軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

ディスペンセーション主義Q&A:祭司契約と土地の契約

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前々回の記事では、ディスペンセーション主義でどのような契約が「聖書的契約」として認められているのか、見解の多様性が見られることを確認しました。

前回から引き続き、今回も特に見解が分かれている4つの契約について見ていくことで、私の現時点での考え方をご説明したいと思います。

今回は残る2つの契約、祭司契約と土地の契約を取り上げます。最後に、契約論に対する個人的なスタンスをお分かちしたいと思います。

Q20:8つの聖書的契約について(つづき)

Q:ディスペンセーション主義というと、7つのディスペンセーションと、8つの聖書的契約というイメージです。ディスペンセーションの数は意見が分かれているそうですが、契約の数はどうですか? また、8つという数についてはどう思いますか?(つづき)

A:前回、ディスペンセーション主義では以下の4つの契約について、それが独立した契約であるか意見が分かれていることをご紹介しました。

  1. エデン契約
  2. アダム契約
  3. 祭司契約
  4. 土地の契約

聖書的契約の数に関する個人的見解(再掲)

私の今のところの立場を申し上げますと、まず最低限一致している5つの契約については、それぞれが「聖書的契約」であると思っています。

見解が分かれている4つに関しては、アダム契約は独立した契約ではないと考えるようになっています。その他の契約については、独立した契約の可能性もあると思います。

残された3つの契約の中で、独立した契約である可能性が最も高いと考えているのは祭司契約です。民数記25:11–13の内容は、その箇所でも、また他の聖書箇所でも「契約」と呼ばれています。ですから「民数記25:11–13の内容は祭司契約です」と言ってしまいたい気持ちではあるのですが、まだしっかりと釈義をしていないので、現時点ではそこまで言い切らないでおきましょう。

その次に可能性が高いと考えているのは、エデン契約(または創造の契約)です。創世記1–2章には「契約」という言葉は出てきませんが、契約の要素は見られます。また、神がアダムと契約を結ばれたと捉えることのできる箇所もあります(ホセ6:7)。ただし、神と人の契約を強調している創世記の中で、神とアダムの関係を指して「契約」という言葉が使われていないというのは、大きな問題です。またホセア書6:7についても、解釈上の問題が残されています。

最後に土地の契約については、申命記29–30章を独立した無条件契約と見なすには、乗り越えなければならないハードルが非常に高いと考えています。その難関さえ乗り越えられれば、多くの古典的〜修正ディスペンセーション主義者のように、申命記29–30章に無条件契約が含まれているといえると思います。

よって、態度保留中の3つの契約も含めると、私の枠組みは以下のような「8つの契約」であるということになります。伝統的な「8つの契約」と比べると、アダム契約が出て祭司契約が入っただけですね。

  1. エデン契約/創造の契約(保留中
  2. ノア契約
  3. アブラハム契約
  4. モーセ契約
  5. 祭司契約(保留中
  6. 土地の契約(保留中
  7. ダビデ契約
  8. 新しい契約

結論としては、以上のとおりです。が、誤解を避けるため、見解が分かれている4つの契約について、それぞれ具体的にコメントさせていただきたいと思います。今回は後半の祭司契約と土地の契約を取り上げ、最後に契約論に対する私のスタンスを述べさせていただきたいと思います。

(聖書本文の釈義も含めたさらに詳細な考察については、後に予定している聖書的契約論のシリーズ(夏ごろには始めたい…)を進める中で展開したいと思っておりますので、そちらをお待ちください……。)

祭司契約

お恥ずかしながら、5年前に祭司契約について扱ったディスペンセーション主義者(アーヴィン・ブセニッツ)による論文*1を読むまで、祭司契約については考えたこともありませんでした。もちろん民数記25:11–13を読んだことはありましたが、レビ的祭司制度への言及であるために、モーセ契約の一部として読んでいたのです*2

