軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

私の読書(6)正宗白鳥『内村鑑三─如何に生くべきか─』

正宗白鳥内村鑑三・我が生涯と文学』(講談社、1994年)

この前は若きキリスト者学生会主事らによる『生き方の問題なんだ。』を取り上げたが、訳あって正宗白鳥という作家の紹介から記事を始めた。最後の方でも白鳥に言及した。そうした訳のひとつは、白鳥が自身の内村鑑三論に「如何に生くべきか」という副題をつけていたからだった。『生き方の問題なんだ。』に手を出したのは、内村と白鳥という2人について思いを巡らす中で、この「如何に生くべきか」という問題を自分にも引きつけて考えようと思ったからだった。

十代の頃から「如何に生くべきか」を追い求めて、内村鑑三らを通してキリスト教に近づき、離れ、また内村に近づき……ということを繰り返してきた白鳥の人生は、とても興味深い。しかも彼が繰り返し近づき離れていったのは、聖書をそのままに信じていく福音主義キリスト教だった。「如何に生くべきか」を問うて一人の福音主義者である内村鑑三から、また聖書そのものから、白鳥はこの問題をどう考えていったのだろう。

正宗白鳥の名を知ったのは、例の如く遠藤周作の著作からだった。だから自分の読書について書こうとすると大体において遠藤に触れざるを得ないのだが、私の読書は一にも二にも遠藤周作から始まってしまったのだから、仕方がない。彼のいくつかのエッセイに白鳥の名が出ているのを見て、興味をそそられ読んでみたいと思ったものだが、普通の書店に行ったって白鳥の著作を探し出すのは難しい。それどころか、神田の古本屋でも白鳥は少ない。少しずつ未読のものを見つけては、手当たり次第に読んできた。今ならAmazonで探せば全集でも一冊当たりそれなりに安い値段で見つかるし、青空文庫でいくつかの小説とエッセイを無料で読めるのだが、古本屋でも珍しくなっているとなると、白鳥は忘れられつつあるのかなぁと寂しくなる。

遠藤は批評家・小林秀雄の絶筆について追悼文や幾つかのエッセイで触れているが、その絶筆が「正宗白鳥の作について」という連載記事だった。『私の愛した小説』という長編エッセイの中でも、遠藤はこの絶筆に触れ、小林秀雄が書こうとしていたテーマは「あの有名な白鳥臨終の改宗の問題だった」と言っている。

周知のように若い頃、洗礼を受けてその後に棄教した白鳥が死の数日前に植村環にむかってアーメンと言った。そのアーメンが病気で混濁した状態で言ったのか、それとも彼の本心からの声であるのかをめぐって、しばらくの間、文壇で論争があったものだ。

白鳥は「ニヒリスト(虚無主義者)」とか「懐疑者」などと表現されることが多い。彼は小説にしても評論にしても、非常に醒めた目で物事を淡々と描写していく。彼は十代の頃キリスト教に興味を持ち、内村鑑三に感化され、植村正久から洗礼を受けるに至った。しかし、その後内村からもキリスト教そのものからも離れていく。いわゆる「棄教」後、明治37年剣菱というペンネームで読売新聞に発表された「論語とバイブル」という小品がある。ここで白鳥は「茲(ここ)に論語、聖書の中より二三節を抜摘して、公平なる批評を加えて、孔子や耶蘇が何(ど)れ程利口な事をいったか研究して見よう」と述べ、聖書については山上の垂訓に言及する。曰く、「山上の垂訓は耶蘇の道徳観を述べ尽したのであるが、不条理の点が多い、第一『貧しき者は幸なり。』とは会得出来ぬ言だ。自殺するのも、人殺しをするのも、泥棒をするのも貧乏の結果たることが多い。」また曰く、「姦淫の訓戒も人間固有の性に背いている。」そして論語にも言及した上での結論は、「畢竟(ひっきょう)論語もバイブルも吾人が恐れ入るにも当らない凡書である」というものである。

こういう醒めた目で見ているかと思えば、よく読むとこの中にも聖書への思慕が何となく表れているから面白い。白鳥は山上の垂訓に対する考察を「全章只一つ吾人の気に入る文句は、『明日は明日の事を思い煩え、一日の苦労は一日にて足れり。』と今日主義、酔生夢死主義を鼓吹した事である」と結んでいる。この「明日は明日の事を思い煩え、一日の苦労は一日にて足れり」というマタイ6:34の句は、白鳥の心に余程深く刻まれているらしく、戦後の『内村鑑三雑感』でも「有り難いお言葉である。……如何に生くべきかの態度をこの言葉によって極めるのもいゝかも知れぬ」といっている。それから、彼は「論語に至っては世にも稀めずらしき平々凡々、砂を噛むが如き書物である」が、「新旧全書共に眠気醒しにならんでもない」と、読み物としては論語よりも聖書に惹かれるのだと言う。後々も聖書やキリストから離れ切れず、遂には『内村鑑三』などを書き、「アーメン」と言って死んでいったという点から読み直すと、彼の屈折した聖書への思慕が感じられて面白いのである。

