ナザレのイエスは、自らこそ預言者たちが宣べ伝え、民が待ち望んできたメシアであることを宣言した。しかし、歴史が伝えているように、イエスは民に拒絶され、十字架刑に処せられることになる。
メシアを拒否したイスラエル
ヨハネの福音書序文
ヨハネの福音書は、既に序文において、民がイエスを受け入れなかったことを伝えている。
すべての人を照らすまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。(ヨハ1:9–11)*1
特にヨハネ1:11は「聖書で最も悲しい節のひとつ」である。「イエスはご自分の民のもとへ行かれたが、彼らは拒んだ。……遠い昔、イザヤはこのユダヤ人の民族的不信仰を預言していた。『私たちが聞いたことを、だれが信じたか。』(イザ53:1)」*2
ナザレの会堂での拒否
イエスの公生涯の最も早い段階でユダヤ人が不信仰を示した出来事を記録しているのは、おそらくルカ4:22–30である。前章で見たように、イエスは故郷ナザレの会堂で、ご自分にあってイザヤ書61章が成就したことを宣言された(4:16–21)。その宣言に対して、ナザレの人々は不信仰を示した(4:22)。イエスは人々の不信仰を受けて、エリヤとシドンのやもめの話(4:25–26)、そしてエリシャとシリア人ナアマンの話(4:26–27)を持ち出された。これらの話で共通しているのは、イスラエルが不信仰であることによって、祝福が彼らから離れ去り、異邦人へ向かったということである*3。ここには、イスラエルが不信仰であり続ければ、メシアのもたらす祝福が異邦人へ向かうであろうことが示唆されている*4。ナザレの人々は、メッセージの内容を理解したのか──少なくとも、自分たちがエリヤやエリシャの時代の不信仰者たちと比べられていることは理解したのであろう──イエスを殺害しようとしたが、その試みは失敗に終わった(4:28–30)。
イエスが公生涯の早い段階で、異邦人の祝福を示唆されたことは重要である。しかし今のところは、この段階において、既にユダヤ人がイエスを受け入れないと示唆されていることに注目したい。イエスが「自分の郷里で歓迎され」なかったこと(4:24)は、民がメシアを拒否することの予兆であるといえるだろう。
群衆と指導者
マルコは、イスラエルの群衆と指導者の双方が、イエスをメシアとして拒絶したことを示唆している。確かに、イスラエルの中には、イエスをメシアと受け入れた人々がいた。イエスは特に、ご自分を信じて付き従ってくる弟子たちの中から、十二人を「使徒」として選ばれた(マコ3:14–19)。しかし、群衆の中には「イエスはおかしくなった」と言う人々もいた(3:21)。
マタイ11章は、イエスの初期の主な活動地域であるガリラヤの町々の不信仰を伝えている。人々は、メシアの先駆者であるバプテスマのヨハネと、メシア本人であるイエスの双方を拒絶した(マタ11:16–19; ルカ7:30–35参照)。特にガリラヤの町々は、メシアその人による「悔い改めなさい」というメッセージを聞き(マタ4:17)、「力あるわざを数多く」目の当たりにしたにもかかわらず「悔い改めなかった」(11:20)。福音書の記者たちは、イスラエル全体から見れば非常に少数である弟子たちを除いて、大多数の人々がイエスを拒否したことを示している*5。
そして、マルコ3:22によれば「エルサレムから下ってきた律法学者たち」が、イエスは「ベルゼブルにつかれている」、また「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていた(マタ12:24; ルカ11:15参照)。彼らは、おそらくエルサレムにいるユダヤ人指導者層から正式に遣わされてきた、権威ある律法学者たちだったのであろう*6。彼らは、イエスの奇跡がサタンによるものであったと結論づけ、イエスのメシア性を否定している。この結論は、彼らを遣わした指導者たちの見解でもあったと考えられる。すなわち、イスラエルの指導者たちはイエスがメシアであることを公に拒絶したのである。
イエスをまず拒絶したのが群衆側だったのか、それとも指導者たちだったのか、具体的なことは不明である。重要なのは、イスラエルの指導者も大勢の人々も、イエスのメシア性を否定したということである。そして、マルコ3章やマタイ12章が記している指導者たちによる拒否は、イエスの公生涯における「重要なターニングポイント」となった*7。