この契約についても、エデン契約を扱う際にご紹介した2つのポイントを見ていきましょう。

  1. 契約の根拠とされるテキストにおいて契約と呼ばれているか。または、契約としての性質が明確に見られるか。
  2. 他の聖書箇所において契約として言及されているか。

第一のポイントについて、民数記25章では、ピネハスとその子孫に「平和の契約」(25:12)また「永遠にわたる祭司職の契約」(25:13)が与えられています。

「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。それゆえ、言え。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは、彼が神のねたみを自分のものとし、イスラエルの子らのために宥めを行ったからである。』」(民25:11–13;強調=引用者)*3

「契約」という言葉が使われていなかったエデン契約やアダム契約とは対照的です。

次のポイントは、他の書で「契約」として言及されているかどうかです。民数記以外における民数記25:13への言及として代表的な箇所は、エレミヤ書33:14–26でしょう*4

エレミヤ書33章は、30章以降の「新しい契約」に関する一連の預言の中に位置づけられます。新しい契約の成就の時と関連して、33:17ではダビデ契約の約束が確認されていますが、続く33:18ではレビ的祭司制度の永続性が強調されているのです。

また、33:20–22では、ダビデ契約および民数記25:13の約束の成就が、神が「昼と結んだ契約」および「夜と結んだ契約」に基づいています。これらが破られればダビデ契約も祭司への約束も破られるというのですが(33:21)、これは約束の確実性を強調している表現だと考えられます。なぜなら、33:22ではこれらの約束の成就が宣言されているからです。その33:22では、ダビデの子孫とレビの子孫が「海の砂」のように増え広がると言われています。これは、アブラハムの子孫が「海辺の砂」のように増え広がるというアブラハム契約の内容(創22:17)と対応しています。

さらに、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫の中から彼らを治めるためにダビデの子孫が選ばれたという33:26の言葉遣いでは、アブラハム契約とダビデ契約が関連させられています。

注目すべきは、民数記25:13の約束が、アブラハム契約およびダビデ契約とともに扱われていることです。そして、33:21ではその約束が「レビ人の祭司たちと結んだわたしの契約」といわれています。

他に、マラキ書2:4で「レビとの契約」への言及が出てきます。また、同3:3では、終末的な「主の日」に関する文脈において、地上にこられる主が「レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする」と言われています。マラキは、終末におけるレビ的祭司制度の回復を重視していたようです*5

また、エゼキエル書40–48章の新しい神殿の幻では、「ツァドクの子孫のレビ人の祭司たち」による奉仕に触れられています(44:15; 48:11)。歴代誌第一6:50–53によれば、ツァドクはピネハスの子孫です。

ディスペンセーション主義者も含め、一部の千年期前再臨主義者は、エゼキエル書40–48章を千年王国の神殿に関する預言として捉えています*6。もしそういった理解が正しいとしたら、ピネハスの子孫から出る祭司が千年王国にも存在しているということになります*7。よって、一部の千年期前再臨説的理解(少なくともディスペンセーション主義的理解)では、エゼキエルの預言は民数記25:13の約束の「永遠」性を保証しているものと捉えられています。

以上のことから、祭司契約もまた、アブラハム契約やダビデ契約と同等に聖書的契約と見なすことができるかもしれないと考えるようになりました。実際、祭司契約を主張するディスペンセーション主義者であるロナルド・アレンは、この契約をアブラハム契約、モーセ契約、ダビデ契約などと同じように扱うべきだと主張しています*8

ただし、これについては民数記の文脈においてしっかりと25:11–13を釈義することが課題です。さらに、そもそも終末におけるレビ的祭司制度の復活とその永続性について、エレミヤ書エゼキエル書、マラキ書それぞれの文脈からの釈義、そしてヘブル人への手紙におけるレビ的祭司制度への言及内容をもふまえて、矛盾なく説明できるかなどの課題も残されています。

土地の契約

土地の契約(またはパレスチナ契約、もしくは申命記契約)の根拠とされるのは申命記29–30章です。特に、申命記29:1(聖書協会共同訳ではヘブル語テキストの区分に倣って28:69)で次のように言われていることが大きな根拠となっています。

