大体5年前、ただいま絶賛放置中の「聖書の物語と契約」というシリーズで、イザヤ書・エレミヤ書(その1+その2)・エゼキエル書にある新しい契約の希望を考えたことがありました。あれは今振り返っても自分にとってすごく大事な学びで、聖書を理解する上での新しい契約の大切さに気づかされました。
今でも時折、聖書を読んでいて「これは新しい契約の祝福と関わっているな」と感じたり、「やっぱり新しい契約は大事だな」と思ったりするのですが、貯まってきた雑感をここらで書き残しておこうかと思います。(今回、ほんとに思うがままの雑感です)
6(+1)のアプローチ
エレミヤ31章などに出て来る「新しい契約」が私たちクリスチャン(教会)とどう関わっていると言えるのか、実は(特にディスペンセーション主義者の間では)様々な議論が交わされています。
マイケル・ヴラックは、この問題に関する諸見解を次の6つに整理してくれています。
- 新しい契約は将来、イスラエル国家において成就する。教会は新しい契約と何の関わりも持っていない。(一部の古典的ディスペンセーション主義者の見解)*1
- イスラエルと結ばれたものと、教会と結ばれたものという2つの新しい契約がある。(ジョン・ウォルヴォードを含む一部の伝統的ディスペンセーション主義者の見解)*2
- 新しい契約は教会において完全に成就する。将来イスラエル国家において成就するものではない。(契約神学や一部の非ディスペンセーション主義の体系の見解)
- 新しい契約はイスラエルにおいて成就するが、契約の霊的祝福は今日の教会にも適用される。(一部の伝統的&修正ディスペンセーション主義者の見解)
- 新しい契約はイスラエルにおいて成就するが、教会は新しい契約の約束に加えられた対象物(added referent)である。よって、ある意味で新しい契約は教会において成就している。新しい契約には、イスラエルと教会という2つの対象物がある。(ポール・ファインバーグ、一部の修正ディスペンセーション主義者の見解)
- 新しい契約がイスラエルに与えられたのは、異邦人を祝福するためでもあった。よって、今の時代では新しい契約の霊的祝福がすべてのユダヤ人信者と異邦人信者において文字通りに成就している。しかしながら、物理的/国家的約束は、イエスが再臨してイスラエル国家が新しい契約に入れられる時に成就する。(一部の修正ディスペンセーション主義者と、ほとんどの漸進的ディスペンセーション主義者の見解)
以上の整理を受けて、ポール・ヘネブリーは自身の(7つ目の)見解として、イエス・キリストは受肉された新しい契約ご自身であり、キリスト=新しい契約の外に救いはないので、教会は新しい契約に直接関わっていると主張しています*3。これは、直接的には、メシアが「民の契約」と呼ばれているイザヤ42:9と49:8を根拠とした見解です。
またヘネブリーは、新しい契約が「民の契約」であるメシアの血による救いをもたらす契約であることを重視しています(イザ52:13–53:12; マタ26:28; マコ14:24; ルカ22:20; 1コリ11:25; ヘブ7:27; 9:12–15; 10:15–22)。
私たちは、イエス・キリストの「血による新しい契約」を覚え、これを「告げ知らせる」ために聖餐式を守っています(1コリ11:25–26)。
私たちの救い主であり、「からだ」の一部ともされているキリストは「新しい契約の仲介者」です(ヘブ9:15)。
そして、パウロは御霊に仕える務めを「新しい契約に使える」ことと表現しました(2コリ3:6)。
こうしたことを踏まえると、教会と新しい契約の直接的な関わりは不可避の結論であり、見解4に見られる「適用」のような婉曲的表現は不要であるというのが、ヘネブリーの考えのようです。
ちなみに、彼の考えは上記脚注のリンク先などで見れますが、最近以下のポッドキャストでも語っています。
救いを実現させる契約
ヘネブリーの見解のうち、イザヤ42:6; 49:8の「民の契約」という表現を直接的に理解する点には疑問があります。
たとえば、イザ49:6では「わたしはあなたを国々の光とし」という言葉が「地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」という意味で使われています。であれば、「あなたを民の契約とし」も「あなたを民に契約をもたらす者とする」といった意味、つまりヘブル書にあるような「契約の仲介者」という意味で捉えてもよいのではないでしょうか。
以上の点を除けば、聖書を読んでいて一番しっくりくるのは、ヘネブリーによる7つ目のアプローチです。
ヴラックやブルース・ウェアをはじめ、見解4、5、6を採用する多くのディスペンセーション主義者は、新しい契約には霊的祝福と物理的祝福の二種類があり、異邦人信者は後者の物理的祝福に与っていると考えます*4。
しかし、新しい契約における「物理的祝福」の内容は、イスラエルに対する土地の約束の成就や、約束の地における祝福された生活、ダビデ的王のもとでの統一国家の回復など、独自の契約の約束というよりも、アブラハム契約やダビデ契約の約束の成就であるように思われます。そう考えると、新しい契約の物理的祝福とされる事柄は、霊的祝福(救い;罪の赦し、聖霊の内住など)によって実現する他の諸契約の祝福だと見なせます。
新しい契約そのものは「罪の赦しという、究極的な霊的祝福を明らかにする」ものだということです*5。
