軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

ディスペンセーション主義Q&A:7つのディスペンセーションについて

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日本語圏では、チャールズ・ライリーやアーノルド・フルクテンバウムといった人々の神学が「ディスペンセーション主義神学」として強調されている昨今の状況もあり、ディスペンセーション主義は以下の要素によって特徴づけられていると思われていることが多いです。

  1. ディスペンセーション主義には以下の3つの特徴がある。
    1. イスラエルと教会の一貫した区別
    2. 聖書の字義通りの解釈
    3. 聖書が書かれた目的は「神の栄光」であるという主張
  2. ディスペンセーション主義は伝統的に7つのディスペンセーションを主張する。
  3. ディスペンセーション主義は伝統的に8つの聖書的契約を主張する*1

前回は、ディスペンセーション主義の「3つの特徴」とそれによる定義について考えてみました。今回は、「7つのディスペンセーション」を取り上げます。

Q19:7つのディスペンセーションについて

Q:7つのディスペンセーションは聖書的な区分だと思いますか?

A:あれだけライリーの「3つの特徴」による定義を批判した後なので意外に思われるかもしれませんが(笑)、7つのディスペンセーションという枠組みは、未だに中々ソリッドなものだと思っています。

ただし、疑問の余地がないというわけではありません。また、個人的には、7つのディスペンセーションは受け入れられますが、これを軸にして/前面に出して聖書の全体像を説明することには、正直言うと今のところあまり関心がありません。

おさらいですが、まず「ディスペンセーション」という概念は、簡単に言うと「神のご計画が進んでいく段階に応じて区別できる世界の統治方法(経綸)」です。さらなる説明については、この「Q&A」シリーズの1回目をご参照ください。

簡略版「ディスペンセーション主義とは何か?」 - 軌跡と覚書

7つのディスペンセーションという枠組み

さて、こういった概念のもと、C・I・スコフィールドは以下の7つのディスペンセーションの枠組みを提唱しました。区分は同じでもその名前(ラベル)は様々ですが、ここでは有名なラベルでリストアップしてみます*2

  1. 無垢のディスペンセーション(創1:28–3:8)
  2. 良心のディスペンセーション(創3:9–8:14)
  3. 人間による統治のディスペンセーション(創8:15–11:9)
  4. 約束のディスペンセーション(創12:1–出18:27)
  5. 律法のディスペンセーション(出19:1–使1:26)
  6. 恵みのディスペンセーション(使2:1–黙19:21)
  7. 御国のディスペンセーション(黙20:1–10)

ただし、既に多くの人々が指摘しているとおり、ディスペンセーション主義では最初期から、この枠組みに同意しない者もたくさんおりました*3

この枠組みにつきまして、たとえばカルバリー・チャペルの牧師および聖書教師であるデヴィッド・グジックは、ディスペンセーション主義が「無垢のディスペンセーション、良心のディスペンセーション、人間による統治のディスペンセーション、約束のディスペンセーション」と区分することは「独断的」だと批判しています*4。なぜなら、「聖書はこれらを明確には区別していない」からです*5

グジックの批判は的確だと思います。それでも私としては、7つのディスペンセーションにおける区分は、必ずしも独断的とまで言えるようなものではないと思っています。

チャールズ・ライリーは、ディスペンセーションの区分について、以下の5つは明らかだと主張しています*6

  1. 堕落前
  2. 堕落後からモーセまで
  3. 律法
  4. 恵み
  5. 千年王国

この見解には私も賛成です。まずモーセの律法の時代と今の恵みの時代でディスペンセーションが分けられること(Cf. エペ3:5–11; コロ1:25, 26; ガラ4:1–5; ヨハ1:17)は、ほとんどのクリスチャンが同意しています。また、今の時代とキリストが再臨されて以降でディスペンセーションを区分することも妥当なように思われます(Cf. エペ1:10)。

