エレミヤ書30–33章は、この預言書の中でも特に希望の約束を重点的に扱っており、「慰めの書」とも呼ばれている。旧約聖書が告げる契約の希望のクライマックスとさえいえる新しい契約は、この慰めの書で最も詳細に啓示されている。
前回、私たちはイザヤ書の内容をふまえてエレミヤ書30–31章を見た。そこで、新しい契約は主の「しもべ」なるメシアと密接に関係していることを確認した。新しい契約は、メシアがイスラエルのため、また諸国民のために成し遂げる贖いをもたらす枠組みである。
しかし、それだけではない。新しい契約は、イスラエルの回復をもたらす契約でもある。イスラエルが「回復」を必要とするのは、罪のためである。諸国民が回復を必要とするのも、また被造物全体が回復を必要とするのも、堕落の影響によるものである。新しい契約が罪の赦しをもたらす贖いの契約であるということは、この契約が、被造世界の回復と密接に繋がっていることを示唆している。
今回はエレミヤ書32–33章を見ていくが、特に33章では、新しい契約と諸契約の関係が明らかにされている。その関係を見ていくことによって、私たちは、新しい契約を通して諸契約が成就し、そして諸契約の成就に基づいてイスラエルも諸国民も含む被造世界全体が回復させられるという希望を見ることになる。
このエレミヤ書33章は、今や私の様々な神学的確信の土台となっている箇所である。新しい契約を考える上で、31章だけで終わらせることはできない。今回の記事では、それをお分かちできればと考えている。
なお、次回はエゼキエル書に見られる新しい契約の希望をおおまかにまとめるつもりである。
エレミヤ書32章:イスラエルの罪の赦し
30–31章で民に対する裁きの警告と慰めの希望が語られてきた後、32章では、エレミヤとユダの王ゼデキヤとのやり取りが紹介されている。ゼデキヤはエレミヤを監禁し、なぜエルサレムがバビロンによって滅ぼされ、ゼデキヤは捕囚されると預言したのかと問うた(32:3–5)。これに対してエレミヤは、神が自らに命じた不可思議な行為と、それに伴ってささげた祈りの内容を紹介することで答えている。彼は、アナトテ(エルサレム南東にあるベニヤミン族の地)にある畑を親族から買い戻すよう命じられ、それに従った。しかし、エルサレムはバビロンの「手に渡されようとしているのに」*1、なぜ神は畑を買い戻すようにとお命じになったのか(32:25)。
神はエレミヤの問いかけの祈りに対して、バビロンによるエルサレムの滅亡は、ユダの民が神に逆らい続けた結果の裁きとしてもたらされるのだとお答えになった(32:26–44)。すなわち、エルサレムの滅亡はモーセ契約違反に対する裁きである。これが、ゼデキヤの質問への答えである。
しかし、32章の内容はここで終わっていない。そもそも、神がエレミヤにアナトテの畑を購入するようお命じになったのは、再び民が土地を所有するようになるという希望を象徴させるためであった(32:14–15)。神はエレミヤにユダの裁きを啓示された後、改めてこの希望をもお与えになった(32:43–44)。民の帰還とエルサレムにおける回復が宣言される中で(32:36–37)、神は次のように仰せられた。
彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは、彼らと彼らの後の子孫の幸せのために、わたしをいつも恐れるよう、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸せにするために、彼らと永遠の契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないように、わたしへの恐れを彼らの心に与える。わたしは彼らをわたしの喜びとし、彼らを幸せにする。わたしは、真実をもって、心と思いを込めて、彼らをこの地に植える。(32:38–41)
神は、ご自分が「彼らから離れず、彼らを幸せにするために」、彼らと「永遠の契約」を結ばれる。31章からの繋がりをふまえれば、これが新しい契約であることは明らかである。この契約にあって、民の心には神への恐れが与えられ、民は神から離れないようになる。既に見てきたように、この神との関係性の回復こそが、イスラエルが「幸せ」の中へ回復させられるための土台である。そして神もまた、イスラエルこそご自分の喜びであるという「心と思いを込めて」、彼らを約束の地において回復させられる。