これらは、モアブの地で、モーセに命じて、イスラエルの子らと結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。(申29:1)

「ホレブ」とは、シナイ山があった場所の地名です(出33:6; 申5:2など)。よって、フルクテンバウムは「冒頭の申命記29:1では、パレスチナ契約がモーセ契約とは別の契約であることが明言されている」と結論づけています*9。また彼は「申命記30:1〜10に、パレスチナ契約の主な条項が記されている」と考えます*10。その主な内容は、イスラエルモーセ契約への不従順により全世界に散らされること、しかしイスラエルは最終的には回復し、約束の地に帰還し、その土地を所有するようになるというものです*11

フルクテンバウムは、土地の契約が「その数世紀後、エゼキエル16:1〜63でも再確認されている」とも述べています*12。確かにこの箇所は、イスラエルの不従順による離散と回復を預言していますので、同様な預言を含む申命記29–30章の内容が確認されているのは確かです。ここでイスラエルの回復の土台は、神がお立てになる「永遠の契約」だと言われています(エゼ16:60–62)。ただし、この契約はイスラエルが契約を破ったこと(16:59)と対比されていることからすると、新しい契約(エレ31:31–34)への言及であると思われます*13。よって、申命記29–30章の内容が独立した「契約」であると明言している箇所は、申命記の外では見出されません。

したがって、問題は申命記29–30章の本文が独立した契約の内容とみなせるかどうかというポイントに集中していきます。

フルクテンバウムが土地の契約を支持する根拠は、以下の4点にまとめることができます。

  1. 29:1の「これは……ことばである」という表現は、後に続く内容を指すものである*14
  2. 29:1では、それ以後の内容がモーセ契約とは「別のもの」と言われている*15
  3. 29:2以降の内容は、古代中近東の宗主権条約の形式に則っている*16
  4. 土地の契約が結ばれたことによって、モーセ契約によりアブラハム契約が無効になったのではないことが示されている*17

それでは、4つのポイントについてそれぞれ考えてみましょう。

1番目は、29:1「これは……ことばである」という表現(ʾellê ḏiḇre)が、28:68までの結論なのか、それとも29:2以降の導入であるかという問題です。確かに申命記では、この表現は後に続く内容を指しています(1:1; 4:45など)。しかし、この表現は、段落もしくは大きなセクションの要約として使われることもあります(出19:6; レビ27:34; 民36:13)*18。よって、まずは文脈をふまえて意味を特定する必要があるでしょう。

申命記全体は、これから約束の地に入っていく新世代の民に対する、モーセ契約の確認となっています。また、出エジプト記20–31章のモーセ契約本文自体が古代の宗主権条約の形式に則っていたように、申命記も全体の構成が宗主権条約の形式に則っています。宗主権条約の典型的な形式では、序文、歴史的回顧、具体的な契約規定に続いて、契約違反に対する呪いおよび契約遵守による祝福の宣言が最後に来ます*19申命記の場合は、1:1–5が序文、1:6–4:40が歴史的回顧、5–26章が契約規定、27–28章が祝福と呪いの宣言に該当しています*20

そして、29–30章では、再びイスラエルの歴史が回顧され(29:2–8)、神とイスラエルの契約関係が確認され(29:9–15)、契約違反による呪い(29:16–29)とその後でもたらされる回復(30:1–10)が宣言されています。30:11–20は、29–30章の結論であり、モーセ契約を遵守するようにという呼びかけと捉えられます。こうしてみると29–30章の全体的な内容は、出エジプト後の歴史の回顧であり*21、また1–28章の要約であると見ることができます*22。よって、1:1以降の流れが29:1で一旦完結し、29:2から要約のセクションが始まっていると見ることもできるのです。

ただし、29:1が結論であるにしろ導入であるにしろ、それだけで土地の契約の存在について是非を下すことはできません。もっと大きな問題は、29:1の「ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である」という表現の意味です。これが、2番目のポイントになります。

