balienのブログ

キリスト教(神学)に関する雑感・情報などをメインにまとめていきたいと思います。

ヨハネの手紙第一 覚書き(8)補足:「いのちのことば」の意味について(その3)

 ヨハネの手紙第一を学んでおりまして、私個人のノートをそのまんま公開しております。(↓前回)

balien.hatenablog.com

 前々回、前回から引き続き、「補足」として1:1の「いのちのことば」という表現の意味について取り上げています。前々回では「いのちのことば」=イエス・キリストご自身とする解釈を紹介しました。そこでは、第一ヨハネ1:1の「いのちのことば」は、ヨハネ1:1の「ことば」と同じ意味で捕らえられています。
 そこで、前回ではヨハネ1:1の「ことば ho logos」の意味を(旧約聖書旧約聖書外典、古代ユダヤ教文書などの情報もふまえて)考えていきました。要約は次の通りです。

  1. 「ことば」には神の発言と業が含まれている。
  2. 「ことば」は神の言葉であり、同時に人格的存在である。
  3. 「ことば」は神とは区別される存在であり、同時に神と同一視される存在である。

 今回は「いのちのことば」に関する解釈の第二の立場(いのちのことば=イエス・キリストの福音のメッセージと考える)を紹介した後、第一の立場と第二の立場の中間の立場を取り上げます。その後、「いのちのことば」の解釈について私自身の結論を述べています。

トピック

補足 1:1「いのちのことば」の意味について(続き)

D.第二の立場:「いのちのことば」はイエス・キリストの福音のメッセージを指している

 「いのちのことば」をヨハネ福音書の「ことば」と同じ意味で解釈する者がいる一方で、前述のように、この表現について異なった解釈をする注解者たちもいる。そのような者たちは、たとえば「いのちのことば」における「ことば」は人格的に用いられているのではないといった解釈を提示している。この第二の立場では、主な根拠として挙げられているのはヨハネの手紙第一1:1で「いのち」が人格的に用いられていることである。したがって、「いのちのことば」は「いのち」の言葉、すなわちイエス・キリストの言葉、あるいはキリストの福音のメッセージを指しているものと解釈される。

ストットの解釈

 ストット*1は「いのちのことば」の意味を解釈するに当たって、福音書1:1の「ことば」と手紙の1:1における「ことば」の用法との間にある二つの主要な相違点を指摘している。第一の相違点は、「福音書の序文での『ことば』は単独で四回使われているが……、手紙の序論では『いのちのことば』という句で使われている」ということである。
 第二の相違点はより重要なもので、「筆者の心の中にある強調点が『ことば』ではなく、『いのち』にあるということである」。「なぜなら、……『いのち』は2節に二回繰り返されており、手紙全体ではさらに5回(2・25、3・14、5・11–12、20)出てくるからである。」
 すなわち、ストットは手紙の序文においては強調が「いのち」という語に置かれていることに、福音書の序文との最大の違いを見出しているのである。確かに、1:2をふまえると手紙の序文において明確に人格的に扱われているのは「いのち」である。
 彼は続けて、福音書においても「いのち」がキリスト御自身を指す語として用いられていることを根拠に、次のように述べている。

さらに、福音書と手紙の両方が宣言しているのは、キリストのうちにいのちがある(ヨハネ1・4、Iヨハネ5・11–12)ということだけでなく、キリスト御自身がいのちだということである(ヨハネ11・25、14・6。ヨハネ5・26、Iヨハネ5・20参照)。このいのちこそ、御父と永遠の交わりを持ちながら、私たち人間の歴史に現れた方であって、われわれが宣べ伝えている方なのだとヨハネは言うのである。*2

 このように、「ことば」よりも「いのち」が人格的に用いられているように思えるテキストの特性から、彼は次のように結論づけている。

しかし、2節において「いのち」には人格としての意味が与えられていることを考えると、……「いのちのことば」は「キリストの福音」を意味するものだと言いたい。ヨハネが宣べ伝えているのはキリストであり、この方がいのちであって(2節)、いのちのことばに関する宣教で彼が強調しているのは、その永遠性と歴史的顕現(1、3節)なのである。*3

したがって、彼にとっては、「いのちのことば」はキリストの福音のメッセージを指しているのである。そして、1節における4つの関係詞は、福音のメッセージの内容を述べているということになる*4。言い換えれば、次のようになろう。