エレミヤ書32章は、神が新しい契約を結ばれることによって、すなわちご自身の主権によって、イスラエルの罪の問題が解決されることを確証している。ここでは同時に、新しい契約がイスラエルの霊的回復だけではなく、国家的/民族的回復をもたらす枠組みでもあることが強調されているのである。神は約束の民に対して、モーセ契約違反に対する罰として「大きなわざわいのすべて」をもたらすだけではない。新しい契約を通して、「幸せのすべて」をももたらして下さるのである。
エレミヤ書33章:慰めの書のクライマックス
イスラエルの回復と諸国民の回心
33章は、慰めの書の総まとめともいうべき章である。ここをもって「慰めの書(30:1–33:26)は、神のあわれみ深い約束の成就が差し迫っていることを告げるという、栄光あるクライマックスを迎える」*2。
そのクライマックスは、神が創造主としてお与えになる宣告によって始まっている。「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」(33:2–3)ここでの「あなたが知らない理解を超えた大いなること」とは、神が裁きの後、「ユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直」されるということである(33:4–7)。最初の宣告における【主】という御名の繰り返しは、創造主なる神がイスラエルと契約を結ばれる方であり、またその契約に忠実な方であることを示している*3。イスラエルにとって、この方が「地を……形造って堅く立てた」創造主であるという事実は、この方がお与えになった約束のことばが必ず成し遂げられるという希望を保証してくれるのである。
続けて、神は仰せられる。「わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す。この都は、地のすべての国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる。彼らは、わたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの都に与えるすべての祝福と平安のゆえに恐れ、震えることになる。」(33:8–9)これまで幾度となく繰り返されてきたように、イスラエルに与えられる回復の土台は、彼らの罪の赦しである。その赦しに基づいて、民には祝福が与えられ、エルサレムにも祝福と平安が与えられる。祝福には、約束の地が豊かなものになるという「回復」が含まれている(33:10–13)。そして、これらの祝福のゆえに、「地のすべての国々」が神を「恐れ、震えることになる」。
33:13までの内容は、新しい契約という枠組みに基づいてイスラエルとユダの回復が与えられるという、32章までのメッセージを復唱するものである。しかし、この内容は単なる反復以上のものとなっている。ここに至って、新しい契約がもたらすイスラエルの回復は、諸国民(異邦人)をも神に立ち返らせることがはっきりと告げられたのである。
新しい契約による諸契約の成就
33:14以降では、これまで示唆されてきた新しい契約とダビデ契約、アブラハム契約との繋がりが高らかに宣言されている。諸国民に悔い改めをもたらすことになるイスラエルの回復はいかにして成就するのか、これまで語られてきたことの総まとめのような内容になっているのが、このセクションである。
預言が見据えているポイントは、神が「イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす」という「その日、その時」である(33:14–15)。イスラエルが一つの民として回復させられることは、33:7で既に告げられていた。それだけではなく、神が「イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束」は、彼らに約束されていた新しい契約を思い起こさせる(31:31)。
新しい契約の約束が成就する「その日、その時」、神は「ダビデのために義の若枝を芽生えさせる」(33:15)。メシアの到来を「ダビデに一つの正しい若枝を起こす」と預言していた23:5–6の内容が復唱されている。23:6との違いは、33:16では特にエルサレムに焦点が当てられていることである*4。神は、これまで繰り返し語られてきたエルサレムの回復を、23:5–6の成就──すなわちダビデ的王の到来(ダビデ契約の成就)と結びつけておられる。