ディスペンセーションの簡単な定義では、これが「神の……世界の統治方法」だと申し上げました。実際には、この概念にはいくつもの要素があります。その中には、徐々に段階を踏んで明かされてきた啓示(漸進的啓示)による、神のご計画の「段階」の区分、また神と人間(あるいは被造物全体)との「関係性」といったものも含まれます。実はディスペンセーションって、そこまできっちりしていない、割と幅広い(ちょっとネガティヴに言えば曖昧な)コンセプトなのです。そういう幅広さ/曖昧さも受け入れてみますと、堕落の前後で「ディスペンセーション」の変化を認めるのは妥当であるように思われます。

そうなると問題なのは、「2. 堕落後からモーセまで」をさらに区分できるかどうかです。

  1. アダムの堕落後を洪水前後で分けられるか?
  2. 洪水後をアブラハムの召命前後で分けられるか?
  3. アブラハムの召命後をモーセの律法前後で分けられるか?

これは微妙ですね。まず押さえておきたいのは、たとえば「良心」から「人間による統治」のディスペンセーションに移ったからといって、後者から人間の良心の重要性が失われるわけではないということです。また、「人間による統治」から「約束」のディスペンセーションに移ったからといって、後者の時代で「人間による統治」という要素やその重要性が失われたわけではありません。むしろ後者でも(またそれ以降のディスペンセーションでも)、「良心」や「人間による統治」は重要であり続けています。ディスペンセーションは、区分されるという意味では非連続的な特徴を持っていますが、各ディスペンセーションの間には連続する要素もしっかりと見られるのです。(だから、ディスペンセーションは神のご計画の統一性と多様性を表すことのできるコンセプトのひとつだといえます。)

それでは、3つの問題について考えてみましょう。

アダムの堕落後を洪水前後で分けられるか?

さて、まずはアダムの堕落後の状態を、洪水後から分けられるかどうかです。分ける必然性があるかと言われると正直答えに窮してしまうところですが、分けるという考え方もそれなりに納得しています。

ノアとその家族が洪水を過ぎ越した後、神が仰せられた内容(創9:1)では、堕落前にアダムに与えられた命令(創1:26–28)のリフレインが見られます。しかし、新しい啓示も与えられました。それが、創世記9:2の次の部分です。

あなたがたへの恐れとおののきが、地のすべての獣、空のすべての鳥、地面を動くすべてのもの、海のすべての魚に起こる。あなたがたの手に、これらは委ねられたのだ。*7

人の手に動物界が「委ねられた」のは創世記2:20「人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた」を思い起こさせます。しかし、堕落前の動物界には人への「恐れとおののき」は存在しませんでした。

また、創世記9:5–6では次のように言われています。

わたしは、あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。いかなる獣にも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。

すなわち、人の命を奪う者は、その命を奪われるというのです。人の命を奪った者による刑罰(死罪)は「人によって」執行されます。殺人の抑制、また死刑の執行には人による社会的な統治機能が求められます*8。ここで神はノアに、国家のような、統治規則を持ったある社会的共同体を求めておられるように思われます。これをふまえて、アルヴァ・マクレインは次のように述べています。

したがって、創世記9:6は人類史において最も画期的な箇所である。ここで、神は罪深い世界における人間の政府の始まりを布告されただけではなく、そのような政府に倫理的・社会的基礎をも据えられたのである。*9

よって、伝統的ディスペンセーション主義が洪水以後を「人間による統治のディスペンセーション」と呼ぶのは、「聖書的でない」とも言い切れないと思っています*10

他にも注目したいのは、創世記のナラティヴ(物語)における洪水の重要性です。まず、この洪水によって世界は一度滅ぼされ、ノアを新しいアダムとする再スタートが切られました。

次に、創世記は10章の系図において、諸国民の登場に注目しています。諸国民の登場はアダムとエバへの「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ」(創1:26)にかかっているとも取れます。また、その誕生のきっかけは11章に記されているバベルの塔事件です。しかし、諸国民の存在を強調する10章の冒頭では「これはノアの息子、セム、ハム、ヤフェテの歴史である。大洪水の後、彼らに息子たちが生まれた」と言われています。創世記の著者は、わざわざ諸国民誕生のきっかけであるバベルの塔事件よりも、洪水後のノアの子孫によって諸国民が誕生したことを先に強調しているのです。これは、著者が諸国民の誕生と洪水という歴史的出来事を深く結びつけて考えていたからではないかと思われます。

ここから、人類をただアダムの子孫と全体的に捉えるだけではなく、諸国民という単位が神のご計画において登場します。この諸国民は、黙示録21–22章の新しい天と地においても見られる(黙21:24, 26; 22:2)、とても重要な存在です。このような重要な存在が創世記のナラティヴにおいて洪水と結びつけられていることからしても、洪水前後で神のご計画/聖書の歴史に区分を設けることは、妥当であるように思われます。

洪水後をアブラハムの召命前後で分けられるか?

