前回の記事で、米国Master's Seminaryの神学教授であるMichael J. Vlach博士の新著He Will Reign Forever: A Biblical Theology of the Kingdom of God (Silverton, OR: Lampion Press, 2017)を紹介しました。
Vlach博士が本書で主張していることの1つは、神の御国に関する理解は聖書に示されている物語の流れ(ストーリーライン)に直結しているのであり、それ故に御国についてよく学ぶ必要がある、ということです。もっと簡潔に言えば、聖書を理解する上では神のご計画を学ぶことが重要だ、ということです。
神学的立場によって様々な聖書のストーリーラインが提示されていますが、私はVlach博士の千年期前再臨説的なストーリーラインに同意しています。そのようなストーリーラインが要約されて紹介されている、博士自身によるブログ記事がありました。
Vlach博士のブログでは他にも様々なテーマについて話題提供がされており、大変参考になります。 また、ご本人からいくつかの記事を翻訳して紹介する許可をいただきました。そこで、これからは度々、近年流行の神学的議論において有益であると思われる&He Will Reign Foreverの紹介にも繋げられるような記事をご紹介していきたいと思います。
トピック
今回ご紹介する記事は"What Are the Most Important Differences between Dispensationalism and Covenant Theology?"(ディスペンセーション主義と契約主義神学における最も重要な違いは何か?)です。このタイトルから分かるように、記事自体のテーマは、ディスペンセーション主義と契約主義という2つの聖書解釈体系における相違点であります。
これは従来数多くの文献で論じられているテーマであり、博士自身が述べている通り、単純な問題ではありません。たとえば、ディスペンセーション主義も契約主義も、もはやそれぞれ一括りの神学的ラベルの下では論じられないくらいに多様化しています。そのような問題について、博士は重要な相違点はそれぞれの「解釈学」と「ストーリーライン」であると主張しています。
聖書の字義的解釈(博士はこのアプローチをディスペンセーション主義として一括りにしています)を前提として論じられている聖書のストーリーラインを理解するためには、これはとても有益な記事だと思います。字義的解釈に基づいた聖書のストーリーライン理解を発展させていくことは、昨今の神学的流行に倣えば、字義的解釈による物語神学(あるいは、物語に着目した、字義的解釈による聖書神学)であるとも言えるでしょうか。
(※)なお、本文中の太字は原文における斜体強調部を示しています。また、脚注は訳者による補足であります。
ディスペンセーション主義と契約主義神学における最も重要な違いは何か?
What Are the Most Important Differences between Dispensationalism and Covenant Theology?
過去2世紀に渡って、ディスペンセーション主義と契約主義神学は福音主義における神学的な競争相手として展開されてきた。どちらも豊富な伝統と優秀な神学者を擁している。それぞれの神学体系を擁護するための多くの著作について、議論の大部分は友好的であった。しかし、ディスペンセーション主義と契約主義を隔てている問題とは、実際は何なのだろうか。
以下で論じられているのは、これら二つの陣営における重要な相違に関する筆者の見解である。これらの体系に関する問題は多く、複雑である。私は重要な分野の多くを扱うことができていない。だが、以下で示されているのは二つの神学体系の最も根本的な違いであると私が考えていることの簡潔な要約である。
しかし、はじめに私は鍵となる違いではないことについて、いくつか意見を提示したい。重要なことは、福音はディスペンセーション主義と契約主義神学を分け隔てる問題ではないということである。どちらの陣営も、救いは信仰のみにより、イエス・キリストの内に見出されることができると主張している。福音に関するこの主張は称賛されるべきだ。これらの体系の間に存在する違いが何であれ、福音はそうではない。ディスペンセーション主義者と契約主義者はキリストにあって兄弟なのである。
次に、私の見解では「経綸 dispensations」に関する問題は根本的な違いではない。ディスペンセーション主義は経綸という概念と密接に関連させられているため、中には驚かされる者もいるかもしれない。しかし、契約主義者とディスペンセーション主義者はどちらも、(救いは常に恵みと信仰によるにもかかわらず)神は歴史を通して時代により異なる方法で働かれることを認めている*1。ディスペンセーション主義者はしばしば経綸に関する問題により多くの労力を注いでいるが、私の意見では、この問題は最も重要な要素ではない。二つの陣営は経綸の基準や数について見解を異にしているが、経綸に関する信条は決定的な問題ではない。
また、契約主義における諸契約も最も重要な問題ではない。伝統的に、契約主義では3つの契約が主張されてきた。第一に贖いの契約、第二に業の契約、そして最後に恵みの契約である。しかし、契約主義者自身がこれらの契約については同意しておらず、これらのうち1つか2つの契約を否定している者もいる*2。その上、彼らはこれらの契約が何と呼ばれるべきかということについても常に同意しているわけではない。また、ディスペンセーション主義者の中には、ディスペンセーション主義者でありつつ3つの契約の1つもしくは全てを認めている者もいる.">*3。よって、私は契約主義における諸契約が二つの体系を分ける主要な問題だとは思っていない。