永遠の罪
福音書記者たちは、とりわけ指導者たちの責任の重さを強調している。マタイ12章で、イエスは特に「パリサイ人たち」に対して厳しい警告を発せられた。イエスに「味方しない者」は、「敵対する者」である。イスラエルを導く役割にあった指導者たちは、イエスと共に、人々をイエスのもとへ集めるべきだった。しかし、彼らはむしろ人々をイエスから遠ざけ、「散らしている」存在となってしまったのである(マタ12:30)。
そして、イエスは彼らに、次の有名な警告を語られた。「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。」(12:31)また、12:32でも次のように言われた。「また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」この2節は、他のあらゆる罪と、指導者たちが冒した罪を対比させ、後者の罪の重さを強調する並列文となっている*8。指導者たちは、イエスの御業をサタンに帰した。しかし、実際は、その御業は聖霊の力によるものだった(12:28; 使10:31)。指導者たちは「御霊に対する冒瀆」を行い、「聖霊に逆ら」ったのである。
この罪は、「この世でも次に来る世でも赦されません」と言われている*9。イエスが神ではなく悪魔によって力を与えられているという結論を下し、これによってメシアを拒絶したという指導者たちの罪は、「永遠の罪」なのである(マコ3:29)*10。
契約違反としてのメシア拒否
こうして、イスラエルはメシアを拒絶した。繰り返すが、イスラエルの中でも、個人としてイエスを受け入れる者たちは存在していたし、この先も現れ続けることになる。しかし、指導者たちと群衆がイエスを拒否したという事実からは、イスラエルが民族全体としてはイエスを拒否したことが示唆されている*11。これは、モーセの律法に対する具体的な違反でもあった。モーセは、民に対して「必ず、あなたの神、【主】が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない」と命じていた(申17:15)。また、次のようにも伝えていた。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」(申18:15)
ダビデの子として来られたイエスは、【主】が起こされたイスラエルの王である。それどころか、イエスはイスラエルの王の王である【主】ご自身でもある。預言者たちが来たるメシアを【主】ご自身と同一視していたとおりである(イザ9:6–7; 59:20; ゼカ14:3–5など)。また、預言者は神のことばを伝える者だが、イエスは神のことばそのものが人となられた方なのであり、預言者の中の預言者でもあるといえる*12。民は、モーセのような預言者を拒否し、神が備えられた究極的な王を拒否し、そして神ご自身を拒否した。それによって彼らは、律法の支柱ともいうべき「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽して、あなたの神、【主】を愛しなさい」という掟(申6:5)にも違反したのである。
このイスラエルの姿勢から、私たちは、人間の罪の問題がいかに深刻であるかを改めて思い知らされる。神と密接に関わりながら歩んできたイスラエルでさえ、神との契約を守り通すことができなかった。ましてや、異邦人が自ら罪の問題を克服することは、不可能であろう。
契約に基づくさばき
モーセ契約の「のろい」
以上の契約違反は、イスラエルの歴史の中で非常に重大である。イエスはナザレで拒否された際、イスラエルの不信仰が、彼らから祝福が離れ去ることに繋がると警告しておられた(ルカ4:25–27)。彼らから祝福が去るということは、彼らがさばきを受けるということ──すなわち、モーセ契約に基づくのろいが注がれるということである。
既に何度も述べてきた通り、レビ記26:14–39や申命記28–29章は、イスラエルの契約違反がもたらすさばきを明らかにしていた。そこで伝えられていた最終的なさばきは、民の離散であった。イスラエルは歴史を通して、モーセ契約に則り、【主】への不従順によるさばきを受け続けてきた。そして、民は既に、アッシリアとバビロンによってもたらされた約束の地からの離散も経験していた。しかし、民がその後もメシア拒否という違反を重ねたことから、彼らに対してより厳しい離散の裁きがもたらされることが推測される。