実際、前項の最後に見たとおり、新約聖書における新しい契約はイエスの贖いや聖霊の働きなど、罪の赦しや聖化と深く関連づけられています。
繰り返しになりますが、福音書によれば、イエスが「多くの人のため」に流される血は、新しい契約の血だと宣言されています(マタ26:28; マコ14:24; ルカ22:20; 1コリ11:25)。イエスは、新しい契約における犠牲の子羊です(ヨハ1:29; 1ヨハ2:2; 黙5:5–6)。
パウロは聖餐式について、それはイエスの「血による新しい契約」を覚えるためのものだと教えました(1コリ11:25)。また、彼は御霊に仕える務めを「新しい契約に仕える」ことだと述べました(2コリ3:6)。
ヘブル書の著者は、イエスがメルキゼデクの大祭司職に就いていることを、古い契約から新しい契約の時代へ移行したことのしるしと見ています(ヘブ7:12–16)。新しい契約の仲介者である大祭司イエスの血によって救われ、その大祭司によって神に大胆に近づくことができる私たちは、どう考えても新しい契約の祝福そのものに与っています。
こうしてみると、今日でも伝統的ディスペンセーション主義者の間で一般的な見解1(つまり、教会は新しい契約と何の関わりもない)や、新しい契約が2種類あるという見解2を支持することは、現時点では、私にはできません。
見解4〜6は、使っている表現や、新しい契約の祝福を霊的/物理的と分類するかどうかといった違いはありますが、この契約と教会の関係という観点では、実質的に同じことを別の形で説明しているだけのように思われます。
個人的には、新しい契約をもたらしたキリストご自身を信じ、キリストの血によって救われ、キリストのからだである教会は、新しい契約に直接与っていると表現することは、十分聖書的だと考えているところです。
用語の問題その1:契約の「パートナー」
エレミヤ31:31では、新しい契約が「イスラエルの家およびユダの家」と結ばれると言われています。漸進的啓示の観点からは、この契約とイスラエル国家の関係を否定することなく、教会も契約の対象に含まれることは十分に考えられます(上記見解4〜7)。
しかしこの場合、教会(というか異邦人信者)が契約の相手方=パートナーと捉えて良いか、ということが議論されています。特に見解4や5は、教会を新しい契約のパートナーと呼ぶことなく、新しい契約の祝福と教会の関連を説明しようとするものです。
ただし旧約の時点で、新しい契約がもたらす救いの対象は、異邦人にも及ぶことが示唆されています(冒頭で紹介した「聖書の物語と契約」シリーズの記事参照)。
たとえば、イザヤ書では「民の契約」なるしもべ(メシア)が「国々の光」となり、「地の果てにまでわたしの救いをもたらす者」となることが明らかにされています(42:6; 49:6)。このしもべの血は「多くの国々」に振りまかれるものとなります(52:15)。
また、新しい契約はイエスの「多くの人のために、罪の赦しのために流される……契約の血」(マタ26:28)によって締結されたのですから、その血によって救われ、締結に立ち会った使徒たちを土台とした教会の一員であり、キリストとひとつにされた異邦人信者は、契約のパートナーと見なされるのではないでしょうか。
ここで絡んでくるのは、契約という概念の法的側面を、どこまで新しい契約に読み込むべきかという問題です。聖書における契約は「契約」ですが、この表現は神の計画や御業を私たちに分かるよう伝えるべく用いられたアナロジーである、という視点も重要でしょう。
教会を契約のパートナーと見なせるかどうかという問い自体、そもそも古代中近東の契約の法的側面が新しい契約に適用されることを前提にした問いであり、もしかしたら不要な問いなのかもしれません。古代中近東の契約は、聖書的契約の性質を考える際の助けにはなれど、聖書的契約の性質を規定してしまうものではないのです*6。
私たちはこの問題に取り組むとき、思考を切り替えなければならないのかもしれません。
用語の問題その2:「成就」
ヴラックの分類における見解4〜6の決定的な違いは、「成就」という言葉をどう捉えているかということです。
おそらく見解4に分類されるエリオット・ジョンソンやブルース・コンプトンは、「成就」という語が契約の内容すべて実現することに対して使われるべきだと考えています*7。
一方で、見解6を支持するヴラックやダレル・ボックなどは「部分的成就」という概念を認めています*8。
コンプトンにしてもボックにしても、新しい契約はイエスによって締結され、実際に契約として機能しており、教会がその祝福に与っているといったことでは一致しているわけです。
契約が完全に実現する時は、紛れもなく「成就」の時と言えるでしょうが、契約の祝福が働き始めていることを「成就」(プレーロオウ)という語で表現することが適切かどうか、聖書からしっかり考察していく必要を感じます。
ただ重要だと思うのは、聖書本文では「契約の成就」という具体的表現による議論は展開されていないということです。「成就」という語を巡るこの議論、突き詰めていくと、聖書で使われていない用語に関する議論となり、袋小路に入ってしまう気がします*9。
成就が「満たす」という基本的意味に基づくならば、契約が現在機能しているということは、契約が目指すものを満たし始めている、ということでしょう。「部分的成就」を「成就し始めている」という意味で使うならば──そしてこれがボックの使い方なわけですが──それは不適切な語法として切り捨てられるものではないように思われます。