「別」と訳されている「ミレバド」というヘブル語(millᵉḇaḏ)は「〜のほかに」もしくは「〜に加えて」という意味です。山﨑順治は「[ミレバド]の語源バドは独自の個別性を意味する場合も全体の一部分を指す場合もある」としています*23。よって、この表現だけでは、モーセ契約と並べられている別の契約とも捉えられますし、改めて締結されたがモーセ契約に含まれる契約と捉えることも可能です。つまり、「更新された契約」という意味で捉えることもできるのです*24。「別である」という表現の意味合い(全く別の契約か、更新された契約か)は、その表現が指している内容から判断する必要があります。

もし29:1が28:68までの結論であるならば、その内容は明らかにモーセ契約の「確認」ですので(申1:5)、「別である」という表現は「更新された契約」という意味合いになります。しかし、29:1が29:2以降の導入であっても、自動的に「全く別の契約」説が支持されるわけではありません。先ほど見た「29–30章の内容は、1–28章の内容の要約である」という考えが正しければ、この場合も「別である」という表現は「更新された契約」という意味で取れるのです。よって、2番目のポイントもまた、土地の契約を肯定する根拠としては心許ないということになります。

3番目のポイントは、29–30章自体が契約文書の形式となっているのだから、独立した契約として捉えるべきだというものでした。しかし、それまでの1–28章が契約文書の形式に則っていることから、その要約である29–30章が契約文書の形式に則っていても、1–28章の内容(モーセ契約の更新)と全く異なる契約であることの論拠にはなりません。むしろ、この場合、29:1を導入と捉えることで、それ以降の内容が「更新された契約」であることの根拠にもなり得るのではないかと思います。

4番目のポイントは、要するに、アブラハム契約が無効になっていない証拠として、土地の約束の延長線上にある無条件契約が必要だということです。30:1–10におけるイスラエルの回復と約束の地への帰還の約束は、確かにアブラハム契約の成就を保証するものだと思います。しかし、イスラエルが不従順による離散の後に回復させられるということは、レビ記26:40–45で既に語られていたことです。しかもレビ記では、この回復がアブラハム契約の約束に基づくものであるということまで語られています(26:42–45)。同様な内容は、モーセ契約の「確認」である申命記4:30–31にも見られます。

確かに、イスラエルが回復の時、約束の地に「集め」られ、「連れ戻され」、「導き入れ」られるという要素は、レビ記26章および申命記4:30–31には見られません。つまり、申命記30:1–10以前では約束の地への「帰還」は明文化されていないのです。ですが、たとえばレビ記26:39–45では、イスラエルが約束の地から追放された後という文脈で、神が「彼らの父祖たちと結んだ契約[=アブラハム契約]を思い起こ」されると教えられています。これは申命記4:30–31でも同様です。そして、アブラハム契約はイスラエルへの祝福と土地の約束を含んでいます。よって、レビ記26章や申命記4:30–31でも、イスラエルへの祝福と土地の約束は含まれているものと考えられます。

こう考えてみると、申命記30:1–10で初めて土地への帰還が明文化されたからといって、これを別の契約と捉える必然性はないのです。むしろ、既に教えられていたことがより明確に語られているということは、申命記29–30章が1–28章の回顧であり要約であるという解釈にふさわしいものと考えられます*25。したがって、アブラハム契約の中にはっきりと土地の約束が含まれていますので、申命記30:1–10を新しい契約の条項と捉える必然性はないといえるでしょう。

結局のところ問題なのは、29:2–30:20の内容の解釈です。この箇所を、直近の文脈、申命記全体の文脈、そしてモーセ五書全体の文脈を考慮して解釈しなければなりません。

土地の契約を主張するには、申命記29–30章がイスラエルの歴史的回顧であり、1–28章の要約であるという解釈を乗り越えて、このセクションが明確に新規の契約であることを示す必要があります。しかし29–30章では、「契約」という言葉は明らかにシナイ山で結ばれた契約(モーセ契約)のことを指しています(29:9, 14, 21)。30:11–20も、申命記でこれまで確認されてきたモーセ契約への従順が呼びかけられています。こうなると、29–30章に土地の契約を見出すには、乗り越えるべき釈義的ハードルが相当高いように思われます。

