前回、「ディスペンセーション主義とは何か?」というテーマについて、Q&A形式の簡易な記事をお届けしました。
今回はその続編というか補足編として、「ディスペンセーション主義の種類」というテーマに絞って、過去にいただいたことのある質問からQ&A形式でお届けします。
Q4:ディスペンセーション主義の種類について
Q:ディスペンセーション主義にも色々な種類があると聞いたけど、どんな種類があるの?
A:主に「古典的ディスペンセーション主義」、「修正(改訂)ディスペンセーション主義」、「漸進的ディスペンセーション主義」の3種類の考え方があるといわれています。このことについて、ちょっとだけご説明させていただきます。
まず、前回のQ2で申し上げたディスペンセーション主義の定義を確認しましょう。
ディスペンセーション主義とは、歴史的文法的解釈を適用し、イスラエルと教会の区別やイスラエルの回復を認める聖書解釈の立場である。
こういう聖書解釈の方法が「ディスペンセーション主義」という名前でまとめられ、定着していったのは19世紀後半のことでした。ですが、上記の定義にある3つの要素(歴史的文法的解釈、イスラエルと教会の区別、イスラエルの回復)以外では、ディスペンセーション主義者が一枚岩であったことはありません。たとえばイスラエルと教会の役割がどう違うのか、旧約でイスラエルに与えられた祝福はどういう形で成就するのか、歴史上のディスペンセーションは幾つあるのか、こういったことについては、歴史上、全てのディスペンセーション主義者が完全に一致したことはありませんでした。
最初にご紹介したディスペンセーション主義の3種類の考え方は、クレイグ・ブレイシング博士が1980年代終わり〜90年代初めにかけて提唱した分け方です*1。ディスペンセーション主義者全員がその分類に同意しているわけではありません。ですが、ディスペンセーション主義者でもそうでない人も、便宜的にこの3種類の分類をよく使っています。ですからここでも、その分類にしたがってご紹介したいと思います。それでとりあえずは、ディスペンセーション主義も一枚岩ではないのだなぁということがお伝えできれば幸いです*2。
(1)古典的ディスペンセーション主義
ブレイシング博士はまず、19世紀後半から1940年代までに主流であった立場を古典的ディスペンセーション主義(classical dispensationalism)と呼んでいます。「ディスペンセーション主義」と呼ばれる聖書解釈法を定着させたイギリスのジョン・ダービー、『スコフィールド引照付聖書』で有名なアメリカのC・I・スコフィールド、テキサス州のダラス神学校の創始者ルイス・S・シェーファーといった人々が、古典的〜に分類される代表的な人々です。
この立場のひとつの特徴は、行き過ぎたイスラエルと教会の区別です。たとえば、将来回復させられたイスラエル民族は地上を受け継ぐが、教会は天を受け継ぐ、といった具合です。また、教会の存在は旧約聖書には預言されていない神の計画の「挿入句」なのだ、という言い回しが非常に強調されていました。「教会は旧約聖書には預言されていない」という考え方は、後のディスペンセーション主義者にも見られます。ですが、だからといって教会が神の計画に最初からなかったというわけではありません。ですから、教会が「挿入句」なのだということを強調するのは、イスラエルと教会を区別するにしても少々行き過ぎていると思います。
他にも、エレミヤ書31:31–34で預言され、イエスが最後の晩餐の席でお与えになった「新しい契約」についても、極端な考え方が見られました。ある人々は、「新しい契約」は教会とは全く関係のない、イスラエルだけに関係する契約だと考えました。また、イスラエルと結ばれるものと教会と結ばれるもの、2つの「新しい契約」があるのだと考える人々もいました。
(2)修正(改訂)ディスペンセーション主義
ブレイシング博士による次の分類は、1950年代〜80年代後半に主流であったという修正(改訂)ディスペンセーション主義(revised/modified dispensationalism)です。たとえばアメリカはタルボット神学校のチャールズ・L・ファインバーグ、ダラス神学校のジョン・F・ウォルヴォード、J・ドワイト・ペンテコスト、チャールズ・C・ライリー、マスターズ・セミナリーのロバート・L・トーマスなどが、この立場に分類される代表的な人々です。(あ、気づけばこの人々も全員故人なんですね……。ライリーは2016年、トーマスは2017年に天に召されました。)
この立場では、古典的〜に見られた「行き過ぎたイスラエルと教会の区別」が修正されています。「挿入句」という言い回しが完全になくなったわけではありませんが、教会の登場もまた神の永遠のご計画の一部だということも充分に強調されるようになりました。また、「イスラエルは地上を受け継ぎ、教会は天を受け継ぐ」といった考え方も否定されました。