  1. 「いのちのことば」は、いのち=イエス・キリスト御自身が「福音告知の主題」であることを示している。
  2. 先行する4つの関係詞は、「福音告知の主題」であるキリストの「永遠性と歴史的顕現」を強調している。

Barkerの解釈

 Barkerもまた、「いのちのことば」の強調は「いのち」にあり、この言葉自体は福音のメッセージを指しているものと考えている。

手紙は[使徒たちに]聞かれ、次に宣言されたいのちに中心を置いている(使5:20;ピリ2:16参照)。このメッセージである福音は、神のものであるが故に、初めからあるものである。それは創造、時間、歴史よりも先行している。*5

 しかし、彼はその直後に「いのちのことば」の解釈をさらに発展させており、「いのちのメッセージ the message of life」と「いのちのことば the Word of life」の違いは次第に曖昧にされていく。「神において、いのちのメッセージ the message of lifeは人間に近づいていき、その集大成はイエスにおいて見出される。彼においていのちのことば the Word of lifeは受肉し、現れ、そして見られるようになり、手で触れられるようになったのである。」*6
 以上のことから、Barkerはストットのように「いのちのことば」を一義的には「いのちのメッセージ」、すなわち福音のメッセージとして解釈しているようである。しかし、彼の結論では最終的に「いのちのことば」は福音のメッセージともイエス御自身とも受け取ることができる形になっている。彼の解釈は、第二の立場に基づいていながらも、(続いて取り上げる)第三の立場である「中間的立場」に限りなく近いものであると言うことができるだろう。

E.第三の立場:中間的立場

 B.D.で見てきたように、「いのちのことば」の解釈を巡っては、いずれの立場においてもその妥当性が見受けられる。福音書と手紙の序文が類似していること、そして福音書の序文における「ことば」の意味、すなわち第二神殿期のユダヤ教における「ことば」理解から推測されるヨハネの「ことば」概念をふまえると、「(いのちの)ことば」は福音書における「ことば」と同じ意味で用いられていると考えた方が、一貫性がある。一方で、手紙の序文においては「ことば」と比較して「いのち」の方がより強調されていることもまた確かである。1:1–2という直近の文脈においては、2節で「いのち」が人格的に扱われているが故に、1節の「いのち」もまた人格的に用いられていると考えた方が、これもまた一貫性がある。
 しかし、第三の立場として、注解者の中には「いのちのことば」がイエス御自身と福音のメッセージの両方を指していると考える者もいる。

Westcottの解釈

 Westcottは、基本的には「いのちのことば」を「いのちのメッセージ」、あるいは「いのちの啓示」として捉えている。これは、第二の立場に近いように思われる。

[したがって、いのちのことばは]生命についての、おそらくそこから生命が湧き出す、神から人間へのメッセージ全体であって、預言者によって語り始められ、ついには神の御子によってその全貌が宣べ伝えられたもの[である(ヘブ1:1, 2)。]*7

 しかし、彼は後に、第一の立場と第二の立場は明確に区別できるものではないともはっきり述べている。

最も有り得るのは、この2つの解釈は明確に区別できるものではないということである。この啓示は、次の内容を宣言している。[この啓示は]生命を持っており、告知するものであり、与えるものである。キリストにおいて、主題としての生命と啓示の性質としての生命とは、最終的に結合させられる。*8

Westcottにとって、「いのちのことば」とはいのちを主題とした啓示であり、そこからいのちが湧き出す啓示である。同時に、そのいのちは啓示の性質 characterでもある。おそらく、キリストはそのような「いのちの啓示」である「ことば」が受肉された方であるという考えから、彼は「[第一の立場と第二の立場]は明確に区別できるものではない」という考えに到達したのであろう。

Vincentの解釈

 Vincentは「いのちのことば」がどこにおいても人格的意味で使われていないということを認めた上で(ピリ2:16;ヨハ6:68;使5:20参照)、「ヨハ1:1、1:4の概念との明らかな繋がりから、この表現を一義的に人格的なものとして扱う」という考えに傾いていることを明かしている*9。また、彼は上記のWestcottの解釈に賛同を示している。

