充実していて、読んでて楽しい。)

今は多くの人が聞きなれていそうな「ネットリテラシー」なんかは「インターネットの情報や事象を正しく理解し、それを適切に判断、運用できる能力」が一般的な理解といえそうだ(千葉県警HPより)。

リテラシー」は知識を適切に理解して活用すること(読解でいえば読んで・理解して・書く)なんだけれども、いま強調され重視されているのは「適切に」の部分だろう。この部分の適切さは、公共性や倫理と関わっているのだと思う。
リテラシーは本来コミュニケーションや教育に関わる概念だから、そもそも公共や倫理と関わっている。
それが定義の中でわざわざ「適切に」と言われることで、ただの中立的な能力と思われてもおかしくない「読み書き能力」という部分が、倫理性や公共性と分かりやすく繋がっている。

宗教リテラシー

川島堅二氏(東北学院大学教授、日本基督教団正教師)による「宗教リテラシー」の定義では、まさにその「倫理的」適切さが強調されている。

(前略)ここからすると「宗教リテラシー」とは「宗教に関する知識と能力」ということになるが、これでは何の説明にもなっていない。今日的な状況を加味するならば、「宗教と適切に関わるために必要な知識と能力」とでも言えるだろうか。
 「適切に関わる」ということで特に「倫理的な適切さ」が意味されている。宗教がカルト化して人権を侵すことを予防する、あるいは逆に根拠のない先入観や偏見で信者を差別し傷つけることを予防するための倫理的な能力とも言えるだろう。〔※下線&太字=引用者〕*3

それから、稲垣久和『公共の哲学の構築をめざして』(教文館、2001年)で「多元的価値共存の公共空間形成」に向けた「社会哲学として」の宗教多元主義が論じられている第三章なども、使われている表現は違えど、川島氏がいうところの宗教リテラシーが論じられていると見ていいように思う。

宗教リテラシーという概念も、宗教を知る・宗教と関わる部分で、公共性や倫理性を踏まえた「適切さ」に焦点を当てたものだ。

聖書リテラシー

保守的福音派のMarshが言う「聖書リテラシー(biblical literacy)」は、彼自身による端的な定義はされていないのだけれども、「認識(awareness)」と「精通(proficiency)」という二つのキーワードを中心に据えている*4

彼自身による聖書リテラシーの端的で引用しやすい定義は見出されないのだけれども、使われている表現を組み立てると、

聖書リテラシーとは、クリスチャンが聖書を読む際、聖書が様々な歴史的文脈や文学的ジャンルで成り立っていることを認識して、それらの文脈によって表現された意味を識別し、聖書の主要なテーマ、登場人物、物語、出来事の順序などに関する知識に精通していくことである。*5

……と言えるのではなかろうか。

Marshの聖書リテラシーは純粋な知的理解だけに関する概念に思われるかもしれないが──というか実際、この本は聖書解釈学の入門書的位置づけなので、知的理解が強調されているのだけれども──、その必要性は倫理的側面から説明されている。

まず、Marshの聖書リテラシーは聖書の著者に対して倫理的に適切な態度を取るものだ*6
繰り返しになるが彼の聖書リテラシーは、人間の著者の意図を認識することを通して、神の啓示である66巻の聖書の内容を知り、そこに精通していくということである。
よって、聖書リテラシーが養われることで、より聖書本来の人間の著者たちの意図を重視していくことになり、ひいてはより彼らに敬意を払い、誠実に向き合うことになっていく。
またそれは、彼らを通して啓示することを選ばれた神ご自身にも敬意を払って誠実に向き合うことになる*7

また、Marshが聖書リテラシーについてブログ記事を書き、それを書籍化した動機は、聖書リテラシーが養われていくことが、聖書を悪用するカルト的指導者の教えから身を守ることに繋がるからだ*8

Marshの主張において、聖書リテラシーは他者(他の個人も、他の宗教的コミュニティも含む)との関わりにおける倫理的判断の土台でもある。

そして、神学リテラシー

クリスチャン(しかも、自己認識としては保守的福音派に属する)である自分にとってMarshが言う聖書リテラシーは言わずもがな重要だ。
同時にクリスチャンがマイノリティである今の日本で生きていく上で、公共における自己を考えなければならないときには、川島氏が扱う宗教リテラシーの考え方も参考になる。

しかしクリスチャンの自分にとっては、聖書リテラシーと宗教リテラシーの間に神学リテラシーがあるんじゃないかと思うようになっている。
この「神学リテラシー」は、自分が立つキリスト教神学を範囲としたリテラシーだ。ぼんやり考えているのは、「神学的多様性の中で他者と適切に関わるために神学的知識を取得し、活用していく能力」なんてところだ。

僕は職場のようにほとんどがノンクリスチャンのコミュニティに属している一方で、地域教会のようにクリスチャンによって構成されているコミュニティにも属している。 特に後者のクリスチャンコミュニティでは、神学的立場や伝統、また聖書理解に幅がある中でコミュニケーションを継続していくためのリテラシーが必要だと感じている。 「あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができる」(ロマ15:14)関係性を目指すリテラシーとでも言えばいいだろうか。