新しい契約の完成はまだだけれども、そこに向かって「成就し始めている」と言うことは可能ではないか。そして、「成就し始めている」状況を表現するには、「部分的成就」(partial fulfillment)や「開始した成就」(inaugurated fulfillment)といった表現は、妥当な選択肢だと言えないでしょうか。
新しい契約の祝福と私たちの救い
思うままに書いているので長くなってしまっているこのメモ、最後のトピックです。
新しい契約と教会の関係を考えるとき、時々指摘されるのは、いま教会が罪の赦しや聖霊の内住、また義認や聖化といった祝福に与っているとしても、エレミヤ31:33–34で預言されているような心に記された律法にしたがって完璧な歩みはできていないではないか、ということです。
なので、一部の学者は、教会が与っている霊的祝福を新しい契約のそれと同一視することを否定します。
しかし、エレミヤ31:33–34を読んでも、新しい契約によって即座に完璧な歩みが可能になるとは云われていません。エレミヤ31:33で言われているのは「わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す」、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」、「彼らがみな……わたしを知るようになる」、「わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさない」ということです。
このうち、イスラエルが「身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになる」ということは明確に成就していません。しかし、それ以外のことは、まさにイエスの十字架と復活を通して教会の聖徒たちの上に成就した霊的祝福と一致しています。
契約により始まった救いがどう完成に至るかという点は、旧約の新しい契約章句では明確に示されていません。しかし、新約聖書における救いに関する教えは、新しい契約章句における救いの概念と矛盾するものとも言えません。
将来イスラエル全体に新しい契約が効力を発揮する際(ロマ11:26)、どのように救いが展開されるのかは分かりません。しかし新約における救いの教えは、今の私たちに対して、新しい契約がどのように働いているかを伝えてくれています。
新しい契約は私たちが信じるイエス・キリストによる救いと直結しているとても重要な契約だというのが、今の私の感想です*10。
この契約によって、神が私たちの救いを契約として保証しておられること、それを実現させたのがイエスの犠牲であること、そしてその保証は御霊であること(エペ1:13; 2コリ5:5)を知ることができいます。
また、聖書において結婚が契約として扱われていることを考えると*11、同じように結婚関係にたとえられるキリストと私たちの関係において、結婚の契約に該当する究極的な契約は、新しい契約ではないでしょうか。
キリストが私たちのために夫としての愛を尽くし、そのいのちまでも与えてくださった(エペ5:25)──このキリストの愛を確証してくれるのが、新しい契約ではないかと思うのです。
*1:これは、今日の伝統的ディスペンセーション主義者の間でも割と一般的な見解です。例:John R. Master, "The New Covenant," in Issues in Dispensationalism, ed. Wesley R. Willis and John R. Master (Chicago: Moody, 1994), 93–110; Stephen R. Lewis, "The New Covenant: Enacted or Ratified?," in Progressive Dispensationalism: An Analysis of the Movement and Defense of Traditional Dispensationalism, ed. Ron J. Bigalke Jr. (Lanham, MD: University Press of America, 2005), 135–43; Roy E. Beacham, "The Church Has No Legal Relationship to or Participation in the New Covenant," in Dispensational Understanding of the New Covenant, ed. Mike Stallard (Arlington Heights, IL: Regular Baptist Press, 2012), 107–44; Mark A. Snoeberger, "Traditional Dispensationalism," in Covenantal and Dispensational Theologies: Four Views on the Continuity of Scripture, ed. Brent E. Parker and Richard J. Lucas (Downers Grove, IL: InterVarsity, 2022), esp. 174–77.
