軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「ディスペンセーション主義」という名前への違和感

久々に、ディスペンセーション主義についての記事です。本ブログにて「ディスペンセーション主義とは何か?」シリーズを公開してから、2年が過ぎました。

今でもこの神学的立場には関心を持ち続けていて、これを取り上げている本や論文、Webサイトを見つけるとなるべく目を通すようにしています。

最近のディスペンセーション主義内部の流れですと、2015年、ダラス神学校やホィートン大学などの著名なディスペンセーション主義神学者がこの立場の特徴、解釈論、救済史などを論じた『Dispensationalism and Hisotry of Redemption』が出版されました*1。また同年、Taos First Baptist Churchのランディ・ホワイト牧師が中心となって、この立場からの書籍の出版やブログ記事の更新を主な業務としているDispensational Publishing House, Inc.を立ち上げています。

dispensationalpublishing.com

それから昨年には、本ブログで何度も紹介しているマイケル・ヴラック氏の『Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths』(2008年)の増補改訂版が出版されました*2

こうして追ってきている中、以前から抱いていたある疑問がより明確になってきました。やはり2年前、ヴラック氏の書籍の初版を取り上げて、次の記事をアップしました。

balien.hatenablog.com

この中で、「Vlachが提唱するディスペンセーション主義の6つの基本的信条に立つという理由だけで、この神学的立場を『ディスペンセーション』主義という特別な立場として定義することは、果たして妥当なのでしょうか」と書きました。ヴラック氏によるディスペンセーション主義の6つの基本的信条については、これから追々見ていきます。ただ、その信条を共有する立場の名前が「ディスペンセーション主義」であることに、改めて違和感を感じたのです。

先に申し上げておきたいのですが、この記事、特にオチはございません! 敢えて言うなら、「ディスペンセーション主義っていう名前に違和感がある」というのがオチです(笑)それ以上なにか建設的な結論があるわけではありませんf^_^; いや、このオチから色々と思うところはあるんですが、まだまとまっていないので、ひとまずはこの違和感というものを文章化しておきたいと思った次第でございます。

改めて、ディスペンセーション主義とは?

さて、まずは改めて申しますと、私は今も自分自身が「ディスペンセーション主義者」だと思っております。少なくとも「あなたはディスペンセーション主義者か?」と訊かれたとき*3、否定する理由は特にありません。ただ、それには若干の説明が必要です。

かつて「ディスペンセーション主義とは何か?」シリーズで、私はチャールズ・ライリーの著書*4を踏襲して、この立場を次のように定義しました。

以上のことから、ディスペンセーション主義とは(1)歴史的文法的解釈を聖書全体に適用し、(2)神の計画について考える上で〈ディスペンセーション〉という概念を用い、(3)その計画の目的は神の栄光が現れることだと考え、(4)その計画においてイスラエルと教会を一貫して区別する、といった考え方に基づいた〈聖書解釈体系〉である、ということができるでしょう。*5

細部の表現については改善の余地があると思っておりますが、基本的な理解は今も変わっていません。

他に、この立場の一種である漸進的ディスペンセーション主義の視点から、クレイグ・ブレイシングは以下のようにディスペンセーション主義の聖書理解に見られる「一般的特徴」を示しています*6

  1. 聖書の権威
  2. 複数のディスペンセーション
  3. 教会の独自性
  4. 普遍的教会という概念の実践的重要性
  5. 聖書預言の重要性
  6. 未来主義千年期前再臨説(futurist premillennialism)
  7. キリストの再臨の緊迫性(imminent)
  8. イスラエルの民族的将来

以上の「一般的特徴」は、拙稿で定義したディスペンセーション主義にも当てはまります。

さて、様々なディスペンセーション主義者たちがこの立場の本質とは何かを論じる中で、マイケル・ヴラックは全てのディスペンセーション主義者に共通する本質的信念が6つあるのだと主張しています*7