聖書理解を土台に論じ合い、批評し合っている気でいても、互いが育ってきた環境の神学的伝統によって、または話題になっている分野によって、使っている言葉の定義が違ったりする。

たとえば、クリスチャンの霊的成長と聖書の関係についてディスカッションしている中で「聖書も霊的に読むことが大切だよね」という表現を聞いたとする。聖書の読み方というテーマでは字義的解釈vs比喩的解釈の対立を前提としてしまう予備知識を持っていて、しかもMarshのように著者の意図を探る字義的解釈を重視する立場からすると、「聖書を霊的に読む」とはいわゆる「霊的解釈」(主観的・比喩的・寓意的解釈)のことが言われていると考えるだろう。
しかし、相手が意図していたのはそういった読み方のことではなく、「聖書を読むことを通して霊的に成長することを求める読み方」だった。 むしろ、実は相手の方でも「聖書解釈の第一の務めは聖書記者が意図した意味を明らかにすることである」と考えているのであった。

──前に篠原明『「霊性の神学」とは何か』(あめんどう、2019年)の第2章を読んだとき、僕は実際このように誤解し、誤解に気づいたことがあった*9

他にも最近、教会で会話が交わされている中で、「自分は聖化という用語について牧師とは違う風に捉えているが、言わんとしていることは分かった」という声が聞こえてきたことがあった(詳しい文脈は知らないのだが)。

同じ言葉を使っていても、捉え方が異なる。同じ考え方でも、捉える角度や表現の仕方が違ったりする。

それに気づくためには、まずMarshが言うような聖書リテラシーは土台として必須だと考える。著者の意図を追求する釈義作業に誠実に取り組めば取り組むほど、本文の「意味」を特定することは容易な試みではないことに気づかされる。
たとえ自身では特定の答えに辿り着いたとしても、どこで解釈の揺らぎが生じ得るかというポイントには敏感になるはずだ。

加えて、クリスチャン用語の理解の違い、また教理を捉える角度や表現の違いに敏感になっていくために、教理や教派や教団など、様々なキリスト教的伝統を知っていくことも有益だ。それによって、コミュニケーションを図る相手がどんなメガネを通して特定の聖書箇所や教理や信仰の在り方を見ているか、より想像しやすくなるだろう。またメガネの違いに敏感になれば、聞き方のみならず違うメガネを持っている自分の伝え方も工夫するなど、より柔軟なコミュニケーションを可能にするだろう*10

もちろん相手と人格的にかかわっていくことでバックグラウンドを知り、考え方を知り、認識を深めていくことの大切さは言わずもがな……。

最後に申し添えておくと、別に神学リテラシーって用語自体が広まるよう願っているわけではない。
ただキリストにある兄弟姉妹との交わりの豊かさを味わっていくために目指したい姿勢を考えている中で、「神学リテラシーの向上」という表現が自分の感覚にピタッと当てはまっただけだ。

僕が目指したいのは「確信を持ちつつ誤っている可能性を認める」という姿勢──逆に「誤っている可能性を認めつつ確信を持つ」と言ってもいい──に、少しでも近づいていくことだ。
その時々に与えられている情報や能力に応じて、何が正しい聖書解釈なのか、確信に近づくことに努めたい。同時に、不完全な自分が誤っている可能性を排除しないというバランス感覚を身に着けたい。

教会の関わりにおいて、クリスチャンの友人関係において、「互いに愛し合い、互いにすぐれた者として尊敬し合い」(ロマ12:10)、同時に「知恵を尽くして互いに教え、忠告し合」う(コロ3:16)──そんなコミュニケーションの実現に少しでも近づきたい。

その目標を個人的には「神学リテラシーの向上」と表現しているこの頃である。

*1:調べてみると、theological literacyという用語自体は神学教育の文脈で時々見受けられるが、カトリック系の文献が多いようだ(たとえばこちらを参照)。また日本語で「神学リテラシー」という用語はほとんど使われていないようだ。

*2:https://www.r-agent.com/business/knowhow/article/13127/

*3:https://www.kirishin.com/2023/02/27/59056/

*4:ちなみに、聖書リテラシーという概念はMarshに特有のものではない。彼自身、この概念に「合意された定義はない」ことを認めている(Marsh, Biblical Literacy, 22)。

*5:参考:ibid, 29–32. また、こちらのブログ記事も参照。あと、Marshのいうbiblical literacyについてはPedro Cheungという人の書評記事でのまとめもわかりやすかった。

*6:Marsh, Biblical Literacy, 57–58.

*7:https://revolvebiblechurch.org/resources/biblical-literacy-part-3

*8:特にMarsh, Biblical Literacy, 15–17もしくはこちらの記事を参照されたい。

*9:参照:篠原『霊性の神学』53, 56頁

*10:そもそも、教理史や教会史の研究も聖書釈義と密接に関わっていると捉えて良いかもしれない。