結論

以上の考察をふまえて、ディスペンセーション主義における見解が分かれる4つの契約について、もう一度私なりの結論をまとめておきましょう。

  1. エデン契約および土地の契約は、独立した聖書的契約と言い切るにはもっと確実な聖書的根拠が必要だ。
  2. アダム契約は独立した聖書的契約ではなく、創世記1–2章で人に与えられた命令への違反に対する裁きの宣告である。
  3. 祭司契約は、現在のところ独立した聖書的契約とみなせそうだが、もっと突っ込んだ釈義的研究が必要だ。

しかし申し上げておきたいのですが、エデン契約、アダム契約、土地の契約についても契約だといえる確たる根拠が認められれば、私はすぐにそれを受け入れます。

また、エデン契約、祭司契約、土地の契約が契約ではないという結論になったとしても、別に残念な結果だとは思いません。

創世記1–2章の内容がエデン契約であろうとなかろうと、そこで神が人に命じられた内容は変わりません

創世記3:14–19がアダム契約であろうとなかろうと、そこで神が下された裁きが今の私たちにも影響していることや、「女の子孫」──メシアの到来が約束されていることには変わりません

民数記25:11–13の内容が祭司契約であれば、エレミヤ書やマラキ書と合わせて、エゼキエル書40–48章の神殿が千年王国の神殿であるという解釈を、より強固なものとできるかもしれません。

そして、申命記30:1–10が契約条項であろうとなかろうと、そこでイスラエルの最終的回復が約束されていることには変わりないのです!*26

確かにエデン契約、アダム契約、土地の契約については考え方を変えました。でも、それぞれの契約で鍵となる聖句の内容については、見解はほとんど変わっていないと思います。

「契約」は聖書本文のダイレクトな啓示に含まれています。しかし、明確に「契約」とは呼ばれていない箇所から「○○契約」を読み出すというのは、ディスペンセーションと同じく人為的な枠組みです。それが聖書本文の内容を変えてしまうことはありませんので、エデン契約や土地の契約などの枠組みを認めるかどうかは、実は些細な問題であるともいえるでしょう。

私としては、創世記1–3章にしろ、民数記25:11–13にしろ、申命記29–30章にしろ、聖書本文の内容を優先していきたいと思います。

そして、その内容の解釈を体系的に述べる上で何かしらの枠組みが必要になるとしても、より聖書本文の内容に則した枠組みを用いるべきだと思います。ですので、些細な問題だとしても、エデン契約や土地の契約という枠組みを使うのであれば、それが聖書本文から明らかなものであることをまず立証すべきです。そういう個人的な問題意識があるからこそ、長々と4つの契約の妥当性を考えてきました。

この問題への探求は、聖書研究をしていく傍らでも継続していきたいと思います。また、私個人では至れない、とても大きな問題ですので、この国のディスペンセーション主義者の間でも、活発に議論が交わされていくことを願っております。

*1:Irvin A. Busenitz, "Introduction to the Biblical Covenants; The Noahic Covenant and the Priestly Covenant," The Master's Seminary Journal 10/2 (Fall 1999): 191–212.

*2:Busenitz自身、「ある人々はこの契約について、モーセ契約で与えられた祭司法の一側面を発展させたものと見なしている」と指摘している(Ibid., 186, n. 60)。

*3:以降、聖書引用は特筆なき場合新改訳2017による。

*4:Ibid., 188–80; F. B. Huey, Jeremiah, Lamentations, New American Commentary (Nashville, TN: B&H, 1993), 302; Tremper Longman III, Jeremiah, Lamentations, Understanding the Bible Commentary (Grand Rapids: Baker, 2008), 222; Michael J. Vlach, He Will Reign Forever: A Biblical Theology of the Kingdom of God (Sliverton, OR: Lampion Press, 2017), 189.