スミスの解釈

 スミスは、「いのちのことば」という表現はイエス御自身を指しており、それと同時にイエスのメッセージをも暗示していると述べている*10

 ここでは、福音書の序言からよく知られている二つの基本的概念、すなわち*11とが結び合わされている。言がかつて命をもたらし、また今ももたらしているということをヨハネ一・四が明らかにしているのと同じように、ヨハネの手紙1はこれら二つの用語を適切に結び合わせている。しかしそれでも、二節ではその分の主語はもはや言ではなく命である。キリスト教の読者、少なくとも、ヨハネによる福音書に精通した読者は、「命」というのがイエスを指し示す一つの表現方法になっていることをただちに認識するであろう。
 「命の言」と書くことによって、ヨハネの手紙1はまた別の考えられる解釈あるいは判断を援用している。初期キリスト教の用語範囲では、「言(あるいは神の言)」は、また福音のメッセージ、すなわちイエス・キリスト、及び彼を通してもたらされた救いに関する良き知らせのことである(使徒四・四、フィリピ一・一四、Iテサロニケ一・六)。そこで、「命の言」が、命の源である言なるイエスを指し示していると同時に、彼に関する説教も暗に指しているのである。そういう説教またはメッセージのことが、次節でほのめかされており(二節に「その証しをし」とある)、また、五節ではっきりと言及されている。(「言」が福音書では明らかにイエスの称号となっているが、書簡ではそこまではっきりとそうなっていないという事実を恐らく反映して、RSVとNRSVは、ヨハネ一・一ではそれを‘Word’という大文字で書いているが、Iヨハネ一・一ではそうしていないことは注目に値する。)

F.結論

 手紙の序文(特に1:1–2)における繋がりを考慮するならば、確かに「いのちのことば」は、第一にキリストの福音のメッセージを意味しているのかもしれない。
 しかし、ヨハネ自身は、イエスについて、神によって発せられ(宣告され)、その業の実現をもたらす「神のことば」が受肉された方であると見做していた。彼にとって、福音のメッセージもまた「ことば」であり、神から発せられたものである。その「ことば」はイエスにおいて受肉し、救いの御業の実現、そして永遠のいのちをもたらした。以上のようなヨハネの「ことば」理解(また、古代ユダヤ教に見られる「ことば」理解)をふまえると、彼が「ことば ho logos」という語を特別に用いている場合、その概念を「福音のメッセージ」と「イエス御自身」とに明確に区別することは相応しくないものと考えられる。
 ここで、Westcottが福音書と手紙の序文の関係について「並行的なものではなく、補完的なものである」と述べていること*12は、先の考察と調和している。福音書では「ことば」という概念の「イエス御自身」であるという点が強調されている。一方、手紙では「ことば」という概念の「福音のメッセージ」(あるいは神のことば)であるという点が強調されている。よって、福音書の「ことば」と手紙の「いのちのことば」は、ヨハネ文書に見られる「ことば」概念を補完し合っている関係にあるものと考えられる。両者の表面的な意味においては概念が区別されているように見えるが、実際には、両者においてヨハネが持っているブロック・ロジック的*13な「ことば」概念が相補的に表現されているのである。
 したがって、「いのちのことば」については、強調は「福音のメッセージ」という意味に置かれつつ、イエス御自身という意味をも包含し得る表現であると言えるのではないだろうか。

*1:ジョン・R・W・ストット『ティンデル聖書注解 ヨハネの手紙』千田俊昭訳(いのちのことば社、2007年)75頁

*2:同上

*3:前掲書、76頁

*4:前掲書、76–77頁

*5:Glenn W. Barker, 1 John, Expositor’s Bible Commentary, vol. 12, Frank E. Gaebelein, ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1981) 306.

*6:Ibid.

*7:Brooke Foss Westcott, The Epistles of St John: The Greek Text with Notes and Essays, 3rd ed. (Cambridge and London: Macmillan and Co., 1892) 6-7. なお、[]内は私訳であるが、[]外の訳文はストット『ヨハネの手紙』75頁による。

*8:Ibid., 7.

*9:M. R. Vincent, "1 John 1:1," Word Studies in the New Testament, in PC Software e-Sword X.

*10:D・M・スミス『現代聖書注解 ヨハネの手紙1、2、3』新免貢訳(日本基督教団出版局、1994年)65頁

*11:太字は引用元における傍点による強調を示している。

*12:Westcott, *The Epistles of St John," 3.

*13:ブロック・ロジックという用語についての解説は、前々回記事の注19を参照のこと。