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ディスペンセーション主義の将来的課題

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

ディスペンセーション主義の将来的課題:Michael J. Vlach『Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths』レビューと共に|balien|note

トピック

はじめに

 ディスペンセーション主義者の側からその基本的信条と神学的説明をまとめた文献は数多く存在しますが*1、Michael J. VlachによるDispenasationalism: Essential Beliefs and Common Myths (Los Angels: Theological Studies Press, 2008)は、そういったジャンルの中でも最新の一冊です。本書ではディスペンセーション主義の基本的信条と一般的誤解が取り扱われています。私はKindleにて本書を読みましたが紙媒体でも70ページ強という長さで*2、非常にコンパクトにまとめられています。
 私は8月から9月にかけて、マガジン『イスラエル論(Israelology)とりまとめ』内で「ディスペンセーション主義とは何か?」という全10回のシリーズに取り組んできました*3。そこで主に伝統的なディスペンセーション主義における主張に基づくディスペンセーション主義の定義、またディスペンセーション主義の歴史的変遷について学んできたわけですが、本書にはそこで詳細に見てきたものと同様な内容が端的にまとめられています。本書を読むことで、私自身以前学んだ内容をより鮮明に理解し、整理し直すことができ、とても助かりました。

 イントロダクションによれば、本書の目的は「ディスペンセーション主義という体系の核心となる基礎的な信条を強調すること」です*4。その目的に向かって、著者は第1章でディスペンセーション主義の歴史を、第2章でディスペンセーション主義の基本的信条を、第3章でディスペンセーション主義についての誤解を、第4章でディスペンセーション主義についてのQ & Aを取り扱っています。
 第1章で著者はディスペンセーション主義の歴史を3つに区分しています*5。第1の区分は19世紀半ばから1940年代にかけて、John Nelson DarbyからLewis Sperry Chaferに至るまでの「古典的ディスペンセーション主義」です。第2の区分は、1950年代から1985年に至るまでのJohn F. WalvoordやJ. Dwight Pentecost、Charles C. Ryrieらによる「改訂(もしくは修正)ディスペンセーション主義」です。第3の区分は、1985年以降、Craig A. BlaisingやDarrell L. Bock、Robert L. Saucyらによって提唱された「漸進的ディスペンセーション主義」です。著者によるこれらのディスペンセーション主義発展史の区分は、Blaising and Bockによるものを踏襲しています*6

ディスペンセーション主義の「Essential Beliefs」

 第2章は本書の核心を成している部分です。著者はRyrieによるディスペンセーション主義の3つの必須条件*7や、John Feinbergによる6つの主要項目*8、Blaising and Bockによる8つの一般的信条*9などを取り上げて検証した結果、Ryrie、Feinberg、Blaising and Bockのいずれの立場でも以下の6つの基本的信条は共有されているものと主張します。

  1. 旧約聖書の啓示は、新約聖書で漸進的に明かされた啓示によって無価値にされたり、変換されたり、再解釈されたりするものではない。そういったことは、歴史的文法的解釈(historical-grammatical hermeneutics)によって明らかにされる旧約著者の本来の執筆意図を侵害する、もしくは取り消してしまう行為である。
  2. 聖書における型(types)の存在は認められるが、イスラエル民族は教会によって取って代わられた型ではない。
  3. イスラエルと教会は区別される。よって、教会を新しい(もしくは真の)イスラエルとして定義することはできない。
  4. ユダヤ人と異邦人の救済論的一致と、将来におけるイスラエル民族としての役割とは両立する概念である。
  5. イスラエル民族は将来立てられる地上の千年王国において救われ、また民族としての特質と機能とが回復される。
  6. アブラハムの子孫」という用語には多様な意味がある。よって、教会の「アブラハムの子孫」としての特質は信仰を持つユダヤ人の「アブラハムの子孫」への神の約束を無効にするものではない。

