軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

創世記1:1〜3の構成

前回:創造前カオス・ギャップ・セオリー

今回からは、創世記1:1–3を見ていきながら、ギャップ・セオリーを検証していきたいと思います。

創世記1:1–3のヘブル語本文では、各節が次のように始まっています。

  • 1節:時点を示す「はじめに」(ベレーシート)+「創造された」(完了態動詞バーラー)+「神が」(主語エロヒーム)……*1*2
  • 2節:接続詞ワウ+名詞(ワウ+「地」[ハアレツ]、ワウ+「闇」[ホシェク]、ワウ+「神の霊」[ルアハ・エロヒーム])で始まる3つの節
  • 3節:接続詞ワウ+「仰せられた」(未完了態動詞ヨメル)+「神は」(主語エロヒーム)……

これまで見てきたように、これら3節の構成の理解については様々な解釈が提唱されています。まず、1節を最初の「出来事」と理解すべきか(伝統的立場や古典的ギャップ・セオリーなど)、それとも創造の記事の「要約」と理解すべきか(創造前カオス説や要約説など)という議論があります。

次に、2節を1節の「続き」と理解すべきか(古典的ギャップ・セオリー)、1節の「状況説明」と理解すべきか(伝統的立場など)、それとも3節の「状況説明」と理解すべきか(修正ギャップ・セオリーや創造前カオス説など)という議論があります。

1節は「最初の出来事」か「要約」か

ブルース・K・ウォルトキは1:1–3; 2:4–7; 3:1の構成を比較することによって、1:1は創造の記事の「要約」であることが支持されると論じています。彼の主張によれば、3つの箇所は次のように同じ構造を持っています*3

  1. 導入となる要約の記述
    • 「はじめに神が天と地を創造された」(1:1)
    • 「これは、天と地が創造されたときの経緯である……」(2:4=2:5–7と3:1それぞれに対する導入)
  2. ワウ+名詞+動詞パターンで創造前の否定的な状態を述べる状況説明節
    • 「地は茫漠として何もなく……」(1:2)
    • 「地にはまだ、野の灌木もなく……」(2:5–6)
    • 「さて蛇は、……ほかのどれよりも賢かった」(3:1a)
  3. 継続ワウ+接頭形[未完了態]パターン*4で創造を述べる主節
    • 「神は仰せられた……」(1:3)
    • 「神である【主】は……人を形造り……」(2:7)
    • 「蛇は……言った……」(3:1b)

確かにウォルトキが述べているとおり、1:1と2:4はそれぞれのセクションのイントロダクションになっています。また、イントロダクションに続いて見られる文法的なパターンも一致しています。しかしながら、このような共通点から1:1が創造の記事の「要約」であると結論づけてしまうことにはいくつかの問題が考えられます。

まず、2:4を2:5以降の「要約」であると単純に言い切ることは困難です。2:4で「経緯」と訳されているヘブル語トーレドートは、他に「歴史」(例:5:1; 6:9)や「系図」(36:9)と訳されています。創世記で「これはXのトーレドートである」という表現は、新しいセクションに入るときのタイトルのような役割を担っています*5。ここで、それぞれのセクションの内容は、標題で言われていることから「前(将来)に向かうもの」になっているという特徴があります*6。たとえば5:1–6:8の場合、「これはアダムの歴史(トーレドート)の記録である」(5:1)という標題で始まっていますが、実際にはアダム自身の歴史ではなく、「アダム以降どういう人が生まれ出たかということから、ノアに至るまでの流れ」が語られています*7。また、11:27–25:11も「これはテラの歴史である」(11:27)で始まっていながら、実際にはテラから生まれた人々が語られ、特にアブラハムに向かって焦点が絞り込まれていきます。よって、2:4「これは、天と地が創造されたときの経緯である」は天地創造の要約ではなく、天と地が創造されてから起こった出来事、特に人の創造と歩みに注目したセクション(2:5–4:26)の標題であると考えることができます*8

一方で、1:1の場合はそれが要約であるとすれば、1:3–2:3で語られている世界の創造そのものを要約していることになります。これは、2:4の「天と地が創造されたときの経緯」が創造された舞台における人の創造と歴史の導入部になっていることとは大きく異なります。このように、1:1と2:4の役割には違いが見られるため、2:4の役割に基づいて1:1もまたそれ以降の要約であると言うことは困難です。また、1:1は「これはXのトーレドートである」という表現になっていないことから、単なる標題であると見なす必要はありません*9