ダビデ契約の重要性は、33:17–22でも強調されている。「ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれることはない。」(33:17)もしも「昼と夜」という創世記1:5で定められていた秩序が破られれば、ダビデ契約も破られ、「その王座に就く子がいなくな」る(33:20–21)。この言い回しは、31:35–37で告げられていた、イスラエルの永続性の強調の仕方と似ている。ダビデ契約は、昼と夜という秩序を保っておられる方、創造主であり主権者である神が結ばれた契約である。よって、ダビデ契約は必ず成就するのである。
「昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約」という表現は、「神が創造の秩序において設けた『定め』」を指すものと考えることもできる*5。しかし、洪水後の世界では、ノア契約によって「昼と夜がやむことはない」ことが改めて定められた(創8:22)。この契約が洪水後の被造世界の存続を約束するものであり、神が被造世界と関わっておられることを保証するものであったことから、33:20における「契約」はノア契約を指すと考えるのが妥当であるものと考えられる*6。すなわち、ダビデ契約の永続性は、神が洪水後の人類の代表であるノアと結ばれた契約によって保証されているのである。
ダビデ契約が破られることはないことを強調するため、神は次のように仰せられた。「天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす。」(33:22)これは、ダビデの王国が永遠に確立されることの成就を保証している約束である。
しかしこの約束は、これまで語られてきたメシアによる統治以上の内容を示唆しているように思われる。また、メシアの統治下で、単にダビデの子孫が増え広がるというだけでもないだろう。33:21では、ダビデには王座に就く子孫が断たれないと強調されている。その中で、33:22ではその子孫が増え広がることが約束されている。したがって33:17–22では、「一つの正しい若枝」(メシア)の統治の下で、さらに多くのダビデの子孫が臣下の王として治めるであろうことが示唆されているのではないだろうか*7。ダビデの子孫は増え広がり、おそらくはその中から、メシアとともに王国を治める者が出て来る。このようにして、ダビデの王朝と王国が「とこしえまでも確かなものとな」るというダビデ契約の約束(IIサム7:16)が、完全に成就するのである。
さらに、33:18–22ではダビデの子孫と並んで「レビ人の祭司たち」の永続性も強調されている。「また、レビ人の祭司たちには、わたしの前で全焼のささげ物を献げ、穀物のささげ物を焼いて煙にし、いけにえを献げる者が、いつまでも絶えることはない。」(33:18)そして、レビ人もまた「天の万象」や「海の砂」のように量り切れないほど増し加えられる(33:22)。
レビ人の祭司に対する約束もまた、ノア契約によって保証されている(33:20–21)。その宣言には「わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約」という言葉が出て来る。これは、アロンの孫ピネハスとその子孫に与えられた「永遠にわたる祭司職の契約」(民25:13)を指しているものと考えられる*8。本稿では扱うことができなかったが、私はエレミヤ書33章の学びから、民数記25:10–13のいわゆる「祭司契約」の重要性を改めて突きつけられた*9。エレミヤはここで明確に、ダビデの子による王国が確立される時、レビ人の祭司たちが再び立てられることを告げているのである。
ダビデは契約の箱をエルサレムに移した時、大祭司のように民の礼拝を司り、民を代表して祈りをささげ(I歴16:7–36)、【主】の御名によって民を祝福した(IIサム6:18)。その下で、祭司たちが仕えていた。これと似て、メシアが確立する王国では、王なるメシアの下でレビ人の祭司たちが仕えることになるのであろう*10。