この中でも特筆すべきは5. と6. についてです。まずVlachは5. を説明する際にイスラエルの「民族的救い」と「民族的回復」を区別します。前者は後者の中に含まれてはいますが、後者の概念では霊的救いに加えて「イスラエル民族の約束の土地への帰還と千年王国における民族(国家)としての役割の回復」が含まれています*10イスラエルの民族的救いという考えは非ディスペンセーション主義の神学体系にも見られますが、民族的回復という考えはディスペンセーション主義に特有なものであると著者は主張します*11
 次に特筆すべきは、Vlachがディスペンセーション主義の基本的信条を扱う中で「アブラハムの子孫」という用語の理解について扱っていることです。これは確かに基本的信条と言えますが、むしろ置換神学的立場においてよく主張される、「教会はアブラハムの霊的な子孫であるから(ガラ3:7など参照)、教会は霊的イスラエルである」という考え*12への反論としての性質を帯びています。著者はArnold G. FruchtenbaumやSaucy、Feinbergらの主張を引用し、聖書において「アブラハムの子孫」という用語は機械的イスラエルを指すものではなく、したがって「教会 = 霊的なアブラハムの子孫、よって教会 = 霊的なイスラエル」という置換神学的立場の主張は成立しえないのだと論述しています*13

ディスペンセーション主義についての「Common Myths」

 第3章では著者はディスペンセーション主義についての一般的な誤解を取り上げ、それらの誤解に対して反論を試みています。詳細に取り上げられているのは以下の5つの誤解です。

  1. ディスペンセーション主義は複数の救いの方法を教えている。
  2. ディスペンセーション主義は本質的にアルミニウス主義である。
  3. ディスペンセーション主義は本質的に反律法主義である。
  4. ディスペンセーション主義は非ロードシップ論的救いへと導く*14
  5. ディスペンセーション主義は主として7つのディスペンセーションを信じている。

その他にも、ディスペンセーション主義は「山上の垂訓」を千年王国にのみ適用している、ディスペンセーション主義は「神の国」と「天の御国」の違いを教えている、ディスペンセーション主義者のイスラエル論は人種差別と民族浄化を助長する、といった誤解に対して簡潔な反論がなされています。
 以上の一般的誤解のうち1. 〜4. が救済論に関連したものですが、著者は「ディスペンセーション主義は本質的に教会論と終末論の教理に関連している体系であり」、「救済論と関連しているものではない」と主張します*15。言い換えれば、ディスペンセーション主義と他の福音主義神学の立場とは、教会論や終末論については意見の相違があるものの、救済論の主要教理(信仰と恵みのみによる救いなど)に関しては共有しているのだということです*16。それを踏まえた上で、特定のディスペンセーション主義者の考えを取り出してこの神学体系に対して本質的な批判を行うことは合理的ではない、と著者は応答しています。
 第4章では、ディスペンセーション主義についての様々な質問に著者が回答していく、という形式が取られています。ここでは「非ディスペンセーション主義者がディスペンセーション主義を評価する際に犯している主な誤りは何か?」、「ディスペンセーション主義が歴史的に新しい神学であるという理由で拒絶されていることにどう応答するのか?」、「患難期前携挙説とディスペンセーション主義との関係はどうなっているのか?」等々、確かにディスペンセーション主義に関するディスカッションではよく出される質問が取り上げられています。