  1. 聖書のどの聖句についても、第一義的な意味はその聖句自体に見出される。新約聖書は、旧約聖書著者の本来の執筆意図を否定したり、打ち消してしまうようなことはない。すなわち、新約聖書旧約聖書の意味を再解釈もしくは変換してしまうものではない。
  2. 予型の存在は認められる。しかし、イスラエル民族は教会に置き換えられるという意味での予型ではない。
  3. イスラエルと教会は区別される。よって、教会を新しい、あるいは真のイスラエルと定義することはできない。
  4. ユダヤ人と異邦人の間にある救済論的一致と、将来におけるイスラエルの民族的役割とは、両立する概念である。
  5. イスラエル民族はやがて救われ、回復される。彼らには、将来の地上的千年王国において特別な役割が与えられる。
  6. アブラハムの子孫」という用語には複数の意味がある。よって、教会が「アブラハムの子孫」であるということは、神が信仰を持つユダヤ人の「アブラハムの子孫」に与えられた約束を無効にするものではない。

私は、拙稿における定義に含まれる考え方を今でも持っています。私の聖書理解には、ブレイシングのいう「一般的特徴」が当てはまります。そして、ヴラックの「6つの本質的信念」にも全て同意しています。こういう聖書理解を持っている者をディスペンセーション主義者と呼ぶならば、私は確かにディスペンセーション主義者なのです。

しかし、「ディスペンセーション主義」という名前は、はたしてこの立場が一般的に持っている特徴を的確に表現できているのでしょうか。たとえばヴラックの「6つの本質的信念」には、どこにもディスペンセーション(神の経綸)という用語が登場しません。実は、これは理解できることなのです。なぜなら、ディスペンセーションという概念──もっといえば、救済史や聖書のストーリーラインにおいて複数のディスペンセーションの区分を認めるということは、ディスペンセーション主義に特有なものではないからです。そういった考えは、たとえばエイレナイオスのようなニケア公会議前の教父にまでも遡ることができます。

また、ディスペンセーション主義というとよく思い起こされるのが「7つのディスペンセーション」ですが、ディスペンセーションの数はこの立場の必須条件でも何でもありません。確かにこの立場で最も一般的に認められているディスペンセーション主義の数は7ですが、全員がその数字に同意しているわけではありません。

ヴラックの「6つの本質的信念」に見られる特徴は、実際には聖書解釈論、教会論、終末論に関係しています。また、各信念に通じる軸となっているのは、教会とイスラエルという2つの存在です。こうなってくると、ヴラックが論じるような立場をなぜ「ディスペンセーション」主義と呼ぶのか、分からなくなってきます。

ディスペンセーション主義という名前そのものについて

なぜディスペンセーション主義という名前が誕生したのかということは、歴史を紐解いていくとわかってきます。現在ディスペンセーション主義と呼ばれている神学的潮流が芽生え始めたのは、遅くとも18世紀後半です*8。その時期、聖書に書かれている人間の歴史について考えていく上で、ディスペンセーションという概念が、キリスト教神学史上最も強調され始めました。そして、ディスペンセーションという概念を強調した聖書理解は、“dispensational”なものだと呼ばれ始めたのです*9。この時期から19世紀後半にかけて発展していったdispensationalな聖書理解には、預言の「文字通り」の解釈、そういった解釈に基づく教会とイスラエルの区別など、後にディスペンセーション主義とよばれる立場に特徴的な要素が含まれていました。ただ、あくまで最大の強調はディスペンセーションの区分という点に置かれていたので、次第にこのdispensationalな聖書理解を指して、dispensationalismという言葉が生まれていったのです。

しかし、21世紀におけるディスペンセーション主義内部の動きを見ていると、ディスペンセーションの区分そのものよりも、ヴラックの「6つの本質的信念」に見られるような、解釈論・教会論・終末論に関する議論の方が活発です。

聖書神学のdispensationalな側面が強調されていた時期、聖書のストーリーラインを論じる上では、各ディスペンセーションの間における非連続性(discontinuity)が強調されていました*10。後には、その強調点がディスペンセーション主義への批判に繋がっていったりもしています。しかし現在では、ディスペンセーション主義内部でも、聖書のストーリーラインを論じる上では、非連続性を認めつつ連続性も十分に強調した形が主流となりつつあります。振りすぎた振り子が、良いバランスに戻りつつあるのではないでしょうか。

