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神学と文学を追いかけて

続々・ディスペンセーション主義Q&A

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これまでディスペンセーション主義/ディスペンセーショナリズムについて、Q&A形式の記事を2つ投稿してきました。

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その続きとして、今回はディスペンセーション主義の「救済論」と「終末論」について、過去にいただいたことのある質問を基に取り上げてみたいと思います。

Q7:ディスペンセーション主義は異端?

Q:ある人が「ディスペンセーション主義は異端だ」と言っていたけど、そこのところどうなの?

A:その発言が事実であれば、ディスペンセーション主義を甚だしく誤解したものだと思います。プロテスタントにおける「異端」的な信仰というのは、まず「イエス・キリストが同時に神であり人である」ということを否定する信仰であり、それから「イエス・キリストのみによる贖い」を否定する信仰であるといえるでしょう*1。しかし、ディスペンセーション主義者はイエスが神であり人であることを信じていますし、人はイエス・キリストにあってのみ贖われることを認めています。ディスペンセーション主義者が異端者であるというのは彼らを「イエス・キリストのみからだ」から排除することになる発想であり、とても容認できるものではありません。

Q8:ディスペンセーション主義と「行いによる救い」

Q:ディスペンセーション主義では、旧約時代の人々がモーセの律法を守るという「行い」によって救われたと教えているんでしょう?

A:そうではありません。ディスペンセーション主義はいかなる時代でも救いは信仰により恵みによるものであると認められています。この立場における代表的な救済論理解は、チャールズ・ライリーが1965年の『Dispensationalism Today』で次のように述べたとおりです。

救いの土台は、いつの時代もキリストの死である。救いのために必要なのは、いつの時代も信仰である。信仰の対象は、いつの時代も神である。しかし信仰の内容は、様々なディスペンセイションによって変化する。*2

最後の「信仰の内容は、様々なディスペンセイションによって変化する」という部分は、神学的立場によって理解が異なることもあります。たとえば、ある人はアブラハムもキリストの十字架を仰ぎ見て救われたのだといいますが、ディスペンセーション主義者はそうではなく、アブラハムはあくまで神の約束を信じて救われたのだといいます(創15:5–6)。ただ重要なのは、ディスペンセーション主義者であっても、いつの時代も人は神を信じることにより恵みによって救われるというローマ人への手紙4章の教えを信じているのだということです。救済論の基本的理解において、ディスペンセーション主義は他の神学的立場とそう違いはありません。

この種の誤解がなぜ生じてきたかというと、まずは初期の有名なディスペンセーション主義者たちが誤解を招くような不注意な表現をしたことによります。たとえば、有名な1909年の『スコフィールド引照付聖書』では、ヨハネ福音書1:17において次のような注解が記載されています。

恵みのディスペンセーションはキリストの死と復活により始まった(ロマ3:24–26;4:24、25)。ここで人に課せられた責務の中心は、もはや律法への従順が救いの条件だというものではなく、キリストを受け入れるか否かというものである。これには、救いの実として良い行いが伴う。*3

しかし、ライリーが指摘するように、スコフィールドやその弟子のL・S・シェーファーは実際には「救いがいつも神の恵みによること」を信じていました*4。また、この文言は1967年の『新スコフィールド引照付聖書』では修正されています。特にライリーの『Dispensationalism Today』では、このようなディスペンセーション主義に対する救済論的誤解への応答にまるまる1章が割かれています*5。これを受けて、多くの非ディスペンセーション主義者もまた、救済論においてディスペンセーション主義と他の神学的立場が一致できることを認めています。たとえば、フレッド・クルースターは、1965年以降ディスペンセーション主義が複数の救いの道を教えているという誤解は一般的ではなくなったと言っています*6。ダニエル・フラーもまた、ディスペンセーション主義と非ディスペンセーション主義を比較して「もはや律法と福音という主題における重要な相違は認められない」と言っています*7

結局のところ、ジョン・マッカーサー博士がいうように、「ディスペンセーション主義は、ある人の終末論と教会論を形成するものであり……神論、人間論、罪論、聖化の教理といったものに影響を及ぼすものではない」のです*8。そして、マイケル・ヴラック博士がいうように、ディスペンセーション主義者にのみ共通して見られる特別な救済論というものは存在しないのです*9

ですが、ディスペンセーション主義が複数の道を説いているという誤解は、このようなご質問をいただいたことからも分かるように、今なお存在しています*10。このような誤解は神学的なラベルに関わらずキリストのみからだとしてクリスチャンが一致していくことを妨げるものであり、大変残念です。

Q9:ディスペンセーション主義と千年王国

Q:イエス・キリストが地上に再臨して、千年間の王国を建てると信じているのがディスペンセーション主義ではないの?