では、経綸と諸契約が二つの陣営における違いの核心ではないとしたら、何が主要な違いなのだろうか。私の見解では、その答えとなるのは二つの問題──解釈学 hermeneuticsとストーリーライン storylineである。
解釈学
解釈学は聖書解釈の原則を扱っている。ディスペンセーション主義者は、一貫した歴史的文法的解釈法もしくは字義的解釈法を、終末論(終末時代)や民族的イスラエルに関連した旧約聖書の箇所も含む、全ての聖句に適用することを認めている。この姿勢はイスラエルの土地、神殿、エルサレムなどに関わる聖句の字義的理解も含んでいる。ディスペンセーション主義者は、霊感された聖書著者本人が意図した通りに旧約聖書の預言、約束、そして契約が成就されなければならないと認めている。聖書に記された物理的そして民族的[もしくは国家的 national]な約束の非字義的もしくは霊的成就はない。また、新約聖書が旧約聖書にある約束と預言を再解釈したり、超越したり、変化させたり、もしくは霊化 spiritualizeさせたりすることもない。ディスペンセーション主義では、聖書の意味は読んだままその通りなのである。聖書のストーリーライン、また契約や預言の詳細の重要性を消したり超越したりするような、隠れた予型的軌跡や正典的発展はない。歴史的文法的解釈法は聖書に予型を見出すが、ディスペンセーション主義において、聖書のテキストの明白な意味を否定するような予型論的解釈という概念は受け入れられていない。
モーセの律法がより素晴らしい新しい契約の影であるというような場合はあるものの(ヘブ10:1)、ディスペンセーション主義者は旧約聖書に記されていることの全てが影であるとは信じていない。イスラエル、イスラエルの土地、神殿、エルサレム、国家、被造物の回復などの約束を含む契約に関しては影ではない。こういった要素を含んでいる約束は、宣言された通りに成就されなければならない。それは、メシアであるイエスは全ての神の約束を成就させるお方だからである(IIコリ1:20)。
ディスペンセーション主義者は、ある聖句の第一義的な意味はその聖句自体に見出されるのであって、他の聖句において見出されるのではない、という「聖句の優先性 passage priority」を保持している。ディスペンセーション主義者は旧約か新約のどちらかがより優位であるとは信じていない(新約はより完全なものであるにも関わらず、である)。彼らは、旧新約のそれぞれの聖句の完全性が、その意味が他の聖句によって超越されることなしに保たれているものと考えている。新約聖書はより新しい啓示を提示しているが、その啓示が既に旧約聖書にある聖句の意味と矛盾したり、[旧約の意味を]否定したりすることはない。したがって、ディスペンセーション主義者は、ある聖句が他の聖句を変化、超越させたり、もしくは再解釈したりすることはなく、全ての聖句は他の聖句と調和しているものと信じている。
契約主義者もまた聖書の多くの分野における歴史的文法的釈義を認めている。しかし彼らは、聖書のある分野──特に旧約聖書におけるイスラエル民族に対する物理的・民族的約束を含む箇所については、予型論的 typologicalまた霊的 spiritual 解釈の適用が必要であると信じている。旧約聖書の物理的・民族的約束は、偉大な新約聖書の実体(すなわち、イエスと教会)によって超越された影であると頻繁に見なされている。
契約主義の解釈法は、「新約聖書の優位性 New Testament priority」という概念と密接に関係している。これは、新約聖書について、旧約聖書を解釈さらには再解釈するためのレンズと見なす概念である。この概念は旧約聖書から新約聖書への移行が影から実体への移行であるとする理念と合致している。よって、旧約聖書における物理的・民族的約束は、イエスと教会において成就した影・予型と見なされるのである。Kim Riddlebargerが記しているように、「もし新約聖書の著者たちが旧約聖書の預言を非字義的な意味で適用することによって霊化しているとしたら、旧約聖書の聖句は新約聖書の光の下で解釈されなければならないのであり、その逆はない」(Kim Riddlebarger, A Case for Amillennialism, 37*4)。こういった主張に従えば、「イスラエル」や「神殿」といった概念について一度でもイエスにおける成就が見出されれば、それらが将来字義的に成就することを期待する必要はない。
端的に言えば、二つの陣営における違いの多くは、我々は旧約聖書の契約における物理的・民族的約束をどれほど字義的に読めばいいのかということに関係している。ディスペンセーション主義者はそれらが未だ成就していないとしても、必ず成就しなければならないと見なしている。契約主義者たちはしばしば、それらがイエスにおいて成就したものであり、字義的に成就する必要のない影であると見なしている。
ストーリーライン
解釈学に加えて、他にディスペンセーション主義と契約主義における主要な違いと言えるのは聖書のストーリーラインである。一般的にこれに関する議論は旧約聖書の約束と契約の性質、神のご計画におけるイスラエルのアイデンティティと役割、教会のアイデンティティと役割、イエスの初臨において成就した事柄と再臨において成就する事柄といった重要な諸問題を含んでいる。