ダビデの王座とレビ人の祭司たちの回復は、「ヤコブの苦しみの時」(30:7、新共同訳)の後でもたらされる、裁きから祝福への逆転の縮図となっている。預言書群で強調されていることは、イスラエルがモーセ契約に違反し、悪を行ったので裁かれるが、その後で回復させられ、祝福を受けて増し加えられるということである。また、民の悪のゆえに、彼らが所有していた地も荒れ果てるが、その後で回復させられ、豊かさを取り戻す。同様に、ダビデ家の王たちもまた悪を行ったので裁かれるが、その後でダビデの王朝と王国はメシアによって回復させられ、永遠に確立される。祭司たちもまた悪を行ったので裁かれるが、メシアの統治下で回復させられ、祝福の中で祭司として仕えるようになる*11。慰めの書では、王と祭司たちの咎と裁きについても言及されていた(32:32)。イスラエルの回復には、彼らの王と祭司たちの回復(裁きから祝福への逆転)も含まれている。それらもまた、民全体の回復とともに、メシア(ダビデの義の若枝)によってもたらされるのである。
エレミヤ書33章は、新しい契約を通してもたらされるイスラエルの回復には、ダビデ契約(および祭司契約)の成就が含まれていることを教えている。また、その成就の土台はノア契約である。しかし、ここにはそれだけではなく、アブラハム契約への言及も見られる。ダビデの子孫とレビの子孫が「天の万象」や「海の砂」のように増えるという預言は、アブラハムの子孫が「空の星、海の砂のように大いに増」えるという約束を思い起こさせる(創22:15–17; cf. 15:5; 26:4)。ダビデ契約と祭司契約の成就は、「アブラハム契約に見られる言葉遣いによって表現されている」のである*12。したがって、新しい契約はアブラハム契約の成就をもたらすものでもあることがわかる。
新しい契約において、ノア契約、アブラハム契約、ダビデ契約の成就がもたらされる。このことは、33章の終わりにして慰めの書の結論である33:23–26でも繰り返されている。
神はエレミヤに語られる。「あなたはこの民が、『【主】は自分で選んだ二つの部族を退けた』と話しているのを知らないのか。彼らはわたしの民を侮っている。『自分たちの目には、もはや一つの国民ではないのだ』と。」(33:24)「この民」は、エルサレムを包囲しているバビロンのことであろうか。もしくは、ユダの民が【主】を侮っていることを表しているのかもしれない(7:16参照)*13。いずれにしろ、「この民」は、神がご自分の民を退け、一つの民を二つの部族(イスラエルとユダ)に分けてしまったという理由で、神を侮っている人々である。すなわち、イスラエルが分割されたまま滅ぼされてしまうことは、この民を選ばれた神の尊厳を傷つけてしまうことになるのである。
「しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」(33:26)これが、慰めの書の結論である。神が約束される「回復」には、これまで幾度となく告げられてきたイスラエルの再統一と、彼らへの霊的および物理的(民族的/国家的)祝福が含まれている。この回復は、新しい契約がもたらすものである。またこの回復は、ノア契約(33:25)、アブラハム契約(33:26「ヤコブの子孫」「アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」)、そしてダビデ契約(33:26「わたしのしもべダビデの子孫」「その子孫の中から、……治める者を選ぶ」)の約束に基づくものである*14。新しい契約によってもたらされる諸契約の成就とイスラエルの回復は、契約の神である【主】の栄光を現すのである。
結論:新しい契約と諸契約の関係
慰めの書が語っていたのは、神が「イスラエルを引き抜かれた後の、輝かしい回復のメッセージ」であった*15。その回復は、創世記以降明らかにされてきた諸契約が、イザヤ書で「永遠の契約」として啓示されていた「新しい契約」によってもたらされる。
ここで、新しい契約と諸契約、そしてこれまで明かされてきた神の計画との関係を総括してみよう。新しい契約は、イスラエルの贖いと回復を実現させる【主】のしもべ/ダビデの子/メシアを通してもたらされる。しかし新しい契約にあって、ダビデの王国が確立される。したがって、新しい契約とダビデ契約は、双方ともに切っても切れない関係にある。