A:結論からいうと違います、というか、そう言い切ることはできません。

まず、仰るような「イエス・キリストが地上に再臨して、それから千年間の王国を建てる」という考え方を「千年期前再臨説」(premillennialism)といいます。もっと具体的に言うと──

地上に患難/苦難が特徴的な時代(患難時代)が起き、その最後にキリストが地上に戻ってこられ、地上に王国をお建てになる(黙示録19章〜20:4–6)。キリストによる地上支配の後、最後の審判が行われる(黙示録20:11–15における「白い御座」の裁き)。そして、黙示録21:1–22:5の「新しい天と新しい地」が実現する。

──こういう考え方が、終末論の分野では千年期前再臨説と呼ばれています。この立場では結論からいうと、黙示録19章以降の流れをそのまま歴史の流れとして受け取っているのですね。なお、ある人々は再臨前の患難時代を7年間と見ますが、これを3年半に限定する人も、あるいは7年よりもっとずっと長期間だと考える人々もいます。またキリストがこの地上を支配される期間については、ある人々は黙示録20:4–7にあるように文字通り1,000年間と捉えますが、「千年」を象徴的に捉えて「非常に長い期間」だと考える人々もいます。

さて、前置きが長くなりましたが、いただいたご質問はつまるところ「千年期前再臨説=ディスペンセーション主義ではないか?」ということだと思います。これについては、そう言い切ることができません。「すべてのディスペンセーション主義者は千年期前再臨主義者であるが、すべての千年期前再臨主義者がディスペンセーション主義者なのではない」といえるでしょう*11

といいますのも、ディスペンセーション主義を批判する人々の場合でも、終末論としては千年期前再臨説を採用しているケースがあるからです。たとえば、優れた新約聖書学者の故ジョージ・エルドン・ラッドはディスペンセーション主義を強く批判しましたが、黙示録20:4–6を根拠に千年期前再臨説を採用しておりました。同様なことは、『小羊の王国』や『ヨハネの黙示録注解』で有名な岡山英雄氏にもいうことができます。

このように、千年期前再臨説自体はディスペンセーション主義という立場を超えて見られるものです。ですが当然、クリスチャン全員が千年期前再臨主義者というわけではありません。しかし、ディスペンセーション主義者の場合にはほぼ例外なく千年期前再臨説を採用しています。これが、「すべてのディスペンセーション主義者は千年期前再臨主義者であるが、すべての千年期前再臨主義者がディスペンセーション主義者なのではない」とお答えした由縁です。

補足:ディスペンセーション主義と千年期前再臨説

「ディスペンセーション主義者はほぼ例外なく千年期前再臨説を採用している」と申し上げましたが、ここでなぜそうなるのかを少しばかりご説明します。

ディスペンセーション主義というのはQ2で見たように、歴史的文法的解釈を適用し、イスラエルと教会の区別やイスラエルの回復を認める聖書解釈の立場です。中でも特に「イスラエルの回復」という信条に着目してみましょう。

たとえば詩篇2篇では、神に「わたしの子」と呼ばれる王が、神から王権を授けられ、エルサレムに王国を建てるという希望が見られます。これは「神の王国は地上において将来実現する」という終末論です。さて、このエルサレムから始まる地上の王国の王は、イザヤ書11章ではダビデの子孫であることが明らかにされています(1–5節)。このダビデの子孫から出る王によって自然界(動物界)が回復され(6–9節)、諸国民が祝福され(10節)、彼の統治下でイスラエルが回復される(11–16節)というのです。これはすなわち、メシアによる地上の王国と、そこでイスラエルの回復が実現するという希望です。このような希望は、ダニエル書でも「人の子のような方」による王国という形で預言されています(7:13–14)。

ディスペンセーション主義者は、旧約聖書から得られる「ダビデの子孫=メシアによる地上の王国と、そこでイスラエルの回復が実現する」という希望が、将来文字通り実現するものと信じています。ですからディスペンセーション主義においては、イスラエルの回復が実現するのであれば、メシアによる地上の王国も実現せねばなりません

したがいまして、ディスペンセーション主義における「キリストが地上に再臨して、地上に王国をお建てになる」という終末論は、まず旧約聖書の解釈に基づいているといえます。黙示録20:4に見られるキリストによる千年間の地上の王国は、この旧約的終末論と合致します。ですから、旧約的終末論を重んじるディスペンセーション主義では、黙示録20:4にも補強されつつ、千年期前再臨説を受け入れているということになりましょう。

なお、ここで申し上げたことは、ディスペンセーション主義による千年期前再臨説のほんの一部でしかありません。千年期前再臨説について文献をお求めの方には、未邦訳の文献が多く恐縮なのですが、以下の拙稿をご参照ください。

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Q10:ディスペンセーション主義と携挙

Q:ディスペンセーション主義は、患難時代が来る前にクリスチャンが天に挙げられるという「携挙」を信じている立場だと聞いたけど、本当?