ディスペンセーション主義の将来的課題

 本書によって改めて見えてきたのは、ディスペンセーション主義という神学的立場における多様性です。私の「ディスペンセーション主義とは何か?」というシリーズでは、比較的「改訂ディスペンセーション主義」に近いアプローチからこの立場を理解していこうと試みられています。一方で本書は、より「漸進的ディスペンセーション主義」に近い立場からのアプローチが採られています*17。私はディスペンセーション主義が「聖書解釈体系」もしくは「聖書解釈法」であると定義しましたが*18、Vlachはこの立場を(前述の6つの基本的信条に基づく)「system of theology」として定義しており*19、本書中のどこにおいても「聖書解釈体系」としてはみなしていません。こうしてみると、他の神学的立場と同様、ディスペンセーション主義というものも厳密な定義が難しい包括的な立場へと発展してきている、といえるのかもしれません。
 この神学的立場に関して「聖書解釈体系」とする定義と「神学体系」とする定義の両方が存在するということに触れましたが、ここでその点について改めて考えてみましょう。著者は第3章の冒頭で「すべての神学体系が、キリスト教神学の全領域と有機的関係にあるわけではない」と指摘しています。その視点から、著者はディスペンセーション主義が神学の全領域について包括的に扱っているわけではないことを承知した上で、この立場を「神学体系」と定義しているものと推察されます。しかし私は、「神学体系」と呼ぶからには、それは神学の全ての領域における教理を体系的に統括している必要があるのではないかと考えています*20。したがって、ディスペンセーション主義に基づいた神学的教理が体系化されればそれは「ディスペンセーション主義神学体系」あるいは「ディスペンセーション主義組織神学」として定義されるべきですが、ディスペンセーション主義そのものは「聖書解釈体系」あるいは「聖書解釈法」以上のものではないと考えられます。
 この神学的立場を神学体系とみなすのか、あるいは聖書解釈体系とみなすのかについて考察している途上で、ある疑問が浮上してきます。Vlachが提唱するディスペンセーション主義の6つの基本的信条に立つという理由だけで、この神学的立場を「ディスペンセーション」主義という特別な立場として定義することは、果たして妥当なのでしょうか。これらの6つの基本的信条に含まれているのは、聖書論、教会論、終末論、そしてイスラエル論に関連した教理です。そしてこれらの信条は聖書の歴史的文法的解釈によって得られたものであり、後述しますが、歴史的文法的解釈自体はディスペンセーション主義に特別なものではありません。Vlachは「ディスペンセーション」という概念、区分、またその数などはディスペンセーション主義の特質として捉えていません。それはこの著者独自のアイデアではなく、Ryrieの「ディスペンセーション主義の必須条件」の時点でディスペンセーションという概念自体に関する信条は含まれていないのです*21
 以前、友人と食事をしながら意見交換をしていたとき、彼が「ディスペンセーション主義というだけで無条件に拒否反応を引き起こさせるくらいなら、そのラベルをあえて使わず、字義的解釈(歴史的文法的解釈)というだけでいいのではないか」というようなことを指摘してきました。Ryrieの必須条件やVlachの基本的信条を見る限りでは、その指摘は妥当であるようにも思えます。福音主義神学においてそのような信条が「ディスペンセーション主義の特徴」としてディスペンセーション主義者からも、非ディスペンセーション主義者からも取り扱われている現状では、そのラベルを使わないという選択もまた慎重に検討されなければならないでしょう。しかし、福音主義神学の営みとは聖書に記されている「真の」あるいは「純粋な」聖書神学を追求することであり*22、そういった意味では本来「ラベル」は必要ないのです。
 さて、歴史的文法的解釈という解釈法に着目してみると、ディスペンセーション主義者によく見られる「自分たちだけが聖書を歴史的文法的に解釈している」「自分たちだけが聖書を字義的に解釈している」という主張もまた極端なものであり、妥当であるとは思えません。なぜなら、非ディスペンセーション主義者もまた聖書を歴史的文法的に解釈した結果「預言の非字義的成就」などの教理に至っているのであり、またそれこそが聖書のテキストに込められた本来の意味なのだ、という結論に至っているからです。なお、Vlachはこの点をふまえ、非ディスペンセーション主義者の聖書解釈について以下のように記述しています。

非ディスペンセーション主義者にとっては、新約聖書の字義的解釈が旧約聖書を非字義的に読むことを許している。特にイスラエルを扱う箇所についてそれがいえるのである。*23