イエスによるさばきの警告
福音書は、イエスがイスラエルに向けて語られた警告を度々記録している。これらの警告は、契約に基づくのろいという観点から読む必要がある。
まずイエスは、悔い改めなかったガリラヤの町々に対して、「さばきの日」に神からのさばきが下ることを告げられた(マタ11:20–24)。そのさばきは、「ツロとシドン」、さらには「ソドム」よりも重いものとなる(11:22, 24)。旧約聖書において、神による特別なさばきがもたらされる「日」は、【主】の日である。その日には、イスラエルに敵対する諸国民だけではなく、神に反抗したイスラエルの上にもさばきが下されることが明らかにされていた(第5回参照)*13。
ソドムはアブラハムの時代に滅ぼされた町だが(創19:1–29)、ツロとシドンは、旧約で「典型的なイスラエルへの敵対者」に含まれている町々である(イザ23:1–17; エゼ26–28章など)*14。特にヨエル書3:4–8では、ツロとシドンに対して、イスラエルを攻撃したことによるさばきが宣告されている。しかし、イエスによれば、メシアを拒絶したコラジンとベツサイダは、【主】の日にツロとシドンが受けるよりも厳しいさばきを受けることになるという。
モーセは、イスラエルに下るさばきの最終段階について、次のように告げていた。「わたしはその地を荒れ果てさせ、そこに住むあなたがたの敵はそれを見て唖然とする。」(レビ26:32)また、申命記29:22–28では、イスラエルの地に下されたさばきを見た異邦人が、民は契約に違反したために【主】から「怒りと憤りと激怒」を注がれたのだと認識するようになると言われている。イエスは、ご自分を拒否したガリラヤの町々が、モーセ契約に基づく厳しいさばきののろいを受けると宣告されたものと考えられる。
また、イエスのメシア性を否定した指導者たちに対しても警告が語られた。イエスによれば、ご自分を拒否した「この時代」のユダヤ人たちは、「さばきのとき」にさばかれる。しかも、その時には、ヨナの時代に悔い改めた「ニネベの人々」(ヨナ3:5–10)や、ソロモンのもとへ来た「南の女王」(I列10:1–13)が、人々を「罪あり」とするという(マタ12:41–42)。この警告から、神のさばきから逃れるためのポイントは、イスラエル民族に属しているかどうかではなく、まことに神に立ち返っているかどうかであるということが分かる。
イエスはこの警告を含む一連の教えの後、家族がご自分を連れ戻しに来たことを受け、次のように語られた。
わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか……見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。(マタ12:48–50)
イスラエル人といえども、ただ民族的にイスラエルに属しているだけで、メシアの家族として受け入れられるのではない。イエスは弟子たちを指して、「天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの[家族]なのです」と教えられた。弟子たちが行っていた「みこころ」とは、マタイ12章の文脈では、イエスをメシアとして受け入れたということである。よって、ここでイエスが教えられたことを否定的に言い換えれば、メシアを拒否するという律法違反をしたイスラエル人は、メシアがもたらす祝福から切り離されるということになるだろう。
モーセは、契約に違反したイスラエルの民に対して「【主】は……その者をイスラエルの全部族から選り分けて、わざわいを下される」と告げていた(申29:21)。イエスもまた、ご自分を拒否するという契約違反を冒した人々に対して、その契約に基づくのろいが下されるという警告を語られたのである。
エルサレムのための嘆き
イエスは特に「この時代の人々」にさばきが下ることを告げられた(マタ12:41–42)。彼らが「イエスのメシア性を否定するという赦されない罪」を冒した結果について、「さらなる光を投じているのがルカ19:41–44である」*15。四つの福音書は、イスラエルが全体としてイエスを拒否し続けたことを記録している。そして、イエスは公生涯で最後の過越の祭りのためにエルサレムに入られる時、次のように嘆かれた。
エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」(ルカ19:41–44)
バビロンに滅ぼされた後、再び栄華ある美しい町へと再建されていたエルサレムも、イエスを拒否した罪によって滅ぼされる。イエスは、この町の結末を見据えて、「泣いて」嘆かれた。
エルサレムは「敵」によって包囲され、攻め滅ぼされる(19:43)。町の住民全体が、この敵によって「地にたたきつけ」られる(19:44)。これはおそらく、紀元70年に起こったローマ帝国によるエルサレム陥落の預言となっているのだろう*16。また、ここでイエスがエルサレムに使っておられる表現は、この町がかつてバビロンに滅ぼされた時を描写している旧約テキストに見られるものと酷似している(エレ6:6–21; ナホ3:10参照)*17。ここから推測できるのは、メシアの拒否の結果、エルサレムは再びバビロン捕囚に匹敵するような──または、もしかするとそれ以上のさばきを経験するだろうということである。
イエスはエルサレムの運命を嘆かれてから数日後、オリーブ山にて、この町が受けるさばきを次のように教えられた。「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国の人々のところに連れて行かれ、異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ21:24)ここから、エルサレムがメシアの拒否によって経験するさばきは、バビロン捕囚に匹敵するどころか、それ以上に厳しいさばきであることが分かる。
バビロン捕囚は、確かにモーセが告げていたさばきの成就であった(第4回参照)。しかし、イスラエルはメシアを拒否したことで、より厳しいさばきを受けることになる。その結果、バビロンやアッシリアだけではなく「あらゆる国の人々のところ」、「国々の間」(レビ26:38)、「あらゆる民の中」(申30:3)へ離散させられることになる。悲しいことに、イスラエルは、モーセ契約ののろいを余すことなく受けることになってしまうのである。
回復の希望とメシアの受難
イスラエルの希望としての「残りの者」
しかしながら、希望は決して潰えていない。申命記28:62は、イスラエルに下るのろいについて「あなたがたは空の星のように多かったが、少人数しか残されない」と教えている。しかし、言い換えれば、民の中で「少人数」は残されるのである。イザヤ書では、この残される「少人数」というモチーフが「残りの者」として、イスラエルの希望になる神学的概念へと発展させられている*18。たとえば、イザヤ書10:20–23では、わずかな「ヤコブの残りの者」こそが「力ある神に立ち返る」という希望が教えられている(イザ37;31–32参照)。そして、オバデヤ書17によれば、この「残りの者」こそが「自分の領地を所有することになる」。
イスラエルが民全体としてはイエスを拒絶したときも、民の中には、彼をメシアとして受け入れた弟子たちが残されていた。彼らは、イエスの時代における「残りの者」だと言えるだろう。弟子たちの存在によって、メシアを拒否したイスラエルにも希望が残されていることが示唆されているのである。
新しい契約と十字架
また、本書で既に幾度も確認してきたことであるが、レビ記26:40–45や申命記30:1–10は、契約を破ったことでさばかれた民の回復を告げている。その回復に向かう究極的な希望は、新しい契約にある。メシアとして来られ、拒否されたイエスは、これまで確認してきたとおり、新しい契約をもたらす者でもある。新しい契約は、モーセ契約を破ってさばきを受けた民を回復させるために結ばれるものである(エレ31:31–32)。
そして、民に罪からの救いを与える新しい契約の土台は、メシアがご自分のいのちを「代償のささげ物」とすることにある(イザ53:10)。イエスは、ご自分を拒否したイスラエルの贖いのため、そしてアブラハム契約から見据えられ続けてきた異邦人の救いのためにも、ご自分を犠牲にするという使命を担っておられた。
イスラエルによる拒否の結果、イエスは「ユダヤに、そして最終地点であるエルサレムへ目を向ける」ことになる*19。そこでイエスを待ち受けているのは、十字架である。そしてイエスは、自ら十字架の上で代償の血を流すために進んで行かれるのである。
イエスの受難予告