A:ほとんどのディスペンセーション主義者は「患難時代が来る前にクリスチャンが天に挙げられる」ということを信じております。しかし私としては、こういう考え方を持つ立場=ディスペンセーション主義、と単純に言い切ることはできないと思います。

ここでまず「携挙」(rapture)という言葉について整理しておきましょう。この神学用語はテサロニケ人への手紙第一4:16–17に基づくものです。

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサ4:16–17;新改訳2017)

「携(え)挙(げられる)」という言葉は、特に「生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ」る現象を指します。

ですから、「携挙」という言葉の純粋な意味は、ご質問の言葉を借りれば「クリスチャンが天に挙げられる」という部分までです。ちなみに、同じパウロの筆によるコリント人への手紙第一15:51–53を読むと、この携挙の時、既に死んでいるクリスチャンは「朽ちないものによみがえり」、生き残っていて天に上げられる者は「変えられる」のだといわれています。「携挙」という用語は広く捉えれば、このクリスチャンの「栄化」また「復活」まで含んでいるものです。

しかし、クリスチャンの間ではこの携挙が起きるタイミングについて見解が分かれています。ご質問にある「患難時代が来る前に」携挙が起きるという考え方は、「患難期前携挙説」といいます。これに対して、「患難時代の後(もしくは最後)」に携挙が起こるという「患難期後携挙説」があります。また、患難時代の最中に携挙が起こるという「患難期中携挙説」もありまして、この立場は具体的なディテールを変えて「御怒り前携挙説(prewrath rapturism)」という形でも存在しています。細かく見ていけば他にも見解がありまして、諸見解についてはこちらの記事をご参照いただければ幸いです。

さて、ほとんどのディスペンセーション主義者は携挙について「患難期前」の立場を取っています。そもそも、ディスペンセーション主義という立場が有名になったきっかけも、ひとつは患難期前携挙説にあるといえるでしょうか。といいますのも、『レフト・ビハインド』という小説シリーズがアメリカでは大変反響を呼んだのですが(邦訳もいのちのことば社より出ています)、これは携挙から取り残された(left behind)人々が患難時代に織りなす物語を描いたものでした。この小説を巡っては批判もかなりありまして、Googleで検索すれば『レフト・ビハインド』批判が山のように出てきます。で、作者のひとり故ティム・ラヘイが有名なディスペンセーション主義者であったため、ディスペンセーション主義が患難期前携挙説と一括りで否定的に見られるきっかけのひとつになっただろうと思います。(他にも、遡ればハル・リンゼイの『地球最後の日』とかありますが……。)*12

神学書を紐解いてみても、古典的立場や伝統的立場については言わずもがな。漸進的ディスペンセーション主義の代表的提唱者であるクレイグ・ブレイシング博士もまた、患難期前携挙説を主張しています*13。私もまた、この問題は解決が難しいものだということは認識しつつ、聖書の主張(特にパウロの主張)に最もよく合致するのは患難期前の立場だろうと考えています。

しかしながら、ディスペンセーション主義は患難期前携挙説に依存した体系ではありません。繰り返しますが、既に見たようにこの立場の特徴は「歴史的文法的解釈を適用し、イスラエルと教会の区別やイスラエルの回復を認める」ことです。患難期前携挙説は特に「イスラエルと教会の区別やイスラエルの回復」と矛盾しないものではありますが*14、患難期前携挙説が正しくなければ「イスラエルと教会の区別やイスラエルの回復」が成り立たないというわけでもないでしょう。一番分かりやすいのは、故チャールズ・ライリーが提唱した3つの「ディスペンセーション主義の必須条件」です。ライリーは(1)イスラエルと教会の区別、(2)字義通りの解釈、(3)神のご計画の目的を神ご自身の栄光に置くこと、をディスペンセーション主義の3つの必須条件として掲げましたが*15、そこには患難期前携挙説が含まれていません。つまり、ライリーは、患難期前携挙説が正しくなければディスペンセーション主義自体が成り立たないと考えていたわけではないのです。このことは、「患難期前携挙説の重要性を軽視しているということではなく、ディスペンセーション主義の体系全体がこの教理ひとつにかかっているわけではないということを示している」のです*16