ライリーは「新しい契約」が2つあるという考え方を改めませんでしたが*3、修正〜の立場のほとんどの神学者は「新しい契約」が1つだと考えるようになりました。マイケル・ヴラック博士の言葉をお借りすれば、「教会は現在この[新しい]契約の祝福に与っているが、イスラエルは将来の千年王国においてこの契約の完全な成就を経験することになる」と考えたのです*4。
ちなみに、ディスペンセーション主義の伝統的な立場というと、この修正〜を指していることが多いです。
(3)漸進的ディスペンセーション主義
ブレイシング博士による最後の分類は、1980年代後半から現れた漸進的ディスペンセーション主義(progressive dispensationalism)です。この立場で代表的人物といわれるのは、何といっても、ダラス神学校のダレル・L・ボックおよびブレイシング*5、それからタルボット神学校の故ロバート・L・ソウシーでしょう。
この立場の名前にある「漸進的」という言葉は、救いの歴史においてディスペンセーションは変わっていくけど、それぞれの間には「漸進性」があるという主張から来ています*6。要するに、ディスペンセーションとディスペンセーションの間には断絶する要素もあるけれど、連続する要素もあるよね、その連続する要素はとても大きいよね、ということです。ディスペンセーション同士の「連続性」については、以前ご紹介したヴラック博士のブログ記事の拙訳をご参照ください。
漸進的〜では、聖書における契約(新しい契約など)が完全に成就するのは将来のことだけど、今も成就し始めているということも強調されています。契約もまた「漸進的」に成就しているということですね。
また、古典的〜や修正〜では多くの人々が、教会についてユダヤ人・異邦人に続く「第3の人類の区分」だと考えていました*7。しかし漸進的〜は、教会はユダヤ人や異邦人のような「人類の区分」ではなく、新しい契約にあって贖われた人々の共同体だということを強く主張しました*8。
もうひとつ、古典的〜や修正〜では、イエス・キリストがダビデの王座に就かれるのは将来のことだと考えていますが、漸進的〜ではこれも今成就し始めているのだと考えられています。たとえば、イエスは今天におけるダビデの王座から支配をしておられるのだ、とか*9。
以上、ブレイシング博士が提唱した3つの分類をご紹介しました。しかし、どの時代も、たとえば修正〜に分類される人同士であっても、一枚岩ではありません。たとえば修正〜のなかでも「新しい契約」が1つか2つか? を巡って見解が分かれていました。また、漸進的〜の特徴だといわれる「イエスは今天においてダビデの王座に就いておられる」という教えも、既に1950年代にドイツのエーリッヒ・ザウアーによって主張されていたことです。
ただし、上記の3分類を知っておくことは、ディスペンセーション主義に関する文献を読んでいく上で有益になるかと思います。
Q5:ディスペンセーション主義者同士の論争について
Q:ディスペンセーション主義の種類によっては、すごく激しい論争があると聞いたけど……どう考えたらいいの?
A:確かに、特に漸進的ディスペンセーション主義に対しては、修正〜の立場から物凄い反発もなされてきました。たとえば故チャールズ・ライリーや故ロバート・トーマスは、漸進的〜を痛烈に批判しています*10。また、漸進的〜のブレイシング博士も、修正〜の立場を痛烈に批判しています*11。
ですが、歴史的にディスペンセーション主義が一枚岩ではなかったことを認め、漸進的〜の登場も好意的に受け止めた上で議論を重ねていこうというポジティヴな姿勢も見られます*12。
ハーバート・ベイトマン編『現代ディスペンセーション主義における3つの中心的問題』は、修正〜と漸進的〜の各立場から(1)解釈論、(2)聖書的契約、(3)イスラエルと教会といった問題について論じられている本です*13。ここでの議論はいずれも聖書解釈についてかなり突っ込んだものですが、同時に互いへの敬意をも尊重したものになっており、読んでいて不愉快に感じるところは全くありません。
また、論争とはあまり関係ないかもしれませんが個人的に驚きだったのは、2016年に出版されたブレイシング博士記念論文集に、チャールズ・ライリーが寄稿していたことでした*14。
私自身は神学生でも神学者でもありませんし、ましてや海外での議論などは手元の僅かな文献からしか知ることができていません。ですがその僅かな情報から見る限り、多くの人々は互いに謙遜に、好意的に、聖書が何を教えているのか?ということを求めて議論を交わしているのだなぁと思っています。
Q6:私の立場について
Q:では、あなたはどのディスペンセーション主義に立っているの?