イスラエルの指導者たちと群衆がイエスのメシア性を拒否してからしばらく経った後、イエスはピリポ・カイサリアで、弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」とお尋ねになった(マタ16:15)。弟子たちは指導者たちとは違い、イエスが「生ける神の子」であり、「キリスト」であると受け入れていた(16:16)。彼らは、イエスがメシアであるだけではなく「人間以上の方」であると信じていたようである*20。「生ける神」という非常にユダヤ的な表現(申5:26; ヨシ3:10; 詩42:2参照)*21が使われているところからすると、彼らは少なくとも、イエスと神が特別な関係にあることを認識していたのだろう*22。彼らがこれまで様々な奇跡を目の当たりにし、イエスの権威を目撃してきたという文脈からすると、おそらく彼らは──厳密な三位一体論はまだ構築されていなかったとしても──イエスの神性を認めていたと考えても良いだろう*23。
弟子たちは、この時点でのイスラエルの「残りの者」として、メシアへの信仰を示したのである。イエスはこれを受けて初めて、彼らにご自分の受難をはっきりと予告された。
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。(マタ16:21; マコ8:31–32参照)
受難予告は、この後も繰り返されている(マタ17:22–23; 20:17–19)。特に3度目の受難予告では、イエスは「祭司長たちや律法学者たち」だけではなく、「異邦人」からも苦しみを受けることが明らかにされた(20:18–19)。
そして、イエスは弟子たちに「仕える」姿勢を説く中で、ご自分の苦難の理由を次のように教えられた。
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(マコ10:45; マタ20:28参照)
イエスは十字架で苦難を受けて殺されることで、ご自分のいのちを「贖いの代価」とされる。これは、イザヤ書53:10–12をふまえた宣言であると考えられる*24。第4のしもべの歌によれば、しもべが「自分のいのちを代償のささげ物」にすることで、「【主】のみこころは……成し遂げられる」(53:10)。その代償により、しもべは「多くの人を義とし、彼らの咎を負う」(53:11)。「彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」(53:12)イエスは、ご自分こそが「多くの人」の罪を負う【主】のしもべであると宣言されたのである*25。
民のメシア拒否とメシアによる贖い
私には、イスラエルによるメシアの拒絶と、メシアによる贖いを同一線上で捉えることが非常に重要だと感じられる。イスラエルはメシアを拒絶することで、モーセ契約に違反した。それゆえ、彼らは契約違反に対して、バビロン捕囚以上の厳しいさばきを受けることになる。
彼らのメシア拒否は、この方を十字架での死にまで至らせる。しかし、その十字架での死こそが、メシアの贖いの御業であった。メシアはそこで、古くから預言されていたとおりの【主】のしもべとして、ご自分の「いのち」を捧げられる。そして、この贖いこそが、新しい契約の土台である。メシアの「代償のささげ物」こそが、人を贖い、最大の敵である罪から救うのである。この救いこそが、人を本来の姿──「神のかたち」へと回復させる、新しい契約の基礎である。
また、イエスの十字架が新しい契約の土台であるということは、十字架こそが、さばきを経たイスラエルの回復、諸国民の救いの希望、そして被造世界の回復の土台なのだ。イスラエルがメシアを拒絶したことは、間違いなく悲劇であった。しかし、契約を通して被造世界に回復をもたらすという神のご計画は、決して止まらない。拒絶の結果もたらされることになる十字架の受難こそが、そのご計画を成就させるための土台となるのである。
*1:特に断りがない限り、聖書引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会による。
*2:Edwin A. Blum, “John,” in The Bible Knowledge Commentary: New Testament, eds. John F. Walvoord and Roy B. Zuck (Wheaton, IL: Victor, 1983), 272.
