軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

ヨハネの手紙第一 覚書き(10)1章8–10節

 ヨハネの手紙第一を学んでおりまして、私個人のノートをそのまんま公開しております。(↓前回)

balien.hatenablog.com

トピック

§1 キリストのメッセージの本質(続き)

3.罪の性質の否認は偽りである(1:8–9)

8節:もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
9節:もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。*1

8節

 これは、異端者たちによる第2の偽りの主張に対する反駁である。その主張とは、「罪はない」というものである。おそらく彼らは、何らかの形で人間の罪の性質そのものを否定していたのだろう。その罪の性質──原罪とは、エリクソン曰く、私たちが引き継いだ「堕落後アダムのものとなった腐敗した本性」である(ロマ5:12参照)*2。もし異端者たちがグノーシス主義的な霊肉二元論を持っていたのであれば、彼らはキリストを知って霊的になったのだから、肉体の問題である原罪は関係がなくなったと考えていたのかもしれない。原罪がどのような形で否定されていたのであれ、そのような考えは、創世記以降聖書を貫く「罪」という人間の病理に関する教えを、真っ向から否定するものである。そして、ヨハネは「罪はない」という論敵たちの主張を「欺き」として退けている。
 7節では「私たちも光の中を歩んでいるなら、……御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」ということが教えられていた。なぜ、私たちは光の中を歩むことにより、継続して罪からきよめられる必要があるのだろうか。その答えは、「私たちには罪がない」という主張が「欺き」であり、「真理」ではないからである。換言すれば、私たちには依然として罪の問題が残っているからである。
 私たちになお罪の問題が残されているということは、明らかである。7節の注解で述べたように、パウロは、ローマ人への手紙5:12において人類が普遍的にアダムから「罪」と「死」を引き継いでいるということを述べている*3。また、彼がコリント人への手紙第一3:3においてコリント教会の「救われていない者のように行動する信者」のことを「肉に属している」と表現していることで*4、信者もまた罪の問題を抱えているのだということがわかる。
 光の中を歩むことは、私たち自身が「世の光」として世の「暗やみのわざ……を明るみに出」すことになる(エペ5:11–14)。しかし、それだけではない。私たちが光の中を歩むことで、御言葉の光は「たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別する」(ヘブ4:12)。そして、御霊は私たちの内側にある罪の問題をも照らし出すのである。ストットが言うように、「真理が私たちのうちに住んでいるなら、自分の罪深さを必ず覚えるはず」なのだ*5
 したがって、ヨハネが言う通り、「罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちに[ない]」のである。

9節

 ヨハネは再び、主が罪赦された後もなお罪を犯してしまう私たちを赦してくださる、ということに触れている。御子イエスの血は、すべての罪の赦しの土台である。その完璧な犠牲の血潮がただ一度捧げられたのだから、「真実で正しい方」である神は、救われた後の私たちの罪をも赦してくださる。
 それでは、「真実で正しい方」であるという神の御性質は、キリスト者の罪が赦されることとどのような関係があるのだろうか。
 新改訳および新共同訳では「真実で」、また英語訳(KJV、ASV、NIV、NRSVなど)で「忠実な faithful」と訳されている語は、pistosという形容詞である。Thayerによれば、この語は人が「商取引、命令の実行、もしくは公的義務からの解放などについて忠実である」状態を表している*6。また、Vincentは、ヨハネがここでpistosを用いて神を形容することにより神の「御自分の性質と約束への真実さ」を表している、と考えている*7。その「真実さ」とは、「御自分と人間との[間で結ばれた]約束を守る」ということである。コリント人への手紙第一1:9やヘブル人への手紙10:23および11:11などでも、この形容詞によって神の契約に対する真実さが表現されている*8。すなわち、神がpistosであるという形容は、神が契約を忠実に守り実行される方である、ということを意味していると考えて良いだろう。
 神の契約への忠実さと罪の赦しとの間には、どのような関係があるのだろうか。信者の罪が赦されることの約束についてすぐに思い出されるのは、新しい契約であろう。新しい契約は、エレミヤ書31:31において神が「イスラエルの家とユダの家とに」結ぶ契約として啓示されている。続いて、31:33–34には次のように書かれている。

33節:彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34節:そのようにして、人々はもはや、「を知れ」と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──の御告げ──わたしは彼らの咎を許し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。