患難期前携挙説を信じるディスペンセーション主義者である故ポール・ファインバーグは、イスラエルと教会の区別という点から、ディスペンセーション主義と患難期前携挙説の関係について考察しています*17。具体的な議論にまで踏み入る余裕はありませんが、ここでは彼の示した結論に耳を傾けてみましょう。

私が本章で示そうとしたのは、次のことである。ディスペンセーション主義と患難期前携挙説とは確かに個々に独立しているが、前者は後者と調和したものである。*18

つまり、ディスペンセーション主義者であるかどうかということと、患難期前携挙説を信じるかどうかということは、本質的には関係がない。しかし、患難期前携挙説というのは、ディスペンセーション主義という体系と調和が取れる終末論だということですね*19

ヴラック博士は面白い表現でこのことを語っています。

患難期前携挙説はディスペンセーション主義にとって重要な教理です。しかし、私はこの教理にディスペンセーション主義という体系全体の命運がかかっているとは考えていません。また、これがディスペンセーション主義の本質的な信念であるとも思いません。もし患難期前携挙説は間違っているという手紙を天国から受け取ったとしても、私はディスペンセーション主義者であり続けるでしょう。なぜなら、私がこの立場を取るのは、旧約預言の信頼性、千年期前再臨説、イスラエル民族の将来の救いと回復を受けいれているからです。*20

最後に、漸進的ディスペンセーション主義者を自認するアラン・ハルトバーグ博士(タルボット神学校)は「御怒り前携挙説」の支持者であるということを付記しておきましょう*21。ブレイシング博士は彼が本当にディスペンセーション主義者といえるかについて疑問を呈しておりますが*22、それはともかくとして、少数ながらディスペンセーション主義の間でも「携挙」に関しても一枚岩ではない、ということの良い例であるかと思います。

*1:参照:A・E・マクグラスキリスト教神学入門』神代真砂実訳(教文館、2002年)216–19頁。

*2:チャールズ・C・ライリー『ディスペンセイション主義』前田大度訳(エマオ出版、2018年)132頁。

*3:Scofield Reference Bible, John 1:17, n. 2; accessed Oct. 27, 2018.

*4:ライリー、120–23頁。

*5:前掲書、117–41頁。

*6:Fred H. Klooster, "The Biblical Method of Salvation: Continuity," in Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments, ed. John S. Feinberg (Wheaton, IL: Crossway, 1988), 132.

*7:Daniel Fuller, Gospel and Law: Contrast or Continuum? (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 1980), 45.

*8:John F. MacArthur, Jr., Faith Works: The Gospel According to the Apostles (Dallas: Word, 1993), 222.

*9:Michael J. Vlach, Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths, rev. ed. (Los Angeles: Theological Studies Press, 2017), 53–54.

*10:たとえば、2015年に出された以下の文献を参照のこと。Robert L. Reymond, "The Traditional Covenantal View," in Perspectives on Isarel and the Church: 4 Views, eds. Chad O. Brand (Nashville, TN: B&H, 2015), 25; Chad O. Brand and Tom Pratt, Jr., "The Progressive Covenantal View," in Perspectives on Israel and the Church, 236.

*11:ハロルド・リンゼル=チャールズ・ウッドブリッジ『聖書教理ハンドブック』山口昇訳、改訂新版(いのちのことば社、1992年)172頁。なお、ここでは引用元の「千年王国前再臨主義者」を「千年期前再臨主義者」に改めている。

*12:ちなみに、私自身は『レフト・ビハインド』嫌いじゃないです。というか割と好きです。「キリストの十字架と復活を受け容れることに救いがある」というメッセージ性はしっかりしていると思いますし。それと、その、言い難いのですが……アメリカのB級アクション映画が好きなので……それに近い感じで好きで。。。(^^;

*13:Craig Blaising, "A Case for the Pretribulation Rapture," in Three Views on the Rapture: Pretribulation, Prewrath, or Posttribulation, ed. Alan Hultberg (Grand Rapids: Zondervan, 2010), 25–73.

*14:Michael Rydelnik, "Israel: Why the Church Must Be Raptured Before the Tribulation," in Evidence for the Rapture: A Biblical Case for Pretribulationism, ed. John F. Hart (Chicago: Moody, 2015), 255–76.

*15:ライリー、43–48頁。

*16:Vlach, 99.

*17:Paul D. Feinberg, "Dispensational Theology and the Rapture," in Issues in Dispensationalism, eds. Wesley R. Willis and John R. Master (Chicago: Moody, 1994), 225–45.

*18:Ibid., 243.

*19:Ibid., 229.

*20:Vlach, 99.

*21:Alan Hultberg, "A Case for the Prewrath Rapture," in Three Views, 109–154.

*22:Blaising, "A Pretribulation Response," in Three Views, 156–57.