 以上の点をふまえ、本書のレビューからは少々逸脱していることは重々承知の上で、現在「ディスペンセーション主義」という神学的ラベルが貼られている者にとって課せられている課題は、以下の2点ではないかと考えられます。

  1. 聖書の歴史的文法的解釈そのものを適切に定義すること。
  2. その歴史的文法的解釈に基づく純粋な組織神学を追求すること。

この点で、Vlachが本書で「歴史的文法的解釈とは何か」という問題についてそれほど踏み入った議論を行っていないことは──本書の目的を超えてしまうテーマではありますが、しかし「ディスペンセーション主義の基本的信条」を扱ったものである以上──残念に思います。
 ディスペンセーション主義に立つ神学者たちの間では、歴史的文法的解釈についてはRyrieやFeinberg、Saucy、Blaising and Bockらの働きによって十分議論され尽くされたとみなされているのか、解釈原則そのものに関する議論は停滞してしまっているようです。しかし、ディスペンセーション主義という体系をめぐってRyrieらが積み上げてきた功績を尊重し、純粋な聖書的組織神学を追求していく上では、いま再び歴史的文法的解釈とその妥当性について考えていく必要があるのではないでしょうか*24

おわりに

 ここでは本書の内容の要約に加え、著者の主張をふまえてディスペンセーション主義そのものに関する課題について考察してきました。このように、本書はディスペンセーション主義者に対しても、あるいは非ディスペンセーション主義者に対しても、彼らが聖書的神学を考える上で良い助け手としての役割を果たしてくれるでしょう。
 私自身も含め、読者は本書で提示されたディスペンセーション主義の6つの基本的信条をよく観察・分析することで、聖書理解に対して「将来にイスラエルは回復される」という信条がもたらす影響がいかに大きいものかを学ぶことができるでしょう。またディスペンセーション主義に関する一般的誤解とそれらへの反論を知ることで、この立場の本質を理解した上での建設的な議論に取り組んでいくことができるでしょう。
 どのような神学的立場を採用しているかに関わらず、ディスペンセーション主義という立場に興味・関心を持っている方には、ぜひおすすめしたい一冊です。

*1:たとえば以下の文献を参照。Charles C. Ryrie, Dispensationalism (Chicago: Moody Publishers, 1995); Craig A. Blaising and Darrell L. Bock, Progressive Dispensationalism (Grand Rapids, MI: Baker Books, 1993)

*2:Amazon.co.jp商品情報より。

*3:そのnoteマガジンの内容は、本ブログのカテゴリー「ディスペンセーション主義について」内にまとめられている。

*4:Vlach, Dispensationalism, locations 75-76.

*5:Id., locations 154-203.

*6:Blaising and Bock, Progressive Dispenasationalism, pp. 21-23.

*7:Ryrie, Dispensationalism, pp. 45-48.

*8:John S. Feinberg, “System of Discontinuity,” Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments, John S. Feinberg ed. (Wheaton, IL: Crossway, 1988), pp. 67-85.

*9:Blaising and Bock, Progressive Dispensationalism, pp. 13-21.

*10:以下の文献も参照のこと。Vlach, Has the Church Replaced Israel?: A Theological Evaluation (Nashville, Tennessee: B&H Publishing, 2010), p. 12.

*11:以下の文献も参照のこと。Arnold G. Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992); 中川健一「終末論に関する一考察」『LCJEニュース』第190号(ローザンヌユダヤ人伝道協議会日本支部、2015年)1頁

*12:たとえば以下の文献を参考のこと。ジョージ・エルドン・ラッド『終末論』安黒務訳(いのちのことば社、2015年)24—39頁; ミラード・J・エリクソンキリスト教神学』第4巻、森谷正志訳、宇田進監修(いのちのことば社、2006年)231頁