この新しい契約において、イスラエルは【主】の教えに従順な信仰の民として整えられ、異邦人諸国に神の祝福をもたらす「祭司の王国」として完成する。新しい契約は、モーセ契約において意図されていた神の目的を成就させるための枠組みである。したがって、この契約はモーセ契約に取って代わる枠組みであると同時に、究極的な意味でモーセ契約の成就をもたらす枠組みでもあるといえるのである。しかし、新しい契約は、神とモーセ契約を結んだ「祭司の王国」に与えられる契約でもある。そういう意味では、モーセ契約は新しい契約が結ばれるまでの道筋を整えたのであり、新しい契約とモーセ契約は、切っても切れない関係にある。
新しい契約がイスラエルの回復/完成と諸国民の祝福をもたらすということは、この契約がアブラハム契約の成就をもたらす枠組みでもあるということだ。イスラエルが「祭司の王国」として完成するということは、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫から王が現れ、子孫たちが「大いなる国民」として完成するというアブラハム契約の約束の成就である。また、この王国を通して異邦人が祝福されるということは、「大いなる国民」を通して「地のすべての部族」が祝福されるという、アブラハム契約の究極的目的の成就である。しかし、新しい契約は、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫として選ばれた民と結ばれるものであり、また彼らから生まれる「女の子孫」によってもたらされるものである。そういう意味では、新しい契約はアブラハム契約からの流れにおいて与えられる契約である。したがって、新しい契約とアブラハム契約もまた、切っても切れない関係にある。
新しい契約の約束が成就することは、神が自然界の秩序を存続させられるというノア契約の約束に基づいている。そういう意味でノア契約は、創世記の文脈においてアブラハム契約の土台であったように、預言書まで見据えた文脈では新しい契約の土台ともなっている。しかし同時に、新しい契約によって、被造世界が祝福されるというノア契約の祝福が成就する。新しい契約は、ノア契約を土台としているとともに、ノア契約の成就をももたらす枠組みなのである。したがって、新しい契約とノア契約もまた、切っても切れない関係にあることがわかる。
そして、新しい契約は、約束の「女の子孫」によってもたらされる契約であり、「女の子孫」がもたらす被造世界の回復を実現させる枠組みでもある。新しい契約において、創造の秩序の回復は成就する。その土台は、この契約がもたらす贖いと罪の赦しである。罪が入り込むことによってもたらされた被造世界ののろいは、この契約において罪の問題が究極的に解決されることにより、完全に覆されるのである。
以上のことから分かるのは、まず新しい契約はこれまでの全ての契約をふまえた、究極的な契約だということである。新しい契約の祝福は、これまでの諸契約の祝福を土台としたものである。しかし同時に、新しい契約の祝福(特にこの契約がもたらす贖いと罪の赦し)は、諸契約の祝福を成就させ、創造の秩序の回復までも実現させるための土台となっている。よって、新しい契約は、諸契約を成就させ、被造世界を回復させるための大きな枠組みにもなっているのである*16。
旧約聖書におけるそれぞれの聖書的契約は、ひとつの図式で表すことができるような単純な関係にあるのではなく、上記のような重層的で複雑な形で、固く結び合わされている。しかし、それゆえにこそ、私たちは聖書的契約の繋がりの全体像から、神の計画の豊かさ、あわれみ深さ、そして確実さを知ることができるのである。
そして、この全体像から、エレミヤを含め預言者たちが伝えた「新しい契約の希望」が、いかに大きなものであるかが見えてくる。「新しい契約は、イスラエルの運命、諸国民の運命、そして宇宙そのものの運命まで含めて、神の物語の結末を要約しているものなのである。」*17
*1:特に断りがない限り、聖書引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会による。
*2:Brown, "Jeremiah," 7:417.
*3:Dyer, "Jeremiah," 1174.
*4:Henebury, “Jeremiah’s Great Eschatological Vision (PT.4),” August 20, 2019.