次に、洪水後の状態について、アブラハムの召命によって分けられるかどうかです。これはさらに微妙なところですが、以下の理由から、区分するのもそこまであり得ない考え方ではないと思っています。

創世記がアブラハムの選び(召命)をひとつのターニングポイントとして見ているのは確かであるように思われます。アダムやノアなど、個人にフォーカスが当てられ、その個人の行動や個人への祝福などが全人類に影響してくるというのが、これまでの創世記の流れでした。その点では、アブラハムの選びや彼への祝福が全人類に影響してきますので、これもその流れに沿っています。

ですが、洪水後に諸国民が誕生した世界において、アブラハムが選ばれ、彼とその子孫によって諸国民が祝福されるという枠組みが示されたのは、大きなターニングポイントであると思われます。実際、創世記は11章の最後以降、ずっとアブラハムとその子孫に注目し続けていくのです。

ここで、諸国民の中からアブラハムという個人が選ばれ、彼の子孫である「大いなる国民」通して諸国民が祝福されるという形が明らかにされました。これは神のご計画、また神と世界の関係性においても大きなターニングポイントであるように思われます。

したがって、アブラハムの召命前後で神のご計画/聖書の歴史の段階に区分を見出すのは、妥当であるように思われます。

アブラハムの召命後をモーセの律法前後で分けられるか?

最後に、アブラハムの召命以後をモーセの律法前後で分けられるかどうかです。

パウロはエペソ人への手紙で今の恵みの時について、「すべてのものを造られた神の内に永遠の昔から隠されていた秘義の計画」と表現しています(エペ3:9、聖書協会共同訳)。ここで「計画」と訳されている言葉はギリシャ語でオイコノミアですが、これはディスペンセーションという概念の大元になっている言葉です*11パウロは恵みの時代とそれより前とで時代を区分していますが*12、彼にとって前の時代の特徴は「様々な規定から成る戒めの律法」でした(エペ2:15)。エペソ人への手紙2:11–16は、キリストの受肉と十字架によって、モーセの律法の下にある状態が変化したことを教えています。このような考えはガラテヤ人への手紙3–4章でも、強調されています。

キリストが実現した「恵みとまこと」(ヨハ1:17)の時代の直前について、パウロモーセの律法の存在をひとつの要素と見ています。よって、モーセの律法がまだ与えられていないアブラハムの召命以後、出エジプトまでの間、神のご計画/聖書の歴史の段階に区分を見出すのは妥当であるように思われます。

以上のことから、7つのディスペンセーションという枠組みは、聖書の内容からそれほど逸脱したものではないと考えています。

最後に、この枠組みに対する疑問について、重要だと思われる順番に3つ申し上げます。

  1. 永遠の御国はディスペンセーションではないのか?
  2. 各ディスペンセーションのラベルについて
  3. 患難時代はディスペンセーションではないのか?

疑問点1:永遠の御国(永遠の秩序/新しい天と地)はディスペンセーションではないのか?

7つのディスペンセーションという区分に対して私が抱いている最大の疑問はこれです。この枠組みに関する伝統的な考えでは、ディスペンセーションという枠組みは千年王国で終わり、新しい天と地(黙21:1–22:5)はディスペンセーションではないと考えられています。ライリーはこの考え方を以下のように説明しています。

しかしながら、ディスペンセイションという概念を、神がご自分の家(この世界)の出来事を運営しておられることだと理解するなら、この世での歴史が終了したなら、ディスペンセイション的管理の基礎である、神の家の取り決めもまた終了します。言い換えるなら、ディスペンセイション的経綸は、現在の世界の出来事に関することであって、現在の世界が終了したなら、もはや必要がなくなるのです。それゆえ、永遠においては、歴史において見られるディスペンセイションという経綸的取り決めの必要がなくなります。*13