*5:Allen P. Ross, Malachi Then and Now: An Expository Commentary Based on Detailed Exegetical Analysis (Wooster, OH: Weaver, 2016), 136–37.

*6:Ralph H. Alexander, "Ezekiel," in The Expositor's Bible Commentary, vol. 7, rev. ed., eds. Tremper Longman III and David E. Garland (Grand Rapids: Zondervan, 2010), 867–78; Charles H. Dyer, "Ezekiel," in The Bible Knowledge Commentary: Old Testament, eds. John F. Walvoord and Roy B. Zuck (Wheaton, IL: Victor, 1985), 1302ff; Richard S. Hess, "The Future Written in the Past: The Old Testament and the Millennium," in A Case for Historic Premillennialism: An Alternative to "Left Behind" Eschatology, eds. Craig L. Blomberg and Sung Wook Chung (Grand Rapids: Baker, 2009), 23–36; Vlach, He Will Reign Forever, 202–206; アーノルド・フルクテンバウム『イスラエル学』佐野剛史訳、中川健一監修(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2018年)312–18頁。

*7:Busenitz, "Introduction to the Biblical Covenant," 188.

*8:Ronald B. Allen, "Numbers," in The Expositor's Bible Commentary, vol. 2, rev. ed. (Grand Rapids: Zondervan, 2010), 346.

*9:フルクテンバウム『イスラエル学』20頁。

*10:同上。

*11:前掲書、21–22頁。

*12:前掲書、22頁。

*13:Alexander, "Ezekiel," 729–30; Dyer, "Ezekiel," 1258; Lamar Eugene Cooper, Sr., Ezekiel, New American Commentary, (Nashville, TN: B&H, 1994), 178.

*14:Arnold G. Fruchtenbaum, "The Land Covenant," in Progressive Dispensationalism: An Analysis of the Movement and Defense of Traditional Dispensationalism, ed. Ron J. Bigalke, Jr. (Lanham, MD: University Press of America, 2005), 89. Cf. J. A. Thompson, Deuteronomy: An Introduction and Commentary, Tyndale Old Testament Commentary (Downers Grove, IL: InterVarsity, 1974), 303–4; James Coakley, "Deuteronomy," in The Moody Bible Commentary, eds. Michael Rydelnik and Michael Vanlaningham (Chicago: Moody, 2014), 306.

*15:Ibid., 89. Cf. John H. Sailhamer, The Meaning of the Pentateuch: Revelation, Composition and Interpretation (Downers Grove, IL: InterVarsity, 2009), 349–50.

*16:Ibid., 90. Cf. Christopher J. H. Wright, Deuteronomy, Understanding the Bible Commentary (Grand Rapids: Baker, 1994), 284.

*17:フルクテンバウム『イスラエル学』22頁。

*18:Michael A. Grisanti, "Deuteronomy," in The Expositor's Bible Commentary, vol. 2, rev. ed., 747.

*19:キッチン『古代オリエント旧約聖書』122–23頁。

*20:前掲書、127–29頁; Eugene H. Merrill, Deuteronomy, New American Commentary (Nashville, TN: B&H, 1994), 30–32.

*21:Merrill, Deuteronomy, 375.

*22:キッチン『古代オリエント旧約聖書』127頁。

*23:山崎順治「申命記」『新実用聖書注解』宇田進・富井悠夫・宮村武夫監修(いのちのことば社、2008年)352頁。

*24:同上。

*25:Cf. Jack S. Deer, "Deuteronomy," in The Bible Knowledge Commentary: Old Testament, 313–14.

*26:Cf. Vlach, He Will Reign Forever, 103–6; Daniel I. Block, "The Doctrine of the Future and Moses: 'All Israel Shall Be Saved,'" in Eschatology: Biblical, Historical, and Practical Approaches, eds. D. Jeffrey Bingham and Glenn R. Kreider (Grand Rapids: Kregel, 2016), 121–27.