*3:Cf. Bock, "Israel in Luke-Acts," 108.
*4:Ibid.
*5:Wilkins, “Israel according to the Gospels,” 93; Vlach, He Will Reign Forever, 322.
*6:Mark L. Strauss, Mark, ZECNT (Grand Rapids: Zondervan, 2014), 168.
*7:Wilkins, “Israel according to the Gospels,” 93.
*8:Turner, Matthew, 323.
*9:マタイ12:32の最後に見られる表現は、イエスをメシアとして拒否するのであれば、その罪は「永遠の罪」(マコ3:29)であることを強調しているものと思われる。この罪が「次に来る世でも赦されません」ということが具体的に何を意味しているかは不明だが、ここでは、あくまで罪の重さが強調されているという点で留めておきたい。
なお、Vanlaninghamは、将来のメシア的王国でもイエスを拒否する者が現れるため(黙20:7–10)、そこでもメシア性の拒否が赦されない罪であることが示唆されていると考えているようである(“Matthew,” 1474–75)。その可能性は否定できないが、マタイ12章の時点では読み込みすぎであるように思われる。
*10:Edwards, The Gospel according to Mark, 123. いわゆる「聖霊を汚す罪」「赦されない罪」とは、イエスが実際に来られた時代に、ユダヤ人たちがイエスのメシア性を拒否したという文脈で考える必要がある。フルクテンバウム『イスラエル学』66–68頁参照。
クリスチャンの間では時折、自分が永遠に赦されない罪を冒したのではないかという怖れも見られる。しかし、既にイエスをメシアとして信じているのであれば、そのように心配する必要はない(Larry W. Hurtado, Mark, UTB [Grand Rapids: Baker, 2011], 66)。「永遠の罪」に対するイエスの警告は、マタイ12章やマルコ3章で語られている状況をふまえたものである。よって、これらのテキストを「不信仰一般に広く適用することについては、……注意深くなる必要がある」(Turner, Matthew, 324.)。
*11:Wilkins, Matthew, NIVAC (Grand Rapids: Zondervan, 2004), 448–49; Vlach, He Will Reign Forever, 323.
*12:使3:22–23において、ペテロは申18:15の「一人の預言者」をメシアとして解釈している。これがメシア預言であれば、イスラエルは明確に、メシアに聞き従うという律法に違反したことになる。申18:15のメシア的解釈については以下を参照のこと。Jim R. Sibley, “Deuteronomy 18:15–19: The Prophet Like Moses,” in The Moody Handbook of Messianic Prophecy, 325–41.
*13:ここでイエスが語られたさばきは、正典全体の視点から見れば、白い御座のさばき(黙20:11–14)を指している可能性もある。Toussaintは、その解釈の根拠として、ソドムが既に存在していないことを挙げている(Behold the King, 156)。しかし、イエスが語られた時点では(また、おそらくマタイがこれを記した時点でも)、神がもたらす特別なさばきは【主】の日という表現に集約されていたと考えられる。
*14:Blomberg, “Matthew,” 38.
*16:Bock, Luke 9:51–24:53, BECNT (Grand Rapids: Baker, 1996), 1562; Zuber, “Luke,” 1589.
*17:Bock, Luke 9:51–24:53, 1562.
*19:Wilkins, “Israel according to the Gospels,” 94.
*20:Barbieri, “Matthew,” in The Bible Knowledge Commentary: New Testament, 57.
*21:Osborne, Matthew, 626; Blomberg, Matthew, 251.
*22:Ibid.
*23:Barbieri, "Matthew," 57.
*24:France, The Gospel of Mark, 420–21; Strauss, Mark, 459–62; Carson, “Matthew,” 9:490; Turner, Matthew, 488.
*25:Carson, “Matthew,” 9:490.