こういうように、白鳥の言っていることはどことなく捉え難い。たとえば文学などについて見てもそうなのである。戦後文学への展望を語る『我が生涯と文学』(昭和21年)などでは、「文化が今後の新日本建設に当って重要視されるとすると、文学も軽んずべきものではないに違いない」と言いつつ、読めども読めども「文学とは何か」が見えてこない。白鳥自身がそれを悩み、考え続けているのだ。そう思っていると、昭和23年の小林秀雄との対談「大作家論」(小林秀雄全作品第16巻所収)では、「文学って、それは何か知らんけどな、……僕は文学なんかどうでもいい」などと言うのである。彼は『我が生涯と文学』の中で「戦争と自分との関係」について、「あゝも考えられこうも考えられ、一方的の解決が下されないのである」と言っているが、おそらくこれが、文学であれ、キリスト教であれ、彼の内面の真実を表している言葉なのだろう。彼は文学について考えてみようと筆を取っても、「あゝも考えられこうも考えられ、一方的の解決が下されない」。それから、自分が「如何に生くべきか」を考えようと内村鑑三に近づいたり聖書に戻ってみたりしても、「あゝも考えられこうも考えられ、一方的の解決が下されないのである」。

そう、『内村鑑三──如何に生くべきか──』とその続稿と言うべき『内村鑑三雑感』を読むと、まさに白鳥が「ああも考えこうも考え」ている様がありありと浮かんでくる。内村鑑三に惹かれつつ、彼が人間的には凡人的だったと言ってその具体例を次々と挙げていき、扱き下ろす。かと思えば、また惹かれていって、内村鑑三が彼に与えた影響とは何だったのか、内村があれだけのめり込み、白鳥自身をも捉えて離さない聖書とは何なのか、それを受けて私は「如何に行くべきか」と考え続ける。2つのエッセイの中で、白鳥は延々とそれを繰り返している。

白鳥は、内村が本格的に聖書研究に打ち込んでいった『聖書之研究』の発刊前にキリスト教から離れていっているので、このエッセイを書くにあたって初めて本格的に読んだのだという。それで彼が惹きつけられたのが、内村が再臨待望運動にかけていた情熱と、キリストの再臨をかくも熱心に信ずるというその信仰だった。

ところが、今度全集によって、彼の「基督再臨」説や、「肉体復活」説などを読み、そこに、彼に対して新たに新鮮な感じを抱くようになったのである。彼の非戦論なんかよりも、この方が私には魅力があるのである。私が内村のこれ等の説に共鳴しようとすまいと、彼がそれを生存中の大問題としたことに、私は重要な意義を認めようとするのである。如何にして生くべきか、或いは如何にして死すべきかを、それを機縁として私は考えるのである。

しかし直後、彼は再臨説などというのは「感激性の強い内村」の「好みにかなったような夢」だという。「夢物語」なのだと。それで、再臨説が荒唐無稽だということを強調しながら、「近年勃興の雑駁な宗教の唱導する怪異な現象に魅惑される或る種の近代人も、基督の再臨なんかには何等の同感をも寄せないだろう」と述べる。……それでも彼は、再臨信仰の本質を見抜いていた。

しかし、人間救済のために十字架に上りし基督を信じる以上は、再臨を信ずるのはあたり前の事で、奇矯でも何でもないのである。根本の一つを信ずれば聖書全体がそのまゝに信じ得られるのである。それを信じ了せないような薄弱な信仰なら、一そ一切を信じない方が、せいせいしていていゝようなものだ。内村は基督再臨説と共に聖書無謬説を信じていた。彼が科学的知識の所有者であるにかかわらず、それ等の説を信じたのが世間には不思議に思われ、また彼の所説に権威あらしめたのであろう。しかし、彼の科学知識だって高の知れたものであろう。彼ばかりではない、世界の大科学者の知識だって高の知れたものであろう。聖書を全部信ずるのを無智の人と見下すほど、真の知能の傑れた人はないのではあるまいか。