なお、ウォルトキは2:4が3:1以降のセクションの導入部であるとしていますが、以上のトーレドートに基づく区分によれば、2:4は2:4–4:26というセクション全体の導入部/表題であると考えるべきです*10。また、あえて3:1の導入部を特定するのであれば、2:4よりも2:25の方がふさわしいように思われます*11

次に、1:1は2:4と異なり、完了態の主動詞を含んでいます 。C・ジョン・コリンズは、あるセクションの最初に完了態動詞が使われている場合、通常はそれに続く物語の前に起こった出来事が述べられていると主張しています*12。またヴァーン・S・ポイスレスは、特に創世記1:1と同じように書の冒頭で「時点を示す表現+完了態動詞+主語」という構成になっている例として、ダニエル1:1を挙げています*13

  • 時点を示す表現
    • 「はじめに」(創1:1)
    • 「ユダの王エホヤキムの治世の第三年に」(ダニ1:1)
  • 完了態動詞
    • 「創造された」(創1:1)
    • 「来て」(ダニ1:1)
  • 主語
    • 「神が」(創1:1)
    • 「バビロンの王ネブカドネツァルが」(ダニ1:1)

他に、エズラ1:1も創世記1:1およびダニエル1:1とよく似た構成になっています。エズラ1:1は継続ワウで始まっており、「エレミヤによって告げられた【主】のことばが成就するために」という創世記やダニエル書の冒頭では見られない要素が含まれています。しかし、時点を示す「ペルシアの王キュロスの第一年に」で始まり、その後で完了態動詞(奮い立たせた)+主語(【主】は)という構成があるという点は、創世記1:1やダニエル1:1と共通しています*14

したがって、創世記1:1は1:3における光の創造の前に起こった、「天と地」の創造という「最初の出来事」を表していると理解することが可能です。

2節の役割

ある節(clause)がワウ+動詞以外(名詞、代名詞、分詞など)で始まっている場合、その節は状況説明だと理解されます*15。特に創世記1:2のようにワウ+名詞で始まっている場合、ワウは語りの中で何らかの「途切れ」(break)をもたらす離接ワウ(waw disjunctive)として理解されます*16。よって、1–3節の語りの流れとしては、1節の後に語りが途切れて何らかの状況説明がされ(2節)、それから再び語りに戻っている(3節)と見なすことができます。

なお、古典的ギャップ・セオリーを主張するカスタンスのように2節の離接ワウを「しかし」(but)と訳す必要はありません*17。この訳は2節aの動詞ハイェターが「になった」(had become)を意味するという理解、すなわち2節aを「しかし、地は[混沌とした状態]になった」と訳すことを前提としたものです。その前提がなければ、2節の離接ワウは「さて」と読むことができます*18

ここで考えるべき問題は、2節が1節の状況説明なのか、それとも1節との繋がりを持たない3節以降の創造の働きに対する状況説明なのかということです。

創造前カオス説や要約説では、1節が創造の記事のタイトル/要約であるため、2節は3節以降に対する状況説明であると理解されています。しかし、1–2節はまず「天と地」の創造が述べられ(1節)、それから特に「地」に注目してその状態が述べられる(2節)という流れになっています。ヘブル語本文では1節の最後に「地」が置かれ、すぐ後に2節でワウ+「地」が言及されています。この流れからすると、1節で創造された「天と地」のうち、特に「地」の状態が2節で述べられていると考えるのが自然です*19

もしも1節が「天と地」の創造という「最初の出来事」ではなく、単なるタイトルや要約であるならば、語りの中にひとつの問題が生じます。「はじめに神が天と地を創造された」と要約されていながら(1節)、最初の出来事なしに既に存在していた「地」が紹介されているならば(2節)、なぜ神が「地」も創造されたといえるのでしょうか*20。最も自然な読み方は、まず「神が天と地を創造された」という「最初の出来事」が語られ(1節)、それから「地」に着目した説明が語られている(2節)というものとは考えられないでしょうか。

2節が1節のある要素に着目した状況説明であるということは、士師記8:11やヨナ3:3のように創世記1:1–2とよく似た構造になっている箇所からも支持されます*21

そこでギデオンは、ノバフとヨグボハの東の、天幕に住む人々の道を上って行き、陣営を討った。陣営は安心しきっていた。(士8:11)

ヨナは、【主】のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな都であった。(ヨナ3:3)