新しい契約の性質や、その契約が本来神とイスラエル民族との間に結ばれたものなのか、それとも神と教会との間に結ばれたものなのかについては、様々な議論が交わされている*9。しかしここでは、キリスト者はこの新しい契約の祝福に与っているのだと言うだけで十分であろう(IIコリ3:6;ヘブ10:15–18;12:24)。この新しい契約は、「永遠のいけにえ」である「御子イエスの血」を土台として、信仰者に罪の赦しを提供する。したがって、ストットの言う通り「これによって、神が私たちの罪を『忠実に』赦す方だということが容易に理解されるのである」*10
 次に、日本語訳では「正しい」、また英語訳では「公正な just」(KJV、NIV、NRSVなど)あるいは「正しい righteous」(NASB、HCSB、NETなど)と訳されている語は、dikaiosという形容詞である。Thayerはこの形容詞が意味しているところは「神の、また人間の法を守ること」であるとしている*11。もしこれが「神が(法を)守る」という意味だとすれば、pistosが意味していたこととの類似性が認められる。「神は真実で正しい方」であるということは、「神は御自分の契約に忠実であり、それを守る方である」ということになる。すなわち、pistosdikaiosは罪の赦しという約束に対する神の忠実さの表現として、互いに共鳴し合っているのである*12
 一方で、神が法を守る、すなわち義を実行するという意味であれば、それはストットが言うように「処罰や無罪放免と結びつけられる」だろう*13。ただし、神の義からすれば、罪は「無罪放免」の対象などではない。パウロはローマ人への手紙でこのことを詳細に論じている。「神の定め」によれば、罪の行いは「死罪に当たる」(ロマ1:32)。また、「罪から来る報酬は死」である(6:23)。罪は、神の怒り──すなわち「すべての悪に対する聖なる敵意」の対照なのである*14。しかし、「御子イエスの血」によって、神の義を満たした上で私たちに罪の赦しが与えられた。御子イエスが神の怒りに対する「なだめの供え物」(Iヨハ2:2;ロマ3:25)として御自分を捧げ、血を流されたことにより、「私たちの罪の代価が支払われた」のである*15

23節:すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24節:ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。
25節:神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
26節:それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
(ローマ人への手紙3:23–26)