すなわち、聖書神学におけるディスペンセーションの数や区分、あるいは各ディスペンセーション間における非連続性の過度な強調といったことは、長い年月を経て沈静化してきているのです。こういった状況下で、ブレイシングのいう「一般的特徴」を持つ聖書理解、あるいはヴラックの「6つの本質的信念」を持つ聖書理解を「ディスペンセーション」主義と呼ぶのは、いかがなものなんでしょうか。この名前が、この聖書理解の特徴を正しく提示しているようには思われないのです。

これと同じことは、「契約神学」についても言えるでしょう。ディスペンセーション主義者はよく著作や論文の中で、神学的議論の相手方として契約神学を仮定するのですが、この立場もまた誕生時に最も強調していた「契約」よりは、純粋に聖書の包括的ストーリーラインを強調していく方にシフトしています。この立場がディスペンセーション主義と本質的に異なっているのは、やはり解釈論、教会論、終末論といった面についてなのです。そう考えると、「契約神学」というラベルを強調する意味もあるの? ということになっていくでしょう。

 

さて、今回の記事で言いたいことはこれだけです(笑)。別にラベル名を変えようということまでは思っていません。ここまで言ってきておいて何ですが、正直なところ、今さらラベルを貼り替えてみたところで議論が建設的になるとは思っていません。ただ月並みな言い方ですが、やっぱり大切なのは神学的ラベルよりも聖書なわけで、聖書を理解するためにそのストーリーラインを包括的に追いかけていくことが大事だと思うんですね。その上で解釈論・教会論・終末論について見解の相違があるなら、別にラベルを強調せずにその部分について論じていけばいいんじゃないの、と思うんです。

多分、ブレイシングやヴラック自身(また、実はライリーも)「ディスペンセーション」という概念を特別強調しているわけではないのに、「ディスペンセーション主義」という名前をすごく強調していることが、自分の中で引っかかってるんだと思います。

あとは、ラベルにこだわる気があんまりなくなってきたんでしょうね。ラベルに固執して色々と考えるのは疲れたのです。笑

もうこれ以上オチはないですが、今後聖書神学を考えていく上で何かヒントになりそうなので、ひとまずここでまとめておきます。

*1:D.Jeffrey Bingham and Glenn R. Kreider, eds., Dispensationalism and History of Redemption: A Developing and Diverse Tradition (Chicago: Moody, 2015).

*2:Michael J. Vlach, Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths, Revised and Updated edition (Los Angels: Theological Studies Press, 2017).

*3:こんなことそうそうあるのか? いや、意外とあるんですよ。

*4:Charles C. Ryrie, Dispensationalism, revised and expanded edition (Chicago: Moody, 2007).

*5:拙稿「ディスペンセーション主義とは何か?(4)ディスペンセーション主義の定義 - 軌跡と覚書」(2016年4月10日)

*6:Craig A. Blaising and Darrell L. Bock, Progressive Dispensationalism (Grand Rapids: Zondervan, 1993), 13–21.

*7:Vlach, Dispensationalism, 23–50.

*8:17、18世紀における終末論の発展については、以下の文献が詳しいです。William C. Watson, Dispensationalism Before Darby: Seventeenth-Century and Eighteenth Century English Apocalypticism (Silverton, OR: Lampion Press, 2015).

*9:Michael J. Svigel, "The History of Dispensationalism in Seven Eras," in Dispensationalism and the History of Redemption, 70–73. ちなみに、そのようなdispensationalな聖書理解が体系化されていく上で大きな役割を果たしたのが、一般的にディスペンセーション主義の始祖と呼ばれるジョン・ネルソン・ダービーです。

*10:ただし、連続性(continuity)が否定されていたわけではありません。たとえば「信仰と恵みによる救い」という救済論に関しては、ディスペンセーション間での連続性が認められていました。