軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

創世記1:2の動詞ハイェターについて

前回:創世記1:1の「天と地」の意味

これまでは一部を除いて創世記1:1に着目してきましたが、ギャップ・セオリーを検証する際の最重要課題であると言っても過言ではないのが2節の釈義です。

実際に、古典的ギャップ・セオリーを最も詳細に論じているとされているアーサー・カスタンスの著作『Without Form and Void』には「創世記1:2の意味の研究」(A study of the meaning of Genesis 1:2)という副題が付けられています。これから何回かは、ギャップ・セオリー支持者が2節の釈義に基づいて展開している様々な主張を取り上げ、検証していきます。

改めて、創世記1:2の冒頭では「地は茫漠として何もなく」(ウェハアレツ・ハイェター・トーフー・ワ・ボーフー)と言われています*1。古典的/修正ギャップ・セオリーの主張では、まず接続詞ワウ+「地」(ハアレツ)の後に来ている完了態動詞ハイェターの意味が重要になっています。

2節のハイェターは、ほとんどの場合「であった」(was)と、またはそのような意味で訳出されています。しかし、カスタンスやフルクテンバウムはハイェターを「になった」(had becomeまたはbecame)という意味で理解することができると主張し、その理解をギャップ・セオリーの根拠のひとつとしています*2

ハイェターはハヤーの三人称女性形単数です。確かに、ハヤーには「起こる」や「になる」という意味があります*3。以下に示すように、創世記にはハヤーが「起こる」や「になる」という意味で使われている用例があります*4

  • 3:22「人はわれわれのうちのひとりのようになり
  • 9:2「あなたがたへの恐れとおののきが、地のすべての獣、空のすべての鳥、地面を動くすべてのもの、海のすべての魚に起こる
  • 10:8「ニムロデは地上で最初の勇士となった
  • 13:7「そのため、争いが……起こった
  • 21:20「彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった
  • 37:20「あいつの夢がどうなるかを見ようではないか」

また、1章でも3節以降で神のことばによる創造が記述されていく中で「すると、……になった」という表現が繰り返されていますが、そこではハヤーの指示形イェヒーが使われています。このように、創世記におけるハヤーは多くの場合、「起こる」や「になる」という意味で使われているのです。

しかし、研究者によって広く使われているヘブル語辞書では、ハヤーが英語のbe動詞のような連結動詞(copulative verb)として使われる場合もあるとされており、そのような用例には創世記1:2が含まれています*5。これを踏まえて、多くの翻訳聖書では創世記1:2のハイェターを連結動詞として訳出されています。

カスタンスの主張は、「起こる」や「になる」がハヤーの基本的な意味であることを根拠に、創世記1:2のハイェターも同じ意味で解釈すべきであるというものです。しかしながら、創世記ではハヤーが連結動詞として使われている例も数多くあります(2:25; 3:1; 9:18; 25:3; 36:14; 39:6; 40:13)*6。1:2のハイェターを「になった」と捉えるためには、より説得力のある議論が必要です。

ハヤーが連結動詞として使われている例として、創世記3:1を見てみましょう。興味深いことに、本節冒頭の「さて蛇は、……賢かった」ではワウ+名詞(蛇)+動詞(ハヤー)+形容詞(賢い)と、1:2冒頭と同様な構成が見られます。また、本節は離接ワウ+名詞で始まっているため、状況説明として理解することができます。すなわち、「蛇」が「賢い」という状態を説明するためにハヤーが使われているのです。よって、この用例ではハヤーが状況や状態を説明するための連結動詞として使われているものと考えられます。本節を「さて、蛇は賢くなった」と理解すべき根拠は見当たりません*7

また、以前ワウ+名詞で始まる状況説明の例として挙げた士師記8:11bやヨナ3:3bでもワウ+名詞+ハヤーという流れが見られます。特にヨナ3:3bでは「ニネベは……非常に大きな都であった(ハイェター)」と言われていますが、既に3:2で「あの大きな都ニネベ」と表現されているため、3:3bを「ニネベは、……非常に大きな都になった」と読むことはできません。そこで使われているハイェターは連結動詞として理解されるべきです。

以上のように、語りに「途切れ」をもたらす離接ワウによる状況説明節の中では、ハイェターが状態を表す連結動詞であると理解するのが最も自然です。確かにハイェターを「になった」と理解するのも不可能ではありません。しかし、その場合は1:1の「天と地」のうち、「地」がトーフー・ワ・ボーフー「になった」という1:1–2の連続性が認められることになります。よって、2節のハイェターが「になった」という意味で使われる場合は、1節から連続した行為を表すために継続ワウ+動詞の形式をとるであろうと考えられます*8

最後に、2節が1節の状況説明であることを前提にした場合は、ハイェターを「になった」と訳すことで問題が生じます。1節の状況説明として2節で「地はトーフー・ワ・ボーフーになった」と言うのであれば、1節で神が「天と地」を創造された時点で、既に地がトーフー・ワ・ボーフーになっていたということになります。この流れは、1節で原初の創造が描かれているというギャップ・セオリーの見解と相反するものです*9

以上のことから、状況説明である創世記1:2においては、ハイェターは伝統的な翻訳に見られるような「であった」(was)という連結動詞として理解されるべきでしょう。

↓次回

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*1:特に断りがない限り、聖書引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会による。

*2:Arthur C. Custance, Without Form and Void: A Study of the Meaning of Genesis 1:2, 2nd ed. (Windber, PA: Doorway Publications, 2012), 58–81, 92–103; Arnold G. Fruchtenbaum, The Book of Genesis, Ariel's Bible Commentary (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2008), 37–38.

*3:HALOT 1:243–44; BDB 224–26.

*4:参照:Fruchtenbaum, Genesis, 37–38.

*5:HALOT 1:244; BDB 227.

*6:Ibid.

*7:Weston W. Fields, Unformed and Unfilled: A Critique of the Gap Theory, reprint ed. (Green Forest, AR: Master Books, 2005), 93–94.

*8:Kenneth A. Mathews, Genesis 1:1–11:26, NAC (Nashville, TN: B&H, 1996), 140 n. 109.

*9:Fields, Unformed and Unfilled, 104, 112; Bruce K. Waltke, “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅱ: The Restitution Theory,” Bibliotheca Sacra 132 (April–June 1975): 138 n. 7; チャールズ・C・ライリー『ベーシック・セオロジー』前田大度訳(エマオ出版、2020年)276–77頁。創1:1を要約としては理解していないFruchtenbaumが2節を3節の状況説明として捉えているのは、もしかするとこの矛盾を回避するためなのかもしれません。