しかし、私はストーリーラインに関する主要な相違点は以下の2点であると考えている。(1)神のご計画におけるイスラエル民族の役割。(2)神の御国の計画において、現在の世の後、しかし永遠の御国の前に中間的な王国*5が存在するかどうか。
イスラエルに関して、契約主義ではイエスこそ真のイスラエルであり、旧約聖書におけるイスラエル民族への約束はイエスにあって成就した影であると理解されている。そして異邦人も含む全ての信者がキリストと一つにされるとき、彼らは「イスラエル」にも加わることになる。これは「イスラエル」という概念が異邦人も含めたものへ広がっていることを意味している。よって、イエスにある教会は新しい/真のイスラエルであり*6、御民に対する神のご計画の最高点なのである。また、契約主義者はイエスの統治の「未だ」という側面を認識していながらも、旧約聖書の約束と契約が初臨において成就したことを非常に強調する傾向にある。多くの契約主義者にとって、イエスのダビデ的/千年王国的統治および聖徒たちの統治*7は天において今起きていることである。よって、我々は現在イエスのメシア的王国にいるのである。また、旧約聖書における契約の約束は現在ほとんど成就している。したがって、今が[約束の]成就とイエスの統治の時代であるが故に、将来イエスが地上を統治される必要はない*8。
一方ディスペンセーション主義においては、真のイスラエルとしてのイエスのアイデンティティと役割はほめたたえられつつも、この真理がイスラエル民族の非重要性を意味しているわけではない。イスラエルに対する神のご計画は、民族が奉仕の役割を担うということや、「まことのイスラエル人 true Israelite」──メシアであるイエスをも含んでいる。まことのイスラエル人としてのイエスのアイデンティティは、イザヤ書49:3–6が教えているようなイスラエル民族の回復を意味している。諸国民への奉仕とリーダーシップという使命が果たされることは、常にイスラエル民族に対する神のご計画であった(創12:2–3;申4:5–6)。イスラエルは旧約聖書においてこの使命に失敗した。しかし、メシアであるイエスの下で、国々に及ぶ来たるメシア的王国において、イスラエルは諸国民への奉仕とリーダーシップという運命を果たすことになる(イザ2:2–4)。来たるメシア的/千年王国には諸国が存在するため、イスラエルがその時代──メシアであるイエスの下で、諸国民の間で民族としての役割を持っているということに驚くべきではない。民族的イスラエルは未だ重要である。そのため、教会が神のご計画において民族的イスラエルを超越した、もしくは置き換えた新しいイスラエルであるということは事実ではない*9。教会はこの時代において福音と御国を宣言するための器であるが、イエスが再び来られるとき、イスラエルは未だ民族としての役割を保持しているのである。また、今の時代の教会も諸国民に対するイエスの統治に参与することになる(黙2:26–27;3:21)。
契約主義者とは異なり、ディスペンセーション主義者は「イスラエル」という概念が異邦人も含んだものに拡張しているとは信じていない。その代わり、「神の民」という概念はイスラエル人の信者と共に異邦人信者を含むものへ広がっているものとされている。全ての信者がイスラエルになるということが神のご計画なのではない。神の民においては多様性が存在している。神の民という概念は、イスラエル人と異邦人の双方を、彼らの民族的アイデンティティが喪失してしまうことなしに含んでいる。永遠の秩序 the Eternal Stateにおいても、神の民は「諸国の民」として言及されているのである(黙21:24、26)。
ディスペンセーション主義によれば、聖書のストーリーラインにおいてさらに重要なことは、最後のアダムでありメシアであるお方が神の栄光のために地上を見事に統治されるという、来たるべき地上的王国の必要性である。地上に支配が及ぶ理想的な王国は実現しなければならない。創世記1:26–28において、神はアダムと人類に対し、神のために地上を統治するという役割を課せられた。しかし、ヘブル人への手紙の著者がヘブル2:5–8で認めているように、人類によるこのような王国は未だ成就していない。最初のアダムが失敗したために、御国における最後のアダム(イエス)による理想的な統治が行われる必要がある。したがって、イエスの地上的王国が実現されなければならないのである。この統治は諸国を含んでおり、メシアはこの時代に御国を統治するための器としてイスラエルを用いられるのである。したがって、イエスがイスラエルを器として諸国民を統治される地上的王国の成就は、聖書のストーリーラインに関するディスペンセーション主義的理解においては必要不可欠なのである。
結論
ディスペンセーション主義と契約主義神学については、他にも論じられるべき重要な違いが沢山ある。しかし、これまで述べてきたことは、[両陣営の]相違点の核心である。ディスペンセーション主義者と契約主義者は、解釈学と聖書のストーリーライン──特に、神のご計画におけるイスラエルの役割と、メシアの地上的王国が成就する必要性に関係したストーリーラインの理解──について意見が異なっているのである。