士師記8:11の場合は「ギデオンは……討った(ワイャク)、陣営を」(11節a)と述べられた後、ワウ+名詞(陣営)で始まって「陣営は安心しきっていた」(11節b)と言われています。創世記1:1–2と同じく、「陣営」という語の直後に、その「陣営」に関する離接ワウの状況説明が置かれています。

また、ヨナ3:3の場合は「ヨナは……行った(ワイェレク)、ニネベに、【主】のことばのとおりに」(3節a)の後、少し前に遡ってニネベに関する離接ワウの状況説明(3節b「ニネベは……非常に大きな都であった」)が置かれています。

このように、士師記8:11とヨナ3:3はどちらの箇所も、まずは完了態で理解される動詞で先行する行為が語られ、そこから離接ワウ+名詞で先行節にある要素のひとつを説明するという流れになっているのです*22

以上の例では、士師記8:11bは11節aの中の「陣営」の状況説明として、ヨナ3:3bは3節aの「ニネベ」の状況説明として理解するのが自然です。したがって、同様な構文となっている創世記1:1–2でも、2節は1節の「地」の状況説明として理解するのが自然であると考えられます。

見方によっては、2節が1節の状況説明であることと、3節の状況説明であることは矛盾しないかもしれません。実際に、2節で「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた」という状況を背景にして、3節で「神は仰せられた」のです*23。それでも、2節は1節で言及されていた「地」に着目した説明になっており、1–2節の繋がりは否定されません。

1–3節と創造の六日間

1節を「最初の出来事」、2節を「状況説明」と理解する場合、1–2節の内容が3節以降の創造の六日間とどのように関わっているかという問題が生じてきます。伝統的立場では基本的に、1–2節が六日間(特に第一日)に含まれるものと理解されています。一方で、ソフト・ギャップ・セオリーは1–2節と六日間の間に長期間のギャップを想定しています。

伝統的立場のように創世記1:1–3全体を第一日に含める理解は、古代ユダヤ教文献に見出されます。旧約聖書外典エズラ記(ラテン語)には次のような記述があります。

……主よ、あなたは創造の初め、第一日目に『天と地は成れ』と語られ、御言葉はその業を果たしました。その時、霊が漂い、闇と静寂が辺りを覆っていましたが、人の声はまだあなたによって造られていませんでした。その時あなたは、あなたの業が明らかになるように、一条の光があなたの宝庫から射し込むように命じられました。(エズ・ラ6:38–40共同訳)

また、バビロニア・タルムードにも次のような記述があります。

ラビ・イェフダーは次のように言った。創造の第一日に創造された10のものは次のとおりである。天と地、トーフーとボーフー、つまり形なく空しいもの、光と闇、風と水、日の長さと夜の長さ。(ハギガー12a私訳*24

以上のような記述は、著者たちが創世記1:1における「天と地」の創造、2節の状況、3節における光の創造のいずれをも創造の第一日に含めて考えていたことを示しています。

そして、旧約聖書では出エジプト20:11で次のように言われています。

それは【主】が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。(出20:11)

伝統的立場のように1節の「天と地」の創造を最初の出来事(無からの創造)と理解するならば、万物の創造が「六日間で」行われたという記述に基づき、1節の創造は第一日に行われたと解釈される必要があるでしょう*25

次回は創世記1:1の「天と地」の意味について、その表現手法に着目しつつ考えてみたいと思います。

balien.hatenablog.com

*1:特に断りがない限り、聖書引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会による。

*2:1:1「はじめに神が天と地を創造された」は、新改訳および共同訳において独立節(independent clause)として訳されています。本節は「神が天と地を創造されたとき……」という従属節(dependent clause)と見なされることもあります(例:W. Gunther Plaut and David E. S. Stein, ed., Torah: A Modern Commentary, rev. ed. [New York: Union for Reform Judaism, 2006], 19)。この見解に対する批判や独立節としての翻訳の論拠については以下をご参照ください。Gordon J. Wenham, Genesis 1–15, WBC (Waco, TX: Word, 1987), 11–12; Bruce K. Waltke, “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅲ: The Initial Chaos Theory and the Precreation Chaos Theory,” Bibliotheca Sacra 132 (July–September 1975): 222–25; Kenneth A. Mathews, Genesis 1:1–11:26, NAC (Nashville, TN: B&H, 1996), 137–39; C. John Collins, Genesis 1–4: A Linguistic, Literary, and Theological Commentary (Phillipsburg, NJ: P&R, 2006), 50–51.