A:何とも表現し辛いのですが、あえて言うなれば、「漸進的よりの修正ディスペンセーション主義」って感じでしょうか。
私は修正ディスペンセーション主義の影響を大きく受けてきまして、今でもその基本的な考え方に同意しています。ですが、修正〜の立場から聖書を学んでいく内に、ディスペンセーション間や旧新約間の連続性、漸進性といったものを認識していくようになりました。
また、「教会」は「ユダヤ人」「異邦人」に続く新しい人類の区分である、といったことも教えられたことはありましたが、聖書から見て心底納得したことはありませんでして、純粋に「キリストを信じて贖われた者の共同体」と理解していました。
以上のようなことは、修正〜よりも漸進的〜の聖書理解に近いものがありますが、いずれも漸進的〜の文献を本格的に読む前に、聖書研究から認識していたことです。
ただし、イエスが現在ダビデの王座に就いておられるという漸進的〜の主張については、そこまで言い切れないなと思っています。漸進的〜よりも修正〜の聖書理解に近い部分もあるわけです。そういうわけで、元々修正〜の影響を大きく受けていたこともあって、「漸進的よりの修正ディスペンセーション主義」と申し上げました。
蛇足になりますが、以前、「自分は自分を育んできた修正〜につくのか、それとも修正〜の人々が批判する漸進的〜につくのか…どっちにも肩入れしたいし、どっちにも納得できないところがあるし…」と、そんなことで悩んでいた時期がありました。そんな時にヴラック博士の『ディスペンセーション主義』を読んで、次の言葉に大いに慰められたのであります。
全ての神学的見解と同様に、私たちは聖書的なものを受け入れ、そうではないものは退けるべきです。ディスペンセーション主義者として、私は全ての立場の仲間たちから多くのことを学んできました。しかし、私が全ての点において同意することのできるディスペンセーション主義神学者はいませんし、そういった陣営はありません。洞察力を身につけることが重要です。*15
*1:Craig A. Blaising and Darrell L. Bock, Progressive Dispensationalism, (Grand Rapids: Baker, 1993), 21–56.
*2:各分類の説明の構成はMichael J. Vlach, Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths, rev. ed. (Los Angeles: Theological Studies Press, 2017), 17–22に準拠している。
*3:ただし、あるセミナーにおけるアーノルド・フルクテンバウム博士の発言によれば、晩年のライリーは「新しい契約」はひとつだと認めていたようです。
*4:Vlach, 19–20.
*5:なお、ブレイシングは後にSouthern Baptist Theological Seminary教授(Joseph Emerson Brown Professor of Christian Theology)、現在Southwestern Baptist Theological Seminary副学長(Executive Vice President and Provost)。
*6:Blaising and Bock, 49.
*7:Arnold G. Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, rev. ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992), 420–76における分析を参照のこと。
*8:Blaising and Bock, 49.
*9:Ibid., 175–87. Robert L. Saucyは、イエスが天で着いておられる「神の右の座」はダビデの座だが、実際に統治を始めるのは千年王国においてであるという、修正〜とBlaising and Bockとの中間的な考え方を取っている(The Case for Progressive Dispensationalism: The Interface Between Dispensational & Non-dispensational Theology [Grand Rapids: Zondervan, 1993], 67–80)。
*10:Charles C. Ryrie, "Update on Dispensationalism," in Issues in Dispensationalism, eds. Wesley R. Willis and John R. Master (Chicago: Moody, 1994), 20–23; idem, Dispensationalism, rev. ed. (Chicago: Moody, 2007), 189–212; Robert L. Thomas, "The Hermeneutics of Progressive Dispensationalism," in Progressive Dispensationalism: An Analysis of the Movement and Defense of Traditional Dispensationalism, ed. Ron J. Bigalke, Jr. (Lanham, MD: University Press of America, 2005), 1–15.
*11:たとえば、Blaising, "God's Plan for History: The Consummation," in Dispensationalism and the History of Redemption: A Developing and Diverse Tradition, eds. D. Jeffrey Bingham and Glenn R. Kreider (Chicago: Moody, 2015), 195–218.
*12:Vlach, 99–100; Michael J. Svigel, "The History of Dispensationalism in Seven Eras," in Dispensationalism and the History of Redemption, 90–91.
*13:Harbert W. Bateman IV, ed., Three Central Issues in Contemporary Dispensationalism: A Comparison of Traditional and Progressive Views (Grand Rapids: Kregel, 1999). 未邦訳。なお、修正〜からはElliott E. JohnsonおよびStanley D. Toussaintが、漸進的〜からはDarrell L. BockおよびJ. Lanier Burnsが寄稿している。本書執筆時点において、左記4名ともダラス神学校教授であり米国福音主義神学会の年次総会中に開かれるDispensational Study Groupのメンバーである。
*14:Ryrie, "The Doctrine of the Future and the Weakening of Prophecy," in Eschatology: Biblical, Historical, and Practical Approaches: A Volume in Honor of Craig A. Blaising, eds. D. Jeffrey Bingham and Glenn R. Kreider (Grand Rapids: Kregel, 2016), 71–76.
*15:Vlach, 100.