*2:Lewis Sperry Chafer, Major Bible Themes, rev. ed. John F. Walvoord (Grand Rapids: Zondervan, 1974), 146–47; John F. Walvoord, "The New Covenant," in Integrity of Heart, Skillfulness of Hands: Biblical and Leadership Studies in Honor of Donald K. Campbell, ed. Charles H. Dyer and Roy B. Zuck (Grand Rapids: Baker, 1994), 186–200. チャールズ・C・ライリーの増補改訂版『ディスペンセイション主義』(前田大度訳、エマオ出版、2022年)でも、この見解が示唆されています(249頁)。
*3:例:Paul Henebury, "Jesus is the New Covenant," Jan 3, 2022; "My Take on the New Covenant (Pt. 10): In Summary," Apr 3, 2020.
*4:例:Bruce A. Ware, "The New Covenant and the People(s) of God," in Dispensationalism, Israel and the Church: The Search for Definition, ed. Craig A. Blaising and Darrell L. Bock (Grand Rapids: Zondervan, 1992), 68–97; Robert L. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism: The Interface between Dispensational and Non-Dispensational Theology (Grand Rapids: Zondervan, 1993), 111–39; Craig A. Blaising and Darrell L. Bock, Progressive Dispensationalism, paperback ed. (Grand Rapids: Baker, 2000[1993]), 151–59, 199–210; Michael J. Vlach, He Will Reign Forever: A Biblical Theology of the Kingdom of God (Silverton, OR: Lampion, 2017), esp. 185–91, 199–201; アーノルド・フルクテンバウム『イスラエル学─組織神学の失われた環─』中川健一監訳、佐野剛史訳(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2018年)91頁。
*5:William D. Barrick, "Biblical Covenants and Their Fulfillment," in Dispensationalism Revisited: A Twenty-First Century Restatement, ed. Kevin T. Bauder and R. Bruce Compton (Plymouth, MN: Central Seminary Press, 2023), 108.
*6:参照:Henebury, "My Take on the New Covenant (Pt. 6)," Feb 19, 2020.
*7:Elliott E. Johnson, "Covenants in Traditional Dispensationalism," in Three Central Issues in Contemporary Dispensationalism: A Comparison of Traditional and Progressive Views, ed. Herbert W. Bateman IV (Grand Rapids: Kregel, 1999), 122; R. Bruce Compton, "Dispensationalism, the Church, and the New Covenant," Detroit Baptist Seminary Journal 8 (Fall 2003): esp. 47–40.
*8:Vlach, Has the Church Replaced Israel? A Theological Evaluation (Nashville, TN: B&H, 2010), 117–19; Darrell L. Bock, "Covenants in Progressive Dispensationalism," in Three Central Issues, 169–203.
*9:参照:Rodney J. Decker, "Why Do Dispensationalists Have Such a Hard Time Agreeing on the New Covenant?" paper presented at Council on Dispensational Hermeneutics, September 2008, 9–11.
*10:参照:Zane C. Hodges, "Regeneration: A New Covenant Blessing," JGES 22/42 (Spring 2009): 91–97; idem, "Justification: A New Covenant Blessing," JGES 22/42 (Spring 2009): 99–105.
*11:参照:Gordon P. Hugenberger, Marriage as a Covenant: Biblical Law and Ethics as Developed from Malachi (Eugene, OR: Wipf and Stock, 2014[1994]).