*13:本書中で引用されているように、たとえばFruchtenbaumは「seed of Abraham(アブラハムの子孫)」という用語には4つの意味があり、どの意味を指して使用されているかは文脈によって判断する必要があるものと主張している(Fruchtenbaum, Israelology, p. 702)。それらの意味は以下に示す通りである。(1)アブラハムの肉体的子孫(ユダヤ人もアラブ人ら異邦人も含む)。(2)メシアご自身(ヘブ2:16-17参照)。(3)今日の信者(ユダヤ人も異邦人も含む;ガラ3:29参照)。(4)イスラエルの残れる者(すなわちユダヤ人信者;イザ41:8、ロマ9:6、ヘブ2:6参照)。

*14:著者は本書において、ロードシップ論の是非についてはディスペンセーション主義者の間でも立場が分かれている問題であり、また福音主義の救済論一般におけるテーマでもあるため、ディスペンセーション主義の本質に関する問題ではないと主張している(Vlach, Dispensationalism, locations 736-763)。

*15:Id., locations 522-570. 著者はここで「すべての神学体系が、キリスト教神学の全領域と有機的関係にあるわけではない」と述べ、例として改革派神学を挙げている。改革派神学は聖書論や神の主権、救済論といった分野と密接な関わりがあるものの、改革派神学に立つからといって特定の終末論的立場(千年期前再臨説、千年期後再臨説、無千年王国説など)に規定されるわけではない。著者によれば、ディスペンセーション主義もそういったケースに含まれる神学体系であり、この場合は特に教会論と終末論との関わりが密接な立場なのである。

*16:Fred H. Klooster, “The Biblical Method of Salvation: A Case for Continuity,” Continuity and Discontinuity, p. 133; エリクソンキリスト教神学』第4巻、365頁

*17:ただし、Vlach自身は漸進的ディスペンセーション主義のすべての教理を受け入れているわけではないことも明らかにしている。Vlach, Dispensationalism, locations 938-940.

*18:拙稿「ディスペンセーション主義とは何か?(4)ディスペンセーション主義の定義」参照。

*19:Vlach, Dispensationalism, locations 835-837.

*20:この点についてBarry R. Leventhalは「ディスペンセーション主義は概念体系であり、神学のすべての分野と関係しているわけではない。むしろ、聖書解釈体系であると定義するべきである」と指摘している(Barry R. Leventhal, “Dispensational Apologetics,” Ariel Ministries Magazine (San Antonio, TX: Ariel Ministries, Spring 2015), p. 10.)。

*21:確かに神の経綸とその区分という概念は他の神学的立場にも共通して見られるものである(ラッド『終末論』8頁;フスト・ゴンサレスキリスト教神学基本用語集』鈴木浩訳(教文館、2010年)85頁)。またVlachは伝統的ディスペンセーション主義におけるギリシャoikonomiaの解釈に満足していないため、基本的信条においてディスペンセーションという概念を強調していない(Vlach, Dispensationalism, locations 778-785; cf. Feiberg “System of Discontinuity,” pp. 69-70)。
 しかし、仮に福音主義神学において「敢えて」ディスペンセーション主義を特別な神学的立場として定義するのであれば、神の計画を理解する上で「ディスペンセーション」という概念を取り入れていることは、この神学的立場の特質として計上されるべきではないだろうか。拙稿「ディスペンセーション主義とは何か(3)〈ディスペンセーション〉の定義」、「同(4)」参照のこと。

*22:エリクソンキリスト教神学』第1巻、安黒務訳、宇田進監修(いのちのことば社、2003年)19—20頁

*23:Vlach, Dispensationalism, locations 281-282.

*24:近年、非ディスペンセーション主義神学の立場からは聖書釈義の方法論の確立を目指して、歴史的文法的解釈について再確認・再定義することが提唱されている(津村俊夫「福音主義神学における聖書釈義」『福音主義神学』第45号(日本福音主義神学会、2014年)11—12頁)。