彼にとって、「千年王国こそ歴史の完結」であって、永遠の御国はその先にあることなのです*14。同様に、中川健一氏は「第7のディスペンセーション[千年王国]が終わると、時間を超越した永遠の秩序に入ります」と述べています*15。また、アーノルド・フルクテンバウムは次のように説明しています。「この第7のディスペンセーションが終わると、歴史は時間という側面から永遠という側面へと移行する。こうして永遠の秩序(黙21:1–22:5)に入っていくのである。」*16

以上の説明をふまえてみると、次のような疑問が浮かんできます。

  1. 永遠の御国では神による統治はないのか?
  2. 永遠の御国から時間という概念は消え去るのか?

ディスペンセーションは、先に述べたように神による世界の統治原則/方法です。そしてこれは、聖書の歴史を通して明かされてきた神のご計画に関する区分と対応しています。もし永遠の御国がディスペンセーションではないとなると、この御国には神が世界を統べ治めるという概念がないということになってしまいます。しかし、黙示録21–22章では、これもまた神が治める御国(王国)であることが教えられているように思われます。ここでの「聖なる都、新しいエルサレム」では、はっきりと神の主権が見られます。人々の目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる(21:4)のは神です。いのちの水の泉から飲ませてくださるのは神です(21:6)。

また、神は「全能の神」として、「子羊」とともにこの「都の神殿」であると言われています(21:22)。これは「神と子羊の御座」(22:3)とも表現されています。「御座」という言葉(thronos)は、王の権威の座を表す言葉です。つまり、主権者たる神が、新しいエルサレムでも王であると明言されているのです。

さらに、21:24では「諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る」、また21:26でも「人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる」と言われています。これは、属国が宗主国のもとへ富を携えてくる様子を彷彿とさせる描写です(参照:イザ60:3–6)。新しい天と地においても、神は「王」として認識されているのです。

そして、22:5ではこう言われています。「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。」ここでの「彼ら」とは、22:3で、御座におられる神に仕える「神のしもべたち」と言われている人々です。究極の王である神がおられ、その神に仕えるしもべたちが副王として地を治めるという考え方は、創世記1:26–28まで遡ることができるものです。ヨハネが見た幻によれば、この状態は新しい天と地でも続いているというのです。

以上のことから、永遠の御国においても王なる神による統治は、はっきりと認められます。そうしてみると、「ディスペンセイション的管理の基礎である、神の家の取り決め」は存続しているといえるでしょう。

また、ライリーらは歴史は千年王国において完結し、永遠において時間という概念はなくなると言っています。しかし新しい天と地というのは、これまで触れてきたことからも、また黙示録21–22章全体から分かるように、物質的要素を含んでいます。時間というのも神がお造りになったものですから、新しい天と地において存在していてもおかしくはありません。

確かに新しいエルサレムにおいては、神ご自身が明かりであるため「そこには夜がない」と言われています(21:25)。さらに、新しい天と地の永遠性は昼夜がないことと結びつけられた上で、「世々限りなく」(aiōnas tōn aiōnōn)と表現されています(22:5b)。しかし、昼夜がないということから、すぐに時間という概念までなくなると結論づけなければならないわけでもありません。また、永遠に存続するということと、時間という概念がなくなるということもイコールではありません。永遠の御国は「時間を超越した」ものである可能性はありますが、それは聖書から明確に導き出せる考えではないと思います。

個人的には、ディスペンセーションという枠組みから永遠の御国を外すのは聖書に忠実というよりも、神学的枠組みを聖書に押し付けているように思えてしまいます。7つという枠組みより、こちらのほうが「教義的」すぎるように思えてしまうのです。

特に大きいのが、永遠の御国においても神は私たちを統べ治めるお方であるという点です。この一点から考えても、わざわざディスペンセーションという枠組みを強調して神のご計画を捉えようとするのなら、永遠の御国まで含めなければ一貫性がなくなってしまうように思われます。