*1:啓示が進展する段階としての経綸 dispensationsという概念自体は、エイレナイオスのような初期教会教父の時代から既に見られる(フスト・ゴンサレス『キリスト教神学基本用語集』鈴木浩訳[教文館、2010年]85頁)。ニカイア公会議以前の初期教会教父たちにおける経綸理解については、Larry V. Crutchfield, "Rudiments of Dispensationalism in the Ante-Nicene Period Part 2: Ages and Dispensations in the Ante-Nicene Fathers," Bibliotheca Sacra, Vol. 144 (1987), 377–99を参照のこと。また、自ら契約神学を採用していることを認めるラッドは、経綸という概念だけで人をディスペンセーション主義者かどうか判断してしまっては「すべての聖書研究者はディスペンセーション主義者になってしまう」と批判している(ジョージ・エルドン・ラッド『終末論』安黒務訳[いのちのことば社、2015年]8頁)。
*2:たとえば、Steve Lehrer, New Covenant Theology: Questions Answered (n.p.: Steve Lehrer, 2006), 37–41を参照。また、契約理解などがさらに発展させられている例としては、以下の文献を参照のこと。Stephen J. Wellum and Brent E. Parker, eds., Progressive Covenantalism: Charting a Course Between Dispensational and Covenantal Theologies (Nashville, TN: B&H Publishing, 2016); Peter John Gentry and Stephen J. Wellum, Kingdom Through Covenant: A Biblical-Theological Understanding of the Covenants (Wheaton, IL: Crossway, 2012)
*3:Vlach自身は元記事のコメント欄において、このような立場を取るディスペンセーション主義者の例として以下のブログ記事を紹介している。Matthew Allen, "Does Genesis 2:15-17 Teach A Covenant Of Works?," <https://bible.org/article/does-genesis-215-17-teach-covenant-works>.
*4:より詳細な文献情報は以下の通り。Kim Riddlebarger, A Case for Amillennialism: Understanding the End Times (Grand Rapids, MI: Baker, 2003)
*5:これは後に示されるとおり、現在の世や永遠の御国とは区別される地上的な千年王国(あるいはメシア的王国)があるかどうか──すなわち、千年期前再臨説 the premillennialismが支持されるかどうかという問題である。
*6:このような主張については、以下を参照のこと。ラッド『終末論』30頁;George Eldon Ladd, A Theology of the New Testament, ed. Donald A. Hagner, rev. ed. (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1993), 584. また、以下の文献は契約主義に基づいたものではないが、同様なイスラエル論が見られる。N. T. Wright, The New Testament and the People of God (Causton Street, London: Society for Promoting Christian Knowledge, 1992), 457-58;スコット・マクナイト『福音の再発見─なぜ“救われた”人たちが教会を去ってしまうのか』中村佐知訳(キリスト新聞社、2013年)44–46頁
*7:ここにおける「聖徒たちの統治 the reign of the saints」とは黙20:4(また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった)への言及であると考えられる。
*8:契約主義者にもイエスによる将来の地上的統治(千年王国)を認めている者は多い。しかしながら、契約主義における主流の終末論は、現在の世と永遠の秩序の間に地上的王国が挿入されることを否定する無千年期説 Amillennialismである。
*9:こうした考え方は以前は置換神学 replacement theologyと呼ばれていたが、現在はsupersessionism(超越主義)あるいはfulfillment theory/theology(成就神学)などと呼ばれている。しかし、これらの考え方はイスラエルの民族的役割という概念を教会の性質として見出している点で本質的に同じである。詳細な議論はVlach, Has the Church Replaced Israel?: A Theological Evaluation (Nashville, TN: B&H Publishing, 2010), 9–17を参照のこと。また、McKnightは成就神学のような考え方が超越主義に分類されることを認めている。Scot McKnight, "NT Wright and the Supersessionism Question: What did Paul do?," Patheos (Oct 15, 2013), accessed Mar 21, 2017.