ヨハネにおいてもパウロにおいても、罪の赦しと神の義とは「御子イエスの血」によって互いに調和し合っている。「事実、十字架は神にとっていかなる罪をも赦す、唯一の道徳的根拠なのである」*16。したがって、神が「正しい方」であるということは、神が契約に忠実であるということに加えて、罪に対する神の義が十字架によって満たされ、それ故に私たちに罪の赦しが与えられたのだということを表現しているのである。
 最後に、神が「真実であり正しい方」だということは、この手紙におけるヨハネの「神は光である」また「神は愛である」という教えと完全に調和している。旧約聖書における「愛」は、「契約的愛」すなわち契約に基づいた愛である*17。神は恵みによりアブラハム、イサク、ヤコブに契約を与え、それに対して忠誠を示された。ここに、神の愛が表されている。したがって、神が「真実な方」であるということは、「神は愛である」ということでもある。また、神が「正しい方」であるということは、神が契約に忠実であるということに加えて、罪に対する神の義が十字架によって満たされ、それ故に私たちに赦しが与えられたということを強調していた。ここにも、神の契約的愛が示されている。それと同時に、神の義の側面がより強調されている。5節において論じたように、もしも「神は光である」という「知らせ」が神の義の側面を強調していたのであれば、神が「正しい方」であるということは、「神は光である」ということと繋がっている。
 ここにおいて、神が光であり愛であるということは、完全に調和した概念だということが明らかになる。神はその愛に基づいて、契約を忠実に実行される。そして、御自分の義を満たした上で愛に基づいた罪の赦しをお与えになるために、御子イエスは御自分の血を捧げられた。したがって、神はその内に罪や闇がないのはもちろん、何の責められるべき点もない完全にきよい方であり、「光」なのである。したがって、神が「その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださ」るのは、神が「真実で正しい方」であり、すなわち神が光であり愛であるからなのである。
 なお、「『その罪を赦し』とは、罪の負債を神が免除することを、また『すべての悪から私たちをきよめ』とは、神が汚れを取り除くということを意味している。」*18 「御子イエスの血」による罪の赦しは、ただ「罪の負債」の免除だけではなく、「罪を取り除く」力を持っている(ヘブ9:26)。したがって、「『その罪を赦し』と『すべての悪から私たちを清めてくださいます』は同じ」だとも言えるのである*19
 しかし、私たちはここで再び「罪」に対するバランスの取れた理解、そして「光の中を歩む」ことと「きよめられる」こととの間にある適切な関係を思い出す必要がある。既に7節で見たように、信者が御子イエスの血によってきよめられ続けるためには、「光の中を歩む」ことが必要であった。それと同じことが、この9節でも「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら」という条件でもって強調されているのである。この「言い表す」(confess:KJV、ASV、NIV、NRSVなど)と訳されているhomologōmenは、homologeōという動詞の仮定法現在形である。したがって、「もし私たちが言い表し続けるなら」という意味を持っている*20。また、このhomologeōという動詞は、第一義的には「他人が言っていることと同じことを言う」という意味を持つ*21。ここでは、罪について否定せず、「告発された事実を認める」という意味合いが込められているものと考えられる*22。これは、8節で言われていたような「罪はない」という態度とは正反対を示している。そして、9節での「罪」は複数形となっている。これは罪の原理そのものというよりは、個々の罪の現れとなっている行動そのものを指しているのだろう。したがって、「罪を言い表す」ということは、「日常生活で犯す罪を、ひとつひとつ具体的に告白」し、それを神の御前で認めることだと言えるだろう*23
 さらに、ヤコブの手紙5:16では「互いに言い表し、互いのために祈りなさい」ということが教えられている。もしその罪によって「誰かを傷つけた場合は、その相手に対しても告白する必要がある」*24。神の御前で自らの罪が処罰の対象であることを認めて告白しておきながらも、傷つけた相手に対する告白がないのであれば、それはヨハネがこの手紙で教えている兄弟愛の実践からはほど遠いと言えるだろう。
 この9節は、キリスト者にとっての「罪」の適切な理解を教えている。罪は、神の義とは相容れないものであり、私たちは罪を犯したとき、それを神の御前で認める必要がある。それと同時に、この9節は、罪によって汚されてしまう神と私たちとの交わりを回復させる道を提示してくれているのである。その土台は、「真実で正しい方」であり、光であり愛であるという神の御性質である。

4.罪を犯したことがないという偽りの主張(1:10)

10節:もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

10節

 ヨハネは8節で、(おそらく信者の)罪の性質そのものを否定する異端者たちの主張を反駁した。それに続いて、9節では信者が罪に対していかなる態度を取るべきかを提示した。この10節では、再び「もし、……と言うなら」という言い回しを否定的に使用し、異端者たちの主張を反駁する。ここでは、罪の行為が問題にされている。
 「罪を犯してはいない ouch hamartēkamen」の時制は完了形であり、新共同訳では「罪を犯したことがない」と訳されている。8節では現在形で「罪はない」とする主張が反駁されていた。しかし、それだけでは異端者たちは「他の人々の罪の原理については真実だとしても、……私たちは罪を犯さない。罪を犯したことがない」と反論をしたかもしれない*25ヨハネは、そのような主張でさえも退けている。ここでも、8節で確認した内容と同じことが言える。私たちに罪の性質があるのならば、救われた後の私たちについても、罪を犯したことがない、と言うことは「自分を欺いている」ことである。
 それでけではなく、「罪を犯したことがない」と言うことは、「神を偽り者とする」ことなのだとヨハネは言う。これは、「三つの否認のうちで、最も厚顔無恥なものであ」り*26、「よりずうずうしく、挑戦的なものである」*27。「偽り者 pseustēn」は、ヨハネ福音書8:44でイエスが悪魔に適用している語である。したがって、「罪を犯したことがない」という主張は、神を悪魔の如き「偽り者」にまで貶める行為なのだ。これが、異端者たちの主張の本質である。
 もし人が信仰により義と認められた時点で罪の問題が完全に解決するのであれば、「私たちの大祭司」としてのイエスの働き(ヘブ4:15)は必要がなくなろう。大祭司としてのイエスの働きを否定することは、そのために「お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従う人々に対して、とこしえの救いを与える者とな」られた(ヘブ5:8–9)というイエスの公生涯そのものを否定することである。そして、イエスの公生涯を否定することは、神がそこまでして解決をお与えになった人間の罪の問題を著しく軽んじることである。そうなれば、神は「偽り者」であったということになってしまう。だからこそ、「罪を犯したことがない」というような「厚顔無恥」な主張をするような者の内には、「神の言葉は……ありません」とヨハネは糾弾しているのである。