以上のことから、私としては永遠の御国も第7のディスペンセーションに含まれる、あるいは8番目のディスペンセーションとして数えるべきではないかと考えています。

疑問点2:各ディスペンセーションのラベルについて

次の疑問点は、各ディスペンセーションのラベル、つまり名前についてです。中川健一氏は「名称はあくまでもラベルであって、本質的な問題ではありません」と言っています*17。私もそれに賛成です。ですので、これはどちらかといえば「どうでもいい」ことなのですが、それでも疑問といえば疑問です。

先にご紹介した7つのディスペンセーションの伝統的な名称は、各ディスペンセーションにおける神の主な統治原則が何なのかということに着目したものです。つまり、「良心」や「人間の統治」などがそれぞれのディスペンセーションの統治原則(方法)における主要要素なのだということです。しかし、各ディスペンセーションにおける神の世界の統治方法を、各ラベルに見られるような一言で表現できるかは疑問です。というか、不可能に思われます。そうなると、この考え方に触れる方々に誤解を与えないようにするためにも、もっと包括的なラベリングが必要だと思います。

よって、7つのディスペンセーションという枠組みを保持するとしても、グレン・クライダーが提唱する以下のラベリングの方がよいと思います。

  1. 創造
  2. 堕落
  3. 洪水後
  4. アブラハムの召命
  5. 出エジプト
  6. 御霊
  7. 新しい天と地*18

また、クライダーの考えでは、最後のディスペンセーションを「千年王国から始まって永遠[の御国]に入っていく」ものとして捉えています。その点でも、私はクライダーの考え方のほうが好きですね。

疑問点3:患難時代はディスペンセーションではないのか?

3番目の疑問点は、患難時代をディスペンセーションとして数えないことについてです。個人的には、永遠の御国をディスペンセーションと考えるかという問題ほど重要なことではないと思っています。

患難時代は、神の怒りが地上に注がれる時代です。ライリーはこれを「ディスペンセイション的見地からは、恵みの経綸の最後であるように思われます」と述べています*19。しかし同時に、「非常に困難で重要な……問題」であるという認識も示しています*20

ライリーと同じく伝統的なディスペンセーション主義に立つロン・ビガルケとマル・カウチは、7つのディスペンセーションに加えて、患難時代をひとつのディスペンセーションとして扱うことを提唱しています*21。その主な理由は、この時代がイスラエルだけではなく全世界に御怒りが注がれる時だからというものです。

また、マイケル・ヴラックは次のように述べて、患難時代は「ディスペンセーションとして扱われるものと考えられる」と結論づけています。

筆者の理解では、ディスペンセーションとは、神が独特な方法で被造物を治め扱われる時代のことである。ディスペンセーションを判別するための基準には、契約の授与、ノアやアブラハムのような契約の代表者、新しい啓示の提供、特定の祝福や結果の顕在化といった事柄が含まれる。たとえば患難時代については、神が御国をもたらす準備として不信仰の世界に御怒りを注がれる時期であり、ディスペンセーションとして扱われるものと考えられる。*22

個人的には、患難時代は今の(再臨前の)時代の最後に含まれる裁きの期間と捉えていますが、特に聖書的根拠をもって厳密にそう考えているわけではありません。ビガルケ&カウチやヴラックの説明を読むと、確かにそれもそうだなぁとも思いますが、正直言うと特にこだわってないです。

とりあえずこの問題というのは、先に申し上げたようなディスペンセーションというコンセプトの曖昧さから出て来るものだといえましょう。ディスペンセーションという概念で救済史を考えていこうとすると、確かに疑問としては浮かび上がってくるのです。

結論

以上の考察および疑問点をふまえて私がここで申し上げたいのは、7つのディスペンセーションはある程度聖書的根拠に基づいたものではありますが、それでも疑問の余地は存在しているので、あまり拘泥しないほうが良いのではないかということです。

さて、以下は補足です。この時点で非常に長くなってしまいましたので、トピックを見て興味を持たれた方はご覧下さい。笑

補足:ディスペンセーションというコンセプトを使う前に注意したいこと

ここまで書いてきておいて何ですが、最初に申し上げたとおり、7つのディスペンセーションという枠組みを前面に出して聖書の全体像を描くことには、あまり関心がありません。今はそれよりも、もっと聖書本文に直接見られる表現や概念によって聖書の全体像を把握することに関心があります。