*3:Waltke, “Creation Account in Genesis 1:1–3: Part Ⅲ,” 226–27.

*4:ワウに動詞が続く場合を「継続ワウ」(waw consecutive)といいます。「聖書ヒブル語の動詞文において,動詞に付された接続詞Waw(ו)が特別の機能を持つことがあり,複数の行為が一つの連続する文の中で継続する時に多く用いられる。」左近義慈編著『ヒブル語入門』改訂増補版(教文館、2011年)100頁。参照:前掲書、89, 100–1頁。

*5:創2:4; 5:1; 6:9; 10:1; 11:10, 27; 25:12, 19; 36:1, 9; 37:2。参照:Mathews, Genesis 1:1–11:26, 26–35; Collins, Genesis 1–4, 36.

*6:津村俊夫『創造と洪水』聖書セミナー13(日本聖書協会、2006年)22–23頁。

*7:前掲書、22頁。

*8:Collins, Genesis 1–4, 40, 104; Vern S. Poythress, “Genesis 1:1 is the First Event, Not a Summary.” Westminster Theological Journal 79/1 (Spring 2017): 119.

*9:Ibid.

*10:Ibid.

*11:Ibid., 121.

*12:Collins, Genesis 1–4, 51–52.

*13:Poythress, “Genesis 1:1,” 100–1.

*14:Ibid., 101.

*15:Weston W. Fields, Unformed and Unfilled: A Critique of the Gap Theory (Green Forest, AR: Master Books, 2005[1976]; reprint), 82; Mark F. Rooker, “Genesis 1:1–3: Creation or Re-Creation? Part 1,” Bibliotheca Sacra 149 (July–September 1992):317; Mathews, Genesis 1:1–11:26, 139–40; Poythress, “Genesis 1:1,” 99.

*16:Rooker, “Genesis 1:1–3, Part 1,” 317. 参照:J. Paul Tanner, Hebrew Syntax: A Quick-Reference Manual for He-brew Exegesis, rev. ed. (N.p.: J. Paul Tanner, 2020), 55–57; Fields, Unformed and Unfilled, 82; Wenham, Genesis 1–15, 15; Waltke, “The Creation Account in Genesis 1:1–3 Part Ⅱ: The Restitution Theory.” Bibliotheca Sacra 132 (April–June 1975): 138 n. 7.

*17:Arthur C. Custance, Without Form and Void: A Study of the Meaning of Genesis 1:2, 2nd ed. (Windber, PA: Doorway Publications, 2012), 57, 86–87, 176–77.

*18:たとえばCSB, NET, NIVでは2節のワウが"Now"と訳されています。参照:Derek Kidner, Genesis: An Introduction and Commentary, TOTC (Downers Grove, IL: InterVarsity, 1967), 48.

*19:Wenham, Genesis 1–15, 13; Poythress, “Genesis 1:1,” 99.

*20:Wenham, Genesis 1–15, 13.

*21:Kidner, Genesis, 48; Rooker, “Genesis 1:1–3, Part 2,” 416.

*22:Zoschke, “Critique of the Precreation Chaos Gap Theory,” 64では別の例としてゼカ3:3も挙げられています。

*23:Wenhamは伝統的立場を採用しているものの、創1:2を3節の状況説明と見なしています(Genesis 1–15, 15)。また、要約説を採用している津村は次のように述べています。「創世記一章一節から三節までを見ますと、三節の始めに「バイクトル」(wayqtl)という、接続詞w+未完了形、即ち、「語りのテンス」が初めて出てきます。最近の談話文法(discourse grammar)からすると、一節と二節は、何か事が起こったということをいっているのではなくて、事が起こる三節の前の準備段階なのです。」(『創造と洪水』72頁)

*24:なお、ハギガー12aにおいて創1:2のトーフー・ワ・ボーフーである地が神の創造物であると明言されていることは、注目に値する事実です。

*25:Sailhamerは創1:5の「第一日」が“the first day”(yôm riʾšôn)ではなく“one day”(yôm ʾeḥād)と表されていることに着目し、著者がその表現を選んだ理由は「その日が3節で始まったという考え方を避けるため」だったのかもしれないと述べています。John H. Sailhamer, “Genesis,” in EBC-R, 1:58. 創1:5の表現を「第一日」(the first day)と読むことができるという主張についてはCollins, “The Refrain of Genesis 1: A Critical Review of Its Rendering in the English Bible,” The Bible Translator 60/3 (July 2009): 121–31をご参照ください。