*1:聖書本文の引用は特に断りがない限り新改訳第三版による。

*2:ミラード・J・エリクソンキリスト教神学』第3巻、伊藤淑美訳、宇田進監修(いのちのことば社、2006年)215頁

*3:前掲書、211–16頁;John Murray, The Epistle to Romans (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1997[1965] I:178–210.

*4:Michael G. Vanlaningham, "Romans," The Moody Bible Commentary, Michael Rydelnik and Michael Vanlaningham, eds. (Chicago, IL: Moody Publishers, 2014) 1755; Id., "1 Corinthians," The Moody Bible Commentary, 1780.

*5:ジョン・R・W・ストット『ティンデル聖書注解 ヨハネの手紙』千田俊昭訳(いのちのことば社、2007年)86頁

*6:Joseph H. Thayer, Thayer's Greek-English Lexicon of the New Testament: Coded with Strong's Concordance Numbers, 11th Printing (Peabody, MA: Hendrickson Publishers, 2014[1896]), G4103.

*7:M. R. Vincent, Word Studies in the New Testament, in PC Software e-Sword X(Rick Meyers, 2015).

*8:なお、IIテサ3:3やIIテモ2:13などでは、この形容詞がイエスに適用されている。

*9:この覚書きの主題ではないため詳細に論じることはしないが、筆者の理解では、新しい契約は本来神とイスラエル民族との間に結ばれたものである。しかし、聖書はユダヤ人と異邦人から成る「新しいひとりの人」(エペ2:15)である教会もまた新しい契約と関係があることを教えている(Iコリ11:25;IIコリ3:6;ヘブ8:6–13;9:15;10:15–18;12:24)。キリストは、ユダヤ人と異邦人の「両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させ」られた(エペ2:16)。そのことは、「栽培種の枝」であるイスラエルが所有している「オリーブの木」に「野生種の枝」である異邦人が接ぎ木されたというたとえでも表現されている(ロマ11:17–24)。これらのことから、キリストにある異邦人は、「共同相続人」として当初イスラエルに与えられた新しい契約の祝福に与っているのだと言うことができる(ロマ8:17;15:27)。この立場からの新しい契約論については以下の文献を参照のこと。Arnold G. Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1993) 586-87, 633-39; Robert L. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism: The Interface Between Dispensational & Non-Dispensational Theology (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1993) 111–39; Bruce A. Ware, "The New Covenant and the People(s) of God," Dispensationalism, Israel and the Church: The Search for the Definition, Craig A. Blaising and Darrell L. Bock, eds. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1992)68–97.

*10:ストット『ヨハネの手紙』87頁

*11:Thayer, Thayer's Greek-English Lexicon of the New Testamet, G1342.

*12:Iヨハ1:9に関する以下の文献の注解を参照のこと。Vincent, Word Studies in the New Testament; A. T. Robertson, Word Pictures of the New Testament, in PC Software e-Sword X.

*13:ストット『ヨハネの手紙』87頁

*14:前掲書、93頁

*15:中川健一『ヨハネの手紙 第一「救いの確信を得る喜び」』2016年聖書フォーラムキャンプ配布資料(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2016年)5頁

*16:ストット『ヨハネの手紙』87頁

*17:W・ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典 響き合う信仰』小友聡・左近豊監訳(日本キリスト教団出版局、2015年)17–20頁

*18:ストット『ヨハネの手紙』86–87頁

*19:中川『ヨハネの手紙 第一』5頁

*20:Robertson, Word Pictures of the New Testament.

*21:Thayer, Thayer's Greek-English Lexicon of the New Testament, G3670.

*22:Vincent, Word Studies in the New Testament.

*23:中川『ヨハネの手紙 第一』5頁

*24:同上

*25:Glenn W. Barker, 1 John, The Expositor's Bible Commentary, vol. 12, Frank E. Gaebelein, ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1981) 312.

*26:ストット『ヨハネの手紙』88頁

*27:Barker, 1 John, 313.