私が7つのディスペンセーションという枠組みをある程度支持しているのは、ディスペンセーションという概念を前提としているからではなく、聖書本文を読んで、神のご計画には進展していく段階が認められるなと思うからです。しかし、ディスペンセーションという概念をあまりぎちぎちに定義した上でその区分を考えていこうとすると、まさしくグジックの指摘にあったように、その区分が「教義的」すぎるものとなってしまいます。

神のご計画に段階を見出していく考え方は、そもそもはディスペンセーションという概念ありきではなく、聖書の啓示を根拠としています。その啓示の中で特に大きいのは、神が人と結ばれた諸々の契約です。本来、ディスペンセーションは契約も含む漸進的啓示の展開に基づく概念です。ですから、ディスペンセーションという概念に基づいて契約を考えるのではなく、リチャード・アヴァーベックの表現を借りれば、本来は契約の方が「ディスペンセーションの下位に組み込まれ」るべきなのです*23

伝統的な7つのディスペンセーションを支持するフルクテンバウムもまた、各ディスペンセーションの土台は聖書的契約であると主張しています。

神と人との関係の大部分は契約関係に基づいている。よって、聖書の正しく理解するためには、8つの契約を学ぶことが非常に重要である。聖書を区分する最も一般的な方法はディスペンセーションによるものである。しかしながら、ディスペンセーションは特定の契約に基づいているものである。*24

契約の数や、ディスペンセーションが必ず「特定の契約に基づいているもの」といえるかどうかは議論の余地が残されています。それでも、彼の契約とディスペンセーションに関する基本的な認識はアヴァーベックと共通しており、私もその考え方に賛成です。

よって、まずディスペンセーションの区分を前面に出してから聖書の全体像を説明するというやり方は、論理構成の面からして、あまり巧みなやり方とは思えません。むしろ、漸進的啓示の展開に着目して聖書の全体像を捉える(そこに諸契約に関する議論も含まれる)→その結論としてディスペンセーションの概念が見出され、その区分も認められるという説明の方がしっくりきます。

さらにいえば、上記のような論理構成にすれば、そもそもディスペンセーションという概念をわざわざ強調する必要がないかもしれません。この専門用語を使わずに、神のご計画の進展や多様性、そして統一性をよく表現できるのなら、こだわる必要はないのではないかと思います。実際、ライリーと同時代のドワイト・ペンテコスト、アルヴァ・マクレイン、そして最近ではヴラックといったディスペンセーション主義者たちは、聖書の全体像を描く上で「ディスペンセーション」という用語をほとんど使っていません。彼らは「御国の計画」という観点から神のご計画の進展&多様性&統一性を説明しており、中々に納得できるものとなっています。

あるいは、ディスペンセーション主義者ではありませんが、ピーター・ジェントリー&スティーヴン・ウェラムは、契約という観点から御国の計画を説明しており、これも大変説得力があります*25。ディスペンセーション主義者のPaul Martin Heneburyもまた、契約という要素の重要性を強調して、ディスペンセーションよりは契約によって神のご計画の全体像を説明していくべきだと主張しています*26

御国であれ契約であれ、あるいはそれを合わせたっていいし、贖いを加えたって、何だっていいです。ひとつの概念にこだわらず複数の概念を用いてでも(その方が聖書的な気はします)、聖書の全体像の進展&多様性&一貫性を説明できるのなら、別にディスペンセーションにこだわらなくても良くないですか?