そして、またもや再臨説が「夢」であると言いながらも、彼はやはり再臨説を素直に信じる単純な信仰への魅力から離れられない。「しかしながら私は、基督再臨や肉体復活にしがみついて、その信仰から離れまじと努力している一人の狂熱的信者の心境には、或る種の同感を寄せ共鳴を覚えるのである。人類にはそういう要求があるのだ。いつの頃からか、人類はそういう要求を心に起したのである。」

なぜ白鳥は、「夢物語」と思えるような再臨説と、それを熱狂的に信ずる内村の生き方に惹かれていったのか。『内村鑑三』などを読む限り、それは、クリスチャン流に表現すれば、彼が人生への平安──生きることへの平安を求めていたからなのだろう。幼き日に聞かされた仏教的地獄絵図から、彼は漠然とした死への恐れを知った。その死への恐れは、彼をキリスト教へと向かわせた。

白鳥が以上のような堂々巡りをまさに生涯に渡って繰り返していたのは、何とかして平安を得たかったからなのかもしれない。事実彼は、『文壇的自叙伝』(昭和13年)の中で、キリスト教を離れてみても平安が得られなかったことを書いている。曰く、「学校卒業後、基督教を放棄してこころがのびのびしたことは事実だが、一度少年期に強烈に心に浸み込んだものは、完全に拭い取れないものらしく、夜半目醒めた時なんかに、暗闇のなかにいるような手頼りなさを覚えることもあったのだ」。またもや聖書への姿勢に目を向けてみても、「明日の事を思い煩うなかれ、一日の苦楽は一日にて足れり」というマタイの聖句に戻り、「如何に生くべきかの態度をこの言葉によって極めるのもいゝかも知れぬ」と言いつつ、その次の段落では「『人生如何に生くべきか』は、私などは聖書を読んでも、一つに徹底して決し得られないのである」と結ぶ(「内村鑑三雑感」)。しかしそれでも、彼は何とかして平安を得たかった。だからその後も彼は死ぬまで聖書のことを考えてそこに平安を見出そうとしたり、あるいは文学のことを考えてそこに平安を見出そうとしたりともがき続けた……。

白鳥自身が堂々巡りをし続けている様を、こちらも思うがままに追っていて、やはり堂々巡りな文章になってしまった。だが彼と一緒に堂々巡りを続ける内、この求道的な姿勢に魅せられてくる。彼の考え方を分析したりして、求道者心理なるものを考えてみるのは、伝道論をやるのに面白いかもしれない。たとえば、白鳥が「旧約の神は怖い神だ」とか「キリスト教は日本人の気質に合わないのじゃないか」といった主旨のことを言っているのを抜き取って、日本人への伝道論を考えてみたり。今回の記事でももっとそういうところに触れたかったのだけれども、よそう。よく考えれば、そういったことは日本のキリスト教界でずっと議論され続けているのである。むしろここで大事なのは、白鳥はそういったありがちなキリスト教への反発心をあらわにしながらも、平安を求めるあまり聖書から離れられなかったということだ。

白鳥の論じ方か生き様を、山本健吉だかが「螺旋階段のようだ」と表現していたと思う。螺旋階段であるからには、ぐるぐると回りながらもある一点に向かって降りていく(あるいは上っていく)のであって、白鳥の死に際の「アーメン」という言葉を思い出すと、適切な比喩であるように思える。私はどうしてもクリスチャンとしての視点から見てしまうから、その「アーメン」は、白鳥の心に聖霊が働かれたことの表れなのだと信じたい。ただこれは私の願望であって、白鳥流に言えば、そんなこと誰にも分かったものではないのである。それでも、彼は最後の最後、長き螺旋状の求道生活を終え、永遠のいのちの世界に入っていったのだと思いたい。彼は遂にキリストの御腕に抱かれ、求め続けていた平安を見出したのだと信じたい。

私たちの中には、家族や友人がイエス様を受け入れてほしい、彼らの心に福音が届いてほしい……と涙ながらに祈り続けている人が少なくない。でも正宗白鳥の人生が描いた軌跡を見ていると、もう少し気長に──いや、神様に委ねて、家族や友人と歩んでいこうかなという思いにさせられる。彼らだって、白鳥のように平安を得ようと堂々巡りを続けているかもしれない。白鳥が内村鑑三の信仰に近づいては離れていったように、彼らも、自分たちの家族や友人の信仰に興味を持っては遠ざかって、堂々巡りをしながらもがいているのかもしれない。私たちだって、そうだったと思う。それに私たちは私たちで、イエスを信じた今でも、「キリスト者は如何に生くべきか」と堂々巡りをしながら、再臨という螺旋階段の終着点たる希望に向かって毎日を生きているのだ。願わくは、彼らが遠ざかったとしても、また戻ってきてくれるような、そんな魅力的なキリスト者になりたいものだ。