軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

文学

私の読書(11)遠藤周作『走馬燈』─沼地に流れた血を追って

遠藤周作に『走馬燈─その人たちの人生─』というエッセイ集がある。裏表紙には次のような紹介文が添えられている。 日本人として初めてエルサレムを訪れたペドロ岐部、贋の大使として渡欧し、ローマ法王に謁見した支倉常長、そして多くの名もない殉教者たち──…

『沈黙』再考──遠藤文学の「頂点」かつ「再出発点」

スコセッシ版『沈黙─サイレンス─』を受けて 『沈黙』執筆時の遠藤周作 「頂点」としての『沈黙』─「再出発点」としての『沈黙』 日本宣教から見た『沈黙』の問題に関する遠藤の思想 1.遠藤本人と「日本沼地論」 2.ロドリゴの棄教について 3.遠藤の「弱…

カトリック者・遠藤周作─書評 兼子盾夫『遠藤周作による象徴と隠喩と否定の道』

はじめに 兼子氏の『深い河』論 兼子氏の『死海のほとり』論 無力なイエスとその復活 遠藤的〈母なるイエス〉像を巡る問題 荒野の宗教から愛の宗教へのシフト 理解されなかった遠藤文学 おわりに この2018年10月に出版された兼子盾夫『遠藤周作による象徴と…

私が遠藤周作を読む理由……

先日、ある方とお話しているなかで「どうして今も遠藤周作が好きなんですか」という質問をいただいた。代表作「沈黙」の映画化に伴って、クリスチャン界隈でその内容が再び問題視されたことは記憶に新しい。遠藤周作のキリスト教は聖書的キリスト教ではない…

私の読書(10)遠藤周作「札の辻」

遠藤周作に「札の辻」という短編があります。初出は『新潮』1963年11月号で、1965年の短編集『哀歌』にも収録されています。『哀歌』というと、著者の入院生活の影響を受けた作品やキリシタン物が中心的に収録されており、それぞれが代表作『沈黙』への道備…

三浦綾子と「あかしの文学」について

2017年もあっという間にクリスマスが過ぎ、気づけば本当に残り僅かとなりました。今年考えたことは今年のうちに言葉にしておいて、来年考えるテーマとしたい。そんなことを考えつつ、思い出すのはやっぱり聖書と文学を学ぶ中で浮かんできた問題。文学につい…

私の読書(7)山本健吉『正宗白鳥─その底にあるもの─』

こんなブログでも、閲覧してくださる方々がいらっしゃるのは、本当に有り難いことだ。当ブログのアクセス解析を覗いてみると、最もアクセス数が多いのは「遠藤周作の『沈黙』について」で、その後にはイスラエル、聖書信仰、ディスペンセーション主義に関す…

私の読書(6)正宗白鳥『内村鑑三─如何に生くべきか─』

正宗白鳥『内村鑑三・我が生涯と文学』(講談社、1994年) この前は若きキリスト者学生会主事らによる『生き方の問題なんだ。』を取り上げたが、訳あって正宗白鳥という作家の紹介から記事を始めた。最後の方でも白鳥に言及した。そうした訳のひとつは、白鳥…

「誕生日の夜の回想」

はじめに 19歳になろうとしていた頃、加藤宗哉と富岡幸一郎の編集による『遠藤周作文学論集 文学篇/宗教篇』(講談社、2009年)を手に入れた。とりわけ『文学篇』の中にあった「誕生日の夜の回想」というエッセイは、私の心を掴んで離さなかった。それ以来…

福音派による文学論への待望

今年の1月、マーティン・スコセッシ監督による映画化作品の公開もあり、遠藤周作の『沈黙』が再び脚光を浴びました。私たちのようないわゆる「福音派」に属するクリスチャンの間でも、SNSで、ブログで、あるいは説教の中で、『沈黙』に対する様々なレスポン…

遠藤周作の『沈黙』について:ある遠藤マニアのクリスチャンからの視点

2017年1月26日追記:「補足:『沈黙』以降の遠藤の思想」について、実際の遠藤の著作をふまえて一部文言を修正しました。それに伴い、参考文献からの引用を含む脚注を追加しました。 カトリック作家である故・遠藤周作氏の代表作『沈黙』を原作にした、マー…