ここで申し上げたことは、別に検証したわけではなく、今のところは思いつきにすぎません。なので今後の課題でもあるのですが、結果的にディスペンセーションを使えば一番包括的に説明できるねということになれば、それはそれで良いではないですか。

ともかく、私たちディスペンセーション主義者は、ディスペンセーションという概念とそれに基づいた区分を殊更に強調していく前に、その区分はより直接的な聖書の漸進的啓示に基づいているのだということを、しっかりと認識しておくべきだと思います。契約を含む漸進的啓示の内容そのものを説明する前にディスペンセーションという言葉とその区分を強調していくのは、私はあまり好きなアプローチではありません。

*1:中川健一『ディスペンセーショナリズムQ&A』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2019年)75頁。

*2:中川『ディスペンセーショナリズムQ&A』35–38頁。Cf. チャールズ・C・ライリー『ディスペンセイション主義』前田大度訳(エマオ出版、2018年)59–68頁; Charles C. Ryrie, Dispensationalism, revised and expanded ed. (Chicago: Moody, 2007), 51–65; Renald E. Showers, There Really is a Difference: A Comparison of Covenant and Dispensational Theology (Bellmawr, NJ: The Friends of Israel Gospel Ministry, 1990), 33–49.

*3:ディスペンセーション主義におけるディスペンセーションの区分や数に関する議論については、以下を参照されたい。Ryrie, Dispensationalism, 77–81; Craig A. Blaising and Darrell L. Bock, Progressive Dispensationalism, paperback ed. (Grand Rapids: Baker, 2000), 116–23; 中川『ディスペンセーショナリズムQ&A』39–44頁。

*4:David Guzik, "Pitfalls of Dispensationalism," May 14, 2015; accessed May 28, 2019. また、以下も参照。「ディスペンセーション主義の落とし穴」ロゴス・ミニストリーのブログ、2015年5月20日;2019年5月28日閲覧。

*5:Ibid.

*6:ライリー『ディスペンセイション主義』51–52頁。

*7:以降、聖書引用は新改訳2017より。

*8:Peter J. Gentry and Stephen J. Wellum, Kingdom through Covenant: A Biblical-Theological Understanding of the Covenants (Wheaton, IL: Crossway, 2012), 166–67.

*9:Alva J. McClain, The Greatness of the Kingdom: An Inductive Study of the Kingdom of God (Winona Lake, IN: BMH Books, 1959), 47.

*10:Cf. Eugene H. Merrill, "God's Plan for History Prior to Christ," in Dispensationalism and the History of Redemption: A Developing and Diverse Tradition, eds. D. Jeffrey Bingham and Glenn R. Kreider (Chicago: Moody, 2015), 126.

*11:拙稿「簡易版『ディスペンセーション主義とは何か?』」参照。

*12:Glenn R. Kreider, "What Is Dispensation? A Proposal," in Dispensationalism and the History of Redemption, 24.

*13:『ディスペンセイション主義』55頁。なお、この説明は改訂版でも変わっていない。Ryrie, Dispensationalism, 55.

*14:前掲書、110–11頁。

*15:『ディスペンセーショナリズムQ&A』38頁

*16:Arnold G. Fruchtenbaum, The Word of God: Its Nature and Content, Come and See, vol. 1, 2nd ed. (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2015), 141.

*17:『ディスペンセーショナリズムQ&A』35頁。

*18:Kreider, "What Is Dispensationalism?," 36.

*19:『ディスペンセイション主義』58頁。

*20:前掲書、56頁。

*21:Ron J. Bigalke Jr. and Mal Couch, "The Relationship between Covenants and Dispensations," in Progressive Dispensationalism: An Analysis of the Movement and Defense of Traditional Dispensationalism, ed. Ron J. Bigalke Jr. (Lanham, MD: University Press of America, 2005), 22–23.

*22:Michael J. Vlach, Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths, revised and updated ed. (Los Angeles: Theological Studies Press, 2017), 70. 強調=原著者。

*23:Richard E. Averbeck, "Israel, the Jewish People, and God's Covenants," in Israel, the Church, and the Middle East: A Biblical Response to the Current Conflict, eds. Darrell L. Bock and Mitch Glaser (Grand Rapids: Kregel, 2018), 22.

*24:Fruchtenbaum, The Word of God, 69.

*25:Gentry and Wellum, Kingdom through Covenants; Gentry and Wellum, God's Kingdom through God's Covenants: A Concise Biblical Theology (Wheaton, IL: Crossway, 2015).

*26:以下にまとめられている「聖書的契約主義」(Biblical Covenantalism)に関する諸記事を参照。Paul Martin Henebury, "My Materials on Biblical Covenantalism," September 22, 2015; accessed May 28, 2019.