軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「恥の文化」からの聖書神学、ついでに遠藤周作と内村鑑三について。

去年から遠藤文学の流れで記事を書こうと思っていたのだけれど、中々まとめられなかったテーマがいくつかある。そういうテーマのひとつに関連して考えさせられたことがあって、まとまってはいないのだけれど今思っていることを忘れたくないのもあって、思いきって雑談的に書き残しておきたいと思う。無駄に長くなっちゃったけど……。

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帰ってきたディスペンセーション主義Q&A

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  • Q14:どの教派がディスペンセーション主義なのか
  • Q15:メシアニック・ジューとディスペンセーション主義
  • Q16:ディスペンセーション主義かそうでないかの区別について
  • Q17:ディスペンセーション主義に関する日本語文献
    • ディスペンセーション主義そのものについて
    • 契約神学との比較(契約神学の立場から)
    • 契約神学との比較(ディスペンセーション主義の立場から)
  • おまけ:ハーベスト・タイムの1日セミナー「ディスペンセーショナリズムQ&A」のご紹介

前回、「ひとまずこれで完結です」「これで一区切りつきました」などと大口叩いてから、わずか2ヶ月強…なんと、早々と帰ってきてしまいました。笑

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非置換神学者による注解書リスト〔随時更新〕

突然ですが、聖書研究の上で注解書は役に立ちますよね。私の場合は原語知識が乏しいので、New American CommentaryとExpositor's Bible Commentary(Longman and Garlandの改訂版)を中心にして、他のもっと詳しい注解書ともっと読みやすい(適用中心の)注解書を、1冊ずつくらい補助的に使っています。

それでも、当たり前ですが、聖書研究の中心は聖霊の導きの下で聖書本文をひたすら読み、釈義することです。…いやこれは重要なんでどれだけ強調しても足りないくらいだと思いますが、ここではそんな偉そうなこと続けるのやめましょう。私なんて最近ようやく、注解書を頼りに聖書研究を始める癖が抜けてきたばかりです。でもそうなってくると、自分の釈義がいかに至らないものであるかを痛感することも多くなり、注解書がヘルプしてくれることのありがたさが益々身にしみてわかってきたのも事実です。

それと聖書研究中に注解書の助けを借りるのって楽しくないですか?会ったこともない信仰の友と一緒に、聖書研究ができてるみたいで(友達のいなさそうな文章)

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私の読書(11)遠藤周作『走馬燈』─沼地に流れた血を追って

遠藤周作に『走馬燈─その人たちの人生─』というエッセイ集がある。裏表紙には次のような紹介文が添えられている。

日本人として初めてエルサレムを訪れたペドロ岐部、贋の大使として渡欧し、ローマ法王に謁見した支倉常長、そして多くの名もない殉教者たち──日本にはキリスト教の伝統はないと信じられながら、実際は四百年にわたる栄光と苦難の歴史が秘められている。日本人でありながらイエスと関わり、劇的な運命をたどった人々を、そのゆかりの地に赴いて回想した異色のエッセー。

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