*5:ロバートソン『契約があらわすキリスト』43–47頁。
*6:ロバートソンはエレ33:20ffから、創造において神が被造物と契約を結ばれた可能性が考えられると主張している。一方でWilliamsonは、当該テキスト(エレ31:35–37も含む)ではノア契約より前の契約を明確に示す要素は見られず、よってここから創造の契約を論じることは「沈黙からの議論」であると主張している(Sealed with an Oath, 74)。
*7:Brown, “Jeremiah,” 7:426. パウロはIIテモ2:12で、キリスト者が「キリストとともに王となる」と言っている。よって、「偉大な王が臣下としての王を用いるということは、前例のないことではない」(Henebury, “Jeremiah’s Great Eschatological Vision (PT.4),” n.7)。
*8:Tremper Longman III, Jeremiah, Lamentations, UBC (Grand Rapids: Baker, 2008), 222; Dyer, “Jeremiah,” 1177; Huey, Jeremiah, Lamentations, 302; Busenitz, “Introduction to the Biblical Covenants; The Noahic Covenant and the Priestly Covenant,” The Master’s Seminary Journal 10/2 (Fall 1999): 188.
*9:祭司契約については、以下を参照のこと。Busenitz, “Introduction to the Biblical Covenants,” 186–89; Ronald B. Allen, “Numbers,” in The Expositor’s Bible Commentary, rev. ed., 2:546; 拙稿「ディスペンセーション主義Q&A:祭司契約と土地の契約」2019年6月22日。
*10:ダビデの治世と異なるのは、レビ的祭司たちの中に大祭司がいないということである。詩110:4は、ダビデの「主」であるメシアが「メルキゼデクの例に倣いとこしえに祭司である」と告げている。後の啓示によれば、メシアであるイエスは「偉大な大祭司」である(ヘブ4:14)。よって、メシアは王であり大祭司であるといえる。エレ33:17–22およびエゼ40–48章では、レビ的祭司の存在が示されつつ、大祭司については言及されていない。メシア的王国では、「神の子イエス」が王でもあり、大祭司でもある。
*11:Cf. Longman, Jeremiah, Lamentations, 223.
*12:Ibid.
*13:Brown, "Jeremiah," 7:427.
*14:Longman, Jeremiah, Lamentations, 223.
*15:明石清正『聖書預言の旅』(リバイバル新聞社、2002年)78頁。
*16:「聖書的契約に対するこうしたアプローチは、アブラハム契約を最も偉大な契約であるとする理解に反するものとなっている。神の計画の民族的かつ国際的な諸側面は、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた誓約に基づくものである。しかしながら、そういった諸側面の成就は、人の罪が処理されるまで妨げられている。和解をもたらし、成就への道を開くのは、キリストにある新しい契約である。他の全ての神の契約は、新しい契約との繋がりにおいて再び活かされるのである。」Henebury, “Jeremiah’s Great Eschatological Vision (PT.2),” August 7, 2019.
確かにアブラハム契約は「旧新約聖書を貫く大原則」と言っても過言ではない、神の計画を理解する上で非常に重要な契約である(中川健一『日本人に贈る聖書ものがたり 族長たちの巻』[文芸社、2003年]92頁)。そして、本稿で論じてきたように、アブラハム契約の約束が、その後のモーセ契約、ダビデ契約、新しい契約への道のりを整えてきた。しかし同時に、アブラハム契約の成就の土台は、Heneburyが言うようにイエス・キリストによる贖いの御業であり、その成就を実現させる枠組みは、キリストがもたらす新しい契約である。私たちは、こうした聖書的契約同士の関係を単純化させることなく、聖書本文が伝えているとおり多重的に捉えるよう努めるべきであろう。このように新しい契約の重要性を強調しつつ、諸契約の重層的関係を論じているものとしては、Averbeck, “Israel, the Jewish People, and God’s Covenants,” in Israel, the Church, and the Middle East: A Biblical Response to the Current Conflict, eds. Darrell L. Bock and Mitch Glaser (Grand Rapids: Kregel, 2018), 21–37も参照のこと。
*17:Saucy, “Israel as a Necessary Theme